教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第十六章 パテーの戦い/イタリアとドイツの神学者の考察/ジアンの軍勢
【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。
アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
⚠️下記プラットフォームで公開中。
- note:各章をマガジンにまとめて投稿。一部有料。
- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
- pixivFANBOX:原文付き対訳バージョン。支援者限定。
⚠️字数が多い(26,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
16.1 パテーの戦い(1)タルボットとファストルフの軍議
6月9日にパリを発ったジョン・ファストルフは、兵士5000人を率いてボース平野を通過していた。ジャルジョーに駐留するイングランド軍に、大量の食料と矢を運ぶ途中だった。
ところが、道中でその町が降伏した知らせが届いたため、彼はエタンプに物資を残してジャンヴィルへ進軍した。そこで、ジョン・タルボットが槍兵40人と弓兵200人を率いて合流した。[1267]
⚠️吉江孤雁氏の旧日本語訳版では「四千の槍兵」と翻訳されているが、原文が「forty lances」なので「槍兵40人」が正しい。
さらに、彼らは、フランス軍がムンの橋を占拠し、ボージャンシーを包囲したことを知った。
ジョン・タルボットは、ボージャンシーの住民を救出するために進軍し、神と聖ジョージ(イングランドの守護聖人)の助けを借りて彼らを救いたいと望んだ。
しかし、ジョン・ファストルフは、リチャード・ゲシンとその守備隊を運命に任せようと助言した。彼は、今は戦わない方が賢明だと考えた。
彼は、自軍の兵士たちが恐れを抱き、フランス軍が勇気に満ちあふれているのを見て、自分たちにできる最善策は「残された町、城、要塞に拠点を築き、そこで摂政が約束した援軍を待つ」ことだと判断した。
「フランス軍と比べて、我らはほんのわずかな兵力しかない」
ファストルフは言った。
「もし運が我らを見放せば、亡きヘンリー王(ヘンリー五世)が多大な努力と長い年月をかけて勝ち取った征服地をすべて失うことになりかねない」[1268]
しかし、ファストルフの忠告は受け入れられず、イングランド軍はボージャンシーに向かって進軍した。
6月17日の金曜日、ボージャンシーの守備隊が馬と馬具、そして一人当たり銀貨1マルク分の財産を持って町から立ち退いたとき、タルボットとファストルフの軍勢はすぐ近くまで来ていた。[1269]
*
フランス王の兵士たちは、敵の軍隊が接近していると知り、迎え撃つために出陣した。偵察隊は、馬で遠くまで行かずとも、パテーから1リーグ(約4キロ)離れた平原でイングランドの軍旗(standards)や小旗(pennons)が揺れているのを目にした。
そこで、フランス軍は敵を観察できる丘に登った。
ラ・イル隊長と若いテルム卿は、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に言った。
「イングランド軍が来ている。彼らは戦闘態勢を整え、戦う準備ができている」
いつものように彼女は答えた。
「大胆に攻撃すれば、彼らは逃げるでしょう」
そして、この戦いは長く続かないだろうと付け加えた。[1270]
イングランド軍は、フランス軍が戦いを仕掛けてくると信じて陣を構えた。
弓兵たちは杭を地面に撃ち込み、先端を敵に向けた。これが彼らの一般的な戦闘準備だった。ニシンの戦いでもそうだった。
太陽はすでに地平線に沈みかけていた。[1271]
アランソン公爵は、平原に降りる決意を断じてしなかった。
リッシュモン大元帥、オルレアンの私生児卿、そして隊長たちの前で、彼は聖なる乙女に相談した。すると彼女は、謎めいた答えを返した。
「良い拍車を用意するように」
アランソン公は、ジャンヌが「クレルモン伯の拍車」、つまりニシンの戦い(クレルモン伯は待ち構える敵を無視して輸送任務を優先し、顰蹙を買った)のことを言っていると解釈して叫んだ。
「何を言ってるんだ? 我々は彼らに背を向けるのか?」
彼女は「いいえ」と答えた。
あらゆる場面で、ジャンヌの「声」は揺るぎない自信を持つように説いた。
「神の名において、敵に向かって下りて行きなさい。彼らは逃げ、留まることはなく、完全に敗北する。そして、あなたはほとんど兵士を失うことはない。だから、彼らを追跡するために拍車が必要になる」[1272]
神学者や師匠たちの意見によれば、乙女の言葉に耳を傾けることは良いことだが、同時に人間の知恵によって示された道に従うことも良いことだという。
フランス軍の指揮官たちは、状況が不利と判断したのか、あるいは度重なる敗北の記憶を思い出して正面衝突を恐れたのか、丘から降りなかった。
あるイングランド騎士2人が、一騎打ちを申し込む使者を派遣すると、フランス軍から次のような返答を受けた。
「今日はもう遅いので、寝ていただいて結構です。明日、神の意志に従って、接近して戦いましょう」[1273]
攻撃されないと確信したイングランド軍は、ムンで夜を過ごすために平野から立ち去った。[1274]
16.2 パテーの戦い(2)鹿狩り
翌日、18日の土曜日は、狩人の守護聖人・聖ユベールの日だった。
フランス軍は、敵陣に向かって出撃したがそこには誰もいなかった。ゴドン(イングランド人への蔑称)は朝早くに陣を引き払い、大砲、弾薬、食料とともにジャンヴィルに向けて出発していた。[1275]
イングランド軍は、そこで陣を構えて待つつもりだった。
すぐさま、シャルル王の1万2000人の軍隊[1276]が彼らを追撃するために出発した。パリ街道に沿ってボース平野を越えて進んだ。
そこは森林に覆われ、獲物が多く生息し、茂みや灌木に覆われていた。野趣あふれる荒れ地だったが、イングランドとフランスの騎兵にとって最高に良い狩場で、彼らはここを絶賛した。[1277]
視界の先に、大地が遠ざかっていくように見える無限の平原を見渡しながら、ジャンヌは目の前の空、平原特有の雲(霧)に覆われた彼方を見つめた。そこは、空の山々での素晴らしい冒険を連想させ、彼女はこう叫んだ。
「神の名において、たとえ彼らが雲の彼方に隠れてぶら下がっていようとも、私たちは彼らを捕らえるだろう」[1278]
今、ジャンヌは前夜と同じように予言した。
「今日、私たちの美しい国王は、長い間あり得なかったほどの大きな勝利を収める。私の『声』が、敵はすべて私たちのものだと告げている」
さらに、「フランス軍の死者はほとんど、あるいは全くないだろう」と予言した。[1279]
ザントライユ隊長とアルノー・ド・グジェム卿が偵察に出かけた。
フランス軍でもっとも熟練した兵士たち、その中にはオルレアンの私生児卿とブサック元帥がおり、最高の軍馬に乗って前衛(先鋒)を務めた。
その後を、この辺りの地理に明るいラ・イル隊長の指揮の下、アランソン公、ヴァンドーム伯、リッシュモン大元帥の騎馬隊が、弓兵とクロスボウ兵とともに続いた。最後尾には、グラヴィル卿、ラヴァル卿、ジル・ド・レ卿が指揮する後衛が続いた。[1280]
いつも熱心なジャンヌは「前衛(先鋒)に加わりたい」と望んだが、引き止められて後方に留まった。
ジャンヌが兵士たちを導くのではなく、兵士たちがジャンヌを導くのが常だった。兵士たちは、ジャンヌを軍の指揮官と認めていたのではなく、幸運をもたらす者として見なしていた。
ジャンヌは大いに落胆したが、もともと配置されていたジル・ド・レ卿の後衛部隊に留まらざるを得なかった。[1281]
フランス軍全軍が、敵が逃げるのを恐れて前進した。
猛暑の中、5リーグ(約20キロ)を駆け抜け、サン・シジスモンを左手に通り過ぎ、サン・ペラヴィを越えたところで、ザントライユ隊長の偵察隊60~80人は、それまで平坦だった地面が下り坂になり、道が「ラ・レトレーヴ」と呼ばれる窪地に通じている地点に到着した。
偵察隊は、実際に窪地の様子を見ることはできなかったが、窪地の向こうでは地面が緩やかに高くなっていた。そして、わずか1リーグ(約4キロ)ほど先に、クリマ・デュ・カンと呼ばれる樹木に覆われた平原にある「リニュロールの鐘楼」がかすかに見えた。
彼らの視界の先、1リーグ(約4キロ)彼方に、パテーという小さな町があった。[1282]
時刻は午後2時。
ザントライユとグジェムが率いる偵察隊の騎兵は、偶然にも鹿を狩るチャンスを得た。追い立てられた牡鹿は茂みから躍り出て、ラ・レトレーヴの窪地へ飛び込んだ。
すると突然、窪地の底から騒がしい声が聞こえてきた。
それは、自分たちの手元に落ちてきた獲物を取り合って、大声で言い争うイングランド兵たちの声だった。
敵の居所を知ったフランス軍の偵察隊は立ち止まり、すぐに部隊の何人かを派遣して、「ゴドン(イングランド兵への蔑称)を奇襲した。戦いを始める好機だ」と軍の本隊に伝えた。[1283]
16.3 パテーの戦い(3)奇襲
さて、当時のイングランド軍の状況は次の通りだった。
彼らはジャンヴィルに向かって整然と退却しており、軍の「前衛(vanguard)」は白い旗印(standard)を掲げた騎士が先導していた。[1284]
次に、商人たちが制御する大砲と食料を積んだ荷馬車が続き、その後にジョン・タルボット卿とジョン・ファストルフ卿が指揮する「本隊(main body)」が続いた。
追っ手の攻撃にさらされる可能性が高い「後衛(rearguard)」は、イングランド本国から来た兵士のみで構成されていた。[1285]
⚠️当時の軍事用語について補足。
🔸前衛(vanguard):本隊に先行して進み、敵や障害物を察知して対処する部隊。いわゆる先鋒。先駆け。
🔸本隊(main body):主力軍。
🔸後衛(rearguard):本隊の背後で退却や防御を担当し、敵の追撃を遅らせる部隊。いわゆる殿。
後衛部隊は、本隊からいくらか離れていた。後衛の偵察兵は、フランス軍に気づかれることなく彼らを発見し、サン・ペラヴィ村とパテーの町の中間にいたジョン・タルボットに報告した。
この知らせを受けて、タルボットは停止を命じ、荷馬車と大砲を持っている前衛にリニュロールの森の境界に陣を敷くよう命じた。
そこは、敵を迎え撃つには絶好の場所だった。森に背にしているため、戦闘員は背後からの攻撃を受ける心配がなく[1286]、前方は防壁代わりの荷馬車を並べてその後ろで身を守ることができる。
本隊はそこまで進まず、リニュロールの森から少し離れたラ・レトレーヴの窪地で停止した。ここの道沿いは、茂みに囲まれていた。
ジョン・タルボットは、選りすぐりの弓兵500人とともにそこに陣取り、必ずその道を通るフランス軍を待ち構えた。
タルボットの計画は、遅れている後衛部隊が本隊に合流するまでこの道で足止めし、その後は茂みに沿って退却して軍に合流するつもりだった。
弓兵たちはいつものように、先端を敵の馬の胸に向けた「尖った杭」を地面に打ち込んで準備していた。そのとき、ザントライユの偵察兵に率いられたフランス軍が旋風のように襲い掛かり、弓兵たちをなぎ倒し、こなごなに切り裂いた。[1287]
ジョン・ファストルフは、本隊を率いて前衛部隊に合流しようとしていた。
フランス騎兵がすぐ後ろに迫っているのを感じ、彼は拍車をかけて全速力でリニュロールの森へ兵士たちを急がせた。
白い旗印を掲げる前衛部隊の兵士たちは、ファストルフが全力で走ってくるのを見て、敗北したのを悟った。
彼らは恐れをなし、森の境界に敷いた陣を放棄して、クリマ・デュ・カンの茂みに駆け込み、大混乱のままパリ街道に出た。ジョン・ファストルフは、軍の本隊とともに同じ方向に突き進んだ。
戦闘はなかった。
タルボット隊の弓兵たちの屍を踏み越えて、フランス軍はイングランド軍に襲いかかった。羊の群れのように茫然自失としたイングランド軍は、抵抗することなく敵の前に倒れた。
こうしてフランス軍は、ゴドン(イングランド人への蔑称)が自国からフランスに連れてきて結局殺される運命にあった庶民2000人を殺害した。
ラ・イルが指揮するフランス軍の本隊がリニュロールの森に到着したとき、そこにはわずか800人の歩兵しか残っておらず、彼らはすぐに打ち倒された。
今回行軍していたフランス軍総勢1万2000人から1万3000人のうち、パテーの戦い、いや虐殺に参加したのはわずか1500人だった。
ジョン・タルボットは拍車をつける暇もなく馬に飛び乗ったが、ラ・イル隊長とザントライユ隊長に捕らえられた。[1288]
トーマス・スケール、ハンガーフォード、ファルコンブリッジ、トーマス・ゲラール、リチャード・スペンサー、フィッツ・ウォルターなどが捕らえられ、身代金と引き換えに解放された。捕虜は全部で1200人から1500人にのぼった。[1289]
逃亡者を追って、フランス軍の兵士200人足らずがジャンヴィルの門まで追撃した。最初に逃げ出した前衛部隊を除いて、イングランド軍は完全に壊滅した。
フランス側では、現地にいたテルム卿が「戦死者は自分の部隊の1人だけだった」と述べているが、国王の顧問官兼侍従のペルスヴァル・ド・ブーランヴィリエは「3人だった」と述べている。[1290]
*
後衛部隊にいた乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)が現場に到着したとき[1291]、虐殺はまだ終わっていなかった。[1292]
ジャンヌは、捕虜を何人か引き連れていたフランス兵が、1人の頭を殴りつけ、その捕虜が死んだように倒れるのを見た。
ジャンヌは馬から下りて、そのイングランド人のために告解司祭を手配した。
そして、彼の頭を支えながらできる限り慰めた。
これがパテーの戦いでジャンヌが果たした役割のすべてだった。[1293]
それこそが「聖なる乙女」の役目だった。
その夜、フランス軍はパテーの町で過ごした。
捕らわれたジョン・タルボットは、アランソン公とリッシュモン大元帥の前に引き出され、若い公爵からこう言われた。
「今朝、自分がどうなるかなど、想像もしていなかったでしょう」
タルボットは「それが戦争の定めです」と答えた。[1294]
息を切らしたゴドン(イングランド人への蔑称)数人が、なんとかジャンヴィルにたどり着いた。[1295]
しかし、出発時に金銭と物資を預けていた町の住民たちは、彼らの顔を見るなり門を閉ざし、シャルル王への忠誠を示した。
ボース平野にある2つの小さな要塞、モンピポーとサン・シジスモンに駐留していたイングランド軍の司令官たちは、そこに火を放って逃走した。[1296]
16.4 パテーの戦い(4)乙女の名声
勝利を収めたフランス軍は、パテーからオルレアンへ進軍した。
住民たちは国王の到着を待ち望んでおり、入城に備えてタペストリーを飾り付けていた。[1297]
しかし国王と侍従(ラ・トレモイユ)は、大元帥による何らかの攻撃的な動きを恐れて——それも根拠のないことではなかったが——いったんシュリー城に身を隠していた。[1298]
そこから彼らは、6月22日にシャトーヌフに向けて出発した。
その同じ日に、ジャンヌはサン・ブノワ・シュル・ロワールで国王と合流した。
国王はいつものように優しく彼女を迎え、「あなたが耐え忍んでいる苦しみを考えると、私は気の毒に思う」と言い、休息を勧めた。
王の言葉を聞いて、ジャンヌは涙を流した。
この涙は、国王の丁寧な物腰が示唆する、ジャンヌに対する無関心と不信感から出たものだと言われている。[1299]
しかし、神に陶酔して啓示を受ける者の涙に、人間の理性で理解できる理由を当てはめて決めつけることを慎まなければならない。ジャンヌの目には、シャルル七世はもっとも神聖な王のような、言葉では言い表せない輝きをまとっているように見えていた。
ジャンヌは王に、普通の人には見えない天使たちを見せたのだ。王がジャンヌを信じていないなどと、一瞬たりとも思うはずがない。
「ご心配なく」
ジャンヌは自信を持って言った。
「あなたは王国のすべてを受け継ぎ、もうすぐ戴冠されるでしょう」[1300]
確かに、シャルル七世は王国を取り戻すために、騎士たちを急いで動かそうとはしていなかったようだ。
しかし、当時の国王の評議会は、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)を排除しようとは全く考えていなかった。
むしろ、フランス人を勇気づけ、イングランド人を恐怖させ、そして神、聖ミカエル、聖カタリナがアルマニャック派に味方していることを世に知らしめるために、ジャンヌを巧みに利用しようと決意していた。
パテーの勝利を善良な町々に知らせる際、王室の評議員(顧問官)たちはリッシュモン大元帥について一言も触れず、オルレアンの私生児についても言及しなかった。[1301]
彼らは、軍の指導者として王家の血を引く二人の王子、アランソン公とヴァンドーム伯とともに《《乙女》》を挙げた。このようにして彼らは乙女の名声を高めた。
そして実際、リッシュモン大元帥が乙女を捕らえようとしたことから、ジャンヌは偉大な隊長と同等かそれ以上の価値があったに違いない。
この企てのために、大元帥は部下の一人であるアンドレ・ド・ボーモンに、かつてラ・トレモイユを誘拐するために雇った人物を任命した。しかし、アンドレ・ド・ボーモンは侍従長(ラ・トレモイユ)の件で失敗したように、乙女の件でも失敗した。[1302]
おそらくジャンヌ自身は、この陰謀について何も知らなかったのだろう。
彼女は国王に、大元帥を赦免するよう懇願したが、この願いはジャンヌがいかに何も知らなかったか、その無知さを証明している。
(ジャンヌの懇願は聞き入れられなかったが)王の命令により、リッシュモン大元帥はパルトネーの領主の地位を取り戻すことができた。[1303]
⚠️リッシュモンとパルトネーの領地について補足:シャルル七世の兄が王太子だった1415年、当時22歳のリッシュモンにパルトネー領有権が与えられたが、同年のアジャンクールの戦いでリッシュモンはイングランドの捕虜となり、その後もパルトネーの前領主が居座っていた。
⚠️さらに補足:リッシュモンは、シャルル七世との仲を取り持つようジャンヌに頼んだが受け入れられなかったため、失望してパルトネーに戻ったといわれている。だが、王と対面できなかったものの、この時点でパルトネー領有権を安泰されたなら、失望うんぬんは関係なく、単に領地委譲の件でパルトネーに行ったと考えられる。また、リッシュモンとラ・トレモイユは宮廷闘争を繰り広げているが、シャルル七世はリッシュモンと距離を置いているものの完全に嫌っているわけではなさそう。
16.5 ブルターニュ公の動向
ブルターニュ公ジャン(リッシュモンの兄)はシャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)の姉と結婚していたが、義弟の顧問官たちに常に満足していたわけではなかった。1420年、彼らはジャン公をブルゴーニュ寄りだと考えて、モントローの橋で彼を陥れようと企てた。[1304]
実際には、彼はアルマニャック派でもブルゴーニュ派でも、フランス人でもイングランド人でもなく、ブルターニュ人だった。
1423年、ブルターニュ公はトロワ条約(当時王太子だったシャルル七世を廃嫡する条約)を承認したが、その2年後、彼の弟であるアルテュール・ド・リッシュモン伯爵がフランス王に寝返り、王からフランス大元帥の剣を授かると、ブルターニュ公はソミュールにいるシャルル七世のもとへ行き、自身の公国領に対する臣従の誓いを立てた。[1305]
ようするに、彼は最も厄介な状況から巧みに抜け出し、ブルターニュを巻き込もうとしていた2人の王の争いから距離を置くことに成功したのだ。
フランスとイングランドが互いに激しく争っている間に、彼はブルターニュを廃墟から復興させていた。[1306]
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、彼に好奇心と感嘆の念を抱かせた。
パテーの戦いの直後、ブルターニュ公は乙女の勝利を祝うために、紋章官のエルミーヌと告解司祭のイヴ・ミルボー修道士を彼女の元に派遣した。[1307]
⚠️紋章官(herald-at-arms):君主によって任命される。紋章や系譜を管理したり、関連する儀式を手配する。また、通常の伝令よりも重要人物へ派遣される使者の役目も負う。
善良な修道士は、ジャンヌと対面して尋問するよう命じられていた。
ミルボーは「王を救うためにあなたを遣わしたのは神なのか」と尋ねた。
ジャンヌは、そうだと答えた。
「もしそうであるなら」
イヴ・ミルボー修道士は答えた。
「我が主君であるブルターニュ公は、国王に仕える用意があります。公爵はとても体が弱いため、みずから参上することはできませんが、息子を大軍とともに派遣するつもりです」
善良な修道士は軽率に話し、公爵に代わってまったく当てにならない約束をした。この中で唯一の真実は、多くのブルターニュ貴族がシャルル王に仕えるためにやって来たということだけだった。
これらの言葉を聞いて、若き聖女は奇妙な勘違いをした。
ジャンヌは、ミルボー修道士が「ブルターニュ公爵はミルボーの主君であると同時に、ジャンヌの主君でもある」という意味だと解釈したが、それはまったく意味をなさないことだった。ジャンヌの忠誠心が反発し、鋭い口調で答えた。
「ブルターニュ公は私の主君ではありません。国王こそが私の主君です」
現在までに判明している限り、ブルターニュ公の慎重さはフランス陣営で好印象を与えなかった。彼は国王の戦争禁止令を無視してイングランドと条約を結んだことで非難された。ジャンヌもその意見に共感しており、ミルボー修道士にはっきりと言った。
「ブルターニュ公は国王を助けるために兵を送るのを、これほど長くためらうべきではなかった」[1308]
数日後、リッシュモン大元帥に同行してボージャンシーとパテーに参加していたロストレネン卿が、ブルターニュ公から派遣され、長男フランソワとアメデ公爵の娘ボンヌ・ド・サヴォワとの結婚の予定について交渉しに来た。
彼とともに、エタンプ伯リシャール・ド・ブルターニュ(ブルターニュ公とリッシュモンの弟)の伝令官コマン・キル・ソワもいた。その伝令官は、ジャンヌに短剣と馬を贈る任務を負っていた。[1309]
⚠️伝令・前衛(herald):使者として、主人に先駆けて知らせを伝えたり、戦闘では「前衛(先鋒)」を務める。
16.6 外国の神学者のジャンヌ考(1)亡命者のコスモグラフィ
1428年ごろのローマでは、あるフランス人の書記官が、当時は非常に一般的で、非常によく似通った世界史を編纂していた。彼の『コスモグラフィ』は、他の著者・著書と同様に、天地創造から始まり、当時のローマ教皇マルティン五世までの歴史を記述していた。
⚠️コスモグラフィ、Cosmography):中世ヨーロッパ時代の高等学問のひとつ。宇宙誌、宇宙構造論と訳される。地球のみならず、宇宙や死後の世界まで含めた全世界・宇宙像を研究していた。書物や図版(地図・天球図)を駆使して表現する。 ただし、今回の文脈では「年代記」と訳したほうが適切かもしれない。
⚠️もう少し補足:当時の歴史書の形式には、①宇宙観や大局を含めた壮大なコスモグラフィ、②出来事や事件を年ごとに記した年代記(クロニクル、Chronicle)、③記述がより簡単な年表(アナリス、Annals)がある。
「この教皇の治世下において」
著者は、次のように記している。
「フランス王国とは、この世界の花・百合であり、もっとも裕福な国の中でも特に豊かで、全宇宙がひれ伏していたが、侵略者の暴君ヘンリーによって打ち倒された。彼はイングランド王国の正当な君主ですらなかった」
そして、この聖職者は、ブルゴーニュ人に永遠の不名誉を誓い、もっとも恐ろしい呪いの言葉を投げかけた。
「彼らの目がえぐり出され、邪悪な死によって滅びよ!」
このような言葉遣いは、彼が善良なアルマニャック派であることを示している。おそらくは自国の敵によって財産を奪われ、故郷を追われ、亡命を余儀なくされた書記官だろう。
彼は乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の到来とオルレアンの救出を知ると、喜びと驚きに満たされて、再び歴史書をひらき、新たなページに「驚くべき乙女」を支持する論拠を加筆した。(ここに書かれた)乙女の行為は人間よりも神に近いように描写されているが、彼は実際のジャンヌについて知っていることはほとんどない。
彼はジャンヌを、(伝説上の女勇者や女預言者)デボラ、ユディト、エステル、ペンテシレイアと比較している。
「異教徒の書物には、ペンテシレイアと1000人の処女がプリアモス王を救うためにやってきて、非常に勇敢に戦い、ミュルミドン族をばらばらに引き裂き、ギリシャ人を2000人以上殺したと書かれている」
彼の見解によれば、「勇気と武勇の両方において、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はペンテシレイアをはるかに凌駕している。乙女がしたことは、彼女が悪魔によって遣わされたと主張する人々を即座に論破する」と説いている。[1310]
*
フランス王の女預言者(ジャンヌ)の名声は、またたく間にキリスト教世界全体に広まった。
当時のヨーロッパは、世俗的な事柄で人々が互いに争っていた。
その一方で、霊的・精神的な事柄では、ひとりの共通の指導者(ローマ教皇)に従うことで、ヨーロッパはひとつの言語(ラテン語)とひとつの教義(キリスト教)を共有し、公会議によって統治されるひとつの精神的な共和国だった。
教会の精神は、ヨーロッパのすみずみに浸透していた。
イタリアでもドイツでも、フランスの巫女(シビュラ)とその武勇が話題の中心で、彼女の能力はキリスト教の信仰と密接に結びついていた。
当時、修道院の壁画を描いていた画家たちは、リベラル・アーツ(当時理想とされた教養、自由七科のこと)を『貴婦人3人』になぞらえて描く習慣があった。
姉妹2人の間には「論理(ロジック)」が描かれ、高貴な玉座に座り、古風はフードをかぶり、きらびやかなローブをまとい、片手にサソリ、もう片手にトカゲを持っている。これは、彼女の知識が敵の議論の核心(心臓)にまで潜り込み、彼女自身が罠にかけられるのを防ぐことを意味する。貴婦人の足元には、アリストテレスが彼女を見上げながら議論し、自分の論証を指で数えている姿が描かれる。[1311]
この厳格な貴婦人(=ロジック)は、すべての弟子を同じ型にはめ込む。
当時、独創性(Originality)ほど軽蔑されるものはなかった。
精神の独創性など存在しなかった。
乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)について論じた聖職者たちは、誰もがみんな、同じ方法に従い、同じ議論を展開し、聖なる書物も世俗の書物も、同じ文章に基づいて記述された。同調・一致することは、これ以上ないほど徹底していた。
人々の理知(minds)は同一だが、心(hearts)はそうではなかった。
論じるのは理知(mind)だが、決めるのは心(heart)である。
羊皮紙よりも乾いていると言われるこれらのスコラ学者たちは、それでも人間だった。彼らもまた、感情や情熱に突き動かされ、精神的または世俗的な利益に左右された。
アルマニャック派の神学者たちが、乙女について「信じる理由」が「信じない理由」よりも強いことを証明していた一方で(第八章と第十四章を参照)、ドイツやイタリアの神学者たちは、ヴィエノワの王太子の争いなど気にせず、愛も憎しみも抱かず、乙女に疑念を抱いていた。[1312]
⚠️ヴィエノワの王太子(Dauphin de Viennois):フランス国王の法定推定相続人(王太子)の称号ドーファンのこと。正式名称はヴィエノワの王太子。
16.7 外国の神学者のジャンヌ考(2)ドイツとイタリア
ケルン大学の学長で神学教授のハインリヒ・フォン・ゴルクムは、1429年6月という早い時期に、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に関する非公式な覚書を著した。
ドイツでは、(1)その乙女の本質は人間なのか、それとも女性の姿をした天上の存在なのか、(2)彼女の行為は人間に由来するのか、超自然的な源から生じたのか、そして(3)後者(超自然的な力)の場合、その源は善か悪か、という点で意見が分かれていた。
ハインリヒ・フォン・ゴルクムは、聖書から論証を提示しながら双方向の立場で論じたが、結論を導き出すことは控えた。[1313]
⚠️ハインリヒ・フォン・ゴルクム(Heinrich von Gorcum):若い頃にパリ大学で学んでいたため、フランスの事情通だったとみられる。
⚠️乙女に関する覚書:1429年6月に著した『かつてフランスで馬に乗ったある若い娘について(Sur une certaine jeune fille qui autrefois chevaucha en France)』のこと。
イタリアでも、乙女がしたことについて同様の疑念と不確実性が広がっていた。それらは単なる作り話だと主張する者もいた。
ミラノでは、フランスから届いた知らせが信用できるかどうかを論じていた。
真相を探るために、町の有力者たちは、フランシスコ修道会のアントニオ・デ・ロー修道士を派遣することを決めた。彼は優れた人文主義者で、道徳的清廉さを熱心に説く説教者(演説家)だった。
また、アレッツォ公国の元老院議員ジョヴァンニ・コルシーニも、同様の好奇心に駆られて、ミラノの学識ある書記官(聖職者)でクレモナ出身のコスマ・ライモンディに相談した。
⚠️コスマ・ライモンディ(Cosma Raimondi):イタリアの人文学者。共和制ローマ末期の政治家マルクス・トゥッリウス・キケロの『弁論家(Orator )』を解読したことで知られる。
以下は、キケロニアンの学識ある書記官による返答の要旨である。
「高貴なる君主よ、
神が王国の王子に祖国を回復させるために
羊飼いの娘を選んだことは、
新しいことだと言われています。
しかし、羊飼いのダビデが、
王として油を注がれたことは誰もが知っています。
乙女が、少数の部隊を率いて
大軍に立ち向かったことが語られています。
その勝利は、地理的な優位と予期せぬ攻撃によって
説明できるかもしれません。
しかし、敵が驚いて戦意を失ったとは言わないでおきます。
それは決してあり得ないことではありません。
仮に、奇跡があったと認めたとしましょう。
それは、そんなに驚くべきことでしょうか?
サムソンがロバの顎の骨で多くのペリシテ人を殺したことのほうが、
もっと驚くべきことではありませんか?
乙女は未来を予言する力を持っていると言われています。
古代の巫女(シビュラ)、特にエリトリア人と
クマエ人を思い出してください。
彼女たちは異教徒でした。
同じ力がキリスト教徒に授けられない理由がありますか?
この乙女は、羊飼いの娘です。
ヤコブは、ラバンの羊の番をしていたときに、
神と親しく語り合いました。
これらの前例と理由から、私は乙女の噂を信じるに至りました。
さらに加えて、物理科学(サイエンス)から得た
別の理由を挙げておきます。
占星学に関する論文で、星の好ましい影響により、
身分の低いある人が最高位の王子と同格になり、
天の使命を帯びた聖人と見なされるようになった事例を
私は何度も読んだことがあります。
優れた天文学者であるグイド・ダ・フォルリは、
そのような事例を多数引用しています。
したがって、星々の影響によって
乙女が伝えられたような行為を成し遂げたと信じたとしても、
非難されることはないはずです」
このように論じながらも、コスマ・ライモンディはこの書簡の結論として、「乙女に関する報告を完全に否定するわけではないが、十分に証明されているとは考えていない」と述べている。[1314]
⚠️グイド・ダ・フォルリ(Guido da Forli):13世紀イタリアの軍事戦略家グイド・ダ・モンテフェルトロのこと。フォルリの隊長として大きな功績を挙げたためこう呼ばれる。なお、ダンテ・アリギエーリはグイドの策略を嫌い、叙事詩『神曲』で地獄に落としている。
16.8 評議会の選択肢(1)パリ進軍ならず、長期化へ
ジャンヌはあいかわらず、「国王をランスへ連れて行き聖別式を受けさせる」という決意を守り続けていた。[1315]
彼女は、ノルマンディーよりもシャンパーニュで戦う方がよいかどうかを検討するために立ち止まることはなかった。そのような問題を判断できるほど国土の地形を知らなかったし、彼女の聖人や天使たちがジャンヌよりも地理に詳しかったとは考えにくい。
ジャンヌは、聖油塗りの儀式を受けなければ国王は王になれないと固く信じていたため、急いで国王をランスへ連れて行き、儀式を受けさせようとした。[1316]
聖油を塗って王を聖別するという考えは、オルレアン包囲戦よりもずっと前に、故郷の村で思いついたものだった。[1317]
このひらめきは完全に霊的なもので、オルレアンの解放やパテーの勝利によって生じた情勢とはまったく関係なかった。
*
この時点で考えられる最善策は、6月18日(パテーで勝利した日)の後、パリへまっすぐに進軍することだったに違いない。
当時、フランス軍は首都からわずか90マイル(145キロ)の地点におり、この時までパリは防衛する必要性など考えていなかった。摂政ベッドフォード公はパリ陥落も同然と考え、(パリ郊外にある)ヴァンセンヌの要塞に立てこもった。[1318]
フランス軍は絶好の機会を逃した。
フランス王の顧問官と血統の諸侯たちは、自軍の勝利に驚き、それをどう活かせばよいか分からず、評議会で協議を重ねていた。
確かなことは、彼らのうち、シャルル王の遺産すべてを迅速に回復させようと考えた者が一人もいなかったことだ。彼らが自由に使える軍事力と、暮らしている社会の状況そのものが、そのような計画を思いつくことを不可能にしていた。
国王の大評議会の領主たちは、荒廃した修道院で平和と調和の時代を夢見る、貧困に苦しむ修道士たちとは違っていた。[1319]
国王の顧問官たちは夢想家ではなかった。
彼らは戦争の終結を信じていなかったし、望んでもいなかった。
彼らは、できるだけリスクと費用を抑えて戦争を遂行するつもりだった。武装して略奪してまわる傭兵(フリーランス)たちは、いつの時代も十分にいるだろうと考えていた。
町の占領と奪還は続けなければならない。
一日の苦労はその日だけで十分だ。
長く戦うためには穏やかに戦わなければならない。
勇敢な武勇よりも、交渉と条約によって得られるものの方が実入りがいい。
休戦は巧妙に締結し、慎重に破棄しなければならない。
いくつかの敗北は覚悟しなければならないし、いくつかの仕事は若者に残しておかなければならない。
これが、シャルル王の善良な家臣たちの意見(本音)だった。[1320]
16.9 評議会の選択肢(2)ノルマンディー遠征
彼らの中には、ノルマンディー遠征を望む者もいた。[1321]
この計画は、すでに5月ごろ、ロワール川流域の掃討作戦より前から浮上していた。実際、この遠征計画には多くの利点があった。
ノルマンディーに駐留するイングランド軍を根こそぎ駆逐するのだ。
このとき、イングランド軍の兵士がほとんどいないノルマンディー地方の一部を、すぐに奪還できる可能性は十分あった。
1424年(5年前)当時、ノルマンディーの守備隊は、槍兵400騎と弓兵1200人ほどにすぎなかった。[1322] それ以来、彼らはほとんど援軍を受けていない。摂政ベッドフォード公は、あらゆる場所で兵士を募集し、素晴らしい活動を見せていたが、資金が不足しており、脱走兵が絶えなかった。[1323]
征服した土地で、クーエ(イングランド人への蔑称)たちは要塞から出てくるとすぐに敵対地域に侵入してくる。
ブルターニュ、メーヌ、ペルシュの国境からポンティユー、ピカルディに至るまで、マイエンヌ川、オルヌ川、ディーヴ川、トゥーク川、ウール川、セーヌ川の流域で、さまざまな派閥の支持者たちが土地を勝手に占拠し、街道を監視し、略奪、荒廃、殺人をおこなっていた。[1324]
フランス軍はノルマンディーのどこへ行っても、シャルル王の大義を支持する準備ができている勇敢な仲間を見つけることができただろう。農民や村の司祭たちも同様に彼らを歓迎しただろう。
しかし、ノルマンディー遠征は、少数の守備隊に強力に守られた町を長期間包囲しなければならない。兵士たちは包囲戦が長引くことを恐れ、王室の財政状況は莫大な費用のかかる長期戦を支えるには十分ではなかった。[1325]
ノルマンディーは荒らし尽くされ、作物も家畜も奪われていた。
隊長とその部下たちは、この飢餓に苦しむ土地に行くべきだったのか?
そして、国王は、これほど貧しい地域を再征服しなければならないのか?
その上、フランス陣営に協力しようとする傭兵(フリーランス)たちは、あまり魅力的な存在ではなかった。彼らの実態は略奪を生業とする盗賊であり、これからも盗賊であり続けることは周知の事実だった。ノルマンディーを再征服したら、(用済みとなった傭兵たちを)名誉も利益もなく最後の一人まで排除しなければならないだろう。
それなら、ノルマンディーにはびこる諸問題にはあえて手をつけず、ゴドン(イングランド人への蔑称)に任せて対処させた方がましではないだろうか?
⚠️訳者の覚書:フリーランサーと呼ばれる傭兵の略奪問題について。pixivFANBOXで連載していた『シャルル七世の軍事改革勅令』のおかげで、問題の背景を理解・翻訳しやすかったです。いずれこちらでも重複投稿する予定。評議会の顧問官たちは戦争による利益を最大化したかったようですが、シャルル七世はまじめに戦争終結と傭兵問題の解消を考えていたようです。ただ、それを実行するには、私利私欲よりも王の意志を尊重するリッシュモン大元帥の宮廷復帰を待たなければなりません。
16.10 評議会の選択肢(3)シャンパーニュ遠征
(ジャンヌ以外にも)シャンパーニュへの遠征を求める声が、他の貴族たちから上がった。[1326])
これまでに伝わっていた通説とは裏腹に、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)の幻視は評議会の決定にまったく影響を与えなかった。
国王の顧問官たちがジャンヌを導くことはあっても、ジャンヌに導かれることは決してなかった。以前にも彼らは、ロワール川での仕事(掃討作戦)を与えることで、ジャンヌの意識をランスへの道から逸らした。ジャンヌは道も地形もまったく知らなかったのだから、彼らはまたジャンヌが気づかないうちにノルマンディーへと逸らすこともできたはずだ。
シャンパーニュへの遠征を勧める者がいたとしても、それは聖人や天使の言葉を信じたからではなく、純粋に人間的な理由(人間側の事情)によるものだ。
その理由を見つけることは可能だろうか?
国王と王国の利益を考えていた貴族や隊長もいたに違いないが、個人の利益と混同しないようにするのは非常に難しい。ランスへの進軍(シャンパーニュ遠征)を推進した首謀者を突き止める最良の方法は、誰がその進軍で利益を得るかを見つけ出すことだ。
アランソン公ではないことは確実だ。彼は、自分の公国を征服するために乙女の助けを利用することを大いに望んでいた。[1327]
オルレアンの私生児卿、ゴークール卿、そして国王自身でもない。
なぜなら、彼らは恐るべきペリネ・グレサールが占領するラ・シャリテを攻略して、ベリーとオルレアンの安全を確保したいと望んでいたはずだ。[1328]
⚠️ペリネ・グレサール(Perrinet Gressart):イングランドとブルゴーニュに雇われている傭兵隊長。ランスでの戴冠式の後、同年11〜12月におこなわれたラ・シャリテ包囲戦でジャンヌの軍隊はグレサールに敗北する。1435年末、シャルル七世の軍隊がラ・シャリテを奪還し、アラスの和約をきっかけにグレサールはフランス陣営に入る。
一方、シチリア女王(シャルル七世の義母ヨランド・ダラゴン)は、義理の息子である国王が北東方面(ランスを含むシャンパーニュ地方)に進軍することに反対しなかっただろうと結論づけることができる。
この王女は、アンジュー家の狂気に取り憑かれていた。アンジュー公領の運命についてひとまず安心した彼女は、息子のルネ・ダンジューをバル公領とロレーヌ公領の相続地(いずれもシャンパーニュ方面)に定着させることを熱心に追求し、フランス王国に大きな損害を与えた。
したがって、国王がジアンとトロワとシャロンの間の道を確保(開放)しているのを見て、彼女が不満を抱くことはない。
しかし、リッシュモン大元帥の追放以来、彼女はシャルル七世に対する影響力を失っており、1429年5月の評議会で誰がヨランドの利益を守っていたのかを見極めるのは難しい。[1329]
*
これ以上探すまでもなく、誰よりも国王の聖別式を望み、誰よりも自分の意見を押し通すことができた人物がいたことは明らかだ。
その人物とは、聖なるアンプル(聖油瓶)を聖なる手で持つ義務を負っていた人物で、王国の宰相であり、ランス大司教兼公爵であるルニョー・ド・シャルトル卿だ。[1330]
彼は、類まれな知性を持ち、商才に長け、非常に賢明な外交官であり、富に貪欲で、空虚な名誉よりも確実な利益を重視し、強欲で、無節操な人物だった。50歳近くになってもその情熱は衰えず、最近はオルレアン防衛のために気高く身を捧げてその力を発揮していた。
このように才能に恵まれたランス大司教が、政府に対して強力な影響力を行使しないはずがない。
ルニョー・ド・シャルトルはランス大司教に昇格してから15年が経っていたが、その莫大な収入をまだ一銭も受け取っていなかった。他の収入源から大きな利益を得ていたにもかかわらず、彼は貧困を訴えた。ローマ教皇には、胸を締め付けられるような嘆願書まで送った。[1331]
もし乙女がポワティエの神学者たちの目に留まったのなら、ルニョー・ド・シャルトルも関与していたはずだ。彼がいなかったら、宮廷の聖職者たちはジャンヌの審査を提案することはなかっただろう。
王室評議会でランスへの進軍(シャンパーニュ遠征)が決定されたのは、大司教が人間的な理由から、乙女が神の啓示によって提案したことを承認したからだと結論づけても、それほど的外れではないだろう。[1332]
16.11 シャンパーニュ遠征計画(1)もうひとつの狙い
戴冠式への行軍(シャンパーニュ遠征)は重大な欠点を伴い、深刻な障害に直面したが、それでもフランス陣営に大きな利益とある種の微妙な利点をもたらした。
残念ながら、この間にイングランド軍は態勢を立て直し、海を越えて支援を得る時間を与えてしまった。彼らがこの機会をどのように活用したかは、すぐにわかるだろう。[1333]
この遠征の利点については、多岐にわたっていくつかある。
まず、ジャンヌが「王太子は聖別されることで大きな利益を得る」という主張は、貧しい司祭や庶民の気持ちを代弁していたのは事実である。[1334]
聖なるアンプル(聖油瓶)の油から、国王はフランス全土、いやキリスト教世界全体に感銘を与える輝きと威厳を得るだろう。
当時、王権は霊的かつ世俗的なもので、多くの人々はジャンヌと同様に、「王は聖油を塗られて聖別されることによってのみ王になる」と信じていた。したがって、シャルル・ド・ヴァロワは、一万本の槍(槍兵1万騎)よりも一滴の油から大きな力を得ると言っても過言ではないだろう。
このような考察(国民感情)は、王の顧問官たちが重視しなければならないものだった。
彼らはまた、時間と場所も考慮しなければならない。
儀式は、ランス以外の町で行うことはできないのか? いわゆる「秘儀(聖油を塗る儀式)」は、聖エニャンと聖ユヴェルテのとりなしで解放された町(オルレアンのこと)で行うことはできないのか? 例えば、ユーグ・カペーの子孫である二人の王、賢王ロベールと肥満王ルイがオルレアンで戴冠式をおこなった前例がある。[1335]
しかし、これらの王の戴冠式の記憶は、古代の霧の中に消え去り、人々は「聖油が天の鳩によってクローヴィス王にもたらされた町(ランス)で、もっともキリスト教的な王が聖別され、長い行列を練り歩いた」伝説を覚えていた。[1336]
その上、ランス大司教で公爵でもあるルニョー・ド・シャルトルは、自分の手で、自分の大聖堂で、王が聖油を塗られることを望み、それ以外は決して許さなかっただろう。
したがって、どうしてもランスに行く必要があった。
また、イングランド軍も、いずれは幼い王をフランスへ連れてきて、古来の儀式に従って聖別を受けさせようと決意していたため、彼らに先んじる必要もあった。[1337]
とはいえ、もしフランス軍がいち早くノルマンディーを侵攻していたら、幼いヘンリー六世をパリとランスへ連れて行くルートを遮断できただろう。そのルートは、彼にとってすでに安全ではなかった。戴冠式をこれ以上延期することはできなかったと主張するのは子供じみている。
ノルマンディー遠征を取りやめたのは、単に聖なるアンプル(聖油瓶)を手に入れるためだけではなかった。
ランス大司教は、別の目的を心に抱いていた。
(シャンパーニュ遠征によって)ブルゴーニュ公とイングランドの同盟の間に割り込むことで、ブルゴーニュ公に強い印象を与え、さらに、フランス王シャルル六世の息子シャルルが強力な軍隊を率いて進軍する姿を見せつけることで、ブルゴーニュ公の心に啓発的な教訓をもたらす。
⚠️「ブルゴーニュ公とイングランドの同盟の間に割り込む」について補足:ランスを目的地とするシャンパーニュ遠征のルートは、パリに駐留するイングランド勢力と、フランス東部のブルゴーニュ地方を分断する経路になる。両者の同盟を引き裂きつつ、戴冠式を契機にブルゴーニュ公を取り込む算段があったと考えられる。
16.12 シャンパーニュ遠征計画(2)巧妙な根回し
祝福されたランスにたどり着くには、敵対地域を100リーグ(約400キロ)も横断しなければならない。
だが、しばらくの間は、道中で敵に遭遇する危険はないだろう。
この頃のイングランド軍とブルゴーニュ軍は兵力に乏しく、新たな軍隊を編成するために、なりふり構わず、あらゆる手段を講じて兵士の徴募に奔走していた。
当面の間、フランス軍は敵を恐れる必要はない。
豊かなシャンパーニュ地方は、まばらに森林が生い茂り、耕作が行き届き、穀物とワインが豊かで、肥えた牛がたくさん放牧されていた。[1338]
シャンパーニュは、ノルマンディーのように荒廃していなかった。
期待通りに、善良な町々が食料を供給してくれさえすれば、遠征中に兵士たちが困窮する事態にはならないと考えられた。シャンパーニュ地方の人々は非常に裕福で、納屋には穀物があふれている。
ヘンリー六世に忠誠を誓っているものの、イングランド軍やブルゴーニュ軍に愛情の絆はなかった。
彼らは自治を守り、自分たちで町を統治していた。
裕福な商人たちは平和を望み、それを実現するために最善を尽くしていた。
オルレアン解放とロワール流域の掃討によって、シャンパーニュの人々は「アルマニャック派が勢力を盛り返しているのではないか」と思案し始めていた。そして、言葉で訴えかけることができる、つまり交渉可能な聖職者やブルジョワジーを多数抱えていた。
ようするに、大砲や地雷(mines)や塹壕を駆使して町を攻撃するのではなく、恩赦、商人への譲歩、聖職者の特権を尊重する約束などを仕込み、交渉によっていかにして彼らを丸め込むか、あるいは町を迂回するか、が問題だった。
シャンパーニュでは、行軍中に掘立て小屋(塹壕や堡塁)で朽ちたり、砦で焼かれたりする危険はない。
町の人々は、愛情または恐怖から門をひらき、主君である国王に金品を提供してくれる望みがあった。
*
シャンパーニュ遠征の計画は事前に準備され、非常に巧妙に根回しされた。
トロワとシャロンとの通信はすでに始まっていた。
ランスの有力者たちから、手紙や使者を通じて「もしシャルル王が来れば喜んで町の門をひらく」旨を伝えられた。さらに、3〜4人の市民が歓迎の意を表明した。
「安心してランスへお越しください。もし、あなたが町に入れないとしたら、それは私たちの責任ではありません」[1339]
このような保証を得て、王室評議会は勇気づけられ、ついにシャンパーニュへの進軍が決議された。
⚠️ランス市民の態度について補足:市民はシャルル七世の来訪を歓迎しており、町の門をひらくために最善を尽くすが、「私たちの責任ではない」と付け加えることで、敵に妨害される可能性があることを示唆している。ようするに、不測の事態が起きたときに、市民が責められないように予防線を張っている。
16.13 シャンパーニュ遠征計画(3)ジアンに集結
遠征軍はジアンに集結し、日ごとにその数を増やしていた。
ブルターニュとポワトゥーの貴族たちが続々とやって来たが、その多くはみすぼらしい馬に乗り、率いる兵士もわずかだった。[1340]
さらに貧しい者は弓兵として身を固め、他にいい仕事がないため、弓兵に志願して軍隊で働く覚悟をしていた。
⚠️貧しい者は弓兵として身を固め:正規兵の軍装ではなく、狩人の装備で弓兵として志願している。
農民や商人たちも、同じ理由で集まってきた。[1341]
ロワール川からセーヌ川、そしてセーヌ川からソンム川にかけて、耕作されている土地は城や砦の周囲だけだった。ほとんどの畑は休耕状態だった。
多くの場所で、市場(fairs)や取引所(markets)が閉鎖されていた。
労働者は、あらゆる場所で失業していた。
戦争はあらゆる商売を破滅させた後、今や唯一の食い扶持になった。
詩人ウスターシュ・デシャンは、「誰もが従者になるだろう。職人はほとんど残っていない」と述べている。[1342]
遠征軍の集結地(ジアン)には、3万人の兵が集まった。
しかし、その多くは徒歩で、食べ物と引き換えに奉仕するために各地の村からやってきた人々だった。修道士、従者、女性、その他の従軍者もいた。そして、集まった群衆は全員が飢えていた。
*
国王はジアンに着くと、ブールジュにいる王妃を呼び寄せた。[1343]
国王の考えでは、ブランシュ・ド・カスティーユ、ジャンヌ・ド・ヴァロワ、そして曽祖父ジャン二世の妻ジャンヌ王妃の例に倣って、王妃(マリー・ダンジュー)をランスに連れて行き、一緒に戴冠するつもりだった。
⚠️ブランシュ・ド・カスティーユ(Blanche de Castille)とジャンヌ・ド・ヴァロワ(Jeanne de Valois):前者はルイ八世の王妃。後者は同名が複数いるため、今のところ特定不可能。
しかし、王妃がランスで戴冠するのは一般的ではなかった。
現在の国王(シャルル七世)の母であるイザボー王妃は、パリのサント・シャペルでルーアン大司教の手から王冠を戴いた。[1344]
イザボー王妃以前のフランス王妃たちは、短躯王ピピン三世の妻であるベルタ王妃の例に倣って、通常はサン・ドニに赴く。そして、ジャンヌ・デヴルーが修道院の修道士たちに贈った、金とサファイアと真珠の王冠を受け取っていた。[1345]
⚠️ジャンヌ・デヴルー(Jeanne d'Évreux):シャルル四世の王妃。
王妃は夫とともに戴冠式をおこなうこともあれば、単独で別の場所で戴冠することもあった。戴冠式を一度もやらなかった王妃も多い。
シャルル王がマリー王妃をシャンパーニュ遠征に連れて行こうと考えていたことは、彼が大きな疲労や危険を予期していなかったことを物語っている。
しかし、土壇場になって計画は変更された。
ジアンに来ていた王妃は、ブールジュに送り返された。
国王は、彼女なしで出発した。[1346]
「国王がフランスに来たりし時、
彼はブーツに油を塗らせた。
王妃は彼にこう尋ねた、
この若者はどこに行くのかしら?」[1347]
(La Chronique Messineから引用)
実際には、マリー王妃は何も尋ねなかった。
彼女は容姿が地味で、意志が弱かったといわれる。[1348]
しかし、この四行詩によれば、遠征に出発する際、王は新しいブーツがなかったため、古いブーツに油を塗ったという。「ブールジュの王」の貧困にまつわる古いジョークは、いまだに通用していた。[1349]
⚠️ブールジュの王:フランス全土を統治できず、ベリー領ブールジュにとどまっていたシャルル七世に対する蔑称。
シャルル王は裕福ではなかった。
兵士たちには給料の一部を前払いするのが慣例だった。
ジアンでは、兵士一人につき3フランが支払われた。
大した額ではないように思えたが、彼らはランスまでの道中でもっと稼げることを期待していた。[1350]
16.14 トゥルネー宛の手紙
6月24日の金曜日、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はオルレアンからジアンに向けて出発した。
翌日、ジアンからトゥルネーの住民に宛てた手紙を口述筆記させ、ロワール川沿いのすべての要塞からイングランド軍がことごとく追い払われ、戦闘で打ち負かされた様子を伝えた。
この手紙の中でジャンヌは、シャルル王のランスでの聖別式に出席するように彼らを誘い、忠実なフランス人であり続けるよう呼びかけた。手紙の内容は、以下のとおりだ。
「†ジーザス †マリア
トゥルネーの町に住む、善良で忠実なフランス人の皆さんへ
乙女(ラ・ピュセル)はこの地より皆さんに
以下の知らせを伝えます。
乙女は8日間で、攻撃またはその他の手段によって、
イングランド軍をロワール川沿いに保持していた
すべての要塞から追い払いました。
サフォール伯、その兄弟ラポール、
タルボール、スカレズ、ジャン・ファルスコフ、
その他多くの騎士と隊長が捕らえられ、
サフォール伯とグラスダスの兄弟が殺されたことを
知っておいてください。
⚠️サフォール伯、その兄弟ラポール:ジャルジョーの戦いで敗北したのは「サフォーク伯(←爵位)ウィリアム・ド・ラ・ポール(←名前)」で同一人物である。
兄とともに捕虜になった弟はジョン、戦死した弟はアレクサンダー。
私は皆さんが善良で忠実なフランス人で
あり続けるよう願っています。
そして、美しいシャルル王のランスでの聖別式に
出席する準備をしておいてください。
私たちはもうすぐそこに行きますので、
私たちが近づいていると分かったら、
私たちに会いに来てください。
私は皆さんを神に推薦します。
神が皆さんを守り、フランス王国の大義を立派に守れるように、
神の恵みを与えてくださいますように。
6月25日、ジアンにて執筆。
宛先、トゥルネーの町の忠実なフランス人へ」[1351]
⚠️イングランド軍幹部たちの人名表記の誤記について:口述筆記につき、文責は筆記者のパスケレルにあるが、原文をAIに読み込ませても修正しきれない誤記まみれ。爵位(称号)と名前の区別もついていない。訳者が手動で直そうかと悩んだが、ジャンヌは読み書きできないので彼女の発音のまま文字化されている可能性を鑑みると、原文ママのほうが味わい深い(とげとげしい毒舌と相まって、ジャンヌの無教養と無作法が伝わってくる)。資料的価値を優先して、誤記のまま載せることにした。
同じ内容の書簡が、ジャンヌに従う修道士(従軍司祭ジャン・パスケレル)のような書記官によって、シャルル王に忠実であり続けたすべての町に送られたに違いない。おそらく、司祭自身がその送付リストを作成したのだろう。[1352]
トゥルネーの町はフランドル地方に位置する。[1353]
ブルゴーニュ領の中心にありながら、依然として領主である王に忠実であり続けた「王領」の町を、(ジャンヌが)忘れることはなかった。
1423年にイングランド政府から善良公フィリップ(ブルゴーニュ公)に割譲されたトゥルネーの町は、新しい領主を認めなかった。
司教のジャン・ド・トワジーはフィリップ公の宮廷に住んでいた。[1354]
しかし、トゥルネーは王の町であり続けた。[1355]
町の人々が、王太子の運命に寄せていた愛情は模範的でよく知られ、有名だった。[1356]
フランス南部の都市アルビの執政官(Consuls)は、1429年の驚異(奇跡)に関する短い覚書の中で、「この北の都市(トゥルネー)はあまりにも遠く離れているため正確な位置は分からないが、フランスの敵に囲まれているにもかかわらず、依然としてフランスのために抵抗している」と注意深く指摘している。
「事実上、イングランド軍はノルマンディーとピカルディの全域を占領しているが、トゥルネーだけは例外だ」[1357]
実際に、トゥルネー管区の住民は、フランス王から与えられた自由と特権を熱心に守り、いかなる理由があろうとも王室から離れることはなかった。
彼らは忠誠を誓い、王の栄誉を称え、王が王国を取り戻すことを願って、盛大な行列を催した。しかし、彼らの忠誠心はそこまでだった。
のちに、彼らの主君であるシャルル王が、差し迫った必要性から、未払いの税金の支払いを強く求めたとき、町の行政官は話し合った結果、支払いを再延期して可能な限り先延ばしする許可を求めることを決定した。[1358]
*
ジャンヌ自身が、この手紙を口述筆記させたことは間違いない。
注目すべきは、この手紙の中で、ジャンヌが勝利の功績をすべて自分のものにしていることだろう。彼女の正直さはそうせざるを得なかった。
ジャンヌの理屈では、神がすべてをおこなったが、それはジャンヌを通しておこなわれたことを意味するのだ。
「乙女はイングランド軍をすべての要塞から追い払いました」
自分自身に対するこれほど「《《ナイーヴ》》な信仰」を明らかにできるのは、ジャンヌだけだ。パスケレル修道士にこれほど「聖なる単純さ」を表明することはできないだろう。
⚠️ナイーヴ(naïve):英訳版でありながらフランス語表記を採用していることから、この言葉を強調する意図を感じたので補足する。日本語のナイーブは「繊細な、傷つきやすい」という意味で使われるが、フランス語は「世間知らずな、うぶな、ばか正直な、(経験不足であまりに)考えが甘い」などかなりネガティブなニュアンスを持つ。
この手紙の中で、ジョン・ファストルフが捕虜の中に数えられているのは注目に値する。ただし、この間違いはジャンヌ特有のものではない。
国王は善良な町々に「イングランド軍の隊長3人、タルボット、スケールズ、ファストルフが捕らえられた」と伝えている。国王の顧問官兼侍従ペルスヴァル・ド・ブーランヴィリエも、ミラノ公に宛てたラテン語の手紙の中で、ファストルフをファステシャと呼び、ドーフィネの民兵に捕らえられた捕虜1000人の中に含めている。
6月25日頃にリュソン教区の町から送られた書簡には、タルボット、ファストルフ、スケールズたち3人の運命について大きな不確実性が示されている。
「彼らは捕虜になったか、死亡したと言われている」[1359]
おそらくフランス軍は、外見または名前がファストルフに似ている貴族を捕らえたのだろう。あるいは、兵士の誰かが身代金目的でファストルフを名乗ったのかもしれない。
⚠️「兵士の誰かが身代金目的でファストルフを名乗った」について補足:名の知られた貴族は身代金が見込めるため、殺されずに捕虜になって生き残る可能性が高い。ここでは、正体不明の何者かが生き残りをかけてファストルフを自称した可能性に言及している。
ジャンヌの手紙は、7月7日にトゥルネーに届いた。
翌日、市の評議会はフランス国王シャルルに使節を派遣することを決議した。[1360]
16.15 ブルゴーニュ公宛の手紙
6月27日ごろ、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はブルゴーニュ公に手紙を送り、国王の戴冠式に出席するよう招待した。しかし、返事はなかった。[1361]
ブルゴーニュ善良公フィリップは、ジャンヌと連絡を取り合うような人物ではなかった。それでも、ジャンヌが彼に礼儀正しく手紙を書いたことは、彼女の心の優しさを示している。
ジャンヌは故郷の村にいた子供の頃から、イングランドを敵視する以前にブルゴーニュを憎んでいた。それにもかかわらず、ジャンヌは王国の繁栄と、ブルゴーニュとフランスの和解を望んだのである。
*
ブルゴーニュ公は、父(無怖公)がモントロー橋で奇襲された事件を簡単に許すことはできなかった。だが、フランスに対して和解が不可能なほどの憎しみを誓ったことは生涯一度もなかった。
1425年以降、義理の兄弟であるフランス大元帥(リッシュモンのこと。フィリップ善良公の姉と結婚)が、父を殺害した犯人を王室評議会から排除したことで、和解の可能性がうまれた。
王太子シャルルは、自分はこの犯罪とは無関係だと主張したが、ブルゴーニュ人の間では「王太子は愚か者」とみなされていた。[1362]
ブルゴーニュ公フィリップは、心の底ではイングランドを嫌っていた。
それは、ヘンリー五世の死後、フランスで「イングランド摂政」を務めることを拒否したことからも明らかだ。さらに、ジャクリーヌ女伯の事件によって、イングランドとブルゴーニュ間の同盟は「公然たる決裂」を招くほど悪化した。[1363]
長年にわたり、ブルゴーニュ家は「低地諸国」の支配権を獲得しようと努めていた。
⚠️ヨーロッパの低地諸国(Low Countries):ブラバント、エノー、ホラント、ゼーラントなど。現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク3カ国のこと。
ついにフィリップ公は、いとこのブラバント公ジャンを、エノー、ホラント、ゼーラントの伯爵夫人(女伯)でフリースラント領主であるジャクリーヌ・ド・バヴィエールと結婚させることで、目的を達成した。
ところが、ジャクリーヌは夫に我慢できずにイングランドに逃亡し、そこで対立教皇ベネディクトゥス13世によって結婚を無効にしてもらった。その上、摂政(ベッドフォード公)の弟であるグロスター公爵と結婚した。
グロスター公が強情だったのに対し、ベッドフォード公は慎重だったので、ブルゴーニュ公をイングランドとの同盟にとどめようとあらゆる努力をした。
しかし、彼(ベッドフォード公)がブルゴーニュに抱いていた秘かな憎しみは、ときどき、衝動的な怒りの行動として爆発した。
ベッドフォード公が、ブルゴーニュ公の暗殺を計画し、そのことをブルゴーニュ公が知っていたかどうかは定かではない。
少なくとも、ある日、《《礼儀正しい》》ベッドフォード公は我を忘れて「フィリップがイングランドに行って、体を壊すほどビールを飲むかもしれない」と口走った。[1364]
つい最近、摂政は、オルレアンの町をブルゴーニュ公にゆだねることを拒否して、無神経にも彼を怒らせたばかりだった。[1365]
オルレアン敗戦を経て、今や、ベッドフォード公は怒りで指を噛んでいた。
ロワール川とフランス中部への鍵をブルゴーニュ公に与える提案を拒否したことを後悔し、彼は現在、フランス軍が征服しようとしているシャンパーニュ地方をブルゴーニュ公に提供しようかと熱心に考えていた。
まさに今こそ、強力な同盟相手に豪華な贈り物をする絶好の機会だった。[1366]
**
その間も、ブルゴーニュ公は低地諸国のことしか考えていなかった。
教皇マルティヌス五世は、ジャクリーヌ女伯とグロスター公の結婚は無効であると宣言し、グロスター公は別の妻と結婚しようとしていた。
今や、ディジョンの食いしん坊(Gargantua)は、美しいジャクリーヌの広大な領土を再び手に入れることができる。
⚠️ディジョン(Dijon):ブルゴーニュの首府。
⚠️ガルガンチュア(Gargantua):フランソワ・ラブレー著『ガルガンチュア物語』に登場する巨人の王で、美食と大食漢の象徴。ここでは皮肉を込めて「強欲なブルゴーニュ公」を指している。
ブルゴーニュ公はイングランドの同盟者であり続け、彼らを利用するつもりではあったが、手先になるつもりはなかった。
そして、もし自分にとって有利だと判断すれば、フランスと和解する前に、フランスと戦う用意があった。彼はそのことに何の害も感じていなかった。
低地諸国の次に、ブルゴーニュ公が最も気にかけたのは、女性たちと美しい絵画、例えばファン・エイク兄弟の作品のようなものだった。
したがって、彼がアルマニャック派の乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)からの手紙に注意を払う可能性は低かっただろう。[1367]
⚠️ベッドフォード公によるブルゴーニュ公暗殺計画について:
もう少し詳しく知りたい方は『7番目のシャルル、聖女と亡霊の声』番外編コラムをご参照ください。→【資料】リッシュモン夫妻の偽造文書とブルゴーニュ公殺害計画について
いいなと思ったら応援しよう!
最後までお読みいただきありがとうございます。「価値がある」「応援したい」「育てたい」と感じた場合はサポート(チップ)をお願いします。