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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第九章 トゥールのラ・ピュセル

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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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⚠️字数が多い(9,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

9.1 トゥールの街の近況

 トゥール(Tours)で、ジャンヌはラポーと呼ばれる女性の家に滞在していた。[799]
 彼女はエレオノール・ド・ポールという名のアンジュー出身の女性で、マリー・ダンジュー王妃の侍女だった。シチリア女王ヨランド・ダラゴン(マリー・ダンジューの母)の顧問官でラ・ロッシュ=サン=カンタン領主のジャン・デュ・ピュイと結婚してからも、フランス王妃に仕え続けた。[800]

 トゥールの町はヨランド・ダラゴンが所有していた。義理の息子(シャルル七世)がますます貧しくなる一方で、ヨランドはますます裕福になっていった。ヨランドは金銭と土地でシャルル七世を援助していた。

 1424年には、シノン城代領を除き、トゥーレーヌ公領(Touraine)とその従属地はすべてヨランド・ダラゴンの所有地となっていた。[801]

⚠️トゥーレーヌ(Touraine)とトゥール(Tours):パリ盆地の南部に位置する地域で、首府はトゥール。なお、パリ盆地の中央部にはセーヌ川が流れているが、トゥーレーヌはロワール川が流れている。上流(東)にオルレアン、下流(西)にアンジューとブルターニュ、北にパリがある。

 トゥールの市民と庶民は、心から平和を望んでいた。
 その一方で、彼らは武装兵士による略奪から逃れるためにあらゆる努力をした。
 シャルル王もヨランド・ダラゴンも彼らを守ることができなかったため、彼らは自衛しなければならなかった。[802]

 町の番兵が「トゥーレーヌとアンジューを荒らしていた略奪隊のひとりが近づいてきた」と告げると、市民は門を閉ざし、大砲の位置を確認した。
 それから交渉が行われた。略奪隊の隊長は堀の端までやってくると、「自分は王に仕えており、イングランド軍と戦闘中だ」と主張し、「自分と部下のために町で一晩休ませてほしい」と頼んだ。
 市民は、城壁の高みから「ここから立ち去るように」と丁重に求めたが、無理やり侵入しようとしてきた場合は金銭を提供した。[803]

 市民は略奪を恐れて、みずから賄賂を差し出した。

 ジャンヌが来るわずか数日前にも、トゥール近郊を荒らしていたスコットランド人のケネディという男に、ここから立ち去ってもらうための旅費として200リーブルを渡したばかりだった。

 こうして部隊を追い払った後、彼らの次の懸念はイングランド軍に対する防御を固めることだった。

⚠️補足:市民からすれば、兵士がフランス陣営かイングランド陣営かに関係なく、危険で迷惑な存在だった。

 同じく1429年2月29日、トゥールの市民は、当時オルレアンのために最善を尽くしていたラ・イル隊長に100エキュドールを貸した。

 イングランド軍が接近してきたときでさえ、彼らはジャン・ド・ビュエイユ卿の部隊に所属する弓兵40人を受け入れることに同意したが、「①ビュエイユ卿と兵士20人はともに城に宿泊し、②残りの兵士は宿屋に宿泊するが、③代金を支払わなければ何も与えない」という条件付きだった。

 このように、町の対応は状況次第で、良くいえば柔軟で臨機応変、悪くいえば一貫性がなく曖昧だった。ビュエイユ卿はトゥールの町で一服すると、オルレアンを守るために出発した。[804]

⚠️ジャン・ド・ビュエイユ(Jean de Bueil):ジャンヌの戦友の一人。二つ名「イングランドの天罰」と呼ばれた。晩年、百年戦争に従軍した経験をもとに半自叙伝『Le Jouvencel』を執筆。

⚠️トゥール(Tours):ようするに、オルレアンに向かうルートの中継地点。兵士からすればフランス陣営の町で安全に休憩・補給したいが、市民からすれば備蓄を消費する上にイングランドに目をつけられる危険を伴う。

9.2 ジャンヌの従軍司祭、ジャン・パスケレル修道士

 ジャン・デュ・ピュイの家で、ジャンヌはアウグスティノ修道会の修道士ジャン・パスケレルから訪問を受けた。
 彼は、ピュイ=アン=ヴレ(Le Puy-en-Velay)の町から帰ってきたところで、そこで、ジャンヌの母イザベル・ロメと、ジャンヌを国王のもとに案内した人たちに会っていた。[805]

 この町にある「アニスの聖域」には、聖王ルイがエジプトから持ち帰った聖母像が保存されていた。
 これは非常に古いもので、高く崇拝されていた。なぜなら、古代イスラエルの預言者エレミヤが「これから生まれる処女の姿」を幻視して、自らの手でシカモアの木(sycamore)から彫り出した聖母像だったからだ。[806]

⚠️シカモアの木(sycamore):ヨーロッパでは一般的に「セイヨウカエデ」を指すが、聖書の文脈では「エジプトイチジク」を意味する。ここでは後者のイチジクと思われる。

 聖週間(復活祭の前週)になると、フランスだけでなくヨーロッパの各地から、貴族、聖職者、兵士、市民、農民などさまざまな身分の巡礼者が押し寄せた。
 苦行のため、あるいは貧困のために、多くの人が杖を手に持ち、戸口から戸口へとパンを乞いながら徒歩でやってきた。

 巡礼者目当ての商機を期待して、あらゆるジャンルの商人たちも集まってきた。
 そのため、ここは最も人気のある巡礼地であると同時に、世界で最も豊かな市場のひとつでもあった。

 旅人の流れが、町の周囲の道からブドウ畑、牧草地、庭園へとあふれ出ていた。
 1407年の祭りの日には、群衆の中で押しつぶされて200人が亡くなる事故があった。[807]

⚠️聖週間:キリスト教会の暦で復活祭前の1週間のこと。イエスの受難、死、復活が集中している。

 キリストの受胎告知の祝日(3月25日)とキリストの死の祝日(聖金曜日)が重なる年がある。キリスト教最大の「神秘の約束」と、その「約束の成就」が一致する貴重な1日だ。

 すると、聖金曜日(Holy Friday)はさらに神聖なものとなる。
 大いなる金曜日(Great Friday)と呼ばれ、この日にアニスの聖域に入った者は「完全な免罪符(すべての罪が免除される)」を受けられるため、巡礼者の群衆は例年以上に多くなる。

 さて、1429年の3月25日は、聖金曜日と重なる「大いなる金曜日」だった。[808]

 したがって、修道士パスケレルが、この期間中にピュイでジャンヌの家族に会ったことは、何も特別なことではない。

 農民の女性が、雪と霧の季節に、兵士や盗賊がはびこる地域を徒歩で150リーグ(約375マイル/約600キロメートル)も旅したことに驚かされるが、ジャンヌの母の愛称「イザベル・ロメ」の由来を思い出してほしい。

 信心深い彼女にとって、特別な免罪符を得るために遠出することは、日常茶飯事だった。[809] このときの旅路は、ロメにとって初めての巡礼ではなかったのだから。

 善良な修道士パスケレルが、ジャンヌの護衛の誰に会ったかはわからないが、ベルトラン・ド・プーランジーがその中にいたと推測しても差し支えないだろう。
 彼についてはほとんど知られていないが、その話し方から、信心深い人物であったことがうかがえる。[810]

 ジャンヌの仲間たちは、パスケレルと親しくなり「ジャンヌのところへ行こう」と誘った。

「私たちと一緒にジャンヌのところへ行かなければなりません。ジャンヌと会うまで、私たちはあなたを離しませんよ」

 修道士パスケレルは、彼らと一緒に旅をして、ジャンヌが去った後のシノンへ行き、その後、修道院があるトゥールへ向かった。

 アウグスティノ派(アウグスティノ会)はフランシスコ会と並ぶ托鉢修道会で、修道士たちは同じ戒律にしたがい、染色していない灰色の僧衣ローブを着用した。

 前年、国王は、幼い息子の王太子ルイの従軍司祭(Chaplain)をこの修道会から選んだ。

 修道士パスケレルは、この修道院でレクトル(講師・朗読者)の職に就いていた。[811]
 彼は司祭の叙階を受けていた。かなり若く、当時の多くの托鉢修道士のように放浪癖があり、神秘的な奇跡に関心があり、過度に信じやすかった。

 ジャンヌの仲間たちは、トゥールで彼女に再会するとパスケレルを紹介した。

「ジャンヌのために善良な神父を連れてきたよ。彼のことを知れば、きっと気に入るだろう」

「この善良な神父様は、私を喜ばせてくれます。私はすでに彼について話を聞いてますし、明日はこの神父様に告解するつもりです」

 翌日、善良な神父はジャンヌの告解(懺悔)を聞き、ジャンヌの前でミサを唱えた。
 こうして修道士パスケレルは、ジャンヌの従軍司祭となり、決して彼女のそばを離れなかった。[812]

⚠️チャプレン(chaplain):本来の意味は「(教会以外の施設に付属する)礼拝堂で働く司祭」だが、ここでは「(特定の主人に付属する)従軍司祭」の意味合いが強い。


9.3 ジャンヌの装備(1)甲冑と馬選び

 15世紀のトゥールは、フランス王国の主要な製造都市のひとつだった。
 住民はあらゆる種類の製造業に秀でていた。
 金、銀の絹織物を織り、金属の鎧を製造していた。ミラノ、ニュルンベルク、アウクスブルクの甲冑職人には及ばないが、鉄の鍛造と槌打ち(金属の打ち出し・加工)に長けていた。[813]

 この町で、王の命令により、熟練した甲冑職人がジャンヌのために錬鉄製の鎧一式を作った。[814]

 当時の慣習に従って、兜、4つの部分に分かれた胸当て、肩当て(エポレット)、腕当て(アームレット)、肘当て、前腕当て、小手(ガントレット)、腿当て(キュイス)、膝当て、すね当て、鉄靴(ソレ)で構成されていた。[815]

 職人は、女性の体型を強調する考えはなかっただろう。

 しかし、この時代の甲冑は、胸元がふっくらとしていて、ウエストは細く、胴鎧(コルセット)の下に幅広のスカートがついている。そのほっそりとした優美さと妙にスリムな外見は、甲冑でありながら女性的な雰囲気を漂わせ、アマゾンの女王ペンテシレイアやローマの女戦士カミラのために作られたかのようだ。

⚠️ペンテシレイア(Penthesileia):ギリシャ神話に登場。トロイ戦争でヘクトルの死後、トロイ勢に加勢して活躍したがアキレスに殺された。

 ジャンヌの甲冑は、100リーブル・トゥルノワという控えめな価格から判断すると、白くて飾り気のないものだった。

 同じ甲冑職人が同時に、ジャン・ド・メスとその仲間のために作った甲冑2着は、合わせて125リーブル・トゥルノワだった。[816]

 トゥールには、腕利きの仕立て屋も兼ねている有名な服地商(draper)がいたので、そのうちのひとりがジャンヌを採寸して、絹や金糸・銀糸でできたウプランド(houppelande)を作った。隊長たちが胸当ての上に羽織るような、ゆったりした上着(コート)だ。

 そのコートは見栄えを良くするために前開きで、馬に騎乗する騎士の周りをひらひらと舞うように、周囲に広がるスカラップカット(ホタテ貝の形状にカット)されていなければならない。

⚠️ウプランド(houppelande):14世紀後半〜15世紀にかけて流行した、ゆったりとしたガウンのような上着。丈は床に届くほど長く、袖は非常に大きく、ベルスリーブやファンネルスリーブと呼ばれる形をしている。なお、甲冑の上に着るチュニック状の「サーコート(Surcoat)」とは別物。ウプランドは男女兼用だが、サーコートは男物。

 ジャンヌは上質な服を好んだが、それ以上に上質な馬を好んだ。[817]

 シャルル七世はジャンヌに王の厩舎から好きな馬を選ぶように勧めた。
 あるラテン語詩人の言うことを信じるならば、ジャンヌは由緒ある血統だがかなり年老いた馬を選んだ。その馬は、メーヌとアンジューの総督だったピエール・ド・ボーヴォーが、かつてシャルル七世の二人の兄のうちのひとりに贈った軍馬だった。兄のひとりは13年前に、もうひとりは12年前に亡くなっていた。[818]

 この軍馬、あるいは別のもう一頭がラポーの家に運び込まれ、アランソン公爵が見に行った。

 騎士と同様に、軍馬も装備を整えなければならない。
 馬の頭部を保護するシャフラン(馬用の兜)と、乗り手を包み込むような幅広の鞍頭の付いた木製のサドル(鞍)が用意された。[819]

 この時代、盾は不要だった。
 突き刺しを防げないチェーンメイル(鎖帷子)から、何の影響も受けないプレートアーマー(板金鎧)に取って代わられ、それ以来、盾は祝祭や式典のパレード以外で使用されなくなっていた。

 剣は、ジャンヌにとって最も重要な装備品だった。
 忠誠心と結びついた力の象徴である輝かしい剣を、ジャンヌは王室の武具職人から提供されることを拒否した。聖カタリナ自身の手からそれを受け取ると決めていたのである。

9.4 ジャンヌの装備(2)聖カタリナの剣

 ジャンヌはシノンまでの道中でフィエルボワに立ち寄り、聖カタリナの礼拝堂でミサを3回聞いたことがわかっている。[820]

 そこには、シャルル・マルテルが奉納した剣以外にも、アレクサンドリアの聖女(聖カタリナ)に捧げられた剣が多数あった。目当ての剣を再び見つけるのは容易ではなかっただろう。

 聖カタリナは、トゥーレーヌ地方では「良きトゥーレーヌ人」だった。どんな時でも、王太子シャルルのために戦う者たちの味方をするアルマニャック派だった。

 運命のいたずらで死の危険にさらされたり、敵の手に囚われたりした隊長や兵士たちは、他の聖人よりも聖カタリナに救いを求めて祈った。なぜなら、彼らは聖カタリナが彼らの幸運を願っていることを知っていたからだ。

 聖カタリナは彼ら全員を救ったわけではないが、多くの人を助けた。
 救われた者は、聖カタリナに感謝を捧げるために礼拝堂を訪れ、感謝のしるしに武器防具を奉納したので、礼拝堂はまるで武器庫のようだった。[821]

 礼拝堂の壁には、剣がびっしりと並んでいた。

 シャルル五世(シャルル七世の祖父)の時代から半世紀にわたって贈り物が続いたため、聖具室の管理者は新しいスペースを作るために古い武器を降ろし、どこかの倉庫に保管して、それを売る機会が来るまでしまっておく習慣があったと思われる。[822]

 聖カタリナは、愛する少女(ジャンヌ)に剣を与えることを拒まなかった。24時間365日、いつでも天国から地上に降りてきてジャンヌに会い、語りかけていた。

 ジャンヌはそのお礼に、旅の途中でフィエルボワに立ち寄り、聖人に敬意を示し、彼女の献身を表明していた。

 聖カタリナは聖マルガリータとともに、シノンでもトゥールでもジャンヌの前に現れていたことを忘れてはならない。

 彼女は、ジャンヌが時々「評議会」と呼び、しばしば「声」と呼んだ秘密の集会すべてに出席していた。時には、光の輝きや聖人が戴く冠など目に映る(視覚的な)奇跡よりも、耳に届き、心に響く言葉のほうが、ジャンヌを強く惹きつけていたからに違いない。

⚠️わかりやすく補足:目に見える視覚情報の奇跡よりも、耳に届き、心に響く『声の内容』にジャンヌは感銘を受けていた。

 その「声」は、フィエルボワの礼拝堂にある多数の剣の中から一本の剣を示した。

 当時、この礼拝堂を管理していたのは、リシャール・キルトリジアン師とジル・ルクール修道士という二人の司祭だった。二人は、聖人が起こした奇跡の記録に署名する際に、そのような肩書きを名乗った。

 ジャンヌは手紙で「啓示された剣をくれるように」と頼んだ。
 手紙の中で、「その剣は、地下のそれほど深くない場所、祭壇の後ろにあるだろう」と書いた。

 のちにジャンヌは、それが祭壇の後ろだったのか前だったのかを正確に思い出すことはできなかった。少なくとも、ジャンヌが覚えていた剣の手がかりはこれがすべてだ。

 ジャンヌは、礼拝堂の管理者に、目当ての剣を認識できる手がかりを伝えることができたのだろうか? この件について、ジャンヌは何一つ説明しなかった。そして、肝心の手紙原本は失われている。[823]

9.5 ジャンヌの装備(3)聖女の剣か、悪魔の剣か

 しかし、ジャンヌが「その剣は幻視の中で示された」と信じていたことは確かである。それ以外の方法で剣を入手・提供されることはあり得なかった。

 ジャンヌの記憶にない(のちに「一度も会ったことがない」と言い張った)トゥーレーヌの甲冑職人が、フィエルボワの礼拝堂にジャンヌの手紙を届けるよう任命された。

 礼拝堂の管理者は、「柄の近くに5つの十字架、または5本の小剣のしるしが刻まれた剣」を彼に渡した。

 彼らは、礼拝堂のどこでその剣を見つけたのか?
 誰も知らない。

 当時の人の証言によれば、古い剣と一緒に箱の中に入っていたと言う。
 剣についた錆はこすっただけで簡単に取れたので、埋められて隠されていたとしても、それほど古いものではない。

 司祭たちは、剣を取りに来た甲冑職人に渡す前に、大袈裟な儀式をおこない、丁重に乙女(ラ・ピュセル)に捧げるように注意した。[824]

 彼らはその剣を、王家の百合の花(フルール・ド・リス)を刺繍した赤いベルベットの鞘に収めた。

 それを受け取ったジャンヌは「天の幻視の中で示され、声によって約束されたもの」だと認識し、そして、ジャンヌを取り巻く修道士と兵士の小グループにそのことを知らしめることを忘れなかった。
 仲間たちはこれを吉兆とし、勝利のしるしだと考えた。[825]

 聖カタリナの剣を保護するために、町の司祭たちは黒い布製の2つ目の鞘を与えた。ジャンヌはさらに、非常に丈夫な革で3つ目の鞘を作らせた。[826]

 この剣の物語は、広範囲にわたって口々に伝えられ、興味深い寓話が付け加えられて詳細に語り継がれた。

 あるところでは、それは長い間地中に埋もれて忘れ去られていた偉大なシャルル・マルテルの剣だと言われた。また別のところでは、多くの人が、それはアレクサンダー大王と古代の騎士たちのものだと信じた。
 誰もがその剣を高く評価し、幸運をもたらすだろうと期待した。

 その一方で、イングランド人とブルゴーニュ人はこの話を聞くと、真っ先に「乙女(ラ・ピュセル)が悪魔の入れ知恵を得て、地中に隠されたものを発見した」と考えた。
 あるいは、「王侯貴族、聖職者、民衆を欺くために、ジャンヌは自分が示した場所にあらかじめ剣を巧妙に隠していたのではないか」と自作自演を疑った。
 さらに、「剣に刻まれた5つの十字架は悪魔のしるしではないか」と怪しんでいた。[827]

 このようにして、ジャンヌを「聖女」と見なすか「魔女」と見なすかによって、正反対の幻想が生まれ始めた。[828]

9.6 ジャンヌの装備(4)軍旗とバナー

 シャルル七世はジャンヌに何も命じなかった。王は学者たちの助言に従い、ジャンヌが兵士たちとオルレアンに行くことを妨げなかった。

 ジャンヌが約束されたしるしを示すことができるように、王は公的にジャンヌをそこへ連れて行く段取りを整えた。

 王は、ジャンヌを導くためではなく、ジャンヌを護衛するために兵士を与えた。

 ろくに道を知らなかったジャンヌが(シノンからポワティエへ連れて行かれる時、オルレアンに行くと勘違いしていた)、どうやって兵士を導くことができるだろうか?

 その間に、ジャンヌは聖カタリナと聖マルガリータの命令に従って、「天の王の名において、軍旗を掲げよ!」と書かれた軍旗(standard)を作らせた。

 それは、粗い生地の白い布、またはバックラム(接着剤で強度を高めた粗い綿織物)でできており、絹の房飾り(フリンジ)で縁取られていた。

 ジャンヌは「声」が命じるままに、町の画家に、彼女が「世界(Le Monde)」[829]と呼ぶ絵柄を描かせた。

 それは、神が玉座に座り、右手を上げて祝福し、左手に地球を持っている姿である。神の左右には、教会で描かれるような天使たちがいて、フルール・ド・リスを捧げている。上または片側には「Jhesus-Maria(ジーザス・マリア)」という名が書かれ、背景には王家の金の百合が散りばめられていた。[830]

 神の絵が描かれた軍旗の裏側には、盾型紋章(coat-of-arms)を描かせた。
 青い盾に銀色の鳩が描かれ、そのくちばしには「De par le Roi du Ciel(天の王より)」と書かれた巻物をくわえている。[831] 

 アランソン公爵の召使いペルスヴァル・ド・カニーによると、ジャンヌはもうひとつ、より小さな旗、すなわちバナー(banner)を作るよう命じた。バナーには、天使の挨拶を受ける聖母マリアが描かれていたという。

 ジャンヌが雇ったトゥールの画家は、スコットランド出身でオーヴ・プルノワ(Hauves Poulnoir)と呼ばれていた。
 彼は材料を提供し、大小2つの盾型紋章エスカッシャン(escutcheons)の絵を描いた。この仕事の報酬として、彼は戦費会計係から25リーブル・トゥルノワを受け取った。[832]

 オーヴ・プルノワにはエリオットという名の、結婚を控えた娘がおり、ジャンヌはのちに彼女に親切にしていた。[833]

⚠️オーヴ・プルノワ(Hauves Poulnoir):原著のフランス語ではこの名だが、英訳版ではスコットランド風にアミッシュ・パワー(Amish Power)と訳されている。歴史学では、スコットランド出身のヘリオス(Helius)と考えられている。それぞれ別の名前に見えるが、同じ画家である。

 軍旗(standard)は集結の合図だった。
 長い間、それを掲げる権利があったのは、王と皇帝、戦争の指導者だけだった。
 封建領主はそれを前方に掲げ、家臣たちは領主のバナーの下に集まった。

 しかし、1429年当時、都市、ギルド、教区以外でバナーを掲げる習慣は廃れ、軍隊では平時のパレードで掲げられた。戦争では必要とされなかった。

 最も卑しい隊長も、最も貧しい騎士でさえ、自分の軍旗(standard)を持っていた。
 フランス軍の兵士50人がオルレアンから出撃し、一握りのイングランド軍の略奪者と戦うとき、蝶の群れのように多くのバナーが野原でひらめいた。

 「軍旗を掲げる(To raise one's standard)」とは、「高ぶる」という意味の比喩だった。[834]

 したがって、自由気ままな略奪者が、わずか20人程度の兵士と半裸の弓兵を率いて「軍旗(standard)を掲げる」ことはよくあった。

 ジャンヌが自分の旗を「主権の象徴である」と考え、天の王から授かったそれを他のすべての旗よりも高く掲げようと考えたとしても、フランス王国陣営に(ジャンヌのやり方に)反対できる者がいただろうか?

 過去80年間——クレシーの野原にまかれ、ウェールズとコーンウォールの剣士によって茂みや垣根の下に集められ、モーペルテュイのブドウ畑で失われ、アジャンクールの死体が沈んだぬかるみの上でイングランドの射手によって踏みにじられ、ベッドフォード公の略奪者によってヴェルヌイユの壁の下で一握りに集められた——過去80年間、敗北の場面で先陣を切ってきた封建時代の軍旗はどうなったのか?

 これらの旗がすべて無残に倒れてしまったから。
 ニシンの戦いで、王家の血を引く王子(クレルモン伯)が恥ずかしげもなく貴族の旗を掲げずに逃げてしまったからこそ、農民が今、みずから旗を掲げたのである。

⚠️軍旗について:原文は「standard/banner」だが、現代語と意味が異なるので注意。伝統的なバナーとは、王侯貴族の紋章のみが描かれた正方形の個人旗のこと。その中でも「国王のバナー」をロイヤルスタンダードと呼ぶ。ただし、本文でも触れられているように、中世末期になると、傭兵やならず者の集団が結束を固めるために自前の軍旗を掲げるようになった。その場合は、バナーは個人旗、スタンダードは軍団旗を意味する。


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