教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第一章 幼少期
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』完訳プロジェクト。原著は1908年発行。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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1.1 生まれ故郷、ドンレミ村
ヌフシャトーからヴォークルールまで、ムーズ川の清らかな流れは、ポプラ並木やハンノキ、ヤナギの低い茂みにおおわれた岸辺の間を、ゆったりと流れている。
⚠️ムーズ川(Meuse):フランス北東部の高地バシニー(標高409メートル)を水源とし、ベルギーを流れオランダで北海へ注ぐ川。ジャンヌの故郷はこの川の支流にあり、シノンに旅立つまではムーズ川流域の地名が頻出する。
ある時は急に折れ曲がり、またある時は緩やかにうねり、絶えず細い流れに分かれては、その緑がかった水の筋が再び合流し、あるいは所々で忽然と地下に姿を消す。
夏は気だるい流れとなり、浅い川底に生える葦をかろうじてなびかせるにすぎない。岸辺からは、わずかな砂と苔をかろうじて覆うだけのイグサの茂みにせき止められて、さざ波が立つ水面を眺めることができる。
しかし、大雨の季節になると、急な豪雨によって増水し、より深く、より速さを増して激しく流れ、そのとき、川は岸辺に一種の露のようなものを残していく。それは谷の草地と同じ高さに、澄んだ水たまりとなって広がっている。
低い丘陵の間に、幅2~3マイルほどの谷が途切れることなく広がり、なだらかな起伏の丘はオーク、カエデ、シラカバの木々に覆われている。
春には野の花が咲き乱れるが、その姿は厳格で重苦しく、時には悲しげな印象を与える。
一面の緑の草地は、よどんだ水のような単調さを感じさせる。
晴れた日でさえ、厳しく冷涼な気候が肌に伝わってくる。
空は大地よりも慈しみ深い。涙を浮かべたような微笑みで大地を照らし、この繊細で静かな風景に、あらゆる動きと優雅さ、そして絶妙な魅力を添えている。
やがて冬が訪れると、空は一種の混沌となって大地と溶け合う。霧は深く、まとわりつくように立ち込める。
夏には谷底を覆っていた白く軽やかな霧も、分厚い雲と暗い山々の影に取って代わられ、それらは赤く冷たい太陽によってようやく追い散らされる。
早朝に高地をさまよう旅人は、恍惚の境地にある神秘家のように、自分は雲の上を歩いているのだと夢想するかもしれない。
この左手に樹木が生い茂る台地があり、その高台からブルレモン城がソーネル川の渓谷を見下ろしている。右手に、古い教会のあるクセ(Coussey)を通り過ぎると、曲がりくねった川は西側のボワシュヌ(Bois Chesnu)と東側のジュリアンの丘の間を流れていく。
川の流れは、西岸に隣接するドンレミ村とグルー村を通りすぎ、グルーとマクセ=シュル=ムーズを分かつ。
丘のくぼみに隠れた、あるいは高台に位置する他の集落を縫い、ビュレ=ラ=コート、マクセ=シュル=ヴェーズ、ビュレ=アン=ヴォーの間を通りすぎて、ヴォークルールの美しい草原を潤しながら流れていく。[147]
1.2 ジャンヌ誕生、家族構成
ドンレミと呼ばれる小さな村は、ヌフシャトーから少なくとも7.5マイル下流、ヴォークルールより12.5マイル上流に位置する。1410年か1412年ごろ[148]、この小村で、驚くべき生涯を送る運命を背負った女児が誕生した。
その子は慎ましい家に生まれた。
彼女の父親[149]、シャンパーニュ地方セフォン村の出身の[150]ジャコまたはジャック・ダルクは小規模な農家で、自ら馬を駆って耕作していた。[151]
近所の人たちは、男女を問わず、彼を善良なキリスト教徒であり勤勉な働き手であると見なしていた。[152]
ジャックの妻は、ドンレミから北西に4マイルほど、グルーの森を越えたところにあるヴートン村の出身だった。
名前はイザベルまたはザビレといい、それがいつの時点であったかは正確には分からないが、ロメという通称で呼ばれるようになった。[153]
この名は、ローマに巡礼した人、あるいは他の重要な巡礼地に行った人に与えられた。[154] イザベルがロメという名を得たのも、巡礼者の貝殻と杖を持っていたためかもしれない。[155]
⚠️巡礼者の貝殻と杖:巡礼者を象徴する伝統的な持ち物。貝殻はスペインにあるサンティアゴ・デ・コンポステーラ(聖ヤコブの霊廟)への巡礼者のシンボルで、目的地に到着した証として現地の海岸でホタテ貝を拾うのが慣わし。杖は長い旅路の支えであり護身用。ジャンヌの母親が非常に信心深い女性だったことを示している。
ロメの兄弟のひとりは教区司祭で、もうひとりは屋根瓦職人であり、甥は大工だった。[156]
夫婦の間にはすでに子供を3人授かり、ジャックまたはジャックマン、カトリーヌ、ジャンと名付けられていた。[157]
ジャック・ダルクの家は、ガリアの守護聖人である聖レミ(レミギウス)を祀る小教区教会の敷地の端に建っていた。[158]
その子が洗礼盤に運ばれるとき、横切るのは墓地だけだった。
当時、その地域では、洗礼式で司祭が唱える悪魔祓いの儀式は、男児より女児の方がはるかに長かったと言われている。[159]
教区司祭のジャン・ミネ師[160]が、その子に儀式の文言をすべて忠実に唱えたかどうかはわからない。だが、この習慣は、教会が女性に対して抱いていた拭いがたい不信感を示す、数多くの証左の一つとして注目に値する。
⚠️拭いがたい不信感(invincible défiance):当時の教会は、女性を「誘惑や悪魔の入り口」として警戒していた。生まれたばかりの女児も例外ではなく、洗礼で入念な悪魔祓いがおこなわれた。
当時普及していた慣習に従い、その子には名付け親(代父と代母)が何人もいた。[161]
代父は、グルー村の[162]農夫ジャン・モレル、ヌフシャトーのジャン・バレー、ジャン・ル・ランガール(またはランギ)、ジャン・ランゲソン。
代母は、ドンレミ村でロゼと呼ばれるテヴナン・ル・ロワイエの妻ジャネット、同村の農夫エステランの妻ベアトリクス、ジャン・バレーの妻エディット、ブルレモン領主の秘書に任命されたときに「村長オブリ(Maire Aubrit)」と記されたオブリの妻ジャンヌ、ヌフシャトーの学者ティエセラン・ド・ヴィッテルの妻ジャネット。 彼女は、本から読み聞かせてもらった物語をよく知っていたため、この中の誰よりも物知りだった。
代母の中には、ジャック・ダルクの兄弟ニコラ・ダルクの妻アニエスと、シビル(巫女、女預言者のこと)と呼ばれる無名のキリスト教徒2人が挙げられている。[164]
ここには、善良なカトリック教徒の集団には必ずいるように、ジャン、ジャンヌ、ジャネットという名前が多数登場する。
洗礼者ヨハネ(ヨハネ・バプテスト)は非常に名高い聖人だ。6月24日におこなわれる祝日は、世俗的にも宗教的にも暦の上で重要な日で、賃貸借や雇用などあらゆる種類の契約を交わす慣習的な期日となっていた。
また、一部の聖職者、特に托鉢修道士たちの考えでは、救世主(キリスト)の胸にその頭を預け、時が満ちた(世界に終末が訪れる)ときに地上に戻ってくることになっている福音者ヨハネこそが、天国で最も偉大な聖人だった。
そのため、救世主の先駆者(洗礼者ヨハネ)、あるいはその最愛の弟子(福音者ヨハネ)を尊んで、赤ん坊が洗礼を受ける際には、ジャンやジャンヌという名が好まれて選ばれることが多かった。
これらの聖なる名前を、幼子の無力さや私たちの多くを待ち受けている慎ましい運命にふさわしいものにするために、ジャンノとジャネット(Jeannot/Jeannette)という指小形が付けられた。
⚠️指小形(diminutive):単語の語尾を変化させたり、特定の接尾辞を付けたりすることで、「小さいもの」「かわいらしいもの」「親しみのあるもの」いうニュアンスを添える表現のこと。
ムーズ川のほとりの農民たちは、気取らず、それでいて親愛の情のこもったこれらの表現を特に好んでいた。ジャコ、ピエロロ、ザビエ、メンジェット(マンジェット)、ギュイエメット(ギユメット)といった風に。[166]
学者ティエセランの妻にちなんで、その子はジャンネットと名付けられた。
それが、村で彼女が知られていた名前だった。
後にフランスでは、彼女はジャンヌと呼ばれた。[167]
ジャンヌは父の家、ジャックの質素な住まいで育てられた。[168]
正面には、わずかな光しか差し込まない二つの窓があった。
庭に面する石造りの切妻屋根は、ほぼ地面の近くまで傾斜していた。
この辺りの地方ではよくあることだが、戸口のすぐそばには、堆肥の山、積み上げられた薪、錆と泥にまみれた農具が置かれていた。
しかし、ささやかな家庭菜園として使われていた慎ましい囲い地は、春になるとピンクや白の花々が咲き誇った。[169]
この善良なキリスト教徒の家庭に、もう一人子供がうまれた。
末っ子のピエールはピエロットと呼ばれていた。[170]
⚠️ジャンヌは5人きょうだい(兄弟3人/姉妹2人)だが、それぞれの長幼については諸説ある。現在の定説では下記のとおり。姉妹のカトリーヌは、ジャンヌが出奔する前に亡くなっている。
①ジャック
②ジャン
③ピエールまたはカトリーヌ
④ジャンヌ
⑤ピエールまたはカトリーヌ
1.3 子供時代
薄いワインと黒パンを糧とし、過酷な生活に鍛えられながら、ジャンヌは実りの乏しい土地で、無骨でつつましい人々に囲まれて成長した。
彼女は完全な自由の中で暮らしていた。
働きづめの農民たちの間では、子供たちは放っておかれるのが常だった。
イザベルの娘は、村の子どもたちとうまく仲良くやっていたようだ。
近所に住む小さなオヴィエット(Hauviette)は、ジャンヌより3〜4歳年下で、日々の遊び相手だった。二人は同じベッドで一緒に寝るのが好きだった。[171]
両親がすぐ近くに住んでいたメンジェット(Mengette)は、よくジャック・ダルクの家で糸紡ぎの仕事をしに来ていた。彼女はジャンヌの家事を手伝っていた。[172]
ジャンヌはよく糸巻き棒を持って、若い娘のいる農夫ジャキエの家へ出かけ、サン・タマンスで夜を過ごした。[173]
男児も女児も、ごく当然のように隣同士で育った。
隣人同士だったジャンヌとシモナン・ミュニエ(Simonin Musnier)の息子は、一緒に成長した。
ミュニエの息子がまだ幼かったころに病気になると、ジャンヌが彼を看病した。[174]
当時、村の若い娘たちが文字を知っているのは決して珍しいことではなかった。
数年前、ジャン・ジェルソン師(パリ大学総長で神学者)は、シャンパーニュ地方の農民だった姉妹に読み書きを学ぶよう勧め、もし習得できたら、ためになる本を贈ると約束していた。[175]
ジャンヌは教区司祭の姪だったにもかかわらず、ホルンブック(horn-book)を学ばなかった。その点では、村のほとんどの子供たちと同じだったが、全員が文盲だったわけではない。なぜなら、近隣のマクセ村にはドンレミ村の少年たちが通う学校があったからだ。[176]
⚠️ホルンブック(horn-book):中世から19世紀頃にかけて、子供たちが読み書きを学ぶために使われた初歩的な学習用具。アルファベットや『主の祈り』などが書かれた紙を、取っ手のついた薄い板に貼りつける。当時は紙が貴重で汚れやすかったため、牛のツノ(horn)を薄く削って透明にしたもので紙を覆って保護した。取っ手の先に穴が開いており、そこにひもを通して腰のベルトにくくりつける
ジャンヌは母親から「主の祈り」、「アヴェ・マリア」、「使徒信条(ミサの定型文)」を学び[177]、聖人たちの美しい物語をいくつか聞いた。それが、彼女が受けた教育のすべてだった。
聖なる祝日には、教会の身廊の説教台の下で、農夫たちが壁際に立っている間、ジャンヌは農婦の作法に従い、つま先を立ててしゃがみこみ、司祭の説教に耳を傾けていた。[178]
働ける年頃になるとすぐに野良仕事に従事し、土を耕したり草をむしったり、現在のロレーヌ地方の女性たちと同じく、男手が必要な力仕事もこなした。[179]
川沿いの草原は、ムーズ川の岸辺に住む人々にとって豊かな資源だった。
牧草の収穫が終わると、ドンレミの村人は各自が所有する耕作地の割合に応じて、一定数の家畜を草原に放牧する権利を持っていた。
各家庭は交代で、草原での家畜の見張り番を引き受けた。
ジャック・ダルクも小さな放牧地を持っていたため、他の村人と一緒に自分の牛や馬を放牧した。
当番が回ってくると、彼は娘のジャンヌに見張り番の仕事を任せ、彼女は糸巻き棒を手に草原へ出かけていった。[180]
しかし、ジャンヌはむしろ裁縫や糸紡ぎなど家事をすることを好んだ。
ジャンヌは信心深かった。
神や聖人の名にかけて誓うことはせず、何か真実を主張するときは「間違いありません」と言うだけで満足した。[181]
お告げの祈り(アンジェラス)を告げる鐘が鳴ると、彼女は十字を切り、膝をついた。[182]
⚠️アンジェラス(Angelus):キリスト教の文脈では「お告げの祈り」と訳すが、ラテン語で「天使」を意味する。一日に三回(朝・昼・晩)、この祈りの時間を告げる鐘が鳴らされる。ジャンヌは後に、この鐘の音に合わせて「天使の声」を聞くようになったと語っており、彼女の信仰と神秘体験において重要な意味を持つ。
⚠️お告げの祈り:大天使ガブリエルによる受胎告知を記念する祈り。冒頭の句が「Angelus Domini」から始まるため、こう呼ばれる。
聖母マリアの日である土曜日、ジャンヌはブドウや果実の草木が生い茂る丘を登った。丘の麓にはグルー村がたたずみ、やがて樹木の生い茂る高原にたどり着いた。そこから東の方角に、緑の谷と青い丘を見渡すことができた。
村からわずか2.5マイルほど離れた丘の頂には、せせらぎの音が響く木陰の谷間に、ブナ、トネリコ、オークの木の下から「サン・ティエボーの泉」の澄んだ水が湧き出ている。その水は熱病を治し、傷を癒やすと言われていた。
この泉の上には、ノートルダム・ド・ベルモンの礼拝堂が建っている。
晴れた日は野原と森の香りが漂い、冬になるとこの高地は悲しみと静寂を羽織ったマントのような雲で包まれる。
当時、王のマントを身につけ、冠を戴き、神の子を腕に抱いたノートルダム・ド・ベルモン(マリア像)は、若者と娘たちから祈りと供物を捧げられていた。
彼女は奇跡を起こすと言われていた。
ジャンヌは、姉妹のカトリーヌや近所の少年少女たちと一緒に、または一人でここをよく訪れた。
そして、できる限り頻繁に、天上の貴婦人を讃えてろうそくに火を灯した。[183]
1.4 Fateの伝説:妖精の泉と女神の木
ドンレミ村から西に1.25マイル(約2キロ)ほどの所に、鬱蒼とした森に覆われた丘があった。野生のイノシシやオオカミを恐れて、そこに足を踏み入れる勇気のある者はほとんどいなかった。
オオカミは農村地帯では恐怖の対象だった。
村長たちは、オオカミやその仔を狩って首を持ってきた者に報酬を与えていた。[184]
ジャンヌの家の玄関から見えるこの森は、ボワ・シュヌ(樫の森)またはホアリー・シュヌ(白髪の森)と呼ばれる、ようするに古い森だった。[185]
このボワ・シュヌが、魔術師マーリンの予言の主題となっていたことについては、後に触れることにしよう。
村に向かう丘のふもとに泉[186]があり、泉のふちにはグーズベリーの茂みが灰色がかった緑の枝を絡ませていた。
それは「グーズベリーの泉」、または「ブラックソーンの泉」と呼ばれていた。
⚠️グーズベリー(Gooseberry):スグリ
⚠️ブラックソーン(Blackthorn):スモモ
もし、パリ大学の卒業生が考察したように[188]、ジャンヌが「我らが主の、善良なる妖精の泉(La Fontaine-aux-Bonnes-Fées-Notre-Seigneur)」と呼んだとすれば、それは村の人々がそう呼んでいたからに違いない。
このような名称を用いることで、素朴な村人たちは、森や水の妖精をキリスト教化する方便にしていたと考えられる。ある宣教師は、異教徒がかつて女神として崇めていた悪魔をその妖精と見なした。[189]
それはまったく真実であった。
ローマ神話のパルカ(Parcæ:運命の三女神)と同じように畏怖され崇拝されていたこの妖精は、いつしかフェイト(Fate、運命の女)と呼ばれるようになり[190]、人間の運命を支配する力があるとされていた。
しかし、この村のフェイトの権威はずいぶん前に落ちぶれて、人間と同じくらい素朴な存在になっていた。
彼女たちは洗礼式に招かれ、母親の隣の部屋には彼女たちのための食卓が用意された。
こうした祝宴の際、彼女たちは一人で食事をし、誰にも知られることなく行き来した。人々は、彼女たちの機嫌を損ねるのを恐れて、その姿を覗き見することを避けた。
秘密のうちに行き来するのは、神性を帯びた存在の習わしだ。
彼女たちは、生まれたばかりの赤子に贈り物をした。
非常に親切な者もいたが、その多くは、悪意があるわけではないにせよ、怒りっぽく気まぐれで嫉妬深い。たとえ意図的でなくとも、うっかりして機嫌を損ねると、邪悪な呪いをかけてくる。
時には、理不尽な好き嫌いの感情で、その女性的な本性を露わにすることもあった。
騎士や自由民の中に恋人を見つける者も一人や二人ではなかったが、概してそのような恋は悲劇的な結末を迎えた。
そして、結局のところ、優しいか恐ろしいかに関わらず、彼女たちはやはりパルカであり、つねにフェイトそのものだった。[191]
*
近くの森の境界にブナの古木があり、ヌフシャトーへ続く街道に覆い被さるようにして心地よい木陰を作っていた。[192]
このブナは、ガリア(古い地名でほぼ現在のフランス領に相当)に宣教師が来る前の時代に神聖視されていた木々と同じく、信心深く崇拝されていた。[193]
地面まで届くその枝に、あえて手を触れようとする者はいなかった。
ある農夫は「百合の花でさえ、これほど美しくはない」と言った。[194]
妖精の泉と同じく、この木には多くの名前があった。貴婦人の木(l’Arbre-des-Dames)、貴婦人の宿り木(l’Arbre-aux-Loges-les-Dames)、妖精の木(l’Arbre-des-Fées)、ブルレモンの美しき妖精の木(l’Arbre-Charmine-Fée-de-Bourlémont)、美しい五月(le Beau-Mai)と呼ばれていた。[195]
ドンレミ村では誰もが、妖精が存在すると信じ、そして「貴婦人の宿り木」の下でその姿が目撃されていることを知っていた。
昔々、ベルタが糸紡ぎをしていた時代、ブルレモン領主のピエール・グラニエ[196]が、ある妖精の騎士となり、夕暮れ時にそのブナの木の下で彼女と逢瀬を重ねた。
ある伝説が、二人の恋について物語っている。
⚠️昔々、ベルタが糸紡ぎをしていた時代:フランスのおとぎ話で「伝説的な古い時代」を指す決まり文句。このベルタが何者かは諸説あり、①シャルルマーニュ(カール大帝)の母ベルトラダ、②10世紀のベルトラダ王妃のどちらかだが、後者はフランスやスイスに糸紡ぎにまつわる言い伝えが残っている。
ヌフシャトーの学者だったジャンヌの代母の一人は、この物語を聞いたことがあったが、それはロレーヌ地方でよく知られている『メリュジーヌの伝説』によく似ている。[197]
⚠️メリュジーヌ(Melusina):フランスの伝承に登場する水の精霊で、異類婚姻譚の主人公。上半身は美女だが、下半身は蛇で、背中にはドラゴンの翼が付いている事から竜の妖精とも言われる。
しかし、妖精が今もなおそのブナの木に出没するかどうかは疑わしかった。
妖精がいると信じる者もいれば、いないと考える者もいた。
ジャンヌのもう一人の代母であるベアトリクスは、よく「昔は妖精たちがブナの木に来ていたという話を聞いた。けれど、罪を犯したからもう来なくなった」と言っていた。[198]
この素朴な女性が言わんとしたのは、妖精は神の敵であり、司祭が彼らを追い払ったのだということだ。ジャンヌの代父であるジャン・モレルも同じ考えだった。[199]

(1419年、ドンレミ村にあったジャンヌ・ダルクの生家)
実際、昇天祭(復活祭から5週目の木曜日)の前夜や、祈願節(昇天祭前の月曜から水曜)、四季の斎日(断食と祈りの日)には、十字架を掲げて野原を練り歩き、司祭は「妖精の木」へと赴いて新約聖書の『ヨハネによる福音書』を朗読した。
司祭はまた、グーズベリーの泉や教区内にある他の泉でも同じことをした。[200] 悪霊を追い払うためには、ヨハネによる福音書に勝るものはなかったからだ。[201]
オベール・ドゥルシュ卿は、ドンレミ村にはもう20~30年の間、妖精は現れていないと主張した。[202] その一方で、村では、キリスト教徒たちが今なお妖精たちと語らい、木曜日が逢瀬の日だと信じている者もいた。
ジャンヌのさらにもう一人の代母である「村長オブリ」の妻は、その木の下にいる妖精たちを自分の目で見たことがあった。
彼女は名付け子であるジャンヌにそのことを話した。
オブリの妻は魔女でも占い師でもなく、善良で慎み深い女性として知られていた。[203]
ジャンヌはこうしたことすべての中に魔術の疑いを感じていた。
ジャンヌ自身は、木の下で妖精に会ったことは一度もなかった。
しかし、他の場所で妖精を見たことがないとは、言わなかっただろう。[204]
妖精は天使とは違う、彼女たちは常にありのままの姿で現れるとは限らないのである。[205]
1.5 村の風習:消えた花輪、マンドレイク、乗馬の経験
毎年、教会が「レタレの日曜日」と呼ぶ四旬節の第四日曜日――その日のミサで「レタレ・エルサレム(喜べ、エルサレムよ)」で始まる一節が唱えられることからそう呼ばれる――、バルの農民たちは素朴な祭りを催した。_
これは彼らにとっての泉の祭りで、みんなで連れ立って泉の水を飲みに行き、草の上で踊るのが慣わしだった。
⚠️ウェルドレッシング(well-dressing):地域の水源である井戸や泉をリボンや花で飾り、水の恵みに感謝する伝統行事。井戸崇拝とも。一説によれば、14世紀に黒死病を生き延びた人々が清らかな水に感謝したことが由来とされる。
グルー村の農民はノートルダム・ド・ベルモンの礼拝堂で、ドンレミ村の農民はグーズベリーの泉と妖精の木で、それぞれ祭りを楽しんだ。[206]
彼らは、かつてブルレモンの領主夫妻が村の若者たちを先導した日々のことを懐かしむのが常だった。_
しかし、ドンレミ村とグルー村の領主ピエール・ド・ブルレモンが、子をなさぬまま世を去り、その所領を、ロレーヌ公の侍従と結婚してナンシーに住んでいた姪のジャンヌ・ド・ジョアンヴィルに遺したとき、ジャンヌはまだ腕に抱かれる赤子だった。[207]
泉の祭りの日、ドンレミの若者と娘たちは、連れ立ってあの古いブナの木へ向かった。
木を花冠で飾った後、彼らは草の上に敷物を広げて、木の実やゆで卵、母親たちがこの日のためにこねた奇妙な形の小さなパンを食べた。[208]
それからグーズベリーの泉の水を飲み、輪になって踊り、日が暮れるとそれぞれの家へと帰っていった。
ジャンヌも、この地方の他の少女たちと同じように、泉の祭りに参加した。
ジャンヌの住まいは、ドンレミ村の中では隣のグルー村に最も近いが、祭りのひとときを過ごしたのはノートルダム・ド・ベルモンの礼拝堂ではなく、グーズベリーの泉と「妖精の木」のところだった。[209]
幼いころ、彼女は仲間たちと一緒にあの木の周りで踊った。
近くの丘の頂にある礼拝堂で、ドンレミのノートルダム(聖母マリア像)のために花冠を編んだ。
少女たちはよく「妖精の木」の枝に花冠をかけた。
ジャンヌも他の少女たちと同じように木の枝に花冠を飾り、そしてやはり他の少女たちと同じように、その花冠をそのまま残していくこともあれば、持ち帰ることもあった。
花冠がその後どうなったか、知る者は誰もいなかった。この花冠の消失ぶりは、賢明で学識のある人々を驚かせるほどだったようだ。
しかし、一つだけ確かなことがある。それは、泉の水を飲んだ病人は癒され、すぐさまあの木の下を歩いたということである。[210]
春の到来を祝うために、彼らは草花で「五月の人形」を作った。[211]
妖精の木のすぐ近く、ハシバミの木の下にマンドレイクが一本生えていた。
それは、夜陰に乗じて定められた儀式に従い、その叫び声を聞いたり、その小さな人体が二股に裂けて血が流れるのを見たりするのを恐れずに、土から引き抜く勇気のある者に富を約束した。[212]
あの木とあの泉とマンドレイクのせいで、ドンレミ村の住民たちは悪霊と交わっているのではないかと疑われた。
ある博識な博士は、「この地域は魔術を操る人が多いことで有名だ」とはっきり述べている。[213]
まだほんの幼い頃に、ジャンヌはシャンパーニュ地方のセルメーズに何度か旅をした。そこには彼女の親族が住んでいた。
村の司祭、アンリ・ド・ヴートン師は母方の叔父だった。
そこにはまた、屋根瓦職人を家業とする従兄のペリネ・ド・ヴートンと、その息子アンリがいた。[214]
ドンレミ村とセルメーズの間には、37.5マイル(約60.35キロ)におよぶ森と荒野が広がっている。
ジャンヌは、農作業に使われていた小さな牝馬に兄と二人乗りして、旅をした経験があったと考えられる。[215]
訪問するたびに、ジャンヌは従兄ペリネの家で数日間を過ごした。[216]
1.6 領主と農民とならず者たち
封建的な領主権に関して、ドンレミ村ははっきり2つに分かれていた。
南側は、ムーズ川沿いの城と三十軒ほどの農家からなり、ブルレモン卿の領地だった。ここはグランクール城代区の管轄下にあり、フランス王の封建領地(封土)となっていた。そこはロレーヌの一部であり、バルの一部でもあった。
修道院がある村の北側は、モンテクレールとアンデロの代官の支配下にあり、シャンパーニュ地方のショーモン管区に属していた。[217] ヴォークルール方面へ続く街道沿いで隣接するグルー村の一部を形成しているように見えることから、ドンレミ・ド・グルーと呼ばれることもあった。[218]
ブルレモン卿の農奴たちは、西側のすぐ近くを流れる小川によって、王の臣民から隔てられていた。この小川は3つの水源から流れ出ているため「3つの泉の小川」と呼ばれていた。
小川は、教会の前にある平らな石の下をひっそりと流れ、急な斜面を下ってムーズ川へと注いでいた。ムーズ川は、ジャック・ダルクの家の向かい側にあり、家の左側を通過することで、そこをシャンパーニュ地方、すなわちフランスの土地に流れていった。[219]
⚠️わかりやすく補足:ドンレミ村は、領主が異なる二つの地域に分かれていた。南側はブルレモン卿の領地(ロレーヌ公国やバル公国の一部)、北側はフランス王の直轄領(シャンパーニュ地方のショーモン裁判区に属する)。つまり、同じ村の中で「フランス王の臣民」として暮らす人々と、そうでない人々が混在していた。ここで言及されている「三つの泉の小川」は単なる水路ではなく、フランス王国とそれ以外の領地を分ける「国境」の役割を果たしていた。
⚠️さらに補足:小川がジャック・ダルクの家の脇を流れていたおかげで、彼の家は「フランス王領側(北側)」の区画にきれいに収まっていた。この家で生まれ育ったジャンヌは、自分はフランス王の臣民であることを強く意識していた。
ここまでの話の信憑性には、ほぼ確信を持っている。だが、当時の人々が知っていた以上のことを、私たちが知っていると思い込まないよう注意が必要だ。
1429年の時点で、シャルル王の評議会は、ジャック・ダルクが自由民なのか農奴なのか確信を持てずにいた。[220]
おそらく、ジャック・ダルク自身もそれ以上の知識は持ち合わせていなかっただろう。
小川の両岸において、ロレーヌ人とシャンパーニュ人はどちらも等しく苦労と困難に満ちた生活を送る農民だった。
彼らは異なる主君に統治されていたが、それにもかかわらず、密接に結びついたひとつの共同体、ひとつの農村家族を形成していた。
彼らは、利害、必要性、喜怒哀楽の感情、そのすべてを共有していた。
同じ危険におびやかされ、同じ不安を抱えていたのである。
ヴォークルール城代区(castellany)の最南端に位置するドンレミ村は、東にバル地方とシャンパーニュ地方、西にロレーヌ地方に挟まれていた。[221]
ロレーヌ公爵とバル公爵、ヴォーデモン伯爵、コメルシーの若領主(Damoiseau:貴族の子弟)、メッス、トゥール、ヴェルダンの司教領主といった近隣諸侯は、互いに絶えず戦いを繰り返す恐るべき隣人たちだった。
しかし、それらはあくまで君主たちの諍いだった。
村人たちは、古い寓話に登場するカエルが草原で戦う雄牛たちを眺めるように、それらを注視していた。
哀れなジャックは、青ざめ震えながら、これらの猛々しい戦士たちに踏みにじられる自分の姿を思い描いていた。
キリスト教世界全体が略奪に明け暮れていた時代に、ロレーヌ辺境の兵士たちは、世界で最も凶悪な略奪者としてその名を馳せていた。
ヴォークルール城代区の耕作者たちにとって不幸なことに、この領地のすぐ北側には、コメルシーの若領主ロベール・ド・ザールブリュックが住んでいた。彼は略奪で生計を立て、とりわけロレーヌでの略奪行為に耽っていた。
彼は、「焼き討ちのない戦争など、マスタードのないチタリング(豚の臓物ソーセージ)と同じで、何の役にも立たない」と言い放ったイングランド王(ヘンリー五世)と同じ考えの持ち主だった。[222]
ある日、この若領主は、農民たちが逃げ込んだ小さな砦を包囲した際、兵をどこに配置すべきかをよりはっきりと見定める口実で、周辺の農作物に火を放ち、一晩中燃やし続けた。[223]
1.7 村の防衛対策
1419年、この男爵はサンディエのディディエとデュラン兄弟に戦争を仕掛けた。理由はどうでもいい。
あらゆる戦争がそうであるように、この戦争も村人たちが代償を払わされた。
武装兵たちがヴォークルール城代区の全域で戦っていたため、ドンレミ村の住民たちは身の安全を守る対策を考え始めた。
ドンレミ村には、川が二股に分かれて形成された中州の一角、牧草地に建てられた城があった。二股の支流のひとつ、東側の流れはずいぶん前に埋め立てられていた。[224]
この城には、聖母マリアの礼拝堂、防御設備を備えた中庭、幅が広くて深い堀に囲まれた大きな庭園があった。
かつてブルレモン卿の居城だったこの城は、通称「島の要塞」と呼ばれていた。
この一族の最後の領主は子供を残さずに亡くなったため、その所領は姪のジャンヌ・ド・ジョアンヴィルに相続された。
しかし、ジャンヌ・ダルクが生まれて間もなく、彼女(亡き領主の姪)はロレーヌの男爵アンリ・ドジヴィエと結婚し、夫と共にオジヴィエの城とナンシー公爵の宮廷に住むようになった。
彼女が去って以来、島の要塞は無人のままとなっていた。
村人たちは、そこを借りて、略奪者の手の届かないところに農具や家畜を安全に保管しようと決めた。賃貸は競売にかけられた。
ドンレミ村のジャン・ビジェとジャンヌの父ジャック・ダルクが最高入札者となり、十分な担保を用意したので、彼らとオジヴィエ夫人(亡き領主の姪)の代理人との間で賃貸借契約が結ばれた。
要塞、庭園、中庭、ならびに領地に属する牧草地は、1419年の「洗礼者ヨハネの日」の祝日から9年間の期限で、ジャン・ビジェとジャック・ダルクに貸し出された。年間賃料は14リーブル・トゥルノワ[225]と小麦3イモー(約66リットル)[226]だった。
⚠️イモー(imaux):フランスのロレーヌ地方(特にヴォークルール周辺)で古くから使われていた穀物の容積単位。1イモーは約22リットル。
主要な賃借人2人のほかに、転借人が5人いた。その筆頭に挙げられているのはジャック・ダルクの長男、ジャックマンだった。[227]
この用心は、功を奏することとなった。
まさにその1419年、ロベール・ド・ザールブリュック(コメルシーの若領主)とその一団は、マクセ村でディディエとデュラン兄弟の部下と衝突した。マクセ村は、ムーズ川の対岸、グルー村の向かい側に位置し、木々の生い茂る丘の麓にその藁葺き屋根を並べていた。
両陣営はここで戦闘を繰り広げ、勝利したコメルシーの若領主は捕虜35人を捕らえた。例に漏れず、彼はいつものように多額の身代金を取り立てた後で捕虜を解放した。
これらの捕虜の中に、郷士ティエセラン・ド・ヴィッテルがいた。彼の妻はジャック・ダルクの娘(ジャンヌ)を洗礼式で抱いた代母のひとりだ。
当時7歳かそれより少し年上だったジャンヌは、自分の村の丘のひとつから、代母の夫が捕虜となったその戦いを目撃することができた。[228]
1.8 フランス王家の没落
その間、フランス王国の情勢は悪化の一途をたどっていた。
街道沿いに位置し、旅人たちがもたらす知らせを耳にしていたドンレミ村では、そのことはよく知られていた。[229]
村人たちは、モントロー橋の上でブルゴーニュ公ジャン(無怖公)が殺害されたことを知った。それは、バルベット通りで彼が流した血の代償を、王太子の顧問官たちが彼に払わせた事件だった。
⚠️補足:1407年、ブルゴーニュ無怖公はパリのバルベット通りで王弟オルレアン公(王太子シャルルの叔父)を殺害し、フランス国内はアルマニャック派とブルゴーニュ派に分かれて内乱状態となる。1419年、無怖公が報復を受けて死去。
しかし、顧問官たちは割に合わない取引をした。橋上での殺害は、若き王太子を窮地に陥れたからである。
その後、アルマニャック派とブルゴーニュ派の内乱が続いた。
この内乱から、フランス王国の執拗な敵であり、二百年にわたってギュイエンヌを領有し、その地で盛んな交易を営んでいたイングランド勢は、少なからぬ利益を吸い上げた。[230]
しかし、ギュイエンヌは遠く、ドンレミ村では、そこがかつてフランス王の領土の一部だったことを知る者など、おそらく一人もいなかった。
その一方で、近年の混乱に便乗して、イングランドが再び海を渡って上陸し、亡きブルゴーニュ無怖公の息子であるフィリップ卿(ブルゴーニュ善良公)に歓迎されたことは、誰もが知っていた。
彼らはノルマンディー、メーヌ、ピカルディ、イル・ド・フランス、そして大都市パリを占領していた。[231]
さて、当時のフランスにおいて、イングランド人は残虐なことで悪名高く、それゆえに激しく憎まれ、ひどく恐れられていた。
彼らが他国の人々よりも特に邪悪だったわけではない。[232]
ノルマンディーで、イングランド王ヘンリー五世は支配下にあるすべての場所で、女性と財産を尊重するよう取り計らっていた。
しかし、戦争はそれ自体が残酷なものであり、ある国で戦争を仕掛ける者は誰であれ、その国の人々から憎まれるのは当然である。
イングランド人は裏切り者だと非難されたが、これは必ずしも不当な非難ではなかった。なぜなら、人間の間に信義などめったにないものだからである。
イングランドはさまざまな方法で嘲笑の的にされた。
例えば、ラテン語やフランス語での彼らの名称アングロ(Anglo)になぞらえて、彼らは「天使(Angel)」と呼ばれた。
もっとも、彼らが天使だとしても、間違いなく悪しき天使だった。
彼らは神(God)を否定し、好んで使う誓いの言葉「ゴッダム(Goddam)」[233]をあまりに頻繁に口にするためゴドン(Godon)と呼ばれた。
彼らは悪魔だった。
彼らはクウェ(Coues)、つまり「尻に尾が生えている者」とも呼ばれていた。[234]
イザボー王妃がフランス王国を「クウェ(尾のある者たち)」に引き渡し、高貴なフランスの百合をヒョウの寝床にしたとき、多くのフランスの家庭が喪に服した。[235]
⚠️百合とヒョウ:前者はフランス王家の紋章で、後者はイングランド王家の紋章。先述した「王太子シャルルの顧問官がブルゴーニュ無怖公を殺害」した後、王太子を廃嫡してフランス王位をイングランド王に譲り渡すトロワ条約が結ばれた。
その後、わずかな期間に、ランカスター家のヘンリー五世とヴァロワ家のシャルル六世、勝利の王と狂気の王は、善と悪、正義と不正、弱者と強者を裁く神の御前に出頭すべく、この世を去った。
ヴォークルール城代区は、フランス王領に属していた。[236]
そこに住んでいた聖職者(書記)や貴族たちは、幼いころに敵から遠ざけられ、継承する遺産を奪われた孤児であり、王国の希望を託された「後世のヨアシュ」に同情を寄せていた。
⚠️後世のヨアシュ:旧約聖書『列王記』に登場するユダ王国の王。王族が虐殺された際、赤子だったヨアシュだけが救い出され、神殿に隠されて育ち、後に正統な後継者として王位を奪還した。この故事を、王太子(シャルル七世)の境遇と重ねている。
しかし、貧しい農民たちが、このような事情について深く考える暇があったとは考えにくい。
ドンレミ村の農民たちが、自分たちの正当な主君である王太子シャルルに忠誠を尽くしていた一方で、マクセ村のロレーヌ人たちは、自分たちの公爵に従ってブルゴーニュ派に味方していたなどと、どうして本気で信じられるだろうか?
マクセ村は右岸に位置し、ドンレミ村とは川を挟んで隣り合っていた。
ドンレミ村とグルー村の子どもたちは、マクセ村の学校に通っていた。
彼らの間には争いが絶えず、マクセ村の小さなブルゴーニュ派は、ドンレミ村の小さなアルマニャック派たちと激しい戦いを繰り広げていた。
夕暮れ時、橋のたもとで、ジャンヌは村の少年たちが血まみれになって帰ってくるのを何度も見かけた。[237]
情熱的な性格だった彼女のことだから、こうした争いを深刻に受け止め、ブルゴーニュ派に対する強い憎しみを抱いていた可能性は、十分にあり得る。
とはいえ、農民の子どもたちの遊びの中に、世論の兆候を見出そうとすることには慎重でなければならない。
何世紀もの間、この2つの地域のガキどもは、互いに争い、侮辱し合っていた。[238]
子供たちが集団を作り、ある村の子供がよその村の子供と出くわすときには、いつでもどこでも侮辱と石が飛び交うものである。
ドンレミ、グルー、マクセの村の農民たちは、公爵や王たちの事情に心を砕くことなど、まずなかったと言ってよい。
彼らは、味方の隊長たちを敵方の隊長たちと同じくらい恐れること、そして、味方の武装兵と敵の武装兵を何ら区別しないことを身をもって学んでいた。
1429年、イングランド軍はショーモンの代官区を占領し、バシニーのいくつかの要塞に駐屯軍を置いていた。
亡きリエボー・ド・ボードリクール卿の息子、ロベール・ド・ボードリクール卿は、当時、王太子シャルルに仕えてヴォークルールの隊長およびショーモンの代官を務めていた。
彼は、ロレーヌ地方では指折りの略奪者と見なされていた。
1420年の春、ブルゴーニュ公はヴェルダン司教に使節を派遣したが、その帰路、使節たちはコメルシーの若領主と結託したロベール卿によって捕虜にされた。
この報復として、ブルゴーニュ公はヴォークルールの隊長に対して宣戦を布告し、城代区はイングランドとブルゴーニュの軍団によって荒らされた。[239]
1.9 村の危機
1423年、ロレーヌ公はある恐ろしい男と戦っていた。エティエンヌ・ド・ヴィニョルという名のガスコーニュ出身の傭兵で、すでに「ラ・イル(憤怒)」という恐るべき名で知られていた。その名は、彼の死後、多くの傭兵たちの脂ぎった指で汚されたトランプの束の中の「ハートのジャック」に残されることになる。[240]
ラ・イルは、名目上は王太子シャルルに味方していたが、実際には自分自身の利益のために戦っていたにすぎない。
この時期、彼はバルの西と南を荒らし回り、教会を焼き払い、村々を廃墟にしていた。
彼がセルメーズを占領し、その教会を要塞化していたとき、ロレーヌ公に代わってバル公領を統治していたザルム伯ジャンが、二百騎の騎兵を率いてそこを包囲した。
その場所で、二年前にジャン・ド・ヴートンの娘でありジャンヌの従姉妹にあたるマンジェットと結婚したばかりのコロ・テュルロー[241]が、ロレーヌ軍の臼砲から放たれた砲弾によって命を落とした。
ジャック・ダルクは当時、村の長老《ドワイエン》だった。
⚠️村長 (Maire)と長老(Doyen):ジャンヌの名付け親一覧に村長 (Maire)と呼ばれる人がいるが、ジャンヌの父が務めた長老(Doyen)とは別物。村長は村の最高責任者で、長老は実務の執行者。どちらも共同体の有力者がつく公的な役職。
村の長老は、とりわけ動乱の時代には多くの責務が課せられていた。
村長や参事会員を評議会に招集し、布告を触れ歩き、昼夜の警備を指揮し、囚人を監視することは、彼の職務だった。
また、荒廃した土地にあって、税金や小作料、封建的貢納金を徴収することも彼の役目だったが、それは報われない仕事だった。[242]
コメルシーの若領主ことロベール・ド・ザールブリュックは、当時はアルマニャック派に属していたが、村の人々を保護して安全を保障するという口実で、ムーズ川の左岸にあるバル領の村々を略奪し、身代金を要求していた。[243]
1423年10月7日、ジャック・ダルクは村の長老として、村長や執行官の署名の下に、ある証書に署名した。それは、あの郷士が年に一度、村の全世帯々から上納金(一世帯につき銀貨2グロ、未亡人の世帯は銀貨1グロ)を徴収するという内容だった。その税額は金貨220エキュに相当し、長老は聖マルタンの祝日(11月11日、冬の始まり)までに徴収するよう命じられた。[244]
*
翌年は王太子シャルルにとって不運な年となった。彼の陣営のフランス人とスコットランド人の騎兵たちが、ヴェルヌイユで最悪の惨敗を喫したからである。
この年、コメルシーの若領主はブルゴーニュ派に転向したが、それによって情勢は良くも悪くもならなかった。[245]
ラ・イル隊長は依然としてバルで戦っていたが、今度の相手はヨランド・ダラゴンの若い息子、つまり王太子シャルルの義弟にあたるルネ・ダンジューだった。彼は最近成人し、バール公領を授けられたばかりだった。
ラ・イル隊長は、槍の穂先を突きつけて、バル公である枢機卿が負っている借金の支払いを要求していた。[246]
同じ頃、ロベール・ド・ボードリクール卿は、ブルゴーニュの執事長であるサンディジエの領主ジャン・ド・ヴェルジーと戦っていた。[247]
それは凄まじい戦いぶりだった。
両陣営の戦闘員たちは、パン、ワイン、金銭、銀食器、衣服、大小さまざまな家畜を略奪し、持ち運びできないものは火をつけて焼き払った。
男も女も子どもも、身代金の対象とされて捕らわれた。
バシニーのほとんどの村で農業が中断され、ほぼすべての水車が破壊された。[248]
十、二十、三十ものブルゴーニュ派の軍団がヴォークルール城代区を荒らし回り、火と剣をもってそこを廃墟に変えていた。
農民たちは、昼間は馬を隠し、夜中に起きて馬を放牧に出した。
ドンレミ村の日常生活は、絶え間なく恐怖の警報が鳴り響いていた。[249]
昼も夜も、修道院の四角い塔には見張りが立っていた。
村人は誰もが、そして当時の慣習に従うなら司祭でさえ、交代で見張りに立ち、白く細長いリボンのような街道の先に、土埃や陽光にまぎれて槍のきらめきが見えないかと目を凝らし、森の恐ろしい奥をうかがい、夜には地平線の村々が炎に包まれるのを見て震えていた。
武装兵が近づくと、見張りは鐘の音をけたたましく鳴らした。その鐘は、ある時は誕生を祝い、またある時は死者を悼み、人々を祈りへ呼び集め、雷や嵐を追い払い、危険を知らせるためのものだった。
眠りから覚めた村人たちは、服を着る暇もなく、半裸のままで飛び起きて厩舎や牛舎へと駆け込み、ムーズ川の中洲にある「島の要塞」へと、羊や牛の群れをごちゃ混ぜに追い立てた。[250]
1425年の夏のある日、一帯で殺人と略奪を繰り返していたならず者軍団の首領の一人が、グルー村とドンレミ村を襲った。名はアンリ・ドルリー、通称アンリ・ド・サヴォワとも呼ばれていた。
このときは島の要塞が役に立たなかった。
アンリ卿は2つの村からすべての牛を奪い、15〜20リーグ(約60〜80キロ)[251]も離れたドゥルヴァン城へと追い立てていった。
⚠️15〜20リーグ:当時の1リーグは約4.4キロなので、約60〜80キロメートル強。直線距離だと50キロほどだが、道なりに進むとそのくらいかかる。徒歩で家畜を追い立てながら移動するには丸二日から三日はかかる距離で、農民たちの財産である家畜をそれほど遠くに連れ去られたことは死活問題。
彼はまた、多くの家具やその他の財産を奪ったが、量が多すぎて1カ所に収容しきれなかったため、略奪品の一部を、隣村のドマルタン・ル・フランへ運ばせた。そこには、正面に非常に広い中庭を備えた城があったため、ドマルタン宮廷《ラ・クール》(Dommartin-la-Cour)と呼ばれていた。
無惨にも略奪された農民たちは、飢えて死ぬのを待つばかりだった。
幸運なことに、この略奪の知らせを聞いたオジヴィレール夫人(亡き領主の姪)は、ジョアンヴィル城にいるヴォーデモン伯爵のもとへ使者を送り、親族として、自分の被った不当な扱いを訴えた。彼女は、グルー村とドンレミ村の女領主だったからだ。
ドゥルヴァン城は、ヴォーデモン伯爵の直轄領だった。
親族からの訴えを受け取ると、ヴォーデモン伯爵はすぐに武装兵1人と兵士7〜8人を派遣し、家畜の奪還に乗り出した。
バルテルミー・ド・クレフモンという名のこの武装兵は、弱冠二十歳だったが、腕利きの戦士だった。
彼は盗まれた家畜をドマルタン・ル・フランの城で見つけると、それらを捕まえてジョアンヴィルへと追い立てた。
途中で、彼はドルリー卿の部下たちに追撃され、命の危険にさらされた。
しかし、彼は勇敢に身を守り、無事にジョアンヴィルに到着し、ヴォーデモン伯爵はグルー村とドンレミ村の牧草地に盗まれた家畜を戻させた。[252]
思いがけない幸運だった!
農民たちは涙を流して、帰ってきた家畜の群れを迎えた。
しかし、(この国の情勢が変わらない限り)明日になれば、またそれらを永遠に失ってしまうのではないだろうか?
その頃、ジャンヌは13歳か14歳だった。
彼女の周りにはいたるところに戦争があり、子どもの遊びにも戦争の影響が見られた。代母の夫は武装兵に捕らわれて身代金を取られた。いとこのメンジェットの夫は臼砲で殺された。[253] 故郷の地は略奪者に蹂躙され、焼かれ、奪われ、荒廃し、すべての家畜が連れ去られた。恐怖の夜、悲惨な夢——それこそがジャンヌの幼少期を取り巻く環境だった。
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