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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第六章 シノンのラ・ピュセル/予言

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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6.1 シャルル七世の悲惨な生い立ち

 聖カトリーヌ・ド・フィエルボワの村から、ジャンヌは口述して書いてもらった手紙を国王(シャルル七世)に送った。彼女は文字の読み書きを知らなかったからだ。

 この手紙でジャンヌは、国王に謁見する許可を求め、国王を助けるために150リーグ以上も旅をしてきたこと、国王のためになる話をたくさん知っていることを伝えた。さらに、「もし国王が他の多くの人々の中に隠れていたとしても、自分は見分けられるだろう」と付け加えたと言われている。[572]

 しかし、後日、この件について尋問されたとき、ジャンヌは「そのような記憶はない」と答えた。

 正午ごろに手紙が封印されると、ジャンヌと護衛たち一行はシノンに向けて出発した。[573]

 当時、アジャンクールやヴェルヌイユの戦いで死んだ騎士の息子たちは、困窮する未亡人の手で育てられ、15歳ほどになると草原で足の不自由な馬をつかまえて廃墟から国王のもとへ向かった。忠誠、欲望、飢餓、理由はさまざまだが、自分自身とフランスの運命を立て直すために。[574]

 彼らと同じように、ジャンヌも王太子のもとへと向かった。

 シャルル七世はフランスであり、フランスの象徴であった。
 しかし、彼は狂気の王シャルル六世と多産な王妃イザボー・ド・バヴィエールの間に生まれた悲惨な子供たちの11番目で、不幸な人間のひとりにすぎなかった。[575]

 彼は災難の中で成長し、4人の兄たちに先立たれて唯一生き残った。
 しかし、発育の悪い体つきをしていて、膝が曲がり、脚は細くて内股だった。[576]
 見た目だけを考慮すれば、正真正銘「王子らしい」顔立ちでありながら、王統の血脈を疑われていた。[577]

 ある賢者がいうように、「そこに居合わせるくらいなら死んだ方がましだったあの日、モントローの橋の上で起きた事件」以来、彼は青ざめて震え、周囲であらゆるものが破壊され、破滅していくのを呆然と見つめていた。[578]

⚠️モントローの橋の上で起きた事件:王弟殺しのブルゴーニュ無怖公を、王太子の家臣が殺害した事件のこと。当時のシャルル七世は王太子になって2年目、16歳だった。

 イングランド軍は、ヴェルヌイユでの勝利とメーヌを一部征服した後、4年間の猶予を与えた。

 しかし、シャルル七世の友人も、彼を擁護する者も、彼を救う者も、みな同様に恐ろしい存在だった。

 シャルル七世は敬虔で控えめな性格で、質素な妻に満足しながら、ロワール川沿いの城で悲しみと不安に満ちた生活を送っていた。

 彼は臆病だったが、そうなったのも当然だった。なぜなら、彼が貴族の一人に友情を示したり信頼を寄せた途端、その貴族は殺されたからだ。

 リッシュモン大元帥とラ・トレモイユ卿は、模擬裁判の後にジアック卿を溺死刑に処した。[579]

 ブサック元帥は、リッシュモン大元帥の命令で、さらに簡略化した無礼なやり方でカミュ・ド・ボーリューを殺害した。ボーリューは、クラン川の岸辺の草地でロバに乗っていたときに襲撃を受けて倒れ、頭を割られ、片手を切り落とされた。寵臣のロバだけが国王のもとへ連れ戻された。[580]

 リッシュモン大元帥は、彼に代わる新たな寵臣としてラ・トレモイユをシャルルに与えた。樽のように太った巨漢で、国中を食い荒らす伝説の巨人ガルガンチュアのようだった。

 ラ・トレモイユがリッシュモンを追い払った後、非常に恐ろしい大元帥が戻ってくるまで、国王はラ・トレモイユをそばにとどめた。

 実際、このように従順で臆病な王子が、あのブルターニュ人(リッシュモン)を恐れるのには理由があった。常に敗北し、常に激怒し、苦々しく、猛烈で、不器用さと暴力的な行為のために、無礼で厚かましいイメージを作り上げていた。[581]

 1428年、リッシュモンは国王に対する影響力を取り戻そうとした。
 クレルモン伯爵とパルディアック伯爵は、リッシュモンを支援するために団結した。国王の義母であるヨランド・ダラゴン(シチリアとエルサレムの実権なき女王で、アンジュー公爵夫人)は、不満を抱く貴族たちの味方になった。[582]

 クレルモン伯爵は、フランスの宰相、王室の筆頭大臣を捕らえて身柄を拘束したが、国王は身代金を払って解放させた。[583]

 イングランド軍がロワール川に向かって進軍している間、ポワトゥーではリッシュモン大元帥が国王の家臣たちと戦い、王家に忠誠を誓っていた地域では無所属の傭兵フリーランサーたちが国王の金で浪費に明け暮れていた。

 こうした悲惨な状況下で、小柄で小心なシャルル王はますます小さく痩せ細り、人間不信をこじらせて臆病になり、哀れな姿をさらしていた。

 しかし、彼は他の王に劣らず優秀であり、おそらく当時は彼こそが時代に求められていた王だった。もし、ヴァロワ王朝の初代フィリップや二代目のジャン二世なら、剣を交えて領地を奪い合うことを楽しんだだろう。

 哀れなシャルル王は、武勇伝を誇示したり、軍勢を駆って大衆を蹴散らし、戦いの最前線に躍り出るような手段も願望も持ち合わせてなかった。

 シャルル七世には美徳がひとつあった。彼は武勇を好まず、勇敢な偉業を誇るために戦争をしたり、侠気あふれる騎士にはなり得なかったことだ。

 彼の祖父シャルル五世も騎士道精神に欠けていたが、イングランドに大きなダメージを与えていた。孫は祖父のような知恵を持っていなかったが、祖父譲りの小賢しい知性を失っていなかった。槍の切っ先を交えるよりも、政治的な交わりで条約に署名する方が多くの利益を得られると信じる傾向があった。[584]

6.2 シャルル七世の貧困と金策

 シャルル七世の貧困について、ばかげた話が流行っていた。
 聞くところによると、王は靴を新調する金銭さえなく、靴職人は新しい靴を足から引き抜いて古い靴を残して帰ってしまったという。[585]
 またある日、ラ・イルとザントライユが王に面会を求めると、王妃と食事中で、鶏2羽と羊のしっぽが唯一のご馳走だったという話がある。[586]

 しかし、これらは単なる微笑ましい話に過ぎない。

 王は依然として広大で豊かな領土を所有していた。
 オーヴェルニュ、リヨン、ドーフィネ、トゥーレーヌ、アンジュー、そしてギュイエンヌとガスコーニュを除くロワール川以南のすべての地域である。[587]

 国王の主な財源は、三部会を召集することだった。

⚠️三部会(États généraux):フランスの身分制議会のこと。第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成される。3つの身分の代表者が集まり、重要議題を議論する。

 貴族たちは「税金を差し出すのはプライドに関わる」と主張して何ひとつ出さなかった。聖職者たちは貧しいながらもいくらか献上したが、常に財政負担の大部分を担っていたのは、第三身分だった。

 戦時下の臨時税「タイユ」が、毎年課せられるようになった。[588]
 国王は毎年、時には年2回、三部会を召集したが、困難がつきものだった。[589]

 街道はとても危険で、国中いたるところで旅人が襲われたり殺されたりした。
 税金を徴収するために町から町へと旅する役人たちは、武装した護衛が付き添った。[590]

 1427年、ランジェに駐留していたサバトという名の自由兵フリーランサーは、トゥレーヌとアンジューを恐怖に陥れていたため、町の代表者たちは三部会を欠席した。

 自分たちが納めた税金が王国のために使われると信じていれば、状況は違ったかもしれない。しかし人々は、国王がまずは貴族への借金返済に充てることを知っていた。

 代表者たちは、略奪を鎮圧する対策について話し合うために三部会に呼ばれた。[591]

 しかし、いざ命の危険を冒して集まったとしても、彼らは黙ってタイユに同意することを強いられる。国王に仕える役人たちは、口を開けば「川に投げ込んで溺死刑にする」と脅した。

 1425年にメアン=シュル=イェーヴルで開催された三部会で、善良な町の人々は「喜んで国王を助けたいが、まずは略奪を終わらせてほしい」と望み、ポワティエの司教ユーグ・ド・コンベレルも同様のことを述べた。

 司教の意見を聞くと、ジアック卿は国王に「もし私の助言を聞いていただけるなら、コンベレル司教は同調する仲間とともに川に投げ込むべきでしょう」と進言した。結果的に、26万リーブルを可決した。[592]

 また、1427年9月、シノンで開かれた三部会では、戦費として50万リーブルを承認した。[593]

 1428年1月8日、国王は「6カ月後の7月18日にトゥールで全国三部会を招集する」と王令を発布した。[594] しかし、当日は誰も出席しなかった。

 7月22日、国王から新たな召集状が出され、9月10日にあらためてトゥールで開くよう命じられたが[595]、その三部会は10月に入ってようやくシノンで開催される有様だった。すでにその頃、ソールズベリー伯爵がオルレアンをめざしてロワール川沿いを進軍していた。
 そのため、三部会は50万リーブルを承認した。[596]

 だが、善良な人々がこれ以上税金を納めることができなくなる日は遠くない。
 戦争と略奪の時代には、多くの畑が休耕地となり、多くの店が閉鎖され、町から町へと駄馬に乗ってのんびり行商する商人もほとんどいなかった。[597]

 このような時勢だったので、税金の徴収はうまくいかず、王は実際に資金不足に苦しんでいた。

 貧困という恥から抜け出すために、国王はその場しのぎの金策を3つ講じた。

 第一に、あらゆる人から借金した。義母ヨランド・ダラゴン[598]、寵臣ラ・トレモイユ[599]、宰相[600]、肉屋[601]、新鮮な魚を提供してくれるブールジュ司教座の参事会[602]、料理人[603]、従僕[604]——、そのため税収のほとんどを債権者に渡さざるを得なかった。[605]

 第二に、シャルル七世は王領を手放した。彼が所有している町や土地は、他人のものになっていた。[606]

 第三に、彼は偽の貨幣を鋳造した。とはいえ、それは悪意からではなく、必要に迫られてのことであり、貨幣の質を下げる対策はごく普通におこなわれていた。[607]

 何にしても、慢性的な赤字を根本的に解決する方法は何もなかった。


6.3 シャルル七世の家臣団と金貸し

 ラ・トレモイユが持っていた称号はコンセイユ・シャンベラン(Conseiller-Chambellan、侍従顧問官)のみだったが、彼は王国の偉大な金貸しだった。
 債務者は、国王をはじめ高位の貴族から下級貴族まで大勢いた。[608]
 そのため、強力な力を持つようになった。

 困難な時代背景を利用して、彼は私腹を肥やす目的で国王に仕えていたが、そのような下心を差し引いても価値のある人物だった。

 1428年1月から8月にかけて、ラ・トレモイユは2万7000リーヴルもの大金を融資し、その担保として土地と城を受け取った。[609]

 幸いなことに、王室の評議会には、優れた実業家(ビジネスマン)である法学者や聖職者が何人もいた。

 その中の一人、アンジュー出身で平民生まれのトレヴ領主ロベール・ル・マソンは、摂政時代から評議会に加わっていた。シャルル七世によく仕えていた下級身分の中で最初の人物であり、「よく尽くされた王(Le Bien Servi)」と呼ばれるきっかけとなった。[610]

 もうひとりのゴークール卿は、戦争関連で国王をよく助けた。[611]

 さらにもうひとり、可能な限りよく知っておくべき人物がいる。
 なぜなら、彼はこの物語の中で重要な役割を果たすからである。
 もし、彼が果たした役割のすべてを完全に明らかにすることができれば、さらに大きな意味を持つだろう。

 その人物とは、すでに財務大臣に昇進した件で触れたルニョー・ド・シャルトルである。[612]

 彼は、ノルマンディーの森と水の所有者(森林水利長官)エクトル・ド・シャルトルの息子だった。ルニョーは聖職者になり、ボーヴェの助祭長を務めた後、教皇ヨハネス23世の侍従となり、1414年に34歳でランス大司教に昇格した。[613]

 その翌年(1415年)、彼の兄弟3人がアジャンクールの血みどろの戦いで戦死した。

 1418年には父エクトルがパリで屠殺者に殺された。[614]
 ルニョー自身もカボシャン派によって投獄され、死刑に処されることを覚悟していた。

⚠️カボシャン(Cabochiens):ブルゴーニュ無怖公が、王弟殺害に反発する政敵アルマニャック派を排除するため、食肉業者組合ギルドカボシャンと結託してパリで暴動を扇動した。カボシュの乱またはカボシャン蜂起と呼ばれる。

 ルニョーは獄中で、「もし逃げることができたら、残りの人生で死ぬまで毎週水曜日に断食し、毎週金曜日と土曜日の朝食を水だけを飲む」と誓った。[615]

 恐怖に駆られたときの振る舞いで、その人を判断してはならない。
 聖職者でありながら、このような(命を惜しむ)誓いを立てた彼を、無神論者のエピクロス派と同列に並べて非難することはためらわれる。彼の知性は、当時の一般的な信仰に従っていただけだと結論づけることができる。

 アルマニャック派の悲劇的な忠誠心を受け継いだルニョーは、王太子(シャルル七世)に推薦され、王太子はラングドック、スコットランド、ブルターニュ、ブルゴーニュなど各地への重要な任務を託した。[616]

 ランスの大司教(ルニョー)は、非凡な能力と不屈の熱意でその任務を遂行した。

 12月、彼は、王太子への献身と自分の健康状態を理由に「かつて獄中で立てた誓いの履行を免除してほしい」と教皇に懇願した。[617] 王太子にはルニョーが必要で、任務のためにしょっちゅう過酷な長旅をしていたからだ。

 1425年、学識ある弁護士だがおそらく悪党だったであろうルーヴェ総督[618]によって王と王国が統治されていたとき、ルニョー卿はクレルモン司教マルタン・グージュ・ド・シャルペーン(シャルペーニュ?)卿の後任としてフランス大法官(宰相)に任命された。[619]

 しかし、その後すぐ、フランス大元帥のアルテュール・ド・ブルターニュ(リッシュモン)がルーヴェを解任・失脚させたため、ルニョーはマルタン・グージュに年金2500リーブル・トゥルノワでその地位を売却した。[620]

 神に仕える敬虔な神父であるランス大司教(ルニョー)は、ラ・トレモイユほど金持ちではなかったが、持っているものを最大限に活用した。ようするに、ラ・トレモイユと同様に、ルニョーも国王に金を貸した。[621]

 しかし、当時、国王に金を貸さなかった者はいただろうか?
 シャルル七世は1万6000リーヴル・トゥルノワの負債と引き換えに、ルニョーにヴィエルゾンの町と城を与えた。

 ラ・トレモイユが大元帥を、ルーヴェと同じように失脚させると、ルニョー・ド・シャルトルは宰相に返り咲き、1428年11月8日に就任した。

 この頃までに、国王の評議会はオルレアンに兵士と大砲を派遣していた。
 ランス大司教は宰相に任命されるとすぐ、町を救援するために身を投じ、労を惜しまなかった。[623]

 ルニョーは聖職者でありながら、世俗の財産に執着する守銭奴とみなされることがある。[624]
 だが、フランス王家の大義に献身していたことは間違いない。また、ヒョウと赤十字の旗下(イングランド王家の紋章)で戦う者たちを憎んでいたのも事実である。[625]

6.4 ジャンヌ、シノンに到着

 11日間の旅を経て、ジャンヌは3月6日にシノンに到着した。[626]
 ちょうど、四旬節(レント)の第4日曜日だった。ドンレミの少年少女たちがまだ新緑が芽吹く前の灰色の野原に出かけて、母親がこねたロールパンとナッツとゆで卵を一緒に食べる日だ。彼らはその行事を「泉の祭り(well-dressings)」と呼んでいた。

⚠️ジャンヌの故郷の風習については、上巻・第一章「1.5 村の風習:消えた花輪、マンドレイク、乗馬の経験」参照。

 しかしジャンヌは、別れの言葉を告げずに去った故郷やこの行事の記憶を思い出すことはなかった。[627]

 貧しいキリスト教徒が「聖なる40日間の苦行」を取り入れた、ほとんど異教的な田舎の祭りを無視して、教会はこの日(四旬節の第4日曜日)を「レタレ(喜び)の主日」と名付けた。これは、その日のミサの始まりを告げる入祭唱の出だしが「レタレ・エルサレム(Lætare, Jerusalem)」から始まることに由来する。

 その日曜日、司祭は祭壇の高みから低音でミサを唱え、聖歌隊は聖句の中から『レタレ・エルサレム』を歌う。

 レタレ、エルサレム(エルサレムよ、喜べ)
 汝ら民よ……
 エルサレムを愛するすべての者よ、
 エルサレムとともに喜べ。
 エルサレムのために嘆くすべての者よ、
 エルサレムとともに喜べ。
 エルサレムの慰めの乳房を吸い、
 エルサレムによって満たされよ……[628]

 その日、聖書に通じた司祭、修道士、聖職者たちは、教会で集まった人々とともに『レタレ・エルサレム』を歌いながら、王国を救うために立ち上がると預言された乙女が、謙虚な姿で町にやってくるのを心に思い浮かべただろう。

 聖書の一節にある「聖なる国」を「フランス王国」の現状に当てはめ、この「典礼文(レタレ、エルサレム)」と「乙女の喜ばしい到来」を重ね合わせて、希望を見出そうとする者は少なくなかっただろう。

 レタレ、エルサレム(エルサレムよ、喜べ)
 汝ら民よ!
 フランスを愛するすべての者よ、
 真の王と正統な君主を信じて、ともに喜べ。
 ともに集い、敵に対し、すべての力を結集せよ。
 長い悲しみが明けることを、ともに喜べ。
 主は、汝らに救いと慰めを与えてくださる。

 聖ジュリアンのとりなしと、おそらく国王の使者コレット・ド・ヴィエンヌの助けによって、ジャンヌは城の近くの町で、評判の良い女性が経営する宿屋を見つけた。[629]

 宿は空っぽで誰もいなかった。客たちは、暖炉の隅に深く座り、聖ローランよりもひどい苦しみを受けている「聖なるニシン」の炙り焼きを見守っていた。[630]

 当時のキリスト教徒は、聖なる四旬節の断食と禁欲(節制)に関する教会の戒律を無視する者はいなかった。砂漠で40日間断食した主イエス・キリストの例に倣い、信者たちは四旬節の日曜日から復活祭の日曜日まで、六主日(日曜日)を除く40日間、この戒律を守った。日曜日には断食が破られたが、節制は守られた。

⚠️四旬節(Lent):四旬とは40日間のことだが、主日(日曜日)は数えないため合計46日間におよぶ。期間中、食事は1日1回のみ。魚を除く肉・卵・乳製品を食べてはいけない。ジャンヌが到着した時、宿でニシンを焼いているのはそのため。

 断食して魂を慰めながら、ジャンヌは自分の「声」のささやきに耳を傾けた。[631]
 宿屋で過ごした二日間は、ひざまずいて祈りながらのんびりと過ごした。[632]

 ヴィエンヌ川の岸辺や広い草原は、まだ黒っぽい冬の衣をまとったままで、丘の斜面には薄い霧が立ちこめていたが、ジャンヌの気を引くことはできなかった。

 しかし、教会に行く途中で急な道を登っているとき、あるいは宿屋の庭で馬の手入れをしているときに、ジャンヌが北に目を向けると、すぐ近くの山の上——ちょうど50〜60年前から使われるようになった火砲で石の砲弾を打ち上げたときの飛距離——に、王国でもっとも立派な城の塔が見えた。

 その誇り高い城壁の向こうには、ジャンヌが奇跡的な愛に駆られて旅をしてきた理由、国王シャルル七世が確かに息づいていた。

6.5 シノン城の外観、イングランドの守護者・聖ジョージとフランスの守護者・聖ミカエル

 ジャンヌの目の前には、武装した城と長い城壁があった。主塔、小塔、やぐら、カーテンウォール、ファサード、見張り塔などの長い城壁の塊がそびえていた。城は大きく3区画に分かれ、堤防(堀)、障壁、裏門(小門)、落とし格子によって隔てられていた。

 ジャンヌの左側、日没の方角(西)には、クードレイの「8つの塔」が他の塔の背後に並んでいた。そのうちのひとつは、かつてはプランタジネット家のイングランド王のために作られたもので、もっとも新しいものでも200年以上は経っていた。

 ジャンヌの右側(東)には、古びた城壁と、銃眼(マチコレート)がいくつも施された塔を持つ「中央の城」がはっきりと見えた。そこには聖王ルイの居室と王の居室、ジャンヌが「優しい王太子さま」と呼ぶシャルル七世の居室があった。

 使者のための控え室の近くには、ジャンヌを迎える大広間があった。
 大広間の位置は、町に向かって四角い古塔が隣接していることで示されていた。

 右側には、広大なベイリー(城郭内庭)と要塞があり、守備隊の宿舎として、また城の中央部の防衛のために使われていた。

 そばに大きな礼拝堂があり、逆さまの竜骨キール型の屋根が城壁の上に突き出ていた。

 イングランド王ヘンリー二世によって建てられたこの礼拝堂は、聖ゲオルギウスの庇護下にあったため、「聖ゲオルギウスの砦」と名づけられていた。[633]

 当時、勇敢な騎士・聖ゲオルギウス(聖ジョージ)の伝説は誰もが知っていた。
 槍でドラゴンと戦って王女を救出したが、のちにローマ皇帝に捕らわれて棄教を迫られ、信仰を捨てずに殉教した。
 アレクサンドリアの乙女・聖カタリナと同じく、聖ゲオルギウスも鋭いスパイクのついた車輪に縛られたが奇跡が起きて壊れ、斧で斬首され、偉大な聖人であることを証明した。[634]

 しかし、ただひとつ、聖カタリナと違う点がある。
 イングランドでは聖ゲオルギウスを聖ジョージと呼んで崇拝し、300年以上前から聖ジョージの祝日を盛大に祝ってきたため、ゴドン人(イングランド人に対する蔑称)に属しているも同然だった。

 彼らは、聖ジョージを自分たちの守護聖人と考え、他のすべての聖人よりも真っ先に彼を呼び出して祈った。ガーター騎士団の騎士も、ウェールズの卑劣な射手も、いつも聖ジョージの名を唱えた。

 実際、聖ゲオルギウス本人がどう考えているのか、悪しき大義のために戦っている略奪者たちを非難していないのか、誰にも分からない。

 だが、イングランドにおける大いなる崇拝が、英仏間の戦況に影響を与えるのではないかと心配されていた。楽園の聖人は、もっとも信心深く呼びかける者に味方するからである。

 結局のところ、聖ミカエルをフランス人と関連付けるのと同じく、聖ジョージはイングランド人であった。

 フランス王国の守護聖人である聖ドニが、自身の名を冠した修道院(サンドニ大聖堂)が敵に占領されるのを許して以来、栄光の大天使(聖ミカエル)は百合の王国のもっとも用心深い守護者として現れていた。

 ジャンヌもそのことをよく知っていた。

6.6 フランス王に仕えた聖人・預言者(1)

 ジャンヌが城下で待機している間に、コレット・ド・ヴィエンヌがヴォークルール司令官から預かった報告書が国王に届けられた。[635]

 その報告書には、ジャンヌの言動について書かれていた。

 これは、評議会で検討されるべき無数の課題のうちのひとつであり、国王自身が吟味しなければならない内容に思われた。
 なぜなら、それは国王の職務に関わることであり、特に国王自身の関心を引くものであったからだ。これは並外れて信心深い乙女に関する問題であり、国王自身がフランスにおける最も高位の聖職者であったからである。[636]

 知恵ある君主だった国王の祖父(賢明王シャルル五世)は、神の声を宿している信心深い女性の助言を軽んじることは決してなかった。

 1380年頃、シャルル五世はギユメット・ド・ラ・ロシェルをパリに招いた。
 彼女は独り身で瞑想のために隠遁生活を送った結果、非常に大きな力を得た。伝説によると、彼女は恍惚状態になると、地面から2フィート(60センチ)以上も体を浮かせることができたという。
 シャルル五世は、多くの教会に美しい祈祷所を建て、彼女が国王のために祈ることができるようにした。[637]

 孫であるシャルル七世も同じように、むしろそれ以上に頼るべきだった。
 祖父よりも孫の方が、助言者を必要としていたのは言うまでもない。

 王と聖人の関係について、王家にはもっと最近の例があった。

 国王の父である哀れなシャルル六世は、トゥールを通過する際、王弟オルレアン公ルイに「マリー・ド・マイユ夫人を自分に引き合わせるように」と命じた。
 彼女は純潔(処女)の誓いを立て、欲望にまみれた獅子のような配偶者を臆病な子羊に変えてしまった。彼女は王に秘密を明かし、王は彼女を気に入ったので3年後に再びパリへ招いた。二人きりで長く語り合い、彼女はさらに多くの秘密を明かしたので、王は贈り物をたっぷり与えた。

 また、この同じ君主は、コーの貧しい騎士ロベール・ル・メノーに謁見を許​​した。ロベールはシリアの沿岸近くで難破の危機に瀕したとき、神の啓示を受けて幻視を見たという。彼は、「神が平和を回復するために自分を遣わした」と宣言した。[639]

 さらに好意的にシャルル六世に迎えられたのが、マリー・ロビーヌという女性で、一般的には「アヴィニョンのラ・ガスク」と呼ばれていた。[640]

 1429年当時(ジャンヌが来た頃)の宮廷には、「シャルル六世が教皇ベネディクトゥス13世に服従していることを確認するために女預言者が送り込まれた」ことを覚えている者がいた。この教皇は対立教皇とみなされていたにもかかわらず、ラ・ガスクは女預言者としての地位を確立していた。

 ジャンヌ同様、彼女もフランス王国の荒廃について多くの幻視を経験し、空に武器を見たという。[641]

 イングランド王も、フランス王と同様に、男女を問わず聖人の言葉に耳を傾ける用意があった。当時は大勢の自称聖人たちが予言を語っていた。

 ヘンリー五世は、サント・クロードの隠者ジャン・ド・ガンに助言を求め、彼は「王の死期が差し迫っている」と予言した。その後、臨終の床で、王は再びこの厳格な預言者を召喚した。[642]

 聖人が王に語りかけ、王が聖人の声に耳を傾けるのは一般的な慣習だった。
 敬虔な君主だったシャルル七世が、奇跡的な助言者の知らせを軽視できるだろうか? もしそんなことをすれば、王は賢明な人々から非難されていただろう。

 シャルル王はヴォークルール司令官の手紙を読み、ジャンヌの護衛たちを王の前に呼び出して尋問した。

 彼らは、ジャンヌの使命と奇跡については何も語ることができなかった。
 しかし、旅の途中で目撃したジャンヌの善良さについて話し、彼女に悪意はまったくないと断言した。[643]

6.7 フランス王に仕えた聖人・預言者(2)

 確かに、神は処女の口を通して語られる。
 しかし、このようなことには細心の注意を払い、真の預言者と偽りの預言者を注意深く区別し、天からの使者を悪魔の使者と間違えないようにする必要がある。

 悪魔の使者は、時として幻想を作り出す。
 聖ペテロの奇跡に匹敵することをした魔術師シモン(シモン・マグス)の例にならい、これらのやからは人々を誘惑するために悪魔的な術に頼る。

 12年前に、ジャンヌと同じくロレーヌ辺境出身のカトリーヌ・スアーヴという女性も予言をしていた。彼女はヌフシャトー近くのトン出身で、ポール・ド・ラテで隠遁生活を送っていたが、マゲロンヌの司教は彼女が嘘つきで魔術師(魔女)であると見抜き、1417年にモンペリエで生きたまま火刑に処された。[644]

 多くの女性(femmes)あるいは女(femelles)や婢女《はしため》(mulierculæ)[645]が、このカトリーヌのように生き、同じような最期を迎えた。

⚠️訳者の覚書。
- femme:成人女性、人間の女性。
- femelle:生物学的な意味での女、動物の雌。
- mulierculæ:ラテン語で「小さな女性」だが、軽蔑的な意味合いで使われる。無知で不品行で影響を受けやすい女性。あるいは、社会から阻害された女性。

 何人かの聖職者がジャンヌに手短に尋問し、「何のために来たのか」と尋ねた。
 最初、ジャンヌは「国王以外には何も話さない」と答えたが、聖職者たちが「国王の名において尋問している」と告げると、彼女は「天の王が自分に二つのことを命じた」と語った。

 一つはオルレアンの包囲を解くこと、もう一つは国王をランスに導き、聖油​を​注ぎ戴冠させることだった。[646]

 ヴォークルールでロベール卿の前で話したように、ジャンヌはこれらの聖職者たちの前で、かつてシャンパーニュの自由農民がジャン二世のもとに派遣されて語ったことと非常によく似た話を繰り返した。

 ジャンヌは今、シャルル王太子のもとで同じことを再現しようとしていた。

 シャンパーニュの自由農民は、戦場へ急ぐジャン二世(シャルル七世の曽祖父)が軍を率いて野営していたボース平原まで旅をし、陣営に入ると、「王の臣下たちの中でもっとも賢く優れた者に会いたい」と申し出た。

 自由農民の願いを聞いた貴族たちは笑い始めたが、その中のひとりはこの自由農民と面識があり、彼が善良で、素朴で、嘘をつかない人物であることをすぐに認識した。

 彼は自由農民に「何か助言があるなら、王の従軍司祭に相談しなさい」と勧めた。自由農民は、王の従軍司祭のところへ行った。

「王に謁見させてください。王以外には誰にも言えない話があります」
「要件は何ですか? あなたの心の中にある秘密を教えなさい」

 善良な男は秘密を明かそうとはしなかったので、司祭は王のところへ行き、進言した。

「陛下、ある男が謁見を求めています。彼は口が固く、私には賢明な人物に見えますが、彼は陛下ただお一人だけに話したいことがあるそうです」

 しかし、ジャン二世は面会を拒み、その代わりに告解司祭を呼び、従軍司祭とともにその自由農民に会って話を聞いてくるように命じた。

 二人の司祭はその自由農民のもとへ行き、「国王の代わりに話を聞く」と告げた。
 この知らせを聞いて、自由農民は絶望したが、二人の司祭を信頼して秘密を打ち明けた。

「野原に一人でいたとき、『フランス王ジャンのところに行き、敵と戦うなと警告せよ』という声が三度も語りかけてきました。私はその声に従い、王に伝えるために来ました」

 この話を聞いて、二人の司祭は自由農民を王のところへ連れて行ったが、王は笑って相手にしなかった。

 ジャン二世は戦友とともにポワティエに進軍し、そこでイングランドのエドワード黒太子と戦った。フランスはこの戦いに敗北して全軍を失い、王は顔面に二カ所も傷を負ってイングランドの捕虜となってしまった。[647]

6.8 聖職者と占星術師の意見

 ジャンヌを尋問した聖職者たちは、彼女に関してさまざまな意見を持っていた。
 ある者は、「彼女の使命は偽り(でたらめ)であり、国王は彼女に注意すべきだ」と主張した。[648]
 また別の者は「彼女は神から遣わされた」と言い、「国王に何か伝えたいことがあると言っているのだから、少なくとも話を聞くべきだ」と正反対の主張をした。

 当時、国王に仕えていた二人の司祭、グルノーブル高等法院長のジャン・ジラールと、後にサン=マルタン=ド=トゥールの副司教(助祭長)となるピエール・レルミットは、この件は「難しいが興味深い」と判断し、オルレアン家とフランス王太子に長年、評議会と外交の両方で仕えてきたアルマニャック派の高位聖職者ジャック・ジェリュに相談した。

 ジェリュは60歳近くになったため評議会から引退し、トゥール司教座を離れて、より地位が低く隠遁に適したアンブラン司教座に移っていた。名声が高く、尊敬に値する人物だった。[649]

 ジャン・ジラールとピエール・レルミットは、乙女の来訪について手紙でジェリュに知らせた。その手紙の中で、「神学教授3人から順番に尋問を受けた結果、彼女は信心深く、まじめで、節制しており、週に一度(毎週)告解と聖体拝領の秘跡を受けている」ことも伝えた。

 ジャン・ジラールは、「彼女はユディトとデボラの再来で、巫女(シビュラ)の口を通して語った神によって遣わされたのではないか」と考えた。[650]

⚠️ユディトとデボラ:聖書に登場する勇敢な女戦士たち。

 シャルル七世は敬虔な人で、毎日3回のミサを欠かさず、ひざまずいて熱心に聞いていた。
 典礼の時間になると(定時に聖務日課を行い)、まずは死者のために祈り、その他の祈りに加えて、慣習的な祈りを繰り返した。毎日告解(懺悔)し、祝日ごとに必ず聖体拝領を受けた。[651]

⚠️聖務日課:修道士や司祭が毎日おこなう祈りの儀式・典礼。私的な祈りとは区別され、すべての信者のために祈り、神への賛美を通して昼夜の働き(仕事・家事労働など)をささげ、聖化するように努める。

 その一方で、シャルル七世は、星を読み出来事を予言する占星術も信じており、その点では当時の他の君主たちと変わらなかった。彼らの誰もが、それぞれ占星術師を抱えていた。[652]

 亡きブルゴーニュ無怖公は、ユダヤ人の占い師、メートル・ムスクをいつも連れていた。
 彼が日没を見ることはなかったあの事件の日も、モントロー橋に向かう際、メートル・ムスクは「これ以上進まないように」と忠告し、「公爵は二度と帰ってこないだろう」と予言した。公爵はそのまま歩みを進め、殺害された。[653]

 シャルル七世は、ジャン・デ・ビュイヨン、ジェルマン・ド・ティボンヴィルなど、とんがり帽子をかぶった人たちに信頼を寄せていた。[654]

 彼は宮廷に常に2〜3人の占星術師を雇っていた。
 これらの暦作成者たちは、出生図を作成して運命を占い、戦争や反乱の到来を空から読み取った。

 そのうちの1人、パリ大学の研究員(フェロー)で公証人のメートル・ロランは、ある夜、ある時間に、屋根の上から空を観察していたところ、上昇宮(アセンダント、東の地平線と黄道が交わった点)の境界(カスプ)が乙女座にあり、金星、水星、そして太陽が天頂(MC)に位置していた。[655]

⚠️占星術の解釈として、この配置は王の権威や成功を象徴する極めて強力な座相を示している。

 彼の同僚であるジュネーブ出身のギヨーム・バルバンは、これを「イングランド軍がフランスから追い出され、名もなき乙女(ラ・ピュセル)の手によって王が復活する」と解釈した。[656]

 また、異端審問官ブレアルの言うことを信じるならば、ジャンヌがフランスに来る少し前に、セビリアの賢明な天文学者ジャン・ド・モンタルサンが国王に次のような手紙を書き送っていた。

「処女の助言により、汝は勝利するであろう。パリの門まで勝利の道を進み続けよ」[657]

 ちょうどその頃、シャルル七世はシノンに、ノルマンディー出身の老占星術師ピエールを連れていた。もしかしたら、パリの聖職者ピエール・ド・サン・ヴァレリアンと同一人物かもしれない。

 彼は最近、何人かの貴族を伴って(シャルル七世の長男)ルイ王太子と婚約したマーガレット王女(マルグリット・デコス)を迎えに行き、スコットランドから帰国したばかりだった。

 その後まもなく、真実かどうかはともかく「ピエール卿は空を見上げて『ムーズ川流域の羊飼いの娘がイングランド軍を追い払うために運命を託された』ことを読み取った」と信じられていた。[658]

 ジャンヌは宿屋で長く待つ必要はなかった。
 シノンに到着してから2日後、彼女が熱望していたことが実現し、王のもとに連れて行かれたのだ。[659]

 前世紀(19世紀)まで、グラン・カロワの近く、木造の家の向かいに井戸があった。言い伝えによると、ジャンヌは城へと続く急な坂を登る前に、馬から降りてその井戸の縁に足をかけたという。

 ラ・ヴィエイユ・ポルトを通り[660]、ジャンヌはすでに堀を渡っていたが、王はまだ彼女を迎えるかどうか迷っていた。

 王の親しい顧問たち、特に重要でない人たちは「悪事を企んでいるかもしれない見知らぬ女に用心するように」と助言した。
 また、他にも「この羊飼いの娘は、ロベール・ド・ボードリクールの手紙によって紹介され、王に敵対する地域を通り抜けてきたこと、旅の途中で、ほとんど奇跡的な方法で多くの川を渡ってきた」ことを王に伝える者もいた。

 これら、さまざまな意見を考慮して、国王はジャンヌを迎えることに同意した。[661]

6.9 シャルル七世と謁見(1)二人の容姿

 シノン城の大広間は、大勢の人でごった返していた。
 国王が誰かと謁見を催すたびにそうであるように、閉ざされた室内は、集まった群衆の息づかいでむせ返るようだった。
 広々とした部屋は、廷臣たちにはおなじみの、市場か騒々しい集まりのような様相を呈していた。

 時は夕刻、塗装された天井の梁の下では、50本の松明が燃えていた。[662]

 毛皮と礼服(ローブ)をまとった年配の貴族たち、滑らかな肌をした華奢な青年貴族たち、ぴったりした脚衣ショースに包まれた細い脚、長く尖った靴を履いたつま先。
 宮廷の慣習に従って、完全武装した貴族たち300人が群がり、互いに押し合い、ひじを突き合い、案内係があちこちで廷臣たちの頭を杖で小突いていた。[663]

 オルレアンからの二人の使節、ジャメ・デュ・ティレ卿とモンタルジ総督である老男爵アルシャンボー・ド・ヴィラールのほか、調査官(Maître des requêtes)シモン・シャルル、クレルモン伯爵、ゴークール卿、おそらくラ・トレモイユ卿、そして王国の宰相であるランス大司教といった大貴族たちも出席していた。[664]

 ジャンヌが近づいてきたと聞いて、シャルル王は群衆の間に隠れた。直前になって疑念と躊躇があったのか、話し相手がいたのか、あるいは他に理由があったのかもしれない。[665]

 ジャンヌは、ヴァンドーム伯爵によって紹介された。[666]

 短くて太い猪首の下にある胴体はたくましくも健康的で、男物の革の胴着で締め付けられていたにもかかわらず、胸元は豊満に見えた。男のような格好をしていた[667]が、脚衣よりも群衆を驚かせたのは、ジャンヌの髪型とかぶり物だった。
 ジャンヌの黒い髪は、ウールのフードの下でスープ皿のように丸くカットされて、小姓ペイジのようだった。[668]

 身分や年齢を問わず、当時の女性たちは髪を隠すように気を配り、当時流行していたコイフやベール、または高い頭飾り(ヘッドドレス)の下から髪が一筋も漏れないようにしていた。

 ジャンヌの無造作に垂らした髪は、当時の人々には奇異に見えただろう。[669]

 彼女はまっすぐ王のもとへ進み、帽子を脱ぎ、膝を曲げてお辞儀をした。

「優しい王太子さま、神があなたに長寿を与えてくださいますように」[670]

 のちに、王よりも豪華に着飾った貴族たちの中で、ジャンヌがシャルル七世本人を見抜いたことに驚きの声が上がった。

 その日の国王は、質素な服装をしていたと言われている。
 また、シャルル七世は普段から、着古したプールポワン(ダブレット、上着)に新しい袖を付ける習慣があったことが知られている。[671] いずれにしても、国王は服を見せびらかす人ではなかった。

 非常に醜く曲がった膝(knock-kneed、X脚)、痩せた細い太もも、小さく不思議な光がまたたく目、球根のような大きめの鼻がついた26歳の王子は、骨張った足をよろめかせて震えた。[672]

 ジャンヌが国王の肖像画を見て、すでに顔を知っていたという可能性はあり得ない。当時、王侯貴族の肖像画は珍しいものだった。

 ジャンヌが、幼子イエスに贈り物を捧げる東方の三博士の一人としてシャルル王を細密画で描いた希少本を手にする機会はなかった。[673] また、木板に描かれた、礼拝堂のカーテンの下で手を組んだ王の肖像を見たこともないだろう。[674]

 もし、誰かが偶然、このような肖像画を見せていたとしても、ジャンヌは宮廷の人たちを見慣れていなかったのだから、ほとんど見分けがつかなかったに違いない。

 もしかしたら、シノンの人々が、王が普段着ている服装や帽子の形について説明したかもしれないが、追求しても無駄だろう。なぜなら、シャルル七世は室内でも、晩餐のときでさえ、他のみんなと同じような帽子をかぶっていたからである。

 もっとも可能性が高いのは、ジャンヌに好意的な人たちが「国王はあの方だ」と親切に教えたのではないだろうか。

 いずれにしても、ジャンヌが迷わずに王太子に直行しても誰も驚かなかった。見分けるのはそれほど難しくなかったようだ。

6.10 シャルル七世と謁見(2)秘密の会談

 ジャンヌが素朴なお辞儀をすると、王は彼女の名前と望みを尋ねた。

「美しい王太子さま、私の名前はジャンヌ・ラ・ピュセルです。天国の王が、私を通してあなたに語りかけています。あなたはランスで塗油式を受けて(聖別されて)戴冠し、フランス王であ​​る天国の王の代理人となるだろうと告げています」

 ジャンヌは「オルレアンの包囲を解放する」と約束し、仕事に取り掛かる許可を求めた。[675]

 王はジャンヌをつれていき、しばらく尋問した。
 シャルル七世は生まれつき穏やかな性格で、貧しい人や身分の低い人にとりわけ親切だったが、不信感や疑念がないわけではなかった。

 このプライベートな(秘密の)会話の中で、ジャンヌは天使のように親しみをこめて国王に話しかけ、奇妙なことを告げたと言われている。

「私の神は、あなたにこう告げるようにと命じました。あなたはフランスの真の継承者であり、紛れもなく王の嫡子です。あなたをランスへ導き、そこで戴冠させ、聖油を注がれるように。神はそのために私を遣わしました」[676]

 のちに、ラ・ピュセルの従軍司祭は、「ジャンヌ本人からこの言葉を聞いた」と報告した。

 確かなことは、アルマニャック派がこの言葉を、百合の血統(フランス王家のこと)に有利な奇跡に変えるまで、それほど時間はかからなかったということだけだ。
 彼らは「無垢な少女の口を通して、神自身が語ったこの言葉は、王のひそかな苦悩に対する返答だった」と主張した。

 かねてより、イザボー王妃の息子(シャルル七世)は、「自分の体には王家の血が流れてないかもしれない」という考えに心を乱され、悲しみに暮れながら、「出生に関する疑いが天からの光によって払拭されない限り、王国を手放し、自らを簒奪者と宣言する」覚悟ができていたと言われている。[677]

 彼がフランスの真の後継者であると明らかになったとき、王の顔は喜びに輝いていたと人々は語った。[678]

 疑いなく、アルマニャック派の説教者たちは、イザボー王妃を「大食らいの女」とか「淫蕩のヘロディアス」などと呼ぶのが常だった。

 しかし、彼女の息子がどこからそのような奇妙な疑念を抱くようになったのか知​​りたいものだ。彼が王太子になった時点では、そのような出生の疑いはなかった。

 もし、必要であれば、シャルルを支持する党派の法学者たちは、法律や慣習を根拠に「彼は生まれながらにして亡き国王の真の相続人であり、正当な後継者である」と証明しただろう。

 なぜなら、血統(継承権)とは、隠された理由によってではなく、誰が見ても明らかな理由によって公正に証明されなければならないからだ。そうでなければ、王国であろうと土地1エーカーであろうと、法定相続人を指定することは不可能になってしまう。

 とはいえ、当時の王は、きわめて不幸な生い立ちだったことを心に留めておかなければならない。
 度重なる不幸は良心を揺さぶり、疑念を抱かせる。
 神に見捨てられたと感じ、何が正しいのかわからなくなった結果、彼が自分の大義の正当性を疑うようになったのも無理はない。

 しかし、もし王が本当に痛ましい疑念に取り憑かれていたとしたら、気が狂っているか敵から送り込まれたかもしれない少女の言葉ひとつで、それほど簡単に疑念が晴れるものだろうか?
 彼のような疑り深い人物が、軽々しく他人を信じるだろうか。

 王の脳裏に最初に浮かんだ考えは、「聖職者の誰かが都合のいい話をするように指示したのではないか」という疑念だったに違いない。

 ジャンヌを解放した後、国王はゴークール卿をはじめとする評議会のメンバーを集め、たった今聞いたばかりの話を報告した。

「彼女は、『神が私を助けて王国を取り戻すために遣わした』と言った」[679]

 なお、国王は、「自分だけが知っている秘密をジャンヌが明かした」とは付け加えなかった。[680]

 王の顧問官たちは、その少女についてほとんど知らなかった。彼女の生い立ちと信仰について調べるために、自分たちの前に彼女を呼んで尋問する必要があると判断した。[681]

6.11 魔術師マーリンの予言(1)アーサーと呼ばれるアルモリカの王子

 ゴークール卿は、ジャンヌを宿から連れ出し、クードレ城の塔に宿泊させた。
 ジャンヌはこの3日間、町を見下ろすようにそびえ立っているこの城を眺めていた。[682]

 シノン城を構成する《《3つの城》》のひとつ「ル・クードレ」は、王が居住している中央の城と堀と要塞によってのみ隔てられていた。[683]

 ゴークール卿は、シノンの町の副官で王の執事長でもあるギヨーム・ベリエに、ジャンヌの世話を任せた。[684]

 彼は、ジャンヌの身の回りを世話する小姓として、自分の従者の中から15歳のイメルゲ(Immerguet)を与えた。ミンゲまたはミュゴーと呼ばれていたが、本名をルイ・ド・クートといい、オルレアン家に100年にわたって仕えてきた古い家柄の出身だった。

 彼の父ジャンもミンゲと呼ばれていた。フレネイ=ル=ジェルメール、ラ・ガドリエール、ミトリーの領主で、オルレアン公の侍従だったが、前年に極貧のうちに亡くなった。

 未亡人と5人の子供(男子3人と女子2人)が残され、娘のひとりジャンヌは1421年以来、シャトーダンの総督フロランタン・ディリエ卿の妻となっていた。

 母親はスコットランド貴族出身でノヴィアンの女領主カトリーヌ・ル・メルシエだが、子供たちとともに非常に貧しい生活を送っていた。だが、オルレアン公は亡き侍従の忠実な働きに報いるため、私財から援助を与えていた。[685]

 ジャンヌは、ミンゲを一日中そばに置いたが、夜は女性たちとともに寝た。

 善良で敬虔なギョーム・ベリエの妻が、ジャンヌを見守っていた。[686]
 クードレ城で、小姓のミンゲはジャンヌがひざまずいて祈りを捧げながら、ときどき涙を流しているのを何度も見た。[687]

 数日の間、身分の高い人たちがジャンヌと話をしにやって来た。彼らは、ジャンヌが少年の格好をしているのを見かけた。[688]

 ジャンヌが王に仕えるようになってから、多くの人が「あなたの故郷に『ル・ボワ・シュニュ』と呼ばれる森があるのではないか」と尋ねた。[689]

 この質問が、ジャンヌに投げかけられたのは、「ル・ボワ・シュニュ(Le Bois-Chenu)から乙女がやってくる」という魔術師マーリンの予言が広まっていたせいだ。
 当時はさまざまな予言が流行し、特に魔術師マーリンの予言は誰もが耳を傾け、感銘を受けていた。[690]

 マーリンの母は悪魔に誘惑されて身ごもり、息子はそこから深遠な智恵を得た。
 未来を解き明かす鍵となる数秘術に加え、物理学の知識を持ち合わせており、それらを駆使して魔法をかけた。岩を巨人に変えることも簡単だった。
 しかし、マーリンは女性に打ち負かされた。妖精ヴィヴィアンは魔法使いを魅了し、サンザシの茂みの中に魔法をかけて閉じ込めてしまった。
 これは女性の力を示す多くの例のひとつにすぎない。

 著名な学者や名高い師匠たちは、「マーリンは多くの未来の出来事を明らかにし、まだ起こっていない多くのことを予言した」と述べている。

 悪魔の息子が予言の才能を授かったことに驚く人々に対して、彼らは「聖霊は望む者には、誰にでも秘密を明かす。なぜなら、聖霊は巫女(シビュラ)に語らせ、バラムのロバの口を開かせたではないか」と説明した。

⚠️バラムのロバ:旧約聖書『民数記』第二十章に登場する寓話。天使が見えない預言者バラムと、天使を見て言葉を話せるようになったロバが議論する。

 マーリンは、ベルトラン・デュ・ゲクラン卿が盾に鷲をつけた戦士の姿をしているのを幻視した。この話は、ゲクラン卿がシャルル五世に仕えて偉業を成し遂げた後に思い出された。[691]

 この賢者の予言を、フランス人同様にイングランド人も固く信じていた。

 アジャンクールの戦いで、(のちにフランス大元帥になる)若かりしリッシュモン伯爵アルテュール・ド・ブルターニュが捕虜となり、身代金を要求され、イングランド王ヘンリー五世の前に連れてこられたとき、ヘンリー王は「リッシュモンがブルターニュ公爵家とイノシシ(Boar)の紋章をつけている」のを見て歓喜した。マーリンの予言を思い出したからである。

「アーサーと呼ばれるアルモリカの王子が
 イノシシ(Boar)の紋章を掲げてイングランドを征服する
 彼は、イングランド人を滅ぼしたあと
 ブルターニュ人を再びこの地に住まわせるだろう」[692]

⚠️予言詩の原文:
A Prince of Armorica, called Arthur,
with a boar for his crest, shall conquer England,
and when he shall have made an end of the English folk
he shall re-people the land with a Breton race.

 イングランドの言葉で聖ゲオルギウスを聖ジョージと呼ぶように、アルテュールをアーサーと呼ぶ。アルモリカとは、ロワールやブルターニュ一帯を含む古代ガリアの地名である。
 アルテュール・ド・リッシュモン伯爵は、ブルターニュ公の弟であり、ブルターニュの王子だった。

6.12 魔術師マーリンの予言(2)ボワ・シュニュから来る乙女

 さて、1429年の四旬節レントの期間中、シャルル七世を支持するアルマニャック派の間で、魔術師マーリンの予言書から引用された次の予言が広まった。

「ボワ・シュニュの町から、国を癒す乙女が現れる。
 彼女がすべての城塞を襲撃したとき、
 彼女の息吹ですべての泉が干上がる。
 彼女は苦い涙を流し、
 島を恐ろしい音で満たす。

 そのとき、彼女は10本の角を持つ雄鹿に殺される、
 そのうち6本の枝に黄金の冠をいただき、
 残りの6本は雄牛の角に変わり、
 そして、恐ろしい音がブリテン諸島を揺るがす。

 デンマークの森が立ち上がり、人間の声が言うだろう。
『来たれ、カンブリアよ、コーンウォールを汝のものとせよ』」[693]

⚠️予言詩の原文:
From the town of the Bois-Chenu there shall come forth a maid for the healing of the nation.
When she hath stormed every citadel, with her breath she shall dry up all the springs.
Bitter tears shall she shed and fill the Island with a terrible noise.
Then shall she be slain by the stag with ten antlers, of which six branches shall bear crowns of gold, and the other six shall be changed into the horns of oxen;
and with a horrible sound they shall shake the Isles of Britain.
The forest of Denmark shall rise up and with a human voice say:
"Come, Cambria, and take Cornwall unto thyself."

⚠️カンブリア:ウェールズを指す古語。

 このミステリアスな言葉の中で、マーリンは「処女が敵の手によって滅びる前に、偉大で素晴らしい行為を成し遂げる」ことをぼんやりと予言している。
 ただひとつ、はっきり明言しているのは「この処女がボワ・シュニュの町から現れる」ことだけだ。

 もし、この予言が、元の出典(原典)までさかのぼって調査され、『ブリタニア人の歴史(Historia Britonum)』第4巻にある「ギュントニア・ヴァティキニウム(Guyntonia Vaticinium)」というタイトルを見つけて、読んでみれば一目瞭然だ。
 原典では(ボワ・シュニュの町ではなく)イングランドの都市ウィンチェスターを指している。
 つまり、当時フランスで流布していたバージョンは、原典の一部を書き換えて、内容を歪曲していたのである。

 しかし、テキストを検証しようと考えた者はいなかった。
 本は希少品で、人々は批評レビューする思考を持っていなかった。

 意図的に改ざんされたこの予言は、マーリンの純粋な言葉として受け入れられ、多数の写しコピーが世界中に広まった。

 これらの写し(写本)の発信源はどこなのか?
 その起源は永遠に謎のままだろう。
 しかし、ひとつだけ確かなことがある。

 それは、ジャック・ダルクとロメの娘であるジャンヌのために作られたということだ。父親の家から「ル・ボワ・シュニュ」と呼ばれる森の端を見ていた少女を指しているのは明白だ。

 つまり、「予言を改ざんして広めた発信者・発信源」はジャンヌにごく近い場所から来たもので、(昔から知られていた予言ではなく)この時代に流布されたものだ。[694]

 もし、この改竄されたマーリンの予言が、ジャンヌが村にいたころに聞いた「王国を救うためにロレーヌ辺境から乙女が来る」予言とは別物だとしても、密接に関連しているのは間違いない。ふたつの予言には、家族のような類似性がある。[695]

 これらの予言は、双子のように共通の魂を持っている。
 ムーズ渓谷の聖職者たちとロワール地方の聖職者たちが、ドンレミの霊感少女に注目を集めようと画策していたことを示唆している。

6.13 尊者ベーダの予言

 魔術師マーリンの予言が「ジャンヌの使命」を予言していたなら、尊者ベーダも同類の予言をしていたに違いない。なぜなら、尊者ベーダと魔術師マーリンはいつも同じ予言をしているからだ。

 ウェアマウスの修道士「尊者ベーダ」は、600年前に亡くなったが、生前はまさに知識の宝庫だった。

 彼は、神学と年代記について多くの著書を残し、夜と昼、週と月、星座と黄道十二宮、戒律、月の周期(太陰暦)、教会の移動祝日について論じた。
 著書『時間の計算論(De temporum ratione)』では、彼が生きていた時代のあとに続くであろう世界の第7時代と第8時代について取り上げている。

 やはり、ベーダは予言していた。
 オルレアン包囲戦のころ、教会関係者はベーダの名を冠した謎めいた詩を広め、乙女の到来を予言した。

「6の倍数の頭巾、7の倍数の仲間が集い
 ガリアの若者は、雄牛との新たな戦いに備えるだろう
 見よ、戦いは祝福され、乙女が旗を掲げる」

⚠️予言の原文・ラテン語詩
Bis sex cuculli, bis septem se sociabunt,
Gallorum pulli Tauro nova bella parabunt
Ecce beant bella, tunc fert vexilla Puella.

 予言詩の1行目はクロノグラムで、時期が含まれているとのことだ。
 解読するには、予言詩の中から「数字をあらわすローマ字」を拾い、それらを合計する。

⚠️数字をあらわすローマ字を大文字にしています。
bIs seX CVCVLLI, bIs septeM se soCIabVnt.

1 + 10 + 100 + 5 + 100 + 5 + 50 + 50 + 1 + 1 + 1000 + 100 + 1 + 5 = 1429

 したがって、この予言時は1429年を指していることになる。

 もし、誰かがこの予言詩の出典元を見つけようと、尊者ベーダの著書を探しても徒労に終わっただろう。なぜなら、存在していないからだ。
 マーリンの予言の原典から「ボワ・シュニュ」を探した者がいなかったのと同じく、尊者ベーダの原典を探した者はいなかった。[697]

 そして、ベーダとマーリンの両者が「乙女の到来を予言した」と解釈され、それが広まった。

 当時、乙女到来に関する「予言書」、「クロノグラム」、「チャーム(魔除け・まじないの装身具)」などがロワール川の近辺から伝書鳩のように飛び立ち、王国中に広まった。

 同年の5月か6月には、ベーダのにせ予言がブルゴーニュに到着していただろう。
 それよりさらに早く、パリでもその噂が話題になっていた。

 フランスの修道院で隠遁生活を送っていた老齢のクリスティーヌ・ド・ピサンは、1429年7月31日以前に「ベーダとマーリンが乙女を幻視した」と書き残している。[698]

6.14 偽の予言:献身的な謀略

 ジャンヌのために乙女到来の予言を捏造することに忙しかった聖職者たちは、「ベーダの偽予言」と「マーリンの改竄された予言」にとどまらなかった。

 彼らは本当に不屈の精神を持っていた。
 私たちは幸運なことに、時の流れによる失伝をまぬがれた彼らの作品の一部を見ることができる。

 次に紹介する作品は、難解な予言のスタイルで書かれた短いラテン語の詩だ。
 以下は、その古フランス語バージョンからの翻訳だ。

「男装の処女が、下女の体で、神の命令により
 百合をたずさえて沈んでいる王を目覚めさせる
 呪われし敵、オルレアンの町を包囲し
 住民の心に恐怖を植え付けている敵を
 追い払うために出陣する

 もし民衆が勇気を奮い起こして戦いに赴くなら
 裏切り者のイングランド人は死によって打ち倒される
 乙女のために戦う戦神の手によって
 フランスは彼らを打ち倒し
 その時、戦争は終わる

 古い契約と古い友情が復活する
 慈悲と正義が回復する

 平和条約が結ばれ
 すべての人は自らの意志で王のもとに戻る
 王は正義を重んじ、すべての人に正義を執行し
 臣民を美しい平和の中に保つ

 以後、ヒョウのしるしを持つイングランドは
 フランスの王を名乗ることはできない」

[本来ならここで終わりだが、古フランス語バージョンでは、翻訳者が最後の一文に and adopt the arms of France, which arms are borne by the holy Maid と書き加えた。その結果、乙女の功績・存在感が強調される]

「以後、ヒョウのしるしを持つイングランドは
 フランスの王を名乗り
 聖なる乙女がそのアームに掲げる
 フランスの紋章アームを採用することはできない」

⚠️予言詩の原文(英訳)
A virgin clothed in man's attire, with the body of a maid,
at God's behest goes forth to raise the downcast King,
who bears the lilies, and to drive out his accursed enemies,
even those who now beleaguer the city of Orléans and strike terror into the hearts of its inhabitants.

And if the people will take heart and go out to battle,
the treacherous English shall be struck down by death,
at the hand of the God of battles who fights for the Maid,
and the French shall cause them to fall,
and then shall there be an end of the war;

and the old covenants and the old friendship shall return.

Pity and righteousness shall be restored.

There shall be a treaty of peace,
and all men shall of their own accord return to the King,
which King shall weigh justice and administer it unto all men and preserve his subjects in beautiful peace.

Henceforth no English foe with the sign of the leopard shall dare to call himself King of France [added by the translator] and adopt the arms of France, which arms are borne by the holy Maid.

 これらの偽りの予言は、「霊感を受けた乙女」を思い通りに活動させるためにどんな手段を用いたか、そのヒントをある程度与えてくれる。

 このようなやり方は、現代の私たちからすれば少し狡猾すぎると感じるかもしれない。

 だが、偽予言を作り広めた聖職者たちの目的はただひとつ、「王国と教会の平和」だけだった。

 人々を救済する奇跡を起こすには、相応の準備をしなければならなかった。

 だが、私たちは「献身的な謀略」について軽率に非難すべきではない。
 いくつもの芸術的な狡猾さがなければ、無邪気なジャンヌの「声」を誰も信じなかっただろう。

6.15 ジャンヌの規範「私のオリフラム」

⚠️冒頭に出てくる聖職者3人(ジャック・ジェリュ、ジャン・ジラール、ピエール・エルミテ)は「6.8 聖職者と占星術師の意見」で言及されており、今回はその続き。

 一方、遠く離れたサン=マルセラン司教区にあるデュランス川の岸辺の険しい岩の上では、長年仕えてきた王に(王の評議会から引退後も)忠実であり続けるジャック・ジェリュが、オルレアン家とフランス王家の利益を気にかけていた。

 王に仕える二人の聖職者ジャン・ジラールとピエール・レルミットから、(ラ・ピュセル来訪を伝える)手紙を受けて、ジャック・ジェリュは次のように答えた。

「孤児と虐げられた人々のために、神は間違いなく顕現され、イングランド人の邪悪な企みを挫折させるだろう。だが、孤独の中で育った農民の少女の言葉を軽率に信じるべきではない。なぜなら、女性はか弱く、簡単に騙されてしまうからだ。フランスが諸外国に滑稽に見られるような振る舞いをしてはいけない」

 ジェリュは「フランス人は、騙されやすいことですでに有名だ」と付け加えた。

 手紙の最後に、「王が断食して懺悔をすれば、天の神が王を啓蒙し、誤りから守ってくださるだろう」とピエール・レルミットに助言した。[700]

 しかし、神託者であり元顧問官であるジャック・ジェリュの心は落ち着かなかった。

 彼は、シャルル王とマリー王妃に直接手紙を書き、危険を警告した。
 彼にとって、ラ・ピュセル来訪が良いきざしとは思えなかった。

 彼は、3つの理由からジャンヌを信用しなかった。

  • 第一に、彼女は王の敵であるブルゴーニュとロレーヌの支配下にある地域から来たため。

  • 第二に、彼女は羊飼いで騙されやすい。

  • 第三に、彼女はラ・ピュセル(若い女中・下女の意)であるため。

 彼は、マケドニアのアレクサンドロス三世が毒殺されそうになった伝説を例にあげた。アレクサンドロスの父母は不仲で、父に追放された元妃は敵にそそのかされてスパイとなり、毒を盛って父子もろとも謀殺するためにマケドニアに送りこまれた。しかし、師アリストテレスは誘惑者を退けて王子(アレクサンドロス)を死の危機から救い出した。

 賢明なアリストテレスと同じく、アンブラン大司教のジャック・ジェリュは「ラ・ピュセルと個人的に会話しないように」と王を戒め、さらに「遠ざけて観察すべきだが、拒絶してはならない」と忠告した。

 これらの手紙に対する慎重な返答が届き、ジェリュを安心させた。
 新しい手紙で、彼は王に「ラ・ピュセルが疑いの目で見られ、信じられるかどうか不確定にされていると聞き、満足している」と証言したが、その後、かつての不安に戻り、彼はこう付け加えた。

「彼女の暮らしぶりと道徳観について、確信が持てるようになるまで、王と頻繁に接触することは好ましくない」[702]

 シャルル王は実際に、ジャンヌをどう思っているのかわからない態度を取っていた。
 しかし、ジャンヌが悪い企みを秘めているとは思えず、快く受け入れた。
 ジャンヌはごく素朴な親しみを込めて王に話しかけた。彼を「優しい王太子」と呼びかけ、その言葉遣いによって高貴な王家への敬意を示した。[703]

 ジャンヌはまた、王を「私のオリフラム」と呼んだ。
 なぜなら、ジャンヌにとってシャルル七世はオリフラム、つまり現代の言葉で言えば「旗印」だったからである。[704]

 オリフラムとは王家の軍旗である。
 シノンでは誰もそれを見たことがなかったが、驚くべきことが語られていた。

 オリフラムは、サンダルと呼ばれる上質で軽い高価な絹で作られ、2つの翼を持つゴンファノン(旗の一種)の形をしており[705]、緑色の絹の房で縁取られていた。

 それは天から降りてきたもので、初代国王クローヴィスと聖シャルルマーニュの旗印だった。

 国王が出陣するときには、王の前にオリフラムが掲げられた。
 その威光は絶大で、敵はオリフラムが近づくと無力になり、恐怖に駆られて逃げ出した。

 記録によれば、1304年に端麗王ル・ベルフィリップ四世がフランドル軍を破ったとき、オリフラムを掲げる騎士が狙われた。翌日、彼は遺体で発見されたが、それでもオリフラムを腕に抱きしめていた。[706]

 この旗は、シャルル六世に不幸が起きる前までは使われていたが、それ以来、一度も広げられることはなかった。

画像1
Oriflamme de Saint-Denis — Wikipédia

⚠️オリフラム(oriflamme):フランス王家の軍旗。ラテン語の「黄金の炎(Aurea flamma)」に由来し、宗教的な「聖なる旗」の意味も兼ねる。王の怒りを示すとも言われ、この旗が掲げられた戦場では、一切の容赦・恩赦・捕虜を許さず、旗が下げられるまで無慈悲な戦い(皆殺し)が続けられる。なお、シャルル七世の治世下でこのオリフラムは一度も使われていない。

6.16 美しいアランソン公

 ある日、ジャンヌと王が話をしていると、アランソン公爵が広間に入ってきた。
 彼はヴェルヌイユの戦いでイングランドに捕らえられ、クロトワ塔に5年間も幽閉されていた。[707]

 つい最近解放されたばかりで、サン・フロラン・レ・ソミュール近郊でウズラ狩りをしていたところ、「神がフランスからイングランドを追い払うために、王のもとへ乙女を遣わした」という知らせが届いた。[708]

 彼はオルレアン公爵の娘(シャルル七世の姪)と結婚していたので、この知らせに強く興味を引かれ、すぐに自分の目で確かめたくなってシノンに駆けつけた。

 アランソン公爵は、若い頃はその優雅さで人目を引いたが、賢明さで名声を得たことはなかった。
 気が弱いのに暴力的で、虚栄心が強く、嫉妬深く、自信過剰で騙されやすい人物だった。彼は、マウンテンヒースというハーブで女性の好意を思いのままにできると信じており、後に、自分が魔法にかけられたと思った。
 彼は容姿に自信があったが、不快なだみ声の持ち主で、それを自覚して非常に悩んでいた。[709]

 ジャンヌは、彼を見るやいなや、「この高貴な人は誰ですか」と尋ねた。
 国王が「従兄弟のアランソン公だ」と答えると、彼女は公爵に一礼して言った。

「ようこそ。王家の血を引く人は、多くいればいるほどいいです」[710]

 これは完全に間違っていた。
 王はジャンヌの反応に苦笑いを浮かべた。
 アランソン公の血筋には、フランス王家の血はほとんど流れていなかった。

 翌日、ジャンヌは国王のミサに出席した。
 王に近づくと、ジャンヌは彼の前で頭を下げた。
 国王は彼女を部屋に連れて行き、ラ・トレモイユ卿とアランソン公爵以外の全員を退室させた。

 それから、ジャンヌは国王にいくつかの要求を伝えた。
 特に、彼の王国を天の王に譲るようにと頼み、「そうすれば……」と付け加えた。

「天の王は、あなたの先祖に対してなさったように、あなたのために働き、あなたを父祖と同じ身分に戻してくれるでしょう」[711]

 このように霊的な事柄について語り、改革と新しい人生の教訓を口にしながら、ジャンヌは聖職者たちに吹き込まれたことを何度も繰り返した。

 しかし、ジャンヌは決してこの教義に完全に染まっていたわけではなかった。

 それ(聖職者に吹き込まれた教え)は彼女にとってあまりにも難解で、やがてジャンヌの心から消え去り、より修道的ではなく、より騎士道的な情熱に取って代わられた。

 その日のうちに、ジャンヌは国王と連れ立って草原に出かけ、槍を投げるゲームをした。ジャンヌはとても上手で、その姿に驚嘆したアランソン公爵は、彼女に馬を贈った。[712]

 数日後、この若い貴族はジャンヌをサン・フロラン・レ・ソミュール修道院に連れていった。[713]
 その修道院にある教会は非常に美しく、ラ・ベル・ダンジュー(美しいアンジュー)と呼ばれていた。

 当時、この修道院には、アランソン公の母親と妻が住んでいた。
 彼女たちは、ジャンヌと対面して喜んだと言われている。
 しかし、彼女たちは戦いの結果にはあまり期待していなかった。
 若いアランソン公夫人は、ジャンヌに不安をこぼした。

「ジャンネット、私は夫のことが心配でたまりません。彼を幽閉先の牢から解放するために多額の身代金を支払ったばかりなのです。できれば、今後は家にいてほしいと願っています」

 それに対して、ジャンヌはこう答えた。

「マダム、心配しないでください。私が公爵さまを無事にあなたの元に連れて帰ってきます。今と同じか、今よりも立派な姿で」[714]

 ジャンヌはアランソン公を「美しい公爵」と呼び[715]、彼を愛した。
 なぜなら、彼がオルレアン公の娘と結婚していたからで、そうすることがオルレアン公のためになるからだ。また、他の人たちがジャンヌを疑ったり否定していたときにアランソン公が信じてくれたからでもあり、イングランド人が彼にひどい仕打ちをしたからでもあった。

⚠️オルレアン公:シャルル六世の弟の息子で、シャルル七世の従兄。アジャンクールの戦いでイングランドに捕らわれ、幽閉中の身.

 ジャンヌがアランソン公を愛したのは、彼が戦う意志を持っていると知っていたからでもあった。

 ヴェルヌイユの戦いで捕虜になったとき、イングランド人は「味方になるなら自由と財産を与えよう」と取引を持ちかけたが、アランソン公は拒否したと伝わっている。[716]

 アランソン公は、ジャンヌと同じように若かった。
 だから、ジャンヌは、アランソン公も自分と同じように若くて誠実で高潔な人に違いないと思った。

 おそらく当時はそうだっただろう。このころのアランソン公はまだ、王を陥れるための薬を探し求めてはいなかった。[717]

 ジャンヌはポワティエに連れて行かれ、そこで神学者たちの審査を受けることになった。[718]
 ポワティエの町では高等法院が開かれていた。神学を学んだ多くの著名な聖職者、俗人、修道士が集まり[719]、厳格な学者や知識人たちも彼らに加わるよう召集された。

 ジャンヌに護衛がつけられ、シノンを出発した。
 最初、彼女はオルレアンに連れて行かれると思った。

 ジャンヌの信仰は、十字架を手にして旅立ち、近づく町はすべてエルサレムだと思っていた無知な人々の信仰によく似ていた。

 途中で、ジャンヌは案内人にどこに連れて行かれるのか尋ねた。
 行き先がポワティエだと聞いて、彼女は「神の名において!」と驚き、こう言った。

「そこでは一筋縄ではいかないでしょう。私にはわかっています。でも、私の神は私を助けてくれるでしょう。さあ、神の力を信じて進みましょう!」[720]

⚠️ポワティエ(Poitiers)について:王太子(シャルル七世)がパリを追われて廃嫡された時代に、政府機関が置かれた中心的な都市。フランス最古の大学、パリ大学ソルボンヌの総長ピエール・コーションはイングランドとブルゴーニュ派を支持していたため、王太子を廃嫡する陰謀やジャンヌの異端審問に深く関わっている。大勢の知識人がポワティエに身を寄せ、シャルル七世は彼らのために大学を創設。のちに、ルネ・デカルトらを輩出したポワティエ大学の誕生である。15世紀末で約4000人の学生を抱えていた。


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