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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第五章 ランス市民宛の手紙/フス派宛の手紙/シュリーからの旅立ち

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
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⚠️字数が多い(15,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

5.1 ジャンヌの金銭感覚(1)オルレアンでの歓待と結婚祝い

 オルレアンの人々は、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が自分たちにしてくれたことに感謝していた。ラ・シャリテ包囲戦の不幸な結末を責めるどころか、以前と変わらない喜びと明るい声でジャンヌを街に迎え入れた。

 1430年1月19日、町の人々はジャンヌとともにジャン・ド・ヴェリーとジャン・ラバトーを宴に招いた。そこでは、去勢した雄鶏、ヤマウズラ、野ウサギ、さらにはキジまで豊富に用意されていた。[293]

 ジャン・ド・ヴェリーが何者で、なぜジャンヌと饗宴を共にしたのかは不明である。

 もうひとりのジャン・ラバトーは、1427年からポワティエ高等法院の検事総長を務めていた王室顧問官だ。[294] 彼はオルレアンでジャンヌの接待役を務めていた。ラバトーの妻は、ジャンヌが私的な祈祷室でひざまずいているのを何度も目撃していた。[295]

 オルレアン市民は、検事総長(ラバトー)、ジャン・ド・ヴェリー、そしてジャンヌにワインを捧げた。

 実際、それは儀式ばった盛大な祝宴だった。

 市民たちはジャンヌを愛し、敬っていたが、食事中の彼女をよく見ていなかったのだろう。
 そうでなければ、8年後、ある女山師(adventuress)がジャンヌ・ラ・ピュセルを自称した際、市民たちは彼女をジャンヌと間違えなかっただろう。そして今、ワインを捧げているのと同じオルレアン市の召使いジャック・ルプレストルの手によってワインを贈ることはなかっただろう。[296]

⚠️女山師(adventuress):単なる冒険好きではなく、「正体を偽り、手段を選ばず地位や金銭を得ようとする詐欺師の女」という軽蔑を含んでいる。

⚠️補足:火刑の後、ジャンヌ・ラ・ピュセルを名乗る人物がフランス各地で複数現れる。これらの詐欺事件は、下巻・第十五〜十六章に詳しく書かれているが、今回の話で触れている「8年後にオルレアンに現れた自称ジャンヌ」について簡単に説明すると、彼女は市民から盛大に歓迎されて莫大な金品を巻き上げて立ち去る。
明らかに偽物だったが、オルレアンでは間近で歓待したにもかかわらず誰も気づかなかった。市民たちはジャンヌを英雄・聖女と祭り上げているが、等身大のジャンヌ本人をありのままに見ていなかったことがよくわかる。

 ジャンヌが聖カタリナの剣よりも愛していた旗は、トゥールでオーヴ・プルノワという人物によって描かれたものだ。

⚠️オーヴ・プルノワ(Hauves Poulnoir):原著のフランス語ではこの名だが、英訳版ではスコットランド風にアミッシュ・パワー(Amish Power)と訳されている。歴史学では、スコットランド出身のヘリオス(Helius)と考えられている。それぞれ別の名前に見えるが、同じ画家である。

 彼はちょうど娘のエリオットを結婚させるところで、ジャンヌはそのことを知ると、トゥールの行政官たちに手紙を送り、花嫁の衣装代として100エキュドール(金貨)を払うよう要求した。結婚式は1430年2月9日に決まった。

 行政官たちは、ジャンヌの要請について審議するために会合を2回開いた。彼らはジャンヌを丁重に、同時にある程度の慎重さをこめて「戦争の件で、この王国の王のもとへ来て、天上の王からイングランド軍に対抗するために遣わされたと称する乙女」と表現した。

 結局、彼らは支払うことを拒否した。なぜなら、市の資金は市の事柄に使うべきであり、それ以外のことに使うべきではないからだ。彼らはそのように理由を述べた。

 その一方で、彼らは、ジャンヌに対する愛情と敬意から、教会関係者、市民、その他の町の人々が結婚式の日に教会に集まり、花嫁のために祈りを捧げ、パンとワインを贈呈することを決定した。これには4リーブル10スーの費用がかかった。[297]

5.2 ジャンヌの金銭感覚(2)オルレアンで家を購入

 正確な時期を特定することは不可能だが、ジャンヌはオルレアンに家を購入した。より正確に言えば、賃貸契約(賃貸借)を結んだ。[298]

 賃貸借(bail à vente)とは、家屋やその他の財産の所有者が、現物または金銭による年間の支払いと引き換えに、賃借人に所有権を譲渡する契約である。

 このような賃貸借の期間は、通常59年だった。

 ジャンヌが取得した家は、大聖堂参事会の所有物だった。それは町の中心部、サン・マロ教区、サン・マクルー礼拝堂の近く、プティ・スーリエ通りにある油売りジャン・フーの店の隣にあった。

 包囲戦の最中、この通りで、テーブルに着いていた5人の客の真ん中に、重さ164ポンド(約74.4キロ)の石の砲弾が落ちたが、誰にも危害を加えなかった。[299]

 ジャンヌはこの家をいくらで買ったのだろうか?
 どうやら、夏至とクリスマスの半年ごとに6エキュドール(金貨)を59年間支払うことになっていたようだ。

 さらに、慣習に従って、家を良好な状態に保ち、教会の会費、井戸や舗装の料金、その他すべての税金を自費で支払うことを約束していたに違いない。

 保証人を立てる必要があったため、ジャンヌはギヨー・ド・ギュイエンヌという人物を選んだが、彼についてはこれ以上のことは何もわかっていない。[300]

 ジャンヌ自身がこの契約を交渉しなかったとは考えにくい。
 彼女は聖人であり、財産を所有することの意味をよく理解していた。

⚠️補足:キリスト教の聖人や修道士は、最低限の衣服と聖書以外に財産を持たず、教会施設で自給自足しながら共同生活するか、行く先々で施し(寄付)をもらいながら伝道活動をする。ジャンヌがそのことを知らないはずはない。もともと戒律を守らない傾向も見られ、もしかしたらジャンヌは本心では自分を聖人とは思っていないのかもしれない。

 こういう知識はジャンヌの家系に受け継がれたもので、実際、ジャンヌの父親は村一番の実業家(ようするに、やり手)だった。[301]

 ジャンヌ自身は家庭的で倹約家だった。古着を大切に保管し、野原で友人に何か贈りたいと思ったときは、どこで見つけられるかを知っていた。

 ジャンヌは武器や馬など自分の所有物を数えて、それらを1万2000クローネと評価した。かなり正確に計算していたようだ。[302]

 なぜ、ジャンヌはこの家を借りたのだろうか?

 自分自身がそこに住むつもりだったのか? 戦争が終わったらオルレアンに戻り、自分の家で平穏な余生を過ごすつもりだったのだろうか?

 それとも、両親やヴートンの叔父、あるいは兄弟たちに住まわせるつもりだったのか? ジャンヌの兄弟の一人は、オルレアン市民からプールポワン(短い上着)をもらうほど極貧だった。[303]

 3月3日、ジャンヌはシャルル王に従ってシュリーへ向かった。[304]

 ジャンヌが国王の近くに滞在したシュリー城は、ラ・トレモイユの所有物で、彼は母であるルイ・ド・ブルボンの娘マリー・ド・シュリーから城を相続していた。

 この城はオルレアン解放後に、イングランド軍から奪還していた。[305]

 ロワール川沿いの要塞で、パリからオータンへ向かう街道沿いに位置する。オルレアンとブリアールの間の平野と、20のアーチを持つ古い橋を見下ろすシュリー城は、フランス中部と、ジャンヌが後ろ髪を引かれる思いで去った北部地方を結びつけていた。

 ジャンヌは、新たな遠征と包囲戦に挑むために、心の底からそこへ戻りたいと切望していた。


5.3 ランス市民宛の手紙

 3月最初の2週間、ジャンヌは、ランスの町の人々から根拠のある不安を打ち明けるメッセージを受け取った。[306]

 3月8日、イングランド摂政(ベッドフォード公)はブルゴーニュ公に対し、シャンパーニュとブリーの伯爵領を、彼が再征服することを条件に与えた。[307]

 アルマニャック派とイングランド人は、この巨大な力を持つ公爵(ブルゴーニュ公)にもっとも大きく、もっとも魅力的な分け前を提供することで互いに競い合っていた。
 フランス軍は約束を守り、コンピエーニュを引き渡そうとしたが、結局(町がブルゴーニュ公の支配下に戻ることを拒否したため)引き渡されることはなかった。フランス軍は、コンピエーニュの代わりにポン=サント=マクサンスを差し出した。[308]

 だが、ブルゴーニュ公が欲しかったのはコンピエーニュだった。

 非常に不完全ながら休戦協定は守られており、当初の期限はクリスマスまで有効だったが、3月15日まで延期され、さらに復活祭(イースター)まで延長された。
 1430年のイースターは4月16日だ。ブルゴーニュ公フィリップは、その日が来たら軍隊を戦場に投入しようとしていた。[309]

 簡潔かつ活気に満ちた口調で、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はランス市民にこう答えた。

「親愛なる友よ、心から待ち望んでいる愛する人々よ。
 ジャンヌ・ラ・ピュセルは、あなたたちが
 包囲攻撃を恐れているという手紙を受け取りました。

 私はもうすぐ彼ら(ブルゴーニュ軍)と遭遇するので、
 そのような事態(包囲戦)は起こらないと信じてください。

 もし、私が彼らに遭遇せず、
 彼らがあなたたちのところに来ないとしても、
 あなたたちは門をしっかりと閉めておきなさい。
 そうすれば、私はもうすぐあなたたちのもとへ
 向かうので、共にいることができます。

 もし、彼らがそこに来たなら、
 私は、彼らに拍車をかけさせてやります。
 彼らはどこへ行けばいいのか分からなくなるほど
 非常にすばやく、すぐに逃げるでしょう。

 他の事については、今は書きません。
 あなたたちが常に善良で、
 忠実であり続けることを願っています。
 神があなたたちを守ってくださるよう祈ります。

 3月16日、シュリーにて記す。

 あなたたちが大いに喜ぶであろう
 他の知らせを伝えたいのですが、
 手紙が旅の途中で奪われて、
 見られてしまうことを恐れています。

 署名:ジャンヌ

 ランス市の親愛なる友、愛する人たち、
 聖職者、市民、そしてその他の町民の皆様へ」[310]

 書記官がこの手紙をジャンヌの口述通りに忠実に書き記し、彼女の口からこぼれた言葉をそのまま書き留めたことは疑いようがない。
 ジャンヌは急いでいたので、ときどき単語を忘れ、時にはフレーズ全体を忘れることもあったが、それでも意味は明瞭だ。そして、なんと自信に満ちているのだろう!

「私が敵と遭遇すれば、包囲は起こらないだろう」

 これはまさしく、騎士道の言葉である!
 パテーの戦いの前夜、ジャンヌは仲間たちに「いい拍車を持っていますか?」と尋ねた。[311] 今ここでジャンヌはこう叫ぶ。

「私は、彼らに拍車をかけさせてやります」

 ジャンヌは「もうすぐシャンパーニュにいるだろう、出発するところだ」と告げる。

 もはやジャンヌが、ある種の金色の鳥かごのように、ラ・トレモイユの城に閉じ込められていると考えることはできない。[312]

 最後に、ジャンヌはランスの友人たちに、「手紙が道中で奪われることを恐れて、書きたいことすべてを伝えるわけではない」と告げている。

 ジャンヌは、用心深さを知っていた。時には、手紙に十字架をつけて、自分の信奉者たちに「書かれている内容に注意を払わないように」と警告し、手紙が傍受されることのないよう、そして敵が欺かれることを願った。[313]

5.4 ジャンヌとフス派(1)十字軍の敗北、教会と教皇の新たな守護者

 3月23日、修道士パスケレルはシュリーから「ボヘミアのフス派に宛てた手紙」を神聖ローマ皇帝ジギスムントに送った。[314]

 当時のフス派は、キリスト教世界全体で忌み嫌われ、呪われていた。

 彼らは、(1)神の言葉を自由に説教すること、(2)聖餐式(パンとワインの拝領)を自由におこなうこと、そして(3)教会が「聖職者の富」と「教皇の世俗的権力」を許さない福音主義的な生活に戻ることを要求した。

 さらに、(4)世俗の行政官による罪の処罰を望んだ。
 だが、これは非常に神聖な社会でしか通用しない慣習である。

 フス派の人々はあらゆる点で、聖人であると同時に異端者でもあった。

 教皇マルティヌス五世は、これらの邪悪な者たちを滅亡させることは有益であると考えており、これはすべての善良なカトリック教徒の総意でもあった。

 しかし、神聖ローマ帝国と教皇の軍隊をすべて打ち破った、この武装した異端者たちをどのように扱えば良いのだろうか?

 フス派は、キリスト教世界の古びた騎士道も、フランスとドイツの騎士道も手に負えない存在だった。従来の騎士道は、錆びた鉄くずのようにゴミの山に投げ捨てられる以外に何の役にも立たなかった。

 そして、フランス王国の都市で、まさにそれが実行された。
 騎士道精神を持つ騎士の上に、農民の娘が置かれたのである。[315]

 1427年、タホフ(現在のチェコ)では、教皇に祝福された十字軍が、プロコップ軍の戦車の車輪の音を聞いただけで逃げ出した。[316]

⚠️プロコップ(Procops):フス戦争で活躍したフス派の将軍プロコップ・ヴェリキー(大プロコップ)と、プロコップ・マリー(小プロコップ)のこと。フス派の中でも急進的なターボル派の指導者。

 教皇マルティヌス五世は、聖なる教会の守護者——すなわち唯一にして不可分の守護者をどこに求めればよいか分からなかった。

 教皇は、この呪われたボヘミア人たちと戦うことになっていた、ウィンチェスター枢機卿が率いるイングランドの十字軍5000人の武装費用を支払っていた。しかし、教皇はこの軍隊にひどく失望させられた。

 この十字軍5000人は、フランスに上陸するや否や、イングランド摂政(ベッドフォード公)の指示で進路を変更し、アルマニャック派の乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の注意を引くためにブリーに派遣されてしまった。[317]

**

 フランスに来て以来、ジャンヌは十字軍を善であり、価値のある仕事だと語っていた。

 オルレアン遠征の前に口述筆記した手紙の中で、ジャンヌはイングランド軍に対し、「フランス軍と合流して、ともに教会の敵と戦おう」と呼びかけた。さらにその後、ブルゴーニュ公に宛てた手紙の中で、ニコポリスで敗れた公爵(無怖公)の息子に「トルコ人と戦う」ことを求めた。[318]

 こういう十字軍のイメージをジャンヌに吹き込んだのは、彼女を指導していた托鉢修道士たち以外にいただろうか?

 オルレアン解放直後、ジャンヌはシャルル七世を聖墳墓教会(エルサレム)の征服に導き、聖地で死ぬだろうと言われていた。[319]

⚠️聖墳墓教会(Saint-Sépulcre):エルサレムにある、キリストの墓と言われる場所にある教会堂。キリストが磔刑に処されたゴルゴダの丘もここだといわれる。

 同時に、ジャンヌはフス派と戦うだろうという噂もあった。

 1429年7月、戴冠式の遠征(キャンペーン)が始まったばかりの頃、ローマの女預言者の言葉を根拠に、「フランスの女預言者によってボヘミア王国が回復されるだろう」とドイツで宣言されていた。[320]

5.5 ジャンヌとフス派(2)異端者の根絶を願う(旧約聖書の神の正体について補足)

 ジャンヌはかつてトルコ(異教徒)と戦う十字軍に熱心だったが、今やフス派(異端者)と戦う十字軍に熱意を燃やしていた。

 トルコ人もボヘミア人(フス派)も、彼女にとっては同じだった。どっちにしろ、ジャンヌが知っていることは、仲間の托鉢修道士たちから聞いた魔術に満ちた物語だけだった。

 フス派については、すべてが真実ではないものの、ジャンヌは世間に広まっている話を信じていたに違いない。そして、それはジャンヌを喜ばせるような内容ではなかった。

 彼らは悪魔を崇拝し、悪魔を「不当に虐げられた者」と呼んでいると言われた。また、敬虔な行いとして、あらゆる種類の姦淫を犯しているとも。
 さらに、ボヘミア人は全員、百の悪魔に取り憑かれていると言われた。彼らは、何千人もの聖職者を殺害し、その他にも教会や修道院を焼き払ったと非難されたが、後半は事実である。

 ジャンヌは、イスラエルにペリシテ人(パレスチナ人)を地上から一掃するよう命じた神を信じていた。

 しかし近年、旧約聖書の神を「悪の創造者、嘘つき、殺人者であるルシファー(Lucifer)またはルシアベルス(Luciabelus)に他ならない」と考えるカタリ派が現れた。
 カタリ派は戦争を忌み嫌い、血を流すことを拒否した。
 彼らは異端者であり、虐殺され、誰も残らなかった。

⚠️ルシアベルス(Luciabelus):中世の異端思想において、旧約聖書の神を悪の創造者であるルシファーと同一視し、悪魔的な存在として呼ぶときに使われた名称。なお、検索すると制限がかかってまともに調べられず、制限を解くことも不可。ルシファー(Lucifer)やその他の悪魔は問題ないのに。

⚠️さらに補足:ルシア(Lucia、ルキア、ルチアとも)はラテン語で「光」を意味する「lux」に由来する。ベルス(Belus)はギリシャ神話に登場するエジプト王だが、悪魔を意味するバアル(Baʿal)や戦争を意味するベルム(bellum)など、滅亡した何らかの古代の神と関係があるとみられる。
現代の聖書研究でもっとも有力視されているのは、ヨーロッパ・中東の旧石器時代、古代レヴァント/カナン神話の「雷と嵐の神バアル・バダド」、言い方を変えればゼウスのことらしい。日本では単に「嵐の神」と訳されているが、自然の力を属性とする豊穣神である。……雷・稲妻は光る自然現象なので、まさしく言い得て妙。

 ジャンヌは、フス派の根絶は神に喜ばれる仕事(善業・偉業)だと心から信じていた。

 ジャンヌよりも学識があり、ジャンヌのように騎士道に傾倒するのではなく、穏やかな生活を好む人たち、ジャン・ジェルソンのような聖職者たちも同様に信じていた。[321]

 ボヘミアの異端者たちについて、ジャンヌはみんなが考えていることと同じ考えを持っていた。ジャンヌの意見は大衆(多数派)の意見であり、ジャンヌの見解は世論に基づいて形成された。

 それゆえに、ジャンヌは心の底からフス派を憎んでいた。
 だが、彼らを恐れることはなかった。
 なぜなら、ジャンヌは何も恐れていなかったからだ。神の助けがあれば、世界中のすべてのイングランド人、すべてのトルコ人、そしてすべてのボヘミア人に打ち勝つことができると信じていた。

 最初のラッパ(号令)が鳴ると同時に、ジャンヌは彼らに向かって突撃する準備ができていた。

5.6 ジャンヌとフス派(3)フス派宛の手紙

 1430年3月23日、修道士パスケレルは、乙女(ラ・ピュセル)の名で書かれ、ボヘミアのフス派に宛てた手紙を皇帝ジギスムントに送った。
 この手紙はラテン語で書かれている。内容は以下のとおりだ。

「ジーザス†マリア

 はるか昔、あなたたちはかつて
 真のキリスト教徒だったにもかかわらず、
 サラセン人のように異端者となり、
 真の宗教と礼拝を廃し、堕落し、
 破滅的な迷信に転向したという知らせが
 私の耳に届いた。

 あなたたちは、それを維持し
 広めようとすることに熱心で、
 恥も残酷さも恐れずに、
 あらゆる悪事をあえて犯そうとする。

 あなたたちは教会の秘跡を汚し、
 信仰箇条をバラバラに引き裂き、
 神殿を破壊している。

 あなたたちは、模範として作られた像を壊し、
 火の中に投げ込んでいる。

 そしてついに、あなたたちは、
 あなたたちの信仰を受け入れない
 キリスト教徒を虐殺するようになった。

 あなたたちは一体、どれほどの狂気、
 どれほどの愚かさ、どれほどの憤りに
 支配されているのか?

 全能の神、御子イエス、聖霊が
 何千もの方法と何千もの奇跡によって
 立ち上げ、制定し、高め、啓示された宗教を、
 あなたたちは迫害し、転覆させ、
 あらゆる手段を用いて根絶しようとしている。

 盲目とは、目も視力もない者たちではなく、
 あなたたちのことだ。
 あなたたちは罰を受けずに済むとでも
 思っているのか?

 もし神が、あなたたちの
 不敬虔な暴力を止めず、
 暗闇と誤りの中を
 手探りで進むことを許しているとしたら、
 それはさらに大きな悲しみと、
 さらに大きな罰を用意しているからだと
 あなたたちは知らないのか?

 もし私が、イングランドとの戦いに
 忙殺されていなければ、
 私はとっくにあなたたちと戦うために
 立ち上がっていただろう。

 もしあなたたちが改宗して、
 邪悪な道から立ち去らないと知れば、
 私はイングランドを離れて、
 あなたたちに向かって立ち上がるだろう。

 もし他に方法がなければ、
 あなたたちのむなしく暴力的な迷信を
 剣によって滅ぼし、
 異端か生命か、どちらかを取り除くだろう。

 もしあなたたちがカトリックの信仰と
 初期の光に戻りたいと望むならば、
 あなたたちの使者を私のもとに送るように。
 そうすれば、あなたたちが
 何をするべきかを伝えよう。

 もしあなたたちが頑固で反抗し続けるならば、
 あなたたちが犯したすべての罪と過ちを思い出し、
 私は、神と人間のすべての力をもって、
 あなたたちのところにやって来るだろう。

 そして、あなたたちが他者におこなった
 すべての悪をあなたたちに報復するのを
 見ることになるだろう。覚悟して待ちなさい。

 3月23日、シュリーにて記す。
 ボヘミアの異端者たちへ。
 署名:パスケレル」[322]

 これは皇帝に送られた手紙だ。ジャンヌは、シャンパーニュ地方とイル・ド・フランスの方言が混ざった言葉遣いで、一体どのように表現したのだろうか?

 ジャンヌの手紙が、善良な修道士パスケレルによってひどく飾り立てられたことは間違いない。このようなキケロ風の言葉遣い(Ciceronian:荘重典雅な、雄弁な)が、ジャンヌの口から出てくるはずがない。

 当時の聖人は万能だから、どんなテーマでもどんな言語でも予言できたのだと、もっともらしいことを言われる。
 だが、アルマニャック派の隊長たちでさえ単純無知だと思っていたジャンヌが、これほど見事な手紙を書いたとは到底考えられない。この手紙は修辞的すぎるのだ。

⚠️わかりやすく補足:この手紙は弁論技術(聴衆の心理操作)を駆使しており、理路整然としすぎている。ジャンヌの署名があるものの、ジャンヌ自身の言葉をそのまま書き記した内容ではない。

5.7 ジャンヌとフス派(4)ジャンヌ特有のレトリック

 しかしながら、注意深く読み解くと、少なくとも後半にはジャンヌの真摯な手紙、特にアルマニャック伯宛の返事に見られるような、率直で素朴な一節や子供じみた自信がいくつか見られる。[323] また、村の巫女に特徴的な表現も何度か出てくる。

 例えば、次の一節は、まさにジャンヌらしい言い方だ。

「カトリックの信仰と初期の光に戻りたいと望むならば、あなたたちの使者を私のもとに送るように。そうすれば、あなたたちが何をするべきかを伝えよう」

 そして、彼女のいつもの脅し文句はこうだ。

「神と人間のすべての力をもって、あなたたちのところにやって来るだろう。覚悟して待ちなさい」[324]

 また、次のフレーズについては、

「もしあなたたちが改宗して、邪悪な道から立ち去らないと知れば、私はイングランドを離れて、あなたたちに向かって立ち上がるだろう」

 このフレーズは、シャルル七世のことよりも教会のことに関心のある托鉢修道士が、ジャンヌを十字軍に参加させることにどれほど熱心だったかを示しており、もしかしたら実際のジャンヌよりも誇張された熱意を(手紙の中で)示しているのではないだろうか。

 ジャンヌは十字架を手に取ること(十字軍に参戦)を善良で有益な仕事だとみなしていたが、私たちが知る限り、「イングランド人をフランスから追い出す」までは絶対に他の仕事を引き受けることはなかっただろう。

 ジャンヌはこれを自分の使命だと固く信じており、その遂行において示した粘り強さ、一貫性、そして意志の強さは、まことに称賛に値する。

 ただし、ジャンヌがこの善良な修道士に、「イングランド人を王国から追い出したら、私はあなたたち(フス派)に向かって立ち上がる」といったたぐいの言葉を口述した可能性は十分に考えられる。これはパスケレル修道士の誤り(ジャンヌ本人よりも先走った熱意)を説明し、正当化するだろう。

 ジャンヌはイングランド人をすぐに一掃できると考え、この時点ですでに、反逆者で不信心なボヘミア人に向かって上等な一撃と健全な威圧を与えることを思い描いていた可能性が高い。

 乙女の純朴さ(単純無知)は、書記のラテン語を通していても十分感じられる。

 このボヘミア人(フス派)宛の手紙は、ああ! かつてヤン・フスの火刑台に、熱烈な信仰心ゆえに一束の薪を投げ込んだ善良な女性を思い起こさせる。その女性は、ヤン・フス自身が「聖なる純朴さ(単純無知)を称賛するように」と説いている相手なのだ。

⚠️補足:ヤン・フスはかつて自分が称賛した「信仰心が熱く純朴な人」の手で燃やされた。同様に、ジャンヌの純粋かつ熱烈な信仰心は、意図せず悲劇的な結果につながることを示唆している。ジャンヌの手紙の背後にある信仰心と危険な予兆を、ヤン・フスの火刑と重ね合わせることで、より深く考察するように読者に促している。

5.8 ジャンヌとフス派(5)双方の共通点、宗教的信念を内面化した者の悲劇

 ジャンヌと、彼女が脅迫と非難を浴びせかけたまさにその人々(フス派)との間には、多くの共通点があったことを考えずにいられない。彼らはみんな、信仰、貞潔、単純(純真)な無知、敬虔な義務、神の意志への服従、そしてささいな献身を誇張する傾向に突き動かされていた。

 ヤン・ジシュカ[325]は、ジャンヌがアルマニャック派に導入しようとしていた道徳的な純粋さを、自分の陣営に確立していた。

⚠️ヤン・ジシュカ(Jan Zizka):フス派の指導者。ボヘミアの没落貴族出身で「隻眼のジシュカ」と呼ばれた傭兵。火刑に処されたヤン・フスの信奉者を率いてフス戦争を引き起こし、ハンドキャノンや装甲馬車(ウォーワゴン)を駆使して十字軍を翻弄した。

 ボヘミアの農民兵士と、托鉢修道士たちに囲まれて剣を振るうフランスの農民乙女には、多くの共通点があった。

 双方ともに、政治的な精神(戦略や利害)の代わりに「宗教的な精神●●●●●●」を、民法に従う代わりに「罪への恐れ●●●●●(神の教えにそむくこと)」を気にかけ、世俗的な領域に持ち込まれた精神性を内面化している。

⚠️わかりにくいので補足:彼らの行動原理が政治的な思惑や社会的な秩序ではなく、宗教的な信念に基づいていることを強調している。
宗教的な精神(信仰心)を世俗的な領域に持ち込み、社会を変革しようとした結果、既存の権力構造や社会秩序との衝突を引き起こし、悲劇的な結末を迎えることになった。

 これは実に悲惨で痛ましい光景である。敬虔な者が互いに敵対し、罪なき者が罪なき者と対立し、単純な者が単純な者と対立し、異端者が異端者と対立する。

 裏切りによって捕らえられ、異端者として火刑に処されたヤン・フスの弟子たちを、ジャンヌ・ラ・ピュセルは根絶させると脅迫している。その一方で、ジャンヌ自身もまた敵に捕らわれて売られ、魔女として罰せられる運命にあることを考えると、胸が痛む。

 もし、当時の洗練された機知とユーモアのセンスを持つ人々が斜めから(疑いの目で)見ていたこの手紙が、事前に神学者たちの承認を得ていたなら、状況は違っていただろう。

 しかし、彼らはこの手紙に欠点を見出して非難した。著名な教会法学者で、熱心な異端審問官だったある人物は、一人の乙女が大勢の人々を脅迫する行為を、きわめて僭越(身分や権限などを越えて差し出がましいこと)だとみなしたのである。[326]

5.9 シュリーからの旅立ち(1)ランス市の陰謀未遂、市民宛の手紙ふたたび

 ジャンヌはすぐにイングランド人を放置してボヘミア人と戦うために駆けつける準備ができていなかった、と推測したのは正しかった。

 フス派への訴えから5日後、ジャンヌはランスの町の友人たちに手紙を書き、謎めいた言葉で「まもなく彼らのところへ向かう」と伝えた。[327]

 当時、ブルゴーニュ公フィリップの支持者たちはシャンパーニュ地方の町々、特にトロワとランスで陰謀を企てていた。

 1430年2月22日、聖堂参事会員(canon、聖職者の資格を持つ世俗人)と教会付き司祭(chaplain)が町をイングランドに引き渡す陰謀を企てたとして逮捕され、教会会議に引き渡された。
 彼らが教会に属していたのは幸運だった。終身刑を宣告されたが、国王(シャルル七世)から減刑を受け、聖堂参事会員は保釈金を支払って完全に釈放されたからだ。[328]

 町の評議員と聖職者たちは、ロワール川の対岸(ロワール側の南岸、フランス中部〜南部はシャルル七世の支配地域)で悪く思われることを恐れて、ジャンヌに手紙を書き、国王に自分たちのことを好意的に伝えてくれるよう懇願した。

 以下は、その要請に対するジャンヌからの返事である。[329]

「善良な友よ、愛する者よ、
 あなたたちの手紙を受け取りました。

 その手紙には『ランス市内に多くの悪人がいると
 国王に知らせが届いている』と書かれていました。

 確かにその通りで、そのような報告が国王に届き、
 ブルゴーニュ派と結託し、町を裏切り、
 ブルゴーニュ派を引き入れようとする者がいることを
 国王は深く憂慮しています。

 しかし、その後、
 あなたたちが送った保証状によって、
 国王は正反対の事実を知り、大変喜んでいます。

 あなたたち(ランス市)は
 国王から好かれていると確信してください。

 もし必要なら、国王は包囲戦が起きたときに
 あなたたちを助けに行くでしょう。

 敵であり裏切り者であるブルゴーニュ派の
 厳しい攻撃によって、
 あなたたちが多くの苦難を受けていることを
 国王はよくご存じです。

 神のご意志により、できるだけ早く、
 あなたたちを救い出してくださいますように。

 親愛なる友よ、
 国王のためにこの都市をしっかりと守り、
 警戒を怠らないように、
 あなたたちに祈り、懇願します。

 近いうちに私からもっと詳しい
 良い知らせが届くでしょう。

 今のところ、
 ブルターニュ全体がフランス陣営についたこと、
 公爵が2カ月分の報酬を支払って
 兵士3000人を国王に派遣したこと以外、
 他に書くことはありません。

 神にあなたたちをゆだねます。
 神があなたたちを守ってくださいますように。

 3月28日、シュリーにて記す。
 ジャンヌ[330]

 宛先:私の善良な友人たち、
 そして親愛なる聖職者、評議員、市民、
 住民、町人、善良な町ランスの主人たち」[331]

 ブルターニュ公からの援軍について、ジャンヌは都合の良い夢を見ていた。他の女預言者たちと同じように、ジャンヌは自分の周囲で何が起こっているかを知らなかった。

 失敗を重ねながらも、ジャンヌは幸運を信じていた。
 神を疑わないのと同じくらい、自分自身を疑わなかった。
 そして、自分の使命を全うすることに熱心に取り組んでいた。

「近いうちに私から良い知らせが届くでしょう」

 ジャンヌはランスの人々にそう伝えた。数日後、休戦協定の期限が切れると、ジャンヌはフランス(イル・ド・フランス)で戦うためにシュリーを離れた。

5.10 シュリーからの旅立ち(2)修道士リシャールと聖女たちの分裂

 このとき、ジャンヌは「娯楽のための遠征」を装い、国王に別れを告げずに旅立った。そのため、この旅立ちはある種の無邪気な策略で、名誉ある逃亡だったと言われている。[332]

⚠️補足:シャルル七世とジャンヌの不仲説によると、ジャンヌがシャルル七世を見限って単独行動したと考えられている。

 しかし、それはまったく違う。[333]

 ジャンヌは、ロンバルディア出身の隊長バルトロメオ・バレッタの指揮のもと、騎兵およそ100騎、弓兵とクロスボウ兵合わせて68人、そしてラッパ奏者2人から編成された部隊に加わった。[334]

 この部隊には、オルレアン包囲戦の際にやってきた、幅広の盾を持つイタリア出身の武装兵もいた。おそらく同一人物だろう。[335]

 ジャンヌは、兄弟の修道士たちと従騎士のジャン・ドーロンとともに、この部隊の先頭に立って出発した。

 ジャンヌはジャン・ドーロンの手中(庇護下)にあり、ジャン・ドーロンもまた借金をしているラ・トレモイユの手中にあった。[336] ジャン・ドーロンは善良な従騎士で、国王の意志に反してまでジャンヌに従うようなことはしなかっただろう。

⚠️補足:ジャン・ドーロンはジャンヌに仕える従騎士だが、単純な上下関係ではなく、シャルル七世に命じられてジャンヌの世話やサポートをするためにつけられた「お目付役(保護下、世話役、後見)」である。シャルル七世やジャンヌとの主従関係とは別に、金銭的な援助を受けているラ・トレモイユにも頭が上がらない事情もある。
もし、通説でいわれるような「シャルル七世と側近たちとの不仲説」が事実なら、ジャン・ドーロンがジャンヌの遠征についていくはずがない。

 また、ちょうどこの頃、ベギン会の修道女たちの遊撃隊は引き裂かれてついに分裂した。

 当時、王妃マリー・ダンジューから寵愛を受け、1430年の四旬節の演説[337]をオルレアンでおこなった修道士リシャールは、カトリーヌ・ド・ラ・ロシェルとともにロワール川流域にとどまった。

 その一方で、ジャンヌは、下ブルターニュ出身のピエロンヌと若い女預言者を連れて出ていった。[338]

⚠️ベギン会(béguine):中世ヨーロッパで生まれた半聖半俗の姉妹団体。修道会とは異なり、正確にいえば修道女ではない。望まぬ妊娠をした人や行き場のない独身女性など、ある意味、教会が取りこぼした弱者の駆け込み寺のような互助組織・共同体。フランス革命を契機に衰退したが、かつてフランス王国だったオランダやベルギーに残っている。

5.11 シュリーからの旅立ち(3)シャルル七世と家臣たちの動向

 ジャンヌの旅立ちについて、国王とその評議会は知らなかった、あるいは反対を押し切っての行動だったといわれるがそうではない。

 おそらく、王国の宰相(ランス大司教ルニョー・ド・シャルトル)がラ・トレモイユにジャンヌを派遣するよう依頼したのだろう。ボーヴェの統治およびランス市をおびやかしていたブルゴーニュ軍に対し、今後予想される戦いで彼女を起用するためだ。[339]

 ランス大司教はジャンヌにあまり好意的ではなかったが、すでに乙女(ラ・ピュセル)を起用してうまくいった実績があり、今回もそうするつもりだった。彼の意図は、次のパリ攻撃に備えてジャンヌを利用することだったのだろう。

 その一方で、国王は、常に好んでいた「平和的な手段で大都市を奪還する」という考えを諦めていなかった。

 四旬節の間ずっと、シュリーとパリの間では、ムラン(Melun)のカルメル会修道士たちが職人に変装してひんぱんに行き来していた。彼らは、聖母マリアの祝日にフランス軍がパリのサントノレ門を攻撃した際、セーヌ川の両岸に広がった民衆蜂起を扇動した聖職者たちだ。

 今、彼らは有力なパリ市民たちと交渉し、反乱に乗じて国王の兵士たちを町に入れようと画策していた。ムランのカルメル会修道院の院長がこの陰謀を主導していた。[340]

 ジャンヌ自身が、彼(修道院長)または彼の配下の修道士(工作員)の一人と会っていた可能性がある。そう信じるだけの理由がある。

 3月22日か23日以降、シュリーで陰謀が発覚したことが知られていたのは事実である。[341] しかし、完全に頓挫したわけではなく、まだ成功への希望が残っていたのだろう。

 ジャンヌがシュリーを旅立ったあと、仲間の部隊と共に向かったのはムランだ。「カルメル会の陰謀」と「乙女の遠征」との間に何の関連もなかったとは考えにくい。

**

 なぜシャルル七世の顧問たちは、ジャンヌを積極的に起用することをやめたのだろうか?

 彼女がフランス人にとって神聖ではなくなった、あるいはイングランド人にとって邪悪ではなくなったから、ではない。

 ジャンヌの失敗(敗北)はまったく知られていなかったか、あるいは部分的にしか知られていなかったが、これまでの勝利の名声に比べればほんの些細なことだった。「ジャンヌの中に無敵の力が宿っている」という考えは消えなかった。

 フランス騎士道の華となった不運な少女が、ラ・シャリテの城壁の下で、元石工見習いの手でひどい仕打ち(敗北)を受けていた頃、ブルゴーニュ地方では、ジャンヌがパリから12マイル離れた城を強襲して奪取したという、正反対の噂が流れていた。[342]

 乙女は以前と変わらず奇跡を起こす存在だと考えられており、ジャンヌ派の市民や兵士たちは彼女を信じていた。

 ゴドン(イングランド人への蔑称)たちもまた、摂政ベッドフォード公から軍の最底辺の剣士に至るまで全員が、オルレアンやパテーで仲間を襲ったのと同じくらい大きな恐怖を抱いていた。

 この頃、多くのイングランド兵と隊長がフランス行きを拒否したため、命令に従うことを義務付ける特別な勅令が出された。[343]

 しかし、彼らは、この先ずっと苦戦しか期待できず、魅力的なものが何もない場所へ行かなくて済む理由をひねり出したのだろう。そのため、多くの人が乙女の魔術に怯えてフランス派遣を辞退した。[344]


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