教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝|上巻・第四章 ナンシー/ヴォークルール/聖カトリーヌ・ド・フィエルボワ
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アナトール・フランス著『ジャンヌ・ダルクの生涯(Vie de Jeanne d'Arc)』全文翻訳を目指しています。完訳達成。
原著は1908年発行。
1920年:ジャンヌ・ダルク列聖
1921年:A・フランス、ノーベル文学賞受賞
1922年:ローマ教皇庁の禁書目録に登録
現在、禁書制度は廃止されているが、教皇庁は「カトリック教義を脅かす恐れがある禁書だった本を推奨することはできない」という立場を表明している。
▼総合目次・リンク集:なぜ、21世紀に『ジャンヌ伝』を完訳するのか
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⚠️字数が多い(約9,000字)ため、訳者の裁量で小見出しをつけています。
4.1 老ロレーヌ公と、娘婿ルネ・ダンジュー
イングランドと同盟を結んでいたロレーヌ公シャルル二世は、相続人(継承者)である長女イザベルを、シチリアとエルサレムの女王でアンジュー公爵夫人であるヨランド夫人(ヨランド・ダラゴン)の次男ルネと結婚させた。[423]
この婚姻は、ロレーヌ公のいとこであり友人でもあるブルゴーニュ公に、手痛い一撃を与えた。
ロレーヌ公の娘婿ルネ・ダンジューは、当時20歳になったばかりだった。
騎士道と同じくらい優れた学識を愛し、高潔な精神の持ち主で、優雅な教養人だった。
軍事遠征や槍を振り回していないときは、写本を彩色することを好んだ。
花咲く庭園やタペストリーに描かれた物語を愛し、いとこ(実際ははとこ)のオルレアン公のようにフランス語で詩を書いた。[424]
ルネ・ダンジューは、大叔父であるバル公枢機卿からバル領を譲られ、さらに、義父ロレーヌ公(息子は夭折していた)の死後、そう遠くない将来にロレーヌ領を相続することになる。
この結婚は、ヨランド・ダラゴンの巧妙な策略とみなされていた。
しかし、主君として君臨するには戦わなければならない。
ブルゴーニュ公は、ブルゴーニュとフランドルの間に、シャルル・ド・ヴァロワ(シャルル七世)の義理の兄弟であるルネ・ダンジューが有力な地位を確立したことに危機感を覚えていた。
⚠️ルネ・ダンジューは、シャルル七世の王妃マリー・ダンジューの実弟。
そこで一計を案じたブルゴーニュ公は、ロレーヌ公の甥で、ルネ・ダンジュー夫妻の遺産相続に不満を持っていたヴォーデモン伯を焚きつけて、戦いを挑むように扇動した。
アンジュー家の政略によって、ブルゴーニュ公とフランス王の和解はますます困難なものとなった。こうして、ルネ・ダンジューは、ロレーヌの義父をめぐる相続争いに巻き込まれた。
この年、1429年に、彼はメスの市民に対して「りんご荷の戦い」と呼ばれる戦争を仕掛けた。[425] ロレーヌ公爵の役人の管轄を通さずに(通行税を払わずに)りんご入りの貨物がメスの町に持ち込まれた事件が争いのきっかけになったため、このように呼ばれた。[426]
一方その頃、ルネの母(ヨランド・ダラゴン)は、イングランド軍に包囲されたオルレアン市民のために、ブロワから食料を積んだ輸送隊を送っていた。[427]
彼女は当時、義理の息子であるシャルル王の顧問たちと良好な関係ではなかったが、王国の敵がアンジュー公領を脅かした際には、警戒を怠らなかった。
したがって、バル公を譲り受けたルネは、親族、友情、利害関係によって、イングランドとブルゴーニュの党派ばかりか、フランスの党派にも結びついていた。
フランス貴族のほとんどが、似たような状況だった。
ルネ・ダンジューとヴォークルールの司令官(ロベール・ド・ボードリクール)は、つねに友好的な連絡を取り合っていた。[428]
ロベール卿が、ルネに「ヴォークルールにフランス王国に関する予言を話している乙女がいる」と伝えていた可能性はあり得る。
バル公(ルネ)がジャンヌに興味を持ち、2月20日ごろに滞在する予定だったナンシーに彼女を呼び出したのかもしれない。
しかし、ルネ・ダンジューは、見ず知らずのヴォークルールの乙女よりも、公爵の宮殿を騒がせている小さなムーア人と道化師を気にしていた可能性の方がはるかに高い。[429]
⚠️小さなムーア人(le petit More):当時の王侯貴族の間では、富や権力、あるいは異国への関心の象徴として、アフリカ系の幼い少年を召使いとして身近に置く習慣があった。
ルネは若い教養人で娯楽好き。現時点では「フランス王国の危機を救う聖女」というあやふやな存在よりも、目の前で自分を楽しませてくれる娯楽や直接的な利害を気にかけていた。
1429年の2月ごろ、ルネ・ダンジューはフランス情勢に深く関わることを望んでおらず、関心を持つ余裕もなかった。シャルル王の義理の兄弟でありながら、オルレアンの町を救援するのではなく、メスの町を包囲する準備をしていた。[430]
4.2 ナンシーでロレーヌ公に面会
その頃、老いて病に伏していたロレーヌ公シャルルは、愛妾のアリソン・デュ・メイとともに宮殿に住んでいた。アリソンは司祭が生ませた庶子の娘で、ロレーヌ公の正妻でバイエルン出身のマルグリット夫人を追い出した。
マルグリット夫人は敬虔で高貴な生まれだったが、年老いた醜女で、一方のアリソンは若く美しかった。彼女はシャルル公との間に、数人の子供をもうけていた。[431]
ジャンヌがナンシーへ呼び出された理由について、次の話が最も信憑性が高い。
ナンシーには、シャルル公に善良な妻マルグリット夫人を呼び戻してほしいと願う敬虔な人たちがいた。彼らは公爵を説得するために、天からの啓示を受け、みずからを「神の娘」と自称する聖女のお告げに頼ろうとした。
これらの人々によって、ドンレミの乙女(ジャンヌ・ラ・ピュセル)は「病を癒す奇跡を起こせる聖女」として、衰弱した老公爵に紹介された。公爵は、ジャンヌが苦痛を和らげ、命を長らえる秘技を知っていることを期待して呼び出したのである。
公爵は、ジャンヌと会うとすぐに、「以前の健康と力強さを取り戻すことはできないか」と尋ねた。
ジャンヌは「そのような方法は何も知らない」と答えたが、公爵の不健全な暮らしを指摘し、それを改めない限り治癒することはないと警告した。そして、妾のアリソンを追い払い、善良な妻を呼び戻すよう命じた。[432]
おそらく、このようなことを言うように事前に指示されていたのだろう。
しかし、それはジャンヌ自身の本心から出た言葉でもある。なぜならジャンヌは不道徳な悪女を嫌っていたからだ。
ジャンヌがロレーヌ公のもとに来たのは、それが当然のことだったからだ。小さな聖女は、偉大な領主が相談を望んだときに拒むべきではないし、ようするにジャンヌはナンシーに連れて来られたからである。
ナンシーに滞在中も、ジャンヌの心は別のところにあり、フランス王国を救うことばかり考えていた。
ジャンヌは、ヨランド夫人の息子(ロレーヌ公の娘婿ルネ・ダンジュー)が、立派な武装兵の軍隊を率いてくれれば、王太子の大きな助けになるだろうと考えた。別れ際にロレーヌ公に、この若い騎士を自分とともにフランスに送ってくれるよう頼んだ。
ジャンヌは「あなたの息子さんを私にください。武装した兵隊も一緒に」と言った。
ロレーヌ公は武器も兵隊も息子(ルネ)も与えなかったが、ジャンヌに4フランと黒い馬を与えた。[433]
ルネ・ダンジューはロレーヌ公の後継者で、イングランドと同盟関係にあるバル公でもあったが、それにもかかわらず、まもなくシャルル王の旗下にジャンヌとともに合流することになる。
4.3 三度目のヴォークルール:男装と断髪
おそらくナンシーからの帰路で、ジャンヌは両親に家を出たことを詫びる手紙を書いた。両親が手紙を受け取り、許したという事実だけが判明している。[434]
父親のジャック・ダルクが、娘がヴォークルールに滞在していた1カ月間、静かに家にとどまっていたのは驚きを禁じ得ない。以前は、娘が武装した兵士と一緒にいる夢を見ただけで、そんなことが現実になるなら、息子たちに頼んでジャンヌを溺死させるか、自分の手でそうすると脅していたのに。
なぜなら、彼は、ヴォークルールでジャンヌが兵士たちと一緒に暮らしていることを知っていたはずだ。
ジャンヌの気性を知っていながら、彼女を行かせた理由は非常に単純なことだ。
ジャンヌの善良さを信じ、王国を救うためにフランスに連れて行くことを望んだ敬虔な人たちが、ジャンヌの生活ぶりについて両親を安心させる役割を果たしたのだろう。おそらく彼らは、ジャンヌが王のもとへ行けば、家族も名誉と利益を得られると説明して、素朴な民衆に理解させたのかもしれない。
ナンシーへ行く前か後かよくわからないが、若い預言者を信じるヴォークルールの町民の一部は、ジャンヌのために男性用の衣服一式を準備した。すなわち革製の袖なし胴着、布製の上着、コートにくくりつける紐付きの長靴下、脚絆、拍車、戦争に必要な装備一式を、作るか買うかして用意していた。
ロベール・ド・ボードリクールは餞別として、ジャンヌに一振りの剣を与えた。[435]
ジャンヌは少年のように髪を丸く刈り上げた。[436]
ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジは、召使いのジャン・ド・オヌクールとジュリアン、そして王の使者コレット・ド・ヴィエンヌと弓兵リシャールとともに同行することになった。[437]
ジョアンヴィルの領主アントワーヌ・ド・ロレーヌの兵士たちがその地域を荒らしていたため、さらに旅の延期が続き、会議が開かれた。
至るところで、略奪、強盗、殺人、残酷な暴政、人さらいと強姦、教会や修道院の焼き討ち、恐ろしい犯罪ばかりが横行していた。それは人類が経験してきた中で最も困難な時代だった。[438]
しかし、ジャンヌは恐れることなくこう言った。
「神の名において! 私を優しい王太子のところへ連れて行ってください。私たちが遭遇するであろう、どんな困難や妨害も恐れないでください」[439]
伝わっている話によると、2月のある日、ついに小さな一行はヴォークルールのフランス門から出発した。[440]
これまでジャンヌについてきた数人の友人が、旅立ちを見守った。
その中には、下宿先の主人であるアンリ・ルロワイエとカトリーヌ夫妻、そしてジャンヌが何度か告解(懺悔)したヴォークルール近郊にある聖ニコラ教会の聖職者ジャン・コラン師もいた。[441]
彼らは、危険な道中と長い旅路を想像して、聖女のために震え上がった。
「そこら中に武装した兵がうろついているのに、どうしてこんな旅に出られるのか?」
しかし、ジャンヌは穏やかな心で彼らに答えた。
「私は武装した兵士を恐れない。私が行くべき道は、目の前にはっきりと示されている。もし武装した兵士が立ち塞がっても、主なる神は、私が王太子のもとへ行くために道を作ってくださるでしょう。そのために私は来たのだから」[442]
ロベール卿はジャンヌ一行の出発に立ち会った。
彼は慣例に従い、ジャンヌを託した兵士一人一人から「確実に安全に連れていく」と誓いの言葉を聞いた。それから、信仰心の薄いロベール卿は、別れの挨拶の代わりにジャンヌにこう言った。
「行け! 何が起ころうとも」[443]
こうして、ムーズ川の草原をこの季節特有の霧が包み込むなか、小隊は旅立っていった。
4.4 ヴォークルールからの旅立ち
ジャンヌ一行は、人通りの多い街道を避けた。特に、敵対勢力の兵士がいるジョアンヴィル(Joinville)、モンティエ=アン=ソー(Montiers-en-Saulx)、サイイ(Sailly)の付近を通るときには、入念に警戒しなければならなかった。
ベルトラン卿とジャン・ド・メスは、このような隠密の遠征に慣れていたため、抜け道をよく知っており、馬脚を麻布で包んでひづめの音を消すなどの有用な対策を知っていた。[444]
日が暮れると、あらゆる危険を回避した一行は、マルヌ川の右岸に近づき、サン=ウルバン修道院に到着した。[445] そこは古くから旅人の避難場所となっており、当時の修道院長はロベール・ド・ボードリクールの親戚であるアルヌール・ドーノワだった。[446] 簡素な建物の門が旅人のために開かれ、彼らは屋根が交差する丸天井の下を通った。[447]
修道院には、見知らぬ旅人のために特別に設けられた建物があった。
そこが最初の休憩場所となった。
外門の右側に、修道院付属の教会があり、そこにはローマ教皇・聖ウルバヌスの聖遺物が保存されていた。
2月24日の朝、ジャンヌはそこで修道院のミサに参加した。[448]
その後、ジャンヌと仲間たちは再び馬に乗った。サン=ウルバン修道院の向かい側にある橋を渡ってマルヌ川を越え、フランスに向けて進んだ。
彼らは盗賊がうろつく土地で、あと125リーグ(約625キロ)を進み、3本の川を渡らなければならなかった。敵を恐れて、彼らは夜に旅程を進めた。[449]
わらの上に横たわって休むとき、ジャンヌは長靴下とコートを結ぶ紐を解かず、衣服を着たまま、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジの間に毛布をかけて眠った。ジャンヌはこの2人に信頼を寄せていた。
のちに彼らは、ジャンヌに神聖さを感じていたので、一緒に寝ていても彼女に欲望を感じたことはないと語った。[450] それを信じるかどうかは人それぞれだ。
とはいえ、ジャン・ド・メスは、預言者(ジャンヌ)に対してそれほど熱烈な信仰を抱いていなかったため、ジャンヌにこう尋ねた。
「あなたは本当に、自分で言っていることを実行するつもりか?」
ジャンヌは答えた。
「恐れることはありません(ご心配なく)。私は命じられたことをするだけです。天国にいる私の仲間が、私に何をすべきか教えてくれます。天国にいる仲間とわが主が、フランス王国を救うために戦争に行かなければならないと私に言ってから、もう4〜5年になります」[451]
これらの無作法な仲間たちは、全員がジャンヌの前で宗教的な敬意を払っていたわけではなかった。
中にはジャンヌをあざけり、わざと自分たちが敵方のイングランドに属しているかのようにジャンヌの前で話して、気晴らしする者もいた。
時には冗談で、うその警報を発して引き返すふりをした。
だが、このような冗談は無駄に終わった。
ジャンヌは彼らを信じていたので恐れることはなく、イングランド人を装ってジャンヌを怖がらせようとする者には、真剣な面持ちでこう言った。
「決して逃げないように。神の名において言っておく。敵はあなたに危害を加えないから」[452]
危険が迫るたびに、それが本当であろうと誤報であろうと、ジャンヌの口はいつも励ましの言葉を繰り返した。
「恐れないで。シノンに着いたら、美しい王太子が私たちをどれほど優しく迎えてくださるか、きっと分かるから」[453]
ジャンヌの最大の悲しみは、教会で祈りを捧げたいのに頻繁に祈ることができないことだった。ジャンヌは毎日こう繰り返した。
「もし可能なら、ミサを聞きたい」[454]
大きな街道を避けていたため、橋を渡ることはあまりなかったが、しばしば増水した川を徒歩で渡らざるを得なかった。
彼らは、バル=シュル=オーブの近くでオーブ川を、バル=シュル=セーヌの近くでセーヌ川を、オーセールの向かい側(対岸)にあるヨンヌ川を渡り、ジャンヌはサン=テティエンヌ教会でミサを聞いた。そして、ロワール川の右岸にあるジアンの町に到着した。[455]
ついに、彼らロレーヌ人一行は、フランス王(シャルル七世)に忠誠を誓う町を目にした。
敵地を75リーグ(約375キロ)も旅したが、攻撃も妨害も受けなかった。のちに、これは奇跡だと言われた。
しかし、7〜8人のアルマニャック派(シャルル七世を支持する勢力)の騎馬隊が、イングランドとブルゴーニュが支配する地域を無事に通り抜けることはそれほど難しいことだったのか?
ヴォークルールの司令官(ロベール・ド・ボードリクール)は、頻繁に王太子に手紙を送り、それは彼に届いていた。王太子もまた司令官に使者を派遣する習慣があり、現に、コレット・ド・ヴィエンヌがジャンヌを召喚する手紙を運んできたばかりだ。[456]
実のところ、王太子の追随者(使者)たちは、彼の支配下にある地方でも、他の領主の支配下にある地域でも大差なく、大きな危険にさらされていた。[457]
シャルル王に雇われた傭兵(ならず者)たちは、旅人を略奪して身代金を要求する際、味方のアルマニャック派か、敵方のブルゴーニュ派かを尋ねることはなかった。
実際、ベルトラン・ド・プーランジとその仲間たちが、最大の危険にさらされたのは、ロワール川を渡った後だった。
フランス軍に所属する兵士数名は、ジャンヌ一行の接近を知ると、先回りして奇襲を仕掛けようと待ち伏せしていた。
彼らは乙女(ラ・ピュセル)を捕らえて穴に投げ込み、大きな石の下に閉じ込めるつもりだった。彼女を呼んだ王が、救出のために多額の金銭を支払ってくれることを期待したのだ。[458]
略奪者や傭兵が、旅人を落とし穴に投げ込み、身代金を支払わせて解放するのは、よくある悪い習慣だった。
これより18年前のコルベイユで、5人の男がブルゴーニュ人によってパンと水だけで穴に閉じ込められた。そのうち3人は身代金を払うことができずに死んだ。[459]
あやうく、ジャンヌも同じ運命を辿るところだった。
しかし、彼女を待ち伏せしていた哀れな悪党たちは、襲撃すべき時に何もしなかった。理由は不明だが、一行よりも自分たちの方が弱いと察したのかもしれない。[460]
4.5 聖カトリーヌ・ド・フィエルボワの聖域
ジアンの町から、小さな一行はベリー公領(ベリー公は王太子が保有する称号のひとつ)の北の境界線に沿って進み、ブレゾワ地方に入り、おそらくセル=シュル=シェールとサン=テニャンを経由してトゥーレーヌ地方に入ったあと、フィエルボワの緑豊かな斜面に到達した。[461]
そこには、農民の少女(ジャンヌ)と毎日親しく語り合った二人の聖女うちのひとり、聖カタリナ(カトリーヌ)のもっとも有名な聖域があった。フィエルボワは多くの巡礼者を受け入れ、偉大な奇跡を起こした場所だった。
⚠️カタリナとカトリーヌについて:本書では、聖人自身はラテン語読みで「カタリナ」、地名と人名はフランス語読みで「カトリーヌ」と訳出している。
この地で、聖カトリーヌの信仰に関する起源は、王国の武勇と護国に関わるフランス史初期までさかのぼる。
シャルル・マルテル(メロヴィング朝フランク王国の宮宰)は、ポワティエでサラセン人(異教徒のこと)に勝利した後、聖カタリナの礼拝堂に剣を奉納したことで知られている。[462]
しかし、それ以来、フィエルボワの聖域は長い間ずっと放置され、人々に忘れられて荒廃していたことは認めざるを得ない。
ドンレミの乙女が訪れる40年以上も前、森の奥深くにあるその聖域の壁は、イバラのやぶに覆われていた。
当時、男女を問わず聖人たちは、不敬な扱いを受けていた場合、信心深い人のもとへ現れて、地上で自分が受けている行為について訴えることは珍しくなかった。
聖人たちは修道士や農民や市民の前に現れて、信者の不敬について激しい言葉で非難し、自分への礼拝を再開して聖域を修復するよう命じた。
そして、この地で、聖カタリナはまさにこれをやった。
1375年、フィエルボワ近郊に住む騎士ジャン・ゴドフロワのもとに聖カタリナが現れ、彼女の礼拝堂にかつての威光と名声を取り戻すように訴えた。騎士は盲目で、手足の麻痺に苦しんでいたが、聖カタリナは「シャルル・マルテルが剣を奉納した場所で9日間祈りを捧げれば、体を治す」と約束した。
ジャン・ゴドフロワは、人々に運ばれて寂れた礼拝堂に向かおうとしたが、その前に、彼の召使いたちが斧でイバラの茂みを切り開いて道を作らなければならなかった。
聖カタリナは約束通り、ジャン・ゴドフロワの目と手足の機能を回復させた。
この奇跡によって、トゥレーヌ地方の人たちが軽視していた聖女の栄光を思い出させた。礼拝堂は修復され、信者たちが再び巡礼するようになり、奇跡がいくつも起こった。
最初、聖カタリナの奇跡は病人を癒すことだった。
その後、この地が戦争で荒廃すると、聖カタリナの奇跡にすがる捕虜をイングランド人の手から解放することが、彼女のご利益となった。
ある時は、捕虜を衛兵から見えなくし、またある時は、ロープや鎖や錠前などの拘束具を壊した。例えば、1418年にボーモン=シュル=オワーズの守備隊に捕らえられたカザン・デュ・ボワという貴族の場合がそうだ。
ロープでかたく縛られて鉄製の檻に監禁され、見張りのブルゴーニュ人が居眠りしているときに、彼は聖カタリナのことを思い出し、栄光ある乙女に身を捧げた。すると、すぐに檻が開いた。
時には、イングランド人を拘束して捕虜の鎖を外し、身代金なしで解放させることもあった。それは偉大な奇跡だった。
ルザルシュ近郊にあるサン=ソヴールのペロ・シャポンにも大いなる奇跡が起こった。ペロは1カ月間、イングランドの牢獄に拘束されていたが、聖カタリナに身を捧げて眠りについた。目覚めた時には、拘束されたまま自分の家に帰ってきていたという。
一般的に、聖カタリナは「自分自身を助ける人」を助けた。
1429年にベレーム城に囚われていたソミュール市民のジャン・デュクドレーの場合がそうだ。
彼は、自分の魂を聖カタリナに敬虔に捧げると、自力で脱獄して、看守の首を絞め、城壁をよじ登り、槍2本分の高さから飛び降り、自由の身となって田舎へ逃れた。[463]
おそらく、イングランド軍がフランスでもっと大きな勢力を持っていたら、こうした奇跡はそれほど頻繁には起こらなかっただろう。
しかし、イングランド軍の兵力は少なく、支配下のノルマンディー地方で町に立てこもり、ひらけた平野を傭兵に明け渡した。傭兵はその地域を通過する輸送隊を襲って捕らえることが多かったため、聖カタリナの介入が大いに促進された。[464]
聖カタリナの信者となり、彼女に救出された捕虜たちは、フィエルボワの聖地へ巡礼して誓いを果たした。彼女の礼拝堂に、捕虜たちを縛っていたロープや鎖などの拘束具、彼ら自身が身につけていた甲冑、そして特別な時には敵の甲冑を吊るした。
ジャンヌがフィエルボワに来る9カ月前、ジャン・デュ・シャステルという騎士がまさにそうだ。
デュ・シャステルはある隊長から逃れて自由になったが、隊長は「名誉にかけて宣誓したのに、誓いを破った」と主張して反逆罪で訴えた。デュ・シャステルは「宣誓していない」と主張して、隊長に一騎打ちの決闘を挑んだ。
戦いの結果、フランスの騎士が正しいと証明された。
聖カタリナの助けで、デュ・シャステルが勝利したのだ。
その見返りに、彼はフィエルボワにやって来て、彼の主人である「オルレアンの私生児」とラ・イル隊長、その他数名の貴族の前で、打ち負かしたイングランド人の鎧を聖なる守護者に捧げた。[465]
ジャンヌは、このような奇跡やそれに類する話を聞いたり、礼拝堂の壁にたくさんの武器がぶら下がっているのを見て、喜んだに違いない。
いつもジャンヌのもとを訪れて助言を与えてくれた聖女が、ゴドン人(イングランド人に対する蔑称)によって拘束されて、檻や穴に閉じ込められたり、木に吊るされた哀れな兵士や農民の友であると、これほど明白に示されたことを、きっととても喜んだだろう。
ジャンヌは礼拝堂で祈りを捧げ、ミサを2回聞いた。[466]
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