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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|下巻・第七章 ソワソンとコンピエーニュ/ラ・ピュセルの捕縛

【創作大賞2026参加中】期間限定で全体公開にします。

アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。原著は1908年発行。

1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録

現在、禁書制度は廃止されてますが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明しています。

▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか

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- カクヨム:各話を分割して投稿。少しずつ読みたい人向け。
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⚠️字数が多い(12,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。

7.1 コンピエーニュまでの行軍と巡礼の旅

 ラニーから旅立った乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は、自身の部隊と、途中で合流したフランス貴族の兵士たちを合わせて、およそ1000騎の騎兵を率いてサンリスの前に現れた。

 ジャンヌはこの軍隊の威勢を借りて、町へ入れるよう要求した。

 市民からすれば、武装した兵士を市内に受け入れることほど恐ろしい災難はない。したがって、市民たちはどんな時も「城壁の外に兵士を留め置く」特権を厳重に守っていた。

 シャルル王でさえ、平和的な戴冠式へ向かう行軍中にこれを経験している。

 サンリスの人々はジャンヌの要求に対し、こう答えた。

「町が備蓄している家畜飼料、穀物、オーツ麦、その他の食料、ワインが不足する事態を考慮し、彼女の部隊の中でも最も名高い30~40人ほどの入城は許可するが、それ以上は認められない」[378]

⚠️サンリス (Senlis):パリの北40マイル(64.3キロ)に位置する都市。シャンティイーの森と南のエルムノンヴィルの森との間にある。

 言い伝えによると、ジャンヌはサンリスのあと、(次の目的地)コンピエーニュとレソンの間にあるエランクール教区のボラングリーズ城へ向かったらしい。

 なぜそこに立ち寄ったのかは不明だが、聖マルガリータに捧げられたエランクールの教会へ巡礼したのではないかと考えられている。

 かつて、聖カタリナに捧げられたフィエルボワの教会に立ち寄って礼拝したように、そこで聖マルガリータに礼拝したいと思ったのかもしれない。毎日毎時間、ジャンヌのもとを訪れていた天上の貴婦人の一人に敬意を示すためだ。[379]

 当時、アンジェの町には、法学の免許を持ち、トゥールとアンジェの教会の聖職者(参事会員)で、アンジェのサンジャン教会の首席司祭を務める人物がいた。

 ジャンヌが、エランクール教区のサンマルグリット(聖マルガリータ)教会を訪れる10日ほど前の4月18日、午後9時頃、彼はひどい頭痛を​​感じた。それは午前4時まで続き、死ぬのではないかと思うほど激しい痛みだった。

 彼は聖カタリナに祈りを捧げて特別な信心を誓うと、すぐに治った。

 この大きな恵みに感謝を示すために、彼はフィエルボワにある聖カタリナの聖域まで徒歩で向かい、5月5日金曜日、そこで国王と「神にふさわしい乙女」のために、そして王国の平和と繁栄のために大きな声で祈り、ミサを捧げた。[380]

7.2 ブルゴーニュ公の軍備(火薬地雷について補足)

 シャルル王の評議会は、コンピエーニュをブルゴーニュ公に引き渡す代わりに、ポン=サント=マクサンスを譲渡した。

 コンピエーニュは、当の町自身が引き渡しを断固として拒否し、王の意向に反して国王の所領であり続けることを望んだため、ブルゴーニュ公の望みを叶える(譲渡する)ことができなかったからだ。

 ブルゴーニュ公は譲渡されたポン=サント=マクサンスを保持した上で、コンピエーニュを奪い取ることを決めた。[381]

 4月17日、休戦協定の期限が切れると、彼は立派な騎士団と強力な軍隊を率いて出陣した。ブルゴーニュ人とピカール人とフランドル人が4000人、イングランド人1500人で構成され、リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールが指揮を執った。[382]

 ブルゴーニュ公はこの包囲戦(コンピエーニュ)に立派な大砲を持ち込んだ。中でも、ルメスウェル砲、ルージュ・ボンバルド砲、ウッパンビエール砲は巨大な石弾を発射することができた。

 公爵が、ジャン・ド・リュクサンブールに現金を払って購入した臼砲も同様に持ち込まれた。ボールヴォワール砲、ブルゴーニュ砲、巨大なクヤール(coullard)砲、いずれも可動式戦争兵器(戦争機械)だった。

 広大なブルゴーニュ領に含まれる諸侯は、弓兵とクロスボウ兵をコンピエーニュに派遣した。

 ブルゴーニュ公はプロイセンとジョージアのカッファ[383]から弓を調達し、有刺矢と無刺矢を用意した。工兵と鉱夫を雇い、町の周囲に火薬地雷を敷設し、ギリシャ火薬を投げ込んだ。

⚠️訳者の覚書:英訳版の原文「He engaged sappers and miners to lay powder mines round the town」を見て、15世紀前半に地雷?と驚いて調べたら……あった。

🔸火薬なしの地雷:敵の進軍を遅らせるために、4本の鋭い釘が付いた小さな仕掛け「カラスの足跡(pieds de corbeau)」を地面に撒いた/埋めた。ようするに「マキビシ」である。

🔸火薬地雷:14世紀、中国・明で「容器の中に黒色火薬を詰めた兵器」を製造。ヨーロッパで実物(非常に高性能)が確認されているのは16世紀に入ってからだが、15世紀後半〜16世紀初頭にレオナルド・ダ・ヴィンチが「地雷に点火する導火線の構造」をスケッチしている。
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1430年当時、裕福なブルゴーニュ公が、東方から輸入した新兵器(原始的な火薬地雷)を所有・使用していてもおかしくない。

 ようするに、国王(シャルル七世)よりも裕福で、キリスト教世界で最も壮麗な領主であり、騎士道のあらゆる技術に精通していたブルゴーニュ公フィリップは、コンピエーニュを舞台に、勇ましい包囲戦をやる決意を固めていた。[384]

ブルゴーニュ公フィリップの肖像

7.3 コンピエーニュの守備隊とジャンヌ到着

 当時、フランスで最も大きく最も強固な町の一つだったコンピエーニュは、ギヨーム・ド・フラヴィー隊長が率いる兵士400〜500人で構成された守備隊に守られていた。[385]

 この地方の名門貴族の出身で、近隣の貴族たちとは常に争い、貧しい民衆とも常に口論していた彼は、アルマニャック派の貴族たちに劣らず邪悪で残酷な男だった。[386]

 市民は、他の人物を隊長に据えることを望まず、シャルル王とその侍従たちの意向に逆らって、ギヨーム・ド・フラヴィーを守備隊のトップにとどめた。

 実際、市民の判断は正しかった。ギヨーム卿ほど町を守る能力に長けた者はおらず、自分の義務を果たすことに熱意を傾ける者もいなかったからだ。

 フランス王が、町を(ブルゴーニュ公に)引き渡すよう命じた時、彼はきっぱりと拒否した。

 その後、ブルゴーニュ公がコンピエーニュと引き換えに多額の金銭と豊かな遺産を約束したとき、彼は「町は自分のものではなく、国王のものである」と答えた。[387]

 そこで、ブルゴーニュ公はグルネー=シュル=アロンドを容易に占領し、さらに、エーヌ川とオワーズ川の合流地点にあるショワジー=シュル=エーヌ(ショワジー=オ=バックとも呼ばれる)を包囲した。[388]

 ガスコーニュ出身の従騎士ポトン・ド・ザントライユが率いる部隊は、ソワソンとショワジーの間でエーヌ川を渡り、包囲軍に奇襲を仕掛けてすぐに撤退し、多くの捕虜を連れて帰ってきた。[389]

 5月13日、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)はコンピエーニュに到着し、エトワール通りの宿に泊まった。[390]

 翌日、代表司政官プロキュルール(Procureurs)たち[391]は、ジャンヌにポット4杯分のワインを贈った。[392]

⚠️代表司政官(Procureurs):コンピエーニュ独自の呼称。町の行政を司る市参事会員エシュヴァン(échevins)のこと。

 町の人たちはこのようにして、ジャンヌに大きな敬意を示そうとした。

 なぜなら、当時、国王の副官であるヴァンドーム伯とその他多くの軍司令官と共に、王国宰相であるランス大司教(ルニョー・ド・シャルトル)もコンピエーニュに滞在していたが、市民はそれ(ジャンヌへの敬意)以上のことはしなかった。

 これらの高貴な貴族たちは、もはや長くは持ちこたえられないだろうショワジー城に大砲やその他の軍需品を送ることを決め[393]、そして今回もまた、これまでと同じように乙女(ジャンヌ)が起用された。

7.4 ソワソンの守備隊長ギシャール・ブルネルの裏切り

 フランス軍は、エーヌ川を渡るためにソワソンに向けて進軍した。[394]
 ソワソンの町の隊長はピカルディ出身の従騎士で、フランス陣営からはギシャール・ブルネル、ブルゴーニュ陣営からはギシャール・ド・ティエンブロンヌと呼ばれていた。彼はどちらの陣営にも従軍した経験があった。

 ジャンヌは彼をよく知っていた。つらい出来事を思い出させた。
 彼は、パリ郊外の堀の前でジャンヌが負傷しているのを見つけ、彼女の意志に反して馬に乗せようとした者の一人だった。

 シャルル王に仕える貴族と兵士たちが近づいてくると、ギシャール隊長はソワソンの人々に「全軍が町を陣取るために来る」と信じ込ませた。

 そのため、町の人々はフランス軍を迎え入れないと決めた。
 そして、少し前にサンリスで起きた出来事と同じことが起こった。

 ギシャール・ブルネル隊長は、ランス大司教とヴァンドーム伯とジャンヌを少数の部隊と共に迎え入れ、残りの軍勢はその夜、城壁の外で宿営した。[395]

 翌日、橋の制圧に失敗し、彼らは徒歩で川を渡ろうとしたが、春で水かさが増していたため失敗に終わった。軍は引き返さざるを得なかった。

 軍隊が去ると、ギシャール・ブルネル隊長はフランス王から守備を命じられていた都市をブルゴーニュ公にサリュドール金貨4000枚で売却し、ジャン・ド・リュクサンブール卿の手に引き渡した。[396]

⚠️サリュドール金貨(Salut d'Or):トロワ条約で王太子(シャルル七世)が廃嫡され、イングランドがフランスを統治していた1422〜1453年に発行。イングランドの支配地域(フランス北部)で流通していた。サリュー(Salut)はフランス語の軽い挨拶で、貨幣には英仏の紋章とヘンリー六世が刻印されており、名称・デザインともに両国の和合を表している。当然ながら、フランス陣営からすれば屈辱的な貨幣だろう。現在は別名「百年戦争の金貨」と呼ばれるレア品。

 ソワソンの町の隊長による、この裏切りと不名誉な行為の知らせを聞いて、ジャンヌは「もし彼を捕らえたら、その体を四つ裂きにしてやる!」と叫んだ。

 この言葉は、彼女の怒りを表現するただの過激な想像ではない。

 当時、特定の罪に対する罰として、処刑人は死刑囚を斬首した後、その死体を四つに引き裂くのが慣例で、これを「四つ裂き刑」と呼んでいた。

 つまり、ジャンヌは「裏切り者は四つ裂き刑に値する」と言ったも同然だった。
 この言葉は、ブルゴーニュ人の耳にはかなり辛辣に聞こえたようで、中には「ジャンヌが怒り狂って神の名をみだりに唱えているのを聞いた」と信じる者もいた。

 彼らは、正確な話を聞いていなかった。
 ジャンヌは神や聖人の名をみだりに唱えたことは一度もなかった。

 怒ったときは、悪態をつく(みだりに誓いを立てる)どころか、「神のご意志のままに!」とか、「聖ヨハネにかけて!」あるいは「聖母マリアにかけて!」と叫ぶのが常だった。[397]

 ソワソンの手前で、ジャンヌと将軍たちは部隊を分離して別れた。
 将軍たちは兵士たちと共に、サンリスとマルヌ川の流域へと向かった。もはや、エーヌ川とオワーズ川の間にある地域は、これほど多くの兵士や要人を養うだけの余裕がなかったからだ。

 ジャンヌとその一行はコンピエーニュへと引き返した。[398]
 彼女は町に到着するとすぐに、近隣地域で略奪するために出撃した。

7.5 コンピエーニュ包囲戦(1)ブルゴーニュ軍の巧みな戦術

 ジャンヌは、ノワイヨンから少し離れた場所にある、モンゴメリー卿が指揮する小規模なイングランド軍守備隊が占拠するポン・レヴェック砦に対する遠征に参加した。

 コンピエーニュを包囲するブルゴーニュ軍の拠点のひとつだ。

 5月中旬、ポトン・ド・ザントライユ隊長、ジャック・ド・シャバンヌ卿、その他の傭兵隊長とともにジャンヌも同行したフランス軍およそ1000人は、モンゴメリー卿が率いるイングランド軍に攻撃を仕掛け、激しい戦いが繰り広げられた。

 しかし、敵はノワイヨンにいるブルゴーニュ軍から救援されたため、フランス軍は撤退を余儀なくされた。敵兵30人を殺害した一方で、味方も同数を失い、この戦いはまさに血みどろの戦闘だった。[399]

 エーヌ川を渡ってショワジーを救いに行くことは、もはや不可能だった。

 コンピエーニュに戻った後、ジャンヌは一瞬たりとも休むことなく、クレピ・アン・ヴァロワへと急いだ。そこではコンピエーニュ防衛のために援軍が集結していた。

 そこで援軍と合流すると、共にギーズの森を抜けて、包囲された町(コンピエーニュ)へ引き返した。23日の夜明けに町に戻ったが、道中でブルゴーニュ軍とは遭遇しなかった。

 オワーズ川の左岸、ギーズの森付近には誰もいなかった。[400]

 彼らは皆、川の向こう側(右岸)にいた。
 そこは、およそ4分の3マイル(約1.2キロ)にわたって草原が広がり、その向こうにはピカルディへ至る丘がそびえ立っている。この草原は低地で湿っぽく、しばしば洪水に見舞われたため、橋から丘の急斜面に位置するマルニー村まで土手道が建設されていた。

 2マイル(約3.2キロ)上流には、アロンド川とオワーズ川の合流地点にあるクレロワの鐘楼が見える。対岸は、約1.25マイル(約2キロ)下流に、ポン・サント・マクサンス方面に向かってヴネットの鐘楼が見える。[401]

**

 騎士ボード・ド・ノワイエ卿に率いられたブルゴーニュ軍の小部隊が、マルニー村の高台を占拠した。

 ブルゴーニュ軍の中で最も名高い戦士といえば、リニー伯ジャン・ド・リュクサンブールだった。彼はピカルディの兵士と共に、ガヌロン山のふもと、アロンド川沿いにあるクレロワに駐屯していた。

 モンゴメリー卿が率いるイングランド軍500人は、ヴェネットでオワーズ川を監視していた。

 ブルゴーニュ公フィリップは、ピカルディ方面に向かって2.5マイル(約4キロ)ほど離れたクダンの町を占領していた。[402]

 この配置は、最も経験豊富な隊長たちの教訓に従ったものだ。
 彼らの原則は「要塞化された町を包囲する際には、多数の兵士を1カ所、ひとつの陣地に集中させてはならない」。

 突然の攻撃にさらされた場合、大規模な軍隊であっても、拠点がひとつしかないと、少数の部隊と同じように簡単に奇襲を受けて敗走し、甚大な被害をもたらすと考えられていた。

 したがって、包囲軍を小部隊に分割し、互いに援助できるように、あまり離れていない場所に配置するのが賢明なやり方である。

 こうすることで、ある部隊が劣勢のとき、別の部隊が救援のために戦闘態勢を整える時間ができる。攻撃している敵は新たな援軍の襲来に愕然とし、攻撃を受けている味方は勇気づけられる。

 いずれにせよ、ジャン・ド・ビュエイユ卿の見解は上記の通りだ。[403]

7.6 コンピエーニュ包囲戦(2)奇襲作戦の計画

 その同じ日、5月23日の夕方5時頃[404]、ジャンヌは美しいまだら模様の灰色の馬に乗り、橋を渡って、草原の土手道へと出陣した。

 旗手がつき従い、ロンバルディア人の兵士の一団と、(ジャンヌとともにシュリーを旅立った)バルトロメオ・バレッタ隊長とその配下の騎兵と歩兵、合わせて300〜440人が、ジャンヌとともに夜のうちにコンピエーニュに入城していた。

 ジャンヌはラニーで見つけたブルゴーニュの剣を帯び、甲冑の上に金色の布であつらえた外套ウプランド(huque)を羽織っていた。[405]

⚠️ウプランド(huque):当時の貴族たちの間で流行していた豪華な装飾着。

 こういう派手な格好は、戦場への出撃というよりもむしろパレードにふさわしい。しかし、田舎育ちで素朴な信仰心を持つジャンヌは、騎士道の華やかな見せかけをこよなく愛していた。

 今回の作戦計画は、バレッタ隊長、この一行の他の指揮官たち、そして(コンピエーニュの守備隊長)ギヨーム・ド・フラヴィー卿の間で軍議がおこなわれ、合意された。

 ギヨーム・ド・フラヴィーは、フランス軍の退路を守るために、橋のたもとに弓兵、クロスボウ兵、砲兵を配置し、必要に応じてできるだけ多くの兵士をぶじに帰還させるために小型の幌付きボートをいくつも川に繰り出した。[406]

 ジャンヌはこの作戦について相談されることはなく、助言を求められることもなかった。

 何も知らされていないにもかかわらず、ジャンヌは「幸運をもたらす者」として軍隊に同行した。彼女は「強力な魔術師」として敵に誇示され、その中でも、死に至るような大罪を犯している者は、彼女が自分たちに魔法(呪い)をかけるのではないかと恐れた。

 ジャンヌが他の女性と大差ないことに気づいている者は、確実に両軍にいたはずだ。[407] しかし、それは何も信じない人(無神論者)であり、そのような人はいつも世論の外(蚊帳の外)にいる。

 今回、ジャンヌは何をすべきかまったく見当もついていなかった。
 いつものように夢想に満たされながら、何か偉大で高貴な帝国へ冒険に出かけるのだと夢見ていた。

 ジャンヌは「ブルゴーニュ軍を打ち破り、ブルゴーニュ公フィリップを捕虜にして連れ帰る」と約束したと言われているが、それはあり得ないことだった。

 バレッタ隊長や傭兵部隊を指揮する他の隊長たちは、コンピエーニュの町に最も近く、最もアクセスしやすい、ブルゴーニュ軍の小さな前哨基地を奇襲し、略奪しようと考えていた。

 目的地はマルニー村。土手道に沿って20〜25分ほどで到着する急な丘の上にある。そこには敵軍のボード・ド・ノワイエ卿が駐屯していた。

 試してみる価値はあった。
 前哨基地の占領は、兵士たちが臨時収入を得られる特権だった。

 敵の陣地(拠点)の位置はかなり巧妙に選ばれていたが、攻撃側ができるだけ迅速に行動すれば成功する可能性があった。

 それに、マルニー村に駐屯するブルゴーニュ軍はごく少数だった。最近到着したばかりで、堡塁や防壁(小型の砦やバリケード)を築いておらず、唯一の防御手段は村にもともとある離れ家だけだった。

7.7 コンピエーニュ包囲戦(3)奇襲成功と思いがけない幸運

 奇襲部隊がコンピエーニュから出陣したのは午後5時だった。日中がもっとも長い季節なので、作戦成功のために暗闇を当てにすることはできない。

 実際、当時の兵士たちは暗闇の中で冒険することをためらった。
 彼らは夜を「危険な裏切り者」に例えて、賢者だけでなく愚者の役にも立つと考えた。そのため、「は自分の行いを決して恥じない」という格言まであった。[408]

 マルニー村まで続く丘をのぼった奇襲部隊は、ブルゴーニュ軍があちこちに散らばっており、武器も持たずに無防備でいるのを発見した。

 敵は不意をつかれ、フランス軍は手当たり次第に無差別攻撃を始めた。
 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は目の前にあるものすべてを破壊した。

 ちょうどその時、リニー伯ジャン・ド・リュクサンブール卿とクレキ卿がクレロワの陣営から馬でやって来た。[409]

 甲冑を身につけず、8人か10人の従騎士をつれてマルニーの丘を登っていた。
 彼らはボード・ド・ノワイエ卿を訪ねるところで、何も警戒していなかった。
 かつてソールズベリー伯がオルレアンのレ・トゥーレルから行ったように、ここの高台から(コンピエーニュの)町の防衛状況を偵察しようと考えていた。

 村で小競り合いに巻き込まれた彼らは、急いでクレロワに武器を取りに行かせ、部隊を召集するよう命じた。援軍が戦場に到着するには、ゆうには30分はかかるだろう。

 それまでの間、彼らは全員非武装だったが、ボード卿の小部隊に加わり、フランス軍の攻撃に耐えるのを手伝った。[410]

 ここで、(ブルゴーニュ軍随一の指揮官)リュクサンブール卿と遭遇し、一方的に襲撃できたことは幸運な一撃になる可能性があり、決して悪い状況ではなかった。

 遅かれ早かれ、マルニー村に駐留する兵士たちは、ヴェネットのイングランド軍とクダンのブルゴーニュ軍を呼び寄せ、クレロワにいる仲間に救援を求めたに違いないのだから。

 奇襲側は、(マルニー村の)敵陣営を襲撃して略奪した後、戦利品を持って急いで町へ引き返すべきだった。

 しかし、彼らはマルニー村にとどまり、ぐずぐずと時間をつぶした。その理由は容易に推測できる。それは、しばしば「強盗(加害者)」を「強盗される者(被害者)」へ変えてしまう理由だ。

 白十字を身につけたフランス軍も、赤十字を身につけたイングランド軍も、どんな危険が迫っていようとも、「持ち去るもの」が残っている限り、絶対にその場所を離れなかった。

 コンピエーニュの傭兵たちが欲深さから危険を招いたとしたら、ジャンヌはその英雄的な気質(valour)と勇敢な行動力(prowess)によって、さらに大きなリスクを冒した。

 もともと彼女は、戦いを放棄して戦場を去ることに絶対に同意しなかった。
 矢やボルト(クロスボウ用の矢)で貫かれて負傷するまで、降伏することはなかったのだ。

7.8 コンピエーニュ包囲戦(4)攻守逆転

 その間、突然の奇襲から立ち直ったボード卿の小部隊は、できる限り武装を整え、村を取り戻そうと努めていた。

 このような状況下で、フランス軍を撃退して追い払うこともあれば、自分たちが大きな損害を出して撤退せざるを得ないこともある。クレキ卿をはじめとする兵士たちは、顔面に重傷を負った。しかし、援軍が来るという希望が彼らに勇気を与えた。

 クレロワから援軍が駆けつけた。
 ブルゴーニュ公フィリップ自身もクダンからの部隊を率いて到着した。

 フランス軍は数で劣勢となり、マルニー村を放棄してゆっくりと撤退した。
 おそらく、村で略奪した戦利品が重荷となり、退却を妨げたのだろう。

 しかし、突然、ヴェネットのゴドン(イングランド人への蔑称)軍が草原を進軍してくるのを発見して、彼らはパニックに陥った。

「自分自身を救え!(Sauve qui peut!)」

 この叫び声とともに、彼らは一斉に拍車をかけて突進し、完全に敗走してオワーズ川の岸辺まで逃げた。ある者は待機していたボートに飛び乗り、ある者は橋の防塁(bulwark、ようするにバリケード)の周りに群がった。

 こうして彼らは、まさに恐れていた災難を引き寄せた。

 イングランド軍は敗走者たちを猛追したため、城壁の守備兵はフランス軍を撃ってしまうことを恐れて、大砲を発射することをためらった。[411]

 フランス軍が防塁を突破すると、イングランド軍がすぐ後に続き、橋を渡って町に侵入しようとした。

 コンピエーニュの隊長は危険を察知し、町の門を閉鎖するよう命令を出した。 跳ね橋は上げられ、落とし格子は降ろされた。[412]

 草原では、ジャンヌが依然として英雄的な勝利を収める幻想に囚われていた。
 親族(ジャンヌの弟)や個人的な家臣の小集団に囲まれて守られながら、ジャンヌはブルゴーニュ軍に抵抗し、自分の前に立ちはだかるすべてを打倒できるとまだ信じていた。

 仲間たちは、ジャンヌに向かって叫んだ。

「町に引き返すために努力してください。さもないと全員が破滅してしまう!」

 しかし、ジャンヌの目は、天使や大天使の輝きに幻惑されており、いつものように答えた。

「黙れ! もし私たちが敗北するとしたら、それはおまえの責任だ。彼ら(敵)を攻撃することだけを考えろ」

 そしてジャンヌは再び、いつも口にしていたあの言葉を発した。

「前へ進め! 彼ら(敵)は私たちのものだ!」[413]

 ジャンヌの部下たちは、彼女の馬の手綱をつかみ、無理やり町の方へ向かわせようとした。

 しかし、時すでに遅し。

 橋を見下ろす防塁にたどり着く前に、(草原から駆けつけた援軍の)イングランド軍が土手道の終着点を占拠していた。ジャンヌとその小部隊は、防塁の側面と土手道の間にある隙間に閉じ込められた。

 ジャンヌを襲撃したのはピカルディの兵士たちで、激しい攻撃を仕掛けて、彼女を守る者たちを追い払い、ついにジャンヌ本人に迫った。[414]

 弓兵がジャンヌの金色の外套(ウプランド)を引っ張り、地面に引きずり下ろした。追っ手全員がジャンヌを取り囲み、一斉に叫んだ。

「降伏しろ!」

 身柄をゆだねるよう迫られたジャンヌは、「私はすでに別の人に誓いを立てました。その誓いを守ります」と答えた。[415]

 彼女をせきたてた者の一人が、自分は高貴な生まれだと言った。
 ジャンヌは彼に降伏した。

 リヨネルという名の弓兵で、「ヴァンドームの私生児」の部隊に所属していた。彼は自分の運が開けたと思い、まるで王を捕らえたかのように喜んだ。[416]

 乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)と共に、彼女の弟ピエール・ダルク、彼女に仕える従騎士ジャン・ドーロン、そしてジャン・ドーロンの兄弟で「ブルゴーニュ人」というあだ名のポトンも捕らわれた。[417]

 ブルゴーニュ軍の記録によると、この戦闘でフランス軍は兵士400人を失い、その死因は戦死または溺死だったという。[418] しかし、フランス軍の記録によれば、ほとんどの歩兵はオワーズ川の岸辺近くに待機していたボートで救助されたとのことだ。[419]

 もし、(コンピエーニュの守備隊長)ギヨーム・ド・フラヴィーが橋の周縁に配置した弓兵、クロスボウ兵、砲兵がいなかったら、防塁は陥落して占拠されていただろう。

 ブルゴーニュ軍は負傷者20人で、戦死者はいなかった。[420]
 ジャンヌはそれほど熱心に守られていなかった。

7.9 コンピエーニュ包囲戦(5)捕縛後、ブルゴーニュ公との対面

 ジャンヌは武装解除され、マルニー村へ連行された。[421] アルマニャック派の魔女が捕らえられたという知らせが伝わると、ブルゴーニュ陣営全体に雄叫びと歓声が響き渡った。

 ブルゴーニュ公フィリップは、乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)に会ってみたいと思った。

 公爵がジャンヌに近づくと、聖職者や騎士の一部が、彼の信仰心と勇気を称賛し、この偉大な公爵が「地獄の落とし子」を恐れないことに驚いた。[422]

 この点において、ブルゴーニュ公に仕える騎士たちは主人と同じくらい勇敢だった。多くの騎士や従騎士が、好奇心を満たすために(捕らわれたジャンヌに)群がったからである。

 その中に、リュクサンブール家に仕えるブローニュ伯領出身で、のちに『年代記(Chronicles)』を著したアンゲラン・ド・モンストルレ卿がいた。

⚠️アンゲラン・ド・モンストルレ(Enguerrand de Monstrelet):フランスの年代記作家。彼が著した『年代記』全六巻は百年戦争後期、特にブルゴーニュ派の状況を伝える貴重な資料である。

 彼は、ブルゴーニュ公とジャンヌの面会に立ち合い、公爵が囚人に語りかけた言葉を聞いたが、彼の職業柄、優れた記憶力が必要だったにもかかわらず、その言葉を忘れてしまった。

 おそらく彼は、ブルゴーニュ公の尋問が、本に書き残すほど騎士道的な内容だとは考えなかったのだろう。[423]

⚠️補足:年代記作家アンゲラン・ド・モンストルレは、ブルゴーニュ公と捕縛直後のジャンヌの面会に立ち合い、二人の会話を聞いている。貴重な記録を残さなかったのは、①内容を忘れたか(これは疑わしい)、②大した内容ではなかったか(現代人としては一言・二言でも知りたかった)。
もっとも可能性が高いのは、③後世でジャンヌ・ダルクがこれほど著名人になるとは思わなかったからだろう。

 ジャンヌはリニー伯ジャン・ド・リュクサンブール卿の保護下に置かれ、以後は彼の所有となった。

 ジャンヌを最初に捕らえた弓兵は、自分の隊長である「ヴァンドームの私生児」に捕虜の身柄を引き渡し、その「私生児」もまた、自分の主君であるジャン・ド・リュクサンブール卿に引き渡した。[424]

 リュクサンブール家の枝(家系図)は、キリスト教世界の西から東へ、ボヘミアやハンガリーにまで広がり、王妃6人、皇后1人、国王4人、皇帝4人を輩出していた。

 この名門の分家出身で、自分自身は貧しい領地しか持っていない末っ子のリニー伯ジャン・ド・リュクサンブールは、ブルゴーニュ公に仕え、多大な苦労の末に騎士の地位を勝ち取り、名誉を得た。

 ジャンヌを人質に取った(身代金目的で拘束した)とき、彼は39歳で、全身傷だらけで片目を失っていた。[425]

 その晩、ブルゴーニュ公はクダンの宿泊先から、自領の諸都市に宛てて「乙女の捕縛」を知らせる手紙を書かせた。サンカンタンの住民に宛てた手紙には、「この捕縛の知らせは遠くまで広まるだろう」と記されている。

「そして、この女のおこないを承認し、好意を抱いていたすべての人々の過ちと思い違いが、広く知れ渡るだろう」[426]

 同様に、公爵は、自分の紋章官ロレーヌを派遣してブルターニュ公にも知らせ、さらに、サヴォワ公とその善良な町ゲントにも知らせを送った。[427]

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 ジャンヌがコンピエーニュへ連れて行った部隊の生存者たちは包囲(防衛)を放棄し、翌日にはそれぞれの守備隊(駐屯地)に戻った。

 ロンバルディア人のバルトロメオ・バレッタ隊長、ジャンヌの副官は、武装兵32人、トランペット奏者2人、小姓2人、クロスボウ兵48人、弓兵または楯兵(targeteer)20人と共に町に残った。[428]

⚠️楯兵(targeteer):小型の楯(タルジュ/targe)を装備した兵士のこと。現代の軍事用語では「標的兵・射撃兵:砲撃計画の調整役」を意味するが、当時は、弓兵やクロスボウ兵を保護するために楯を構える実戦部隊だった。

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