教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第三章 パリ攻撃
【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。
アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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3.1 パリの防衛(1)シャルル五世が建造した城壁
⚠️ジャン二世:フランス王国ヴァロワ朝第二代国王。シャルル七世の曽祖父。1356年のポワティエの戦いでエドワード黒太子率いるイングランド軍にフランス軍は大敗し、ジャン二世は捕虜となった。
フランス王ジャン二世がイングランド軍の捕虜になっていた時代、パリ市民は、敵が国の中心部に侵入しているのを見て、自分たちの街が包囲されるのではないかと恐れた。
彼らは、大急ぎでパリの防衛体制の整備に取り掛かり、主堀(fossé)と外堀(contre-fossé)で街を囲んだ。
⚠️外堀・副堀(contre-fossé):城壁の主堀の外側に設けられた、もう一層の堀のこと。防衛施設として、攻撃側が一つ目の堀を越えても二つ目の深い堀で阻まれる二重構造になっている。
大学側(セーヌ川の南岸)の郊外は防御施設なしでそのままにされ、辺鄙なところにある小さな地域は焼き払われた。しかし、右岸(セーヌ川の北岸)側の広大な郊外はパリの街とほぼ接しており、(郊外の)一部は堀で囲まれていた。
イングランドとの和平が成立すると、当時フランス王国の摂政だった王太子シャルル(のちのシャルル五世)は、パリの北側の郊外を城壁で囲むことを決めた。城壁の両端には四角い塔を建造し、テラスと胸壁が設けられ、周囲には道路と城壁に通じる階段が設けられた。堀は、場所によって一重または二重になっていた。

⚠️当時の摂政だった王太子シャルル:ジャン二世の息子で、ヴァロワ朝第三代国王シャルル五世。シャルル七世の祖父。賢明王と呼ばれる名君。
パリの代官であるユーグ・オーブリオがこれらの工事を監督し、サン・アントワーヌの堡塁(要塞)の建設も任された。サン・アントワーヌ堡塁はシャルル六世の時代にようやく完成した。[137]
シャルル五世が建造した最新の防衛施設は、東側(セーヌ川上流)の川沿い、セレスタン地区の高台から始まる。
新たな防衛圏内(城壁の圏内)には、サン・ポール地区、サン・カトリーヌ耕作地、タンプル地区、サン・マルタン地区、レ・フィーユ・デュー地区、サン・ソヴール地区、サン・トノレ地区、レ・カンズ・ヴァン地区が入った。
これらの地区は、いままでパリの郊外という扱いで防御されていなかった。
新しい防衛施設は、セーヌ川の下流(パリの西側)、ルーヴル城(当時はまだ宮殿ではない)まで達した。シャルル五世のこの事業によって、いままで郊外だった地域はパリの街と一体化した。
パリ北側の新たな城壁には、市内に出入りする門が6つあった。
東から順に、(1)ボーデ門またはサン・アントワーヌ門、(2)サン・アヴォワ門またはテンプル門、(3)パントル門またはサン・ドニ門、(4)サン・マルタン門またはモンマルトル門、(5)サントノレ門、(6)セーヌ門である。[138]
⚠️マップの説明文には視覚情報が欲しいところ。参考までに、フランスの地図制作会社LégendesCartographieのX(旧Twitter)を引用する。
1-5 Paris au Moyen Age - Enceintes et lieux de pouvoir dans la ville au XIVe siècle pic.twitter.com/B30wTsCpYr
— LegendesCartographie (@LegendesCarto) December 2, 2024
「中世のパリ Paris au Moyen Age」と書かれているが、賢明王シャルル五世が城壁を強化した後なので14世紀後半〜15世紀ごろの図面。
セーヌ川の北岸「城壁が拡張しているエリア」が、シャルル五世が計画してシャルル六世時代に完成した一大事業。今風にいえば「首都圏拡張および防衛施設刷新事業」といったところか。
シャルル五世はイングランドから防衛するために建造したが、1429年当時のパリはイングランドに奪われて施設を利用され、孫のシャルル七世が攻める側になっているのはなんとも皮肉な話。
なお、地図の右に見える赤い囲みの建物「オテル・サンポール(Hotel St-Pol)」はシャルル七世が生まれた場所。

3.2 パリの防衛(2)市民感情と忠誠心
パリ市民はイングランド人を嫌っており、彼らに街を占拠されていることにひどく心を痛めていた。
亡き国王シャルル六世の葬儀の後、イングランド摂政のベッドフォード公がフランス王の剣を前に掲げた時、人々は不満を漏らした。[139] しかし、どうしようもないことは我慢しなければならない。
パリ市民はイングランド人を嫌っていたが、美しい顔立ちでキリスト教世界で最も裕福な君主であるブルゴーニュ公フィリップを尊敬していた。
その一方で、ブールジュの小王(シャルル七世への蔑称)は陰気で悲しげな顔立ちをしており、さらにモントロー橋の殺害事件で反逆の疑いをかけられていたため、好感を抱くところが何もなかった。
シャルル七世はパリ市民に軽蔑され、その支持者であるアルマニャック派は恐怖と戦慄の眼差しを向けられていた。
この10年間、街の周辺をうろつき、略奪し、捕虜を捕らえ、身代金を要求していたからだ。実際はイングランド人とブルゴーニュ人も同じことをしていたのだが。
1423年8月にフィリップ公がパリに来たとき、彼に仕えるブルゴーニュ派の兵士たちは、友人や同盟者の所有地であろうと関係なく、近隣の畑をすべて荒らした。しかし、彼らはただ通り過ぎただけで済んだ。[140]
一方、アルマニャック派は絶えず略奪を行い、手に入るものはすべて盗み、納屋や教会に火をつけ、女性と子供を殺し、未婚の処女や尼僧を強姦し、男たちを親指で吊るした。
1420年、彼らは解き放たれた悪魔のようにシャンピニー村を襲撃し、オーツ麦、小麦、羊、家畜、雄牛、そして女性と子供たちを一斉に焼き払った。同様に、クロワシーではさらにひどいことが起こった。[141]
ある聖職者は、「アルマニャック派はマクシミアヌス帝やディオクレティアヌス帝よりも多くのキリスト教徒を殉教させた」と述べた。[142]
⚠️マクシミアヌス帝とディオクレティアヌス帝:ローマ帝国の皇帝。共同皇帝。「三世紀の危機」を乗り越えた有能な軍人皇帝だが、キリスト教徒を迫害したため、エドワード・ギボン著『ローマ帝国衰亡史』で再評価されるまで暴君と見なされていた。
とはいえ、1429年当時、パリ市内にシャルル・ド・ヴァロワの支持者がいなかったわけではない。ヴァロワ王家に忠誠を誓っていたクリスティーヌ・ド・ピサンはこう述べている。
「パリには邪悪な者が多いが、
善良な者もいて、彼らは王に忠実だ。
だが、彼らは声を上げる勇気がない」[143]
アルマニャック派と繋がりのある者が、高等法院やノートルダム大聖堂の参事会にいたことは周知の事実だ。[144]
パテーの戦いで勝利した翌日、恐るべきアルマニャック派は、パリをただちに占領するならまっすぐ進軍するだけでよかった。彼らは遅かれ早かれ町に入ってくると予想されていた。
このとき、摂政(ベッドフォード公)の心の中では、すでに町は占領されたも同然だった。早々にパリを脱出して、残っていたわずかな兵士と共にヴァンセンヌ城に閉じこもった。[145]
イングランド軍の敗北から3日後、パリは大混乱に陥った。
市民は「アルマニャック派が今夜やって来る」と口々に言った。
その頃、実際のアルマニャック派はジアンに集結し、オセールへ進軍する命令を待っていた。
この知らせ(シャルル七世とアルマニャック派の動向)を聞いて、ベッドフォード公は深い安堵のため息をついたに違いない。そして、すぐにパリの防衛とノルマンディーの安全を確保するために動き出した。[146]
パニックが落ち着くと、大都市パリの人々は忠誠心を取り戻した。
といっても、イングランドへの忠誠心ではなくブルゴーニュ公への忠誠心だ。パリがイングランドに支配されたことはなかった。
ニシンの戦いでフランス軍を殲滅させたパリ総督シモン・モリエは、ヒョウ(イングランドの紋章)への忠誠を貫いた。[147]
一方、市の評議会議員たちは、シャルル王の提案に好意的な姿勢を示していると疑われた。7月12日、パリ市民は、商業と両替取引に熱心なブルゴーニュ人で構成された新たな評議会を選出した。
商人の代表には、財務官のギヨーム・サンガンを任命した。ブルゴーニュ公が彼から7000リーブル・トゥルノワ以上借りており[148]、摂政の宝石を保管していたからだ。[149]
⚠️補足:ギヨーム・サンガンはブルゴーニュ公とイングランド摂政の財産を手に握っている。ようするに、シャルル七世がラ・トレモイユを優遇するのと同じ状況。
パリ市内のこの変化は、武力ではなく平和的な手段で良き町々を取り戻すことを好み、大砲や石弾よりも住民との交渉に頼っていたシャルル王にとって、大きな不利益となった。
3.3 パリの防衛(3)印象操作による嫌悪と恐怖
まさに間一髪のところで、イングランド摂政(ベッドフォード公)はブルゴーニュ公フィリップにパリの権限を引き渡した。つい先日、オルレアンでの仲裁案を拒絶したことを、深く後悔していたことは間違いない。
摂政ベッドフォード公は、王国の主要都市が《《フランス人》》(イングランド摂政ではなく、本来フランス方のブルゴーニュ公)への忠誠を誓うことで、王太子の軍勢に対してより精力的に防衛するだろうと考えた。
パリ市民は、昔の威厳ある公爵(ブルゴーニュ無怖公)への好意を思い出すと同時に、イザボー王妃の勘当された息子(シャルル七世)に対する憎しみも再燃するだろう。
裁判所(Palais de Justice)で、ブルゴーニュ公はアルマニャック派の反逆と条約違反への非難を散りばめた「父の死の物語」を読み上げた。モントロー[150]で流された血を思い出し、天に響くほどの叫びを上げるよう仕向けた。
話を聞いた聴衆は、ブルゴーニュ公とイングランド摂政に忠誠を誓った。
翌日には、正規の聖職者と世俗の聖職者によって同じ宣誓が行われた。[151]
*
しかし、市民たちの抵抗を強めたのは、ブルゴーニュ公への好意よりも、アルマニャック派の残虐行為の記憶だった。
シャルル・ド・ヴァロワが、パリとあらゆる身分の市民、高貴な者も卑しい者も、男女を問わず、街を傭兵に明け渡し、パリの大地そのものをつぶして耕そうとしているという噂が広まり、市民はそれを信じた。
このような噂は、シャルル七世の人物像を非常に不当に印象操作している。
彼はいつも慈悲深く、気さくな人物だった。シャルル七世の評議会は、戴冠式のための軍事行動を、武装した平和的な行進へと賢明に転換したではないか。
しかし、パリ市民は、フランス王の意図に関する事柄になると、冷静に判断することができなかった。パリが一度でも陥落すれば、アルマニャック派が火と剣で街を蹂躙するのを止める方法はないと、彼らは重々承知していた。[152]
**
パリ市民の恐怖と嫌悪をさらに強めた、もう一つの出来事があった。
かつて、市民が熱心に演説に耳を傾けていたあのリシャール修道士が、「王太子の兵士たちと一緒に馬を並べて、その巧みな弁舌でシャンパーニュ地方のトロワといった立派な町々を征服している」と聞いた時、パリ市民は神と聖人の名にかけてリシャールを呪った。
彼らは、善良な修道士(リシャール)からもらった、イエスの聖なる名が刻まれたピューター製(スズ合金)のメダイを帽子から引きちぎり、激しい憎悪から、修道士の勧めで放棄したサイコロやボウル、チェッカー遊びにすぐさま戻った。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)もまた、同様の恐怖を与えた。
彼女は預言者のように振る舞い、「あれやこれが必ず実現する」といった言葉を口にすると言われていた。
「アルマニャック派には、女の姿をした生き物がいる。それが何なのかは神のみぞ知る!」
彼らはそう叫び、ジャンヌを悪名高い女と呼んだ。[153] 敵の中には、異教徒やサラセン人(アラブ人)よりももっと恐ろしい者がいる。すなわち修道士と乙女だ。
パリ市民は皆、聖アンデレ十字(ブルゴーニュ公の騎士団のシンボル)を掲げた。[154]
3.4 パリの防衛(4)包囲戦に備える(百年戦争の金貨サリュドールについてこぼれ話)
シャルル七世がランスの戴冠式に出かけて不在の間、イングランドからの軍隊がフランスに上陸してきた。
イングランド摂政ベッドフォード公は、その軍隊にノルマンディーを制圧させるつもりだった。(ノルマンディーの首府)ルーアンへ進軍する際は、摂政自身が軍を指揮した。
パリの防衛と管理は、イングランド陣営のフランス大法官であるテルアンヌ司教ルイ・ド・リュクサンブール、フランス元帥でパリ司令官のリラダン卿、武装兵2000人とパリの民兵(歩兵)に任された。
民兵たちには、城壁の防衛と砲兵の指揮がゆだねられた。この部隊は、パリ市の24地区を代表する「カルティニエ(quarteniers)」と呼ばれる市民24人によって指揮された。
7月末から、あらゆる奇襲の危険が警戒されていた。[155]
8月10日、聖ラウレンティウスの祝日の前夜、アルマニャック派が(パリの北東にある小村)ラ・フェルテ・ミロンに陣を敷いている間に、4つの塔と二重の跳ね橋に挟まれたサン・マルタン門は閉鎖された。そして、例年に引き続き、祝祭や定期市に参加するためにサン・ローランに行くことを市民全員に禁じた。[156]
同月28日、国王軍がサンドニを占拠した。
これ以降、誰も街から出ようとしなかった。ブドウの手入れも、北側の平野に広がる菜園で何かを収穫することもできなくなった。物価はたちまち高騰した。[157]
9月初旬、カルティニエ(民兵の隊長24人)たちはそれぞれの担当地区で堀を整備し、城壁、門、塔に大砲を設置した。パリ市の評議会に命じられて、大砲用の石を切り出す職人たちは、数千個の砲弾を作った。[158]
*
パリの行政官たちは、アランソン公から次のような手紙を受け取った。
「パリの総督、商人の代表、市の評議会の皆さんへ……」
アランソン公は彼らの名前を挙げ、雄弁な言葉であいさつした。
この手紙は、パリ市民に評議会に対する疑念を抱かせ、ある身分と別の身分とを対立させることを意図した策略とみなされた。アランソン公に送られた唯一の返答は、「このような悪意ある試みで紙を無駄にしないように」と求める内容だった。[159]
ノートルダム大聖堂の参事会は、民衆を救済するためにミサを執り行うよう命じた。
9月5日、参事会員(世俗の司祭)3人に修道院防衛の準備をする権限が与えられた。聖具室の責任者は、大聖堂が所有する宝物と聖遺物をアルマニャック派の兵士から隠す措置を講じた。彼らは聖ドニの遺体をサリュドール金貨200枚[160]で売却したが、銀製の足と頭部、そして王冠は残した。[161]
⚠️サリュドール金貨(Salut d'Or):トロワ条約で王太子(シャルル七世)が廃嫡され、イングランドがフランスを統治していた1422〜1453年に発行。イングランドの支配地域(フランス北部)で流通していた。サリュー(Salut)はフランス語の軽い挨拶で、貨幣には英仏の紋章とヘンリー六世が刻印されており、名称・デザインともに両国の和合を表している。当然ながら、フランス陣営からすれば屈辱的な貨幣だろう。現在は別名「百年戦争の金貨」と呼ばれるレア品。
9月7日の水曜日、聖母マリア降誕記念日の前夜、時代の悪に対抗し、敵の戦意を鎮める目的で、サン・ジュヌヴィエーヴの丘(Sainte-Geneviève-du-Mont)への行列が行われた。宮殿の聖職者たちは、聖十字架を掲げて練り歩いた。[162]
丘には、パリの守護聖人・聖ジュヌヴィエーヴの聖遺物を納めた聖堂があり、こことノートルダム大聖堂を往復するのが恒例行事だが、今回は迫りくる包囲戦に備えた臨時行事である。
⚠️聖十字架(True Cross):イエス・キリストの磔刑に使われたとされる十字架。各地の教会でその破片を保存し、聖遺物として信仰の対象になっている。
3.5 聖母マリアの降誕記念日(1)パリ包囲戦・開戦
まさにその日(9月7日の水曜日)、アランソン公とジャンヌの軍勢は城壁の下で小競り合いをしていた。
夕方には撤退したので、その夜、パリ市民は安らかに眠りについた。
翌日は、キリスト教徒なら聖母マリアの降誕を祝う日だからである。[163]
それは盛大な祭りで、非常に古い伝統だった。
その起源については、次のように伝わっている。
——ある聖人が、瞑想に生涯を捧げていた。彼は長年にわたり、9月8日に空中から素晴らしい天使の合唱が聴こえることを思い出し、理由を知りたいと神に祈った。
すると、その日が「栄光の聖母マリアの誕生記念日である」という答えを授かり、「この厳粛な日に、みんなも天使の合唱に声を合わせるように」と信者に教えるよう命じられた。
この件は、教皇と教会の指導者たちに報告された。彼らは祈り、断食し、教会の証人と伝承を調べた結果、今後は9月8日を聖母マリアの降誕を祝うために捧げるべきであると布告した。[164]——
その日、ミサでは預言者イザヤの言葉が朗読された。
「エッサイの株からひとつの芽が萌え出て、その根からひとつの若枝が育つ」(旧約聖書『イザヤ書』第十一章)
パリの人々は、いくらアルマニャック派でもこのような重要な祭日には仕事をせず、第三の戒律を守るだろうと考えていた。
⚠️『モーセの十戒』第三の戒律:安息日を守る。ようするに、聖なる祝日には何もしてはいけない。
9月8日木曜日の午前8時ごろ、サンドニとパリをつなぐ街道の途中にあるラ・シャペル村に野営していたフランス国王軍の一万人以上の兵士たちは、アランソン公、ブルボン公、ブサック元帥、ジル・ド・レ元帥、ヴァンドーム伯、ラヴァル卿、アルブレ卿、ゴークール卿らに率いられてパリへの進軍を開始した。
午前11時から12時の間、ミサの時間にムーランの丘の頂上に到達した。
丘のふもとでは豚の市場が開かれていた。[165]
また、そこには絞首台があった。56年前、人々が言うには「聖なる生活を送っていた女性」だが、聖なる異端審問官が言うには「トゥルリュパン派の異端者」が、まさにその市場で生きたまま火刑に処された。[166]
⚠️トゥルリュパン派(turlupiné):14世紀フランスとフランドルで広まった異端の宗派。肉体は精神に影響を与えないという信条に基づき、全裸で集会をひらき性的な乱行をおこなった。また、教会や聖職者の権威を否定し、個人的な神秘体験を重視した。
トゥルリュパンという言葉自体は、軽犯罪者や浮浪者など、誰かを悩ませたり困らせたりする人を意味する。
なぜ国王軍は、シャルル五世が建造した最も堅固な北側の城壁の前に現れたのか? それは分からない。
数日前、彼らはパリの上方で橋を架けていた。[167] この動向は、古い要塞を攻撃して大学側(守りの薄いセーヌ川南岸)から市内に侵入しようとしているように見える。
国王軍は、攻撃を二カ所で同時に実行するつもりだったのか?
おそらくそうだろう。
彼らは自発的に、あるいは不本意ながら当初の計画を放棄したのか?
それは分からない。
国王軍はシャルル五世の城壁の下に、大砲、カルバリン砲、迫撃砲など大量の砲兵を集結させた。また、堀を埋めるための薪、堀を越えるための柵、そしてはしご700本を荷車で運び込んだ。これらは包囲戦に欠かせない資材だが、後に明らかになるように、彼らは最も重要なことを忘れている。[168]
したがって、国王軍はこの日、小競り合いや武勇を誇示する(単純なパフォーマンスの)ために来たのではないと考えられる。
彼らは白昼堂々、王国で最も大きく、最も名高く、最も人口の多い都市を攻め落とし、襲撃しようと試みたのだ。
これはどう考えても、王室評議会で提案され、国王の承認を得て決定された非常に重要な事業だ。王が知らないはずはなく、無関心でも反対でもなかったはずだ。[169]
シャルル・ド・ヴァロワはパリを取り戻したいと考えていた。その願望を叶えるために、王が「兵士とはしごだけに頼っていた(城壁を強行突破する)」かどうかはこれから明らかになるだろう。
⚠️言い換えると、表立った攻撃とは別に、裏で何らかの交渉がおこなわれていた可能性を示唆している。
3.6 聖母マリアの降誕記念日(2)ジャンヌの矛盾した正義
どうやら、ジャンヌは評議会で決定された事柄(パリ攻撃の本当の目的)について何も知らなかったようだ。[170]
これまでも、ジャンヌが(国王や王室評議会から)何か相談されたことは一度もなく、決定事項を知らされることもほとんどなかった。
だが、ジャンヌは「死んだら天国に行く」と信じると同じくらい、この日にパリに入れると確信していた。3年以上もの間、ジャンヌの「声」はパリ攻撃を彼女の耳に叩きつけていたのだ。[171]
しかし、驚くべきことは、ジャンヌは聖人を自称しながら「聖母マリア降誕の記念日に武装して戦うことに同意した」という事実である。
これは、オルレアン包囲戦の終盤、5月5日の昇天祭(復活したキリストが天に上った日)におけるジャンヌの行動と矛盾する。同月8日にジャンヌ自身が口にした言葉とも相反する。
「聖なる安息日を愛し尊重するなら、戦いを挑んではならない」[172]
しかしながら、ジャンヌはその後、聖母マリア被昇天の祝日(聖母の命日)にモンテピヨワの戦いで小競り合いに参戦しており、このことで大学の聖職者たちを憤慨させている。
ジャンヌはいつも「声」の助言に従って行動し、何かを決定するときは耳元でささやく曖昧な「声」に頼っていた。
幻視者・夢想家の霊感ほど気まぐれで矛盾したものはない。
彼らは自らの夢に翻弄されるがままの存在だ。
少なくとも確かなことは、ジャンヌはこの瞬間もいつものように「自分が正しいことを行い、罪を犯していない」と完全に信じていた。[173]
*
フランス軍は、灰色の城壁で覆われた城塞都市パリの正面、ムーランの丘に陣を構えた。すぐ目の前に、最も外側の堀があった。乾いていて幅が狭く、深さは16〜17フィート(4〜5メートル)ほど。二番目の堀とは「盛り土」で隔てられていた。
二番目の堀は、幅100フィート(30メートル)ほどで、水深がかなり深い。堀の水は、街を囲む城壁に接しており、なみなみと覆い尽くしていた。
すぐ近く、国王軍の右側には、ルール村(Roule)へ至る道がサン・トノレ門へ続いていた。この門はカンズ・ヴァン病院の近くにあったため、盲人の門とも呼ばれていた。[174]
⚠️ルール村(Roule):当時パリの西側にあった村の名前。現在のパリ8区にあるサン・トノレ街の延長線上に位置する。
⚠️カンズ・ヴァン病院 (Les Quinze-Vingts):敵に両目を抉り取られた騎士300人のために、聖王ルイが設立した病院。
門は、両側に小塔(砲塔)が並ぶ城壁の下にあり、前方を防御するために、オルレアンのものと同様に「木製の障壁」で囲まれた防塁を備えていた。[175]
パリ市民は、祝祭日に攻撃されるとは思っていなかった。[176]
とはいえ、祝日といえど、城壁は決して無人ではなかった。
城壁の上には軍旗がはためき、中でも、金銀で聖アンデレ十字(ブルゴーニュ公の騎士団のシンボル)を描いた大きな白い旗がひときわ目立っていた。[177]
3.7 パリ包囲戦(1)アランソン公とジル・ド・レ元帥の無為無策
フランス軍は、ムーランの丘のやや後方に陣を敷いた。城壁の大砲から撃たれ始めた鉛弾や石弾から自軍を守るためだ。
そこに臼砲、カルバリン砲、大砲を並べ、城壁へ向けて砲撃する態勢を整えた。
要塞の最も広い範囲を見渡せる場所に、軍の本陣を配置した。
ドーフィネの騎士であるサンヴァリエ卿に率いられて、数人の隊長と武装兵(歩兵)たちがサントノレ門に接近し、障壁(柵)に火を放った。
門の守備隊は要塞内に退避し、他の出入口から敵兵が出てくる様子がなかったため、ジル・ド・レ元帥の部隊は薪、束(いろいろ包んだもの)、はしごを持って城壁のすぐ近くまで進んだ。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は騎乗し、この部隊の先頭に立っていた。
彼らはサン・ドニ門とサントノレ門の間、どちらかといえばサントノレ門寄りの場所まで進み、最初の堀に辿り着いた。そこは渡るのが難しくなかった。
しかし、盛り土の上に立つと(最初の堀と二番目の堀の間は「盛り土」で隔てられている)、城壁からまっすぐに降り注ぐ矢(arrows)と太矢(bolts)にさらされた。[178]
⚠️矢と太矢:arrowsは矢のこと、boltsはクロスボウ用の太矢のこと。日本の歴史では機械式の弓(弩、石弓)がなかったため、最適な訳語がない。
オルレアンやレ・トゥーレルの時と同様に、ジャンヌは勇敢な兵士に自分の旗(バナー)を持たせていた。
盛り土の高いところまで来ると、パリの民衆に向かって叫んだ。
「フランス王にこの町を明け渡せ!」[179]
ブルゴーニュ兵たちは、ジャンヌがこう言うのも聞いた。
「イエスの名において、速やかに降伏せよ。もし日暮れまでに降伏しなければ、私たちは力づくで突入し、おまえたちの意志に関係なく、全員を容赦なく処刑する」[180]
ジャンヌは(堀と堀を隔てる)盛り土の上に留まり、槍で大きな堤防を突いて水深を測り、二番目の堀は水量が多く非常に深いことに今さら驚いた。
彼女と兵士たちは、これまで11日間も城壁の周りを偵察し、攻撃に最適な地点を探していたにもかかわらずである。ジャンヌは明らかに、攻撃計画を立てる術を知らなかった。
盛り土の上にいた他の兵士たちも、セーヌ川が増水している時期にこれほど多量の水があることに驚き、ジャンヌと同様に途方に暮れていた。このことは一体どう考えるべきだろうか?
要塞の防御状況を偵察することは、まさに戦争の本質(戦術の初歩)だ。
将軍(隊長)や傭兵は、水や泥沼や茨があるかどうかを事前に確認し、状況に応じて適切な攻城兵器を準備する。事前調査と準備を怠り、未知の要塞に向かって進軍するような危険を冒すことは絶対にしなかった。
例えば、今回のように堀の水が深いときは、馬に背負わせた革製のボートを繰り出した。[181]
ジル・ド・レ元帥とアランソン公の兵士たちは、もっとも低能な冒険家よりもさらに無能だった。勇敢なラ・イルなら、彼らをどう思っただろうか?
これほど甚だしい無知・無能をさらけ出すとは、あまりにも信じ難い。
兵士たちは堀の深さを知っていたが、ジャンヌの敗北を願って秘密にしていたのではないかと勘ぐりたくなる。[182]
もしそうだとしたら、兵士たちはジャンヌを罠にかけたと同時に自分自身も罠にかかったことになる。なぜなら、兵士たちはジャンヌとともに、前にも後ろにも動けずにそこに留まっていたのだから。
⚠️補足:パリ攻撃に失敗したのは味方がジャンヌを妨害したからだといわれるが、ジャンヌとともに味方の兵士たちも堀の深さを知らずに立ち往生していることから、「味方の妨害」説はありえない。
3.8 パリ包囲戦(2)矢と声の応酬と撤退命令
兵士の中には、何の考えもないまま薪を深い堀に投げ込む者もいた。そうやっている間にも、守備隊は矢の雨に打たれて次々と姿を消していった。[183]
午後4時ごろになると、市民が群れをなして城壁に押し寄せた。
サン・ドニ門の大砲が轟いた。
城壁の上と下で、矢と罵詈雑言が飛び交った。
時が過ぎ、太陽が沈みかけていた。
ジャンヌは槍の柄でひたすら堀を突き、パリ市民に降伏を叫ぶのをやめなかった。ブルゴーニュ兵も口々に叫んだ。
「おい、淫乱女!(wanton) おい、暴力娘!(minx)」
⚠️wanton:みだらな女、ふしだらな女、無分別な女、悪意ある女、理屈の通じないめちゃくちゃな女。
⚠️minx:おてんば娘、生意気な娘、ずる賢い娘、妖女、妖婦、性的魅力で誘惑するなど嫌悪と好意を感じる女。
ブルゴーニュ兵は足でクロスボウを地面に固定し、矢を放った。
その矢は、ジャンヌのすね当てを裂き、太ももに傷を負わせた。
別のブルゴーニュ兵はジャンヌの旗手に狙いを定め、足を負傷させた。負傷した騎手は、矢がどこから飛んで来たかを確認するために兜の面頬(バイザー)を上げたが、すぐにまた別の矢が飛んできて両目の間に命中した。
ジャンヌとアランソン公は、この兵士の死を深く嘆いた。[184]
負傷した後、ジャンヌは城壁に到達して「街を陥落させなければならない」とさらに大声で叫んだ。
矢の届かない胸壁の陰に隠れると、そこから兵士たちに、薪を水に投げ込んで橋を作るよう促した。
⚠️胸壁(parapet):城壁の上部にある凸凹した「出っ張り」部分。下からの攻撃を防ぐ。
午後10時か11時ごろ、ラ・トレモイユ卿は戦闘員たちに撤退を命じた。
だが、ジャンヌはその場を離れようとしなかった。聖人たちの「声」に耳を傾け、周囲に天の軍勢が集まっているのを見ていたのだろう。
アランソン公がジャンヌを呼んだ。老齢のゴークール卿[185]は、ピカルディの隊長ギシャール・ブルネルの助けを借りてジャンヌを連れ去った。彼はその日、ジャンヌの機嫌を損ね、6カ月後には裏切りによって、さらにジャンヌを不快にさせることになる。[186]
負傷していなければ、ジャンヌはもっと激しく抵抗しただろう。[187]
彼女は仲間に屈しながら、残念そうに言った。
「神の名にかけて! この街を占領できたかもしれないのに」[188]
仲間たちはジャンヌを馬に乗せた。こうすることで、ようやく退却する軍隊の後を追うことができた。両ももを撃たれたという噂が広まったが、実際の傷は軽微だった。[189]
フランス軍は、朝出発したラ・シャペルに戻った。
朝の行軍では薪やはしごを運搬した荷車に、夜は負傷者を乗せて運んだ。
敵の手に渡ったのは、荷車300台、はしご660本、障害物(柵)4000枚、そして大量の薪だった。実際に使われたのはそのうちのほんのわずかだった。[190]
フランス軍のこの撤退作戦は、いくらか急いでいたに違いない。
豚市場の近くにあるレ・マチュランの納屋まで来ると、ここに荷物を捨てて火を放ったからだ。この出来事は、「ローマの異教徒のように、彼らは死者を火の中に投げ込んだ」と捻じ曲げられ、恐怖とともに語られた。[191]
パリ市民は、フランス軍を追撃しなかった。
当時、自分の仕事をよく知っている兵士は、追っ手に何らかの罠を仕掛けずに撤退することは絶対になかった。実際、国王軍は街道沿いにかなりの伏兵を配置し、退却する味方を追跡してくる軽装歩兵を待ち構えていた。[192]
パリ市民が恐れていたのは、まさにこのような伏兵の攻撃だった。
そのため、彼らはアルマニャック派が何の妨害も受けずにラ・シャペル=サンドニの陣営に戻ることを許した。[193]
3.9 パリ包囲戦(3)シャルル七世の真の目的(戦略と戦術の違い)
⚠️訳者の覚書:戦略と戦術の違い。
▼戦略(strategy):ある目的を達成するために、長期的・全体(大局)的な視野に立ち、複合的な思考で力や資源を準備・計画・運用する方法。戦略の具体的遂行である「戦術」とは区別される。
▼戦術(tactics):個々の具体的な戦闘における戦闘力の使用法。長期・広範の展望をもつ「戦略」の下位に属する。
当時の軍事戦術だけを見れば、フランス軍が失策を犯し、意欲に欠けていたことは疑いようがない。しかし、フランス陣営が最も頼っていたのは軍事戦術ではなかった。
この戦いを指揮した国王とその評議会は、確かにこの日、パリに入城することを期待していた。しかし、どのようにして?
シャロンに入城したとき、ランスに入城したとき——、トロワからコンピエーニュに至るまで、国王が善良な町々すべてに入城したときのことを思い出してみよう。
シャルル七世は、市民の力を借りながら町を取り戻す決意を示していた。
パリに対しても、彼は他の町に対してとったのと同じように行動した。
戴冠式に向かう行軍の間、シャルル王はシャンパーニュ地方の司教や市民たちと連絡を取り合い、そのつど交渉していた。パリでも同様に連絡を取り合っていた。[194]
シャルル王は修道士たち、特にムランのカルメル会修道士たちと交渉し、修道院長ピエール・ダレは国王のために活動していた。[195]
しばらくの間、雇われた代理人(工作員)たちがパリを混乱に陥れ、パニックと混乱に乗じて、敵(フランス陣営)を招き入れる機会をうかがっていた。
パリ攻撃の最中、彼らはパリ市内で国王のために働いていた。午後になると、橋の両側から「各自、自分の身の安全を確保せよ! 敵が侵入した! すべてが終わった!」という叫び声が聞こえた。
この声を聞いた市民は、急いで家に閉じこもった。
また、屋外にいた人は教会に避難した。
しかし、この騒動は鎮圧された。
高等法院の書記官など、賢明な人たちは「これは単純な偽装工作だ。シャルル・ド・ヴァロワは武力ではなく、民衆を動かして町を取り戻そうとしている」と考えた。[196]
国王のスパイとしてパリで活動していた修道士たちが、サンドニにいる王のもとへ出向き、計画が失敗したことを報告した。彼らによれば、もう少しで成功するところだったという。[197]
パリ包囲戦について、「ラ・トレモイユ卿は虐殺を恐れて撤退を命じた」と伝えられている。実際、フランス軍がひとたび侵入すれば、彼らが市民を虐殺し、街を完全に破壊する可能性は十分に考えられた。[198]
*
翌日、9日の金曜日、ジャンヌは負傷していたにもかかわらず夜明けとともに起き上がり、アランソン公に武装を呼びかけるよう要請した。パリの城壁に戻り、街が陥落するまでそこを離れないと固く決意していたからだ。[199]
その一方で、フランス軍の隊長たちはパリに伝令を送り、多数の遺体を運び出すための安全な通行許可を求めた。[200]
フランス軍はひどい損害だったにもかかわらず、確かに妨害されずに撤退した。
だが、悲惨な敗走であることに変わりなく、包囲軍と攻城兵器のすべてを失った。
それでもなお、指導者の中には、ジャンヌのように、新たな攻撃を試みようとする者もいた。
しかし、他の者はそれを聞き入れなかった。
彼らが議論している間、ある貴族が仲間50人をつれて近づいてくるのが見えた。それは、フランス貴族で最初のキリスト教徒として知られるモンモランシー卿だった。パリ司教の古くからの家臣の中でもっとも身分の高い人物だ。
彼は、聖アンデレ十字(ブルゴーニュ公の騎士団のシンボル)からフルール・ド・リス(フランス王家の紋章)へと忠誠を誓う相手を移そうとしていた。[201]
モンモランシー卿の到来は、国王軍の兵士たちに勇気を与え、都へ帰還する願望を抱かせた。
軍がパリへ引き返そうとした時、クレルモン伯とバル公(ルネ・ダンジュー)が国王の命令で進軍を阻止し、ジャンヌをサンドニへ連れ戻すために派遣された。[202]
10日土曜日の夜明け、アランソン公は数人の騎士を率いて、数日前にセーヌ川に橋を架けた岸辺に現れた。常に危険を求める乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)も、勇敢な戦士たちに同行した。
しかし、前夜、国王は賢明にも橋を取り外させていたため、この小さな部隊は引き返さなければならなかった。[203]
国王は、パリを奪還する考えを放棄したわけではない。
むしろ、これまで以上に、偉大な都市(パリ)を取り戻すことに心を砕いていた。しかし、市民の同意を得てから武力なしで奪還する(調略による無血開城)と決意していた。
3.10 ジャンヌの折れた剣について
サンドニの同じ場所で、ジャンヌに不運に見舞われた。この出来事は、戦友たちに強い印象を与え、おそらく彼女の武運(幸運をもたらす存在として)に対する信頼を失わせたようだ。
当時の慣例として、軍隊には悪名高い女たちが大勢ついてきた。兵士たちはそれぞれ自分の女を連れていて、「恋人・愛人(amiètes)」と呼ばれていた。[204]
ジャンヌは、彼女たちが秩序を乱すだけでなく、その罪深い生活に恐怖を感じていたため、到底容認できなかった。
ちょうどその頃、次のような話がドイツにまで広まっていた。
陣営に、自分の恋人を同伴させている男がいた。
彼女は身元を隠すために甲冑を身につけ、馬に乗っていた。
すると、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は貴族や隊長たちに言った。
「兵士たちの中に女がいます」
彼らは、誰も知らないと答えた。
そこでジャンヌは軍隊を集め、その女に近づいて言った。
「こいつは『彼女』です」
そして、その女にこう言った。
「おまえはジアン出身で妊娠している。そうでなければ、私はおまえを死刑にしていただろう。すでに子供をひとり死なせているのに、今度も同じことをしてはいけない」
ジャンヌがそう言うと、召使いたちは彼女を連れて家(故郷かも?)へ送り届けて監視下に置き、そこで出産するまで見守った。彼女は、ジャンヌが言ったことは真実だと告白した。
その後、ジャンヌは再び言った。
「陣営には《《女たち》》がいます」
すると、軍隊に属しておらず、すでに解雇されていた二人のふしだらな女が、この言葉を聞いて馬に乗って立ち去った。しかし、ジャンヌは急いで彼女たちを追いかけて、叫んだ。
「愚かな女たちよ、私はおまえたちが私の仲間に入ることを禁じたはずだ!」
そして剣を抜き、そのうちの一人の頭を強く刺した。
その傷はひどく、彼女は死んでしまった。[205]
この話は事実だ。ジャンヌはこういうふしだらな女たちに我慢できず、見つけるたびに追いかけた。この話はまさしく、ジアンでジャンヌがやったことで、悪女たちが王の兵士を待っているのを見かけた時もそうだった。[206]
シャトー・ティエリでは、兵士が馬の後ろに恋人を乗せているのを見つけると、剣を手に追いかけまわした。追いつくと、このときは殴らず、今後は兵士たちと交わる(仲間に入る)のを避けるように命じた。そしてジャンヌはこう付け加えた。
「もし従わないなら、おまえに危害を加えてやる」[207]
サンドニでは、アランソン公に付き添われていたジャンヌは、また別のふしだらな女を追いかけた。今回は、忠告や脅迫だけでは満足しなかった。
ジャンヌはその女に剣を振り下ろし、はずみで剣を折ってしまった。[208]
それは、あの聖カタリナの剣だったのか?
そう信じられていたが、それも当然だろう。[209]
当時、人々の心の中は、聖剣ジョワユーズや聖剣デュランダルなどのロマンあふれる物語でいっぱいだった。
⚠️ジョワユーズ(Joyeuse)とデュランダル(Durandal):
前者は叙事詩『シャルルマーニュ伝説』で英雄シャルルマーニュ(カール大帝)が所持していた聖剣。
後者は叙事詩『ローランの歌』で英雄ローランが所持していた聖剣。
ジャンヌは、剣を失ったときに力も失ったと見なされた。
後に、この話は少しアレンジが加えられ、折れた剣のいきさつを知ったシャルル王は不快感を示して、ジャンヌにこう言ったと伝えられている。
「棒で打つべきだった。神の手から授かった聖剣を危険にさらすべきではなかった」[210]
また、折れた剣を甲冑職人に渡して、破片を繋ぎ合わせてもらおうとしたができなかったと伝わっており、これこそが剣に魔法がかけられていたことの証拠だといわれた。[211]
*
出発に先立ち、国王はクレルモン伯を、キュラン提督、ブサック元帥、ロレ卿、フーコー卿といった数人の副官と共にこの地方の司令官に任命した。
また、国王はクレルモン伯とヴァンドーム伯、ルニョー・ド・シャルトル卿、クリストフ・ダルクール卿、ジャン・テュデール卿を共同総督に任命した。
ルニョー・ド・シャルトルは、副官の司令部であるサンリスに拠点を置いた。
これらの手配を済ませてから、国王は9月13日にサンドニを去った。[212]
ジャンヌは「声」から許可を得ていたにもかかわらず、意に反して国王の後を追った。[213]
彼女は、聖母マリアの像と聖ドニの聖なる遺体に自分の甲冑を捧げた。[214] この甲冑は白く、つまり紋章は描かれていなかった。[215]
これは、負傷したが死ななかった場合、感謝の印として聖母と聖人に鎧を捧げる兵士たちの慣習に従ったものだ。そのため、戦乱の時代だった当時、ノートルダム・ド・フィエルボワ教会のような礼拝堂は、しばしば武器庫のような様相を呈していた。
ジャンヌは甲冑に加えて、パリの前で手に入れた剣も捧げた。[216]
⚠️余談。文中に出てきたシャルルマーニュの聖剣ジョワユーズ(Joyeuse)はフランス王が代々受け継いでおり、この時点での所有者はシャルル七世である。聖剣の取り扱いに苦言を言っているのは、所有者の責務を知っているからだろう。
なお、聖剣ジョワユーズの柄にはキリストを刺した「ロンギヌスの槍」の破片が入っているとか。
追記:フランス語Wikipedia|Siège de Paris (1429)(パリ包囲戦)から引用
カクヨム版の応援コメントから、フランス語Wikipediaのパリ包囲戦(Siège de Paris (1429) — Wikipédia)に掲載されている画家ジョゼフ・ヴァン・レリウスの『パリ包囲戦中、少女兵士たちを叱責しながら剣を折るジャンヌ・ダルク』を紹介していただきました。
流血・刃傷沙汰には至ってないものの、ジャンヌの表情が恐ろしい。

カクヨム版『教皇庁に教徒されたジャンヌ・ダルク伝』
— しんの(C.Clarté) (@shinno3) October 6, 2025
昨日の更新分「ジャンヌの折れた剣」に応援コメントありがとうございます。言及されていたのはこの絵か…ガンギマリ乙女…😂 https://t.co/9vErPUa1kQ pic.twitter.com/mrUmtZravk
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