黒い鞄 第六章 処刑場
近江八幡の駅前には、何の変哲もない地方都市の風景が広がっていた。
ロータリーに停まったバスが排気音を立てて出ていくのを見送りながら、僕はコンビニで買った缶コーヒーを開けた。
三月の終わり、曇天。
風は冷たいが、コートの下に汗をかくほどの湿度がある。
琵琶湖から吹いてくる風は、季節の変わり目になると妙に湿り気を含む。
この日の取材先は、地元の郷土史研究会の会長を務めているという男性だった。
仮にWさんとしておく。
編集部を通じて紹介された人物で、近江八幡を中心に、湖東地域の民俗伝承を四十年にわたって記録し続けているという。
電話で取材の趣旨を伝えたとき、Wさんは少しだけ間を置いてから「処刑場のことも話しますか」と言った。
処刑場。
僕がその言葉を聞いたのは、これが初めてではなかった。
前の章で書いた白鬚神社の取材の折、地元の漁師から「この辺にはな、昔の処刑場がまだ残っとる場所がある」と聞いていた。
僕はそれを、漁師がよくする大袈裟な脅し文句の一種だと受け流していたのだが、Wさんの口から同じ言葉が出たことで、にわかに輪郭を帯びた。
Wさんとの待ち合わせは午後一時。
駅前の喫茶店を指定されていた。
*
Wさんは七十代の後半と思しき、背筋のまっすぐな男性だった。
白髪を短く刈り込み、薄い金縁の眼鏡をかけている。
喫茶店に入ると奥のテーブル席に座っていて、僕の顔を見るなり立ち上がって会釈をした。
テーブルの上には、すでにA4の紙束が数枚と、古い地図のコピーが広げてあった。
「遠いところをわざわざ」
Wさんはそう言って、紙束の端を揃えた。
簡単な自己紹介のあと、僕は取材の意図を改めて説明した。
滋賀の鬼伝承を軸にした記事を書いていること。
酒呑童子や八瀬童子といった有名な伝承だけでなく、土地に根ざした、あまり知られていない話を探していること。
そして、取材を進めるうちに「鬼」という存在が、単なる妖怪ではなく、もっと複雑な歴史的背景を持っているのではないかと感じ始めていること。
Wさんは僕の話を黙って聞いていた。
コーヒーカップに手をかけたまま、一度も口を挟まなかった。
僕が話し終えると、Wさんは眼鏡を外し、レンズをハンカチで拭いた。
それからゆっくりと眼鏡をかけ直し、こう言った。
「シガイの森をご存知ですか」
*
シガイの森。
近江八幡市の西部、安土町に近い一帯に、その森はある。
Wさんが広げた地図のコピーを見ると、周囲は見渡す限りの田園地帯だった。
碁盤の目のように区画された水田が広がる中に、不自然に一か所だけ、こんもりとした緑の塊が描かれている。
「ここです」とWさんは指差した。「平坦な農地のど真ん中に、突然、森が現れる。車で走っていると、嫌でも目に入ります。異様と言えば異様な光景です」
周囲に山はない。
丘陵もない。
ただひたすら平らな水田が広がる中に、唐突に木々が密生している場所がある。
地形的な必然性がまるでない。
なぜそこにだけ木が生えているのか、航空写真を見ても説明がつかない。
「あの森は、天正七年の安土宗論に由来しています」
Wさんは紙束から一枚を引き抜いた。
手書きの年表が記されていた。
安土宗論。
天正七年(一五七九年)、織田信長の命により安土城下で行われた、浄土宗と法華宗(日蓮宗)の宗論――すなわち宗教論争である。
この宗論については、概要を述べておく必要があるだろう。
信長は法華宗の僧侶たちに対し、浄土宗との公開討論を命じた。
表向きは宗教上の真理を問うための場であったが、実態は法華宗を屈服させるための政治的な仕掛けだったと言われている。
判定は信長側の人間が行い、法華宗は敗北を宣告された。
敗れた法華宗の僧侶たちは、信長に対する不敬を問われ、処罰を受けた。
「処罰の内容は、記録によって異なります」とWさんは言った。「公式には、法華宗側が謝罪の文書を書かされ、一部の僧侶が追放されたとされています。しかし、地元には別の伝承が残っている」
Wさんはここで少しだけ声を落とした。
「安土宗論で敗れた法華宗の僧侶のうち、数名がこの地で処刑されたという言い伝えがあるんです。正確な人数も、処刑の方法も、伝承によって異なります。ただ、その場所がどこであったかについては、ほぼ一致している」
シガイの森。
「シガイ」の語源について、Wさんは二つの説を挙げた。
一つは「死骸」の転訛。
もう一つは「四界」で、仏教用語の四大(地水火風)が巡る場所という意味だという。
どちらが正しいかは分からない。
あるいはどちらも正しいのかもしれない。
死骸が埋められた場所に、仏教的な意味を重ねて呼んだ可能性もある。
「いずれにしても」とWさんは言った。「あの場所では木を切ってはいけない、という禁忌が、四百年以上にわたって守られてきました」
木を切ると祟りがある。
その言い伝えが、周囲の農地が開墾され、宅地化が進み、道路が敷かれてなお、あの一画だけを森として残した。
誰も手をつけなかった。
誰も手をつけられなかった。
開発業者が来ても、あの森だけは避けて通った。
「それが四百年以上続いている」
Wさんはコーヒーを一口飲んだ。
「近隣の住民は、あそこに近づくことを嫌がります。子供には『あの森に入ったらあかん』と言い聞かせる。理由を聞いても、具体的なことは誰も言わない。ただ、『昔からあかんと言われてる』と。それだけです」
*
Wさんの車で、シガイの森を見に行くことになった。
近江八幡の市街地を抜けると、あっという間に風景が変わった。
田園が広がる。
三月の水田はまだ休眠中で、乾いた土が灰色の空の下に続いていた。
その単調な風景の中を、Wさんのセダンは国道から外れて農道に入った。
数分も走らないうちに、それが見えた。
最初は、遠くに何かの影が立っているように見えた。
平坦な地平線の上に、黒い塊がぽつんと浮かんでいる。
近づくにつれて、それが木々の群れであることが分かった。
常緑樹が密生した、直径五十メートルほどの森。
周囲には何もない。
田んぼと、農道と、電柱と、空。
その中に、ただ一か所だけ、濃い緑が盛り上がっている。
異様だった。
地形的に何の理由もなく、そこにだけ木が密集している。
航空写真で見たときの印象と実物の印象は、まるで違った。
写真では「少し大きめの雑木林」に見えたものが、実際に目の前に立つと、周囲の風景から完全に浮いている。
まるで大地に打ち込まれた楔のように、その森だけが別の原理で存在していた。
Wさんは車を農道の端に停めた。
「降りますか」
降りた。
風が止んでいた。
さっきまで窓を揺らしていた風が、車を降りた途端に消えた。
偶然だろう。
偶然だとは思う。
しかし、この取材を続けていると、こういう「偶然」が重なる瞬間に、いちいち立ち止まるようになる。
森の周囲には、柵も看板もなかった。
ただ、木々の根元に小さな石仏が一体、半ば土に埋もれるようにして置かれていた。
苔に覆われて表情が判然としない。
いつの時代のものかも分からない。
Wさんは森の縁から三メートルほどの距離を保ったまま、それ以上近づこうとしなかった。
「中に入ったことは?」と僕は訊いた。
「一度だけ」とWさんは言った。「三十年以上前に。郷土史の調査で」
中はどうでしたか。
「暗い。外は真昼でも、中は薄暗い。木が密集していて、枝が上で絡み合っている。地面は落ち葉が分厚く積もっていて、足音がしない。音が吸われるんです。自分の足音が聞こえない」
Wさんはそこで言葉を切った。
それから、少し考えるように目を細めた。
「調査のために入ったんですが、十分もいられませんでした。別に何かが出たとか、声が聞こえたとか、そういうことではない。ただ、いてはいけないと感じた。ここは人がいる場所ではない、と。理屈ではなく、体がそう言ったんです」
僕は森の縁に立ったまま、中を覗き込んだ。
確かに暗い。
三月の午後、曇りとはいえまだ明るい時間帯なのに、木々の奥は夕暮れのように陰っている。
落ち葉の層が見える。
その奥は、闇に溶けていた。
風が、まだ止んだままだった。
*
Wさんによると、シガイの森にまつわる怪異譚は、地元では複数伝わっているという。
最も多いのは、女性の霊の目撃だった。
「深夜にあの森の近くを車で通ると、白い着物を着た女が森の縁に立っているのを見た、という話が、昭和の頃からあります。何人もの人が見ている。特徴も概ね一致していて、長い髪の、顔の白い女です。じっと立っている。こちらを見ている。追いかけてくるとか、車に乗り込んでくるとか、そういうことはない。ただ、立って、見ている」
立って、見ている。
それだけの話なのに、Wさんの語り口には妙な重みがあった。
「見た人に共通しているのは、『目が合った』という感覚です。距離があるのに、暗いのに、目が合ったと感じる。それも、こちらが見たから目が合ったのではなく、向こうが先にこちらを見ていた。こちらが気づいたときには、もう見られていた、と」
先に見られていた。
その言い回しに、僕は引っかかった。
これまでの取材で聞いてきた怪異の多くは、人間の側が何かを見てしまう、という構造だった。
見てはいけないものを見た。
踏み入れてはいけない場所に入った。
触れてはいけないものに触れた。
禁忌を犯す主体は、常に人間の側にあった。
だが、この女の話は構造が逆だ。
人間が見る前に、向こうが見ている。
禁忌を犯したのではなく、禁忌の側から見つけられている。
処刑された者の霊が、四百年経ってなお、あの場所に立って通行人を見ている。
その解釈は、もちろん一つの可能性に過ぎない。
しかし、Wさんが「安土宗論で処刑された僧侶の無念」とこの女の霊を直結させていないことが、僕には気になった。
「処刑されたのは僧侶ですよね」と僕は言った。「目撃されているのは女性の霊だ。矛盾しませんか」
Wさんは小さく頷いた。
「そこなんです。処刑場の伝承と、目撃される霊が一致しない。僧侶が処刑されたはずの場所に、なぜ女の霊が出るのか。それについては、いくつかの解釈があります」
Wさんは地図を指でなぞりながら続けた。
「一つは、安土宗論以前から、あの場所には何かがあったという説。処刑場になる前から、忌み地だったのではないか、と。もう一つは、安土宗論の処刑は表向きの記録であって、実際にはもっと多くの人間があの場所で殺されていたという説です。僧侶だけでなく、その関係者――信徒や、庇護していた人々も含めて」
庇護していた人々。
その中に女性がいた可能性は、十分にある。
「記録に残るのは、名のある者だけです」とWさんは言った。「名もない者は、記録からも記憶からも、こぼれ落ちる。しかし、こぼれ落ちた者は消えるわけではない。消えないから、ああして立っている。そういうことかもしれません」
こぼれ落ちた者は消えない。
僕はその言葉を、ノートの端に書き留めた。
*
翌日、僕はWさんの案内で、もう一つの場所を訪ねた。
甲賀市信楽町の、多羅尾処刑場跡である。
信楽と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、狸の焼き物だろう。
信楽焼の里として知られるこの土地は、近江の南端、三重県との県境に近い山間にある。
近江八幡からは車で一時間半ほど。
国道を南下し、山間の道に入ると、風景は一変する。
杉林と茶畑が交互に現れ、集落は谷筋に点在している。
多羅尾は、信楽の中でも特に山深い集落だった。
Wさんは運転しながら、多羅尾の歴史を語ってくれた。
多羅尾氏は、この地を中世から治めていた土豪である。
戦国期には甲賀忍者との関わりが指摘されており、江戸時代には幕府の代官として存続した。
その多羅尾氏の支配下にあったこの地域には、処刑場が存在していた。
「毎年十二月二十日に処刑が行われていた、という記録があります」
Wさんはハンドルを握ったまま、淡々と言った。
「年末に、その年の罪人をまとめて処刑する。そういう慣習だったようです」
十二月二十日。
年の瀬の、冬至の直前。
一年で最も日が短く、最も闇が長い時期に、人が殺される。
そのことに、僕は言い知れぬ冷たさを感じた。
処刑場跡は、集落から少し離れた山裾にあった。
車を降りると、杉の匂いがした。
細い山道を百メートルほど登った先に、平坦に整地された場所があった。
現在は小さな祠と石碑が建っている。
石碑には、ここがかつて処刑場であったこと、多くの人命が失われたことが刻まれていた。
Wさんは祠の前で手を合わせた。
僕もそれに倣った。
「ここで目撃される霊は、シガイの森とは性質が違います」
Wさんは祠に背を向けないように、半身をずらして僕に向き直った。
「甲冑を着た侍の霊を見た、という証言が複数あります。江戸期の処刑場ですから、甲冑は時代が合わない。しかし見た人は口を揃えて、甲冑だと言う」
甲冑の侍。
そして、もう一つ。
「首のない幽霊」
Wさんの声は変わらなかった。
抑揚のない、事実を述べるだけの声だった。
「首がない。胴体だけが立っている。あるいは、首があるべき場所に首がなく、その断面から何か黒いものが流れている。そういう証言です」
首のない幽霊は、日本の怪談においてはさほど珍しいモチーフではない。
処刑場という場所の性質を考えれば、その土地で斬首された者の霊が首のない姿で現れる、という連想は自然なものだ。
しかし、Wさんはそこに安易な因果を見出すことを避けていた。
「面白いのは」とWさんは言った。「ここで処刑された人間の大半は、斬首ではないんです。記録によれば、磔刑や絞首が多かった。首を斬られたわけではないのに、霊には首がない。つまり、この首のない姿は、実際の処刑方法を反映しているのではなく、何か別のことを表している可能性がある」
何か別のこと。
僕はWさんの言葉を待った。
「名前を奪われた、ということかもしれません」
Wさんはゆっくりと言った。
「人間にとって、顔は名前と同じです。顔を見れば誰だか分かる。名前を聞けば顔が浮かぶ。首がない、というのは、顔がない、ということであり、名前がない、ということです。処刑された者の多くは、名前が記録されていない。罪人として処分され、埋められ、弔われることもなく、忘れられた。名前のない死者。顔のない死者。だから、霊にも首がない」
名前を奪われた者が、顔のない霊として現れる。
それは民俗学的に言えば「無縁仏」の概念に通じるものだった。
弔われなかった死者。
供養されなかった魂。
名を呼ぶ者のいない者。
そういう存在が、土地に留まり続ける。
「ここで処刑された人間の名前は、ほとんど分かっていません」とWさんは言った。「代官所の記録には、罪状と処刑日は残っていても、名前が記されていない場合が多い。名前がないから、弔いようがない。弔いようがないから、ああして残っている」
僕は祠の横に立ったまま、山裾を見下ろした。
杉林の向こうに、集落の屋根が見えた。
煙が一筋、上がっている。
誰かが薪を焚いているのだろう。
静かな場所だった。
恐ろしい場所だったはずなのに、今は静かで、穏やかで、杉の匂いがする、ただの山裾だった。
だが、毎年十二月二十日に人が殺された場所だという事実は、この穏やかさの下に沈んでいる。
沈んでいるだけで、消えたわけではない。
*
処刑場跡から下りる山道の途中で、Wさんが不意に立ち止まった。
「さっき、鬼の正体を追っている、とおっしゃいましたね」
僕は頷いた。
「鬼というのは」とWさんは、足元の落ち葉を踏みしめながら言った。「もともとは『隠(おぬ)』なんです。隠れるもの。見えないもの。目に見えない霊的な存在を、古い日本語では『おぬ』と呼んだ。それが転じて『おに』になった」
隠れるもの。
「しかし」とWさんは続けた。「時代が下るにつれて、鬼の意味は変わっていきました。隠れるもの、から、隠されたもの、へと」
隠されたもの。
「追われた者。殺された者。排除された者。社会から弾き出された者。歴史から消された者。そういう人間が、鬼と呼ばれるようになった。酒呑童子がそうです。彼は元々、比叡山の稚児だったという伝承がある。寺を追われ、山に逃げ、山賊となり、最後は源頼光に討たれた。追われた者が山に籠もり、退治される。その構造が、鬼の原型です」
僕はこの取材を始めたとき、鬼伝承という言葉に、もっと素朴なイメージを持っていた。
角が生え、金棒を持ち、人を食らう怪物。
桃太郎や酒呑童子に代表される、ファンタジーとしての鬼。
記事にするなら、そういう切り口で十分だと思っていた。
しかし取材を重ねるうちに、その素朴なイメージは剥がれ落ちていった。
鬼は怪物ではなかった。
鬼は人間だった。
正確に言えば、人間から「人間」の資格を剥奪された者が、鬼と呼ばれた。
Wさんの話は続いた。
「滋賀という土地は、鬼の歴史と切り離せません。比叡山は最澄が開いた聖地ですが、同時に、そこから追放された者たちの歴史でもある。八瀬童子は鬼の子孫を自称していた。彼らは被差別の歴史を背負い、それを逆手に取って『鬼の末裔』という誇りに変えた。しかしその誇りの裏には、社会から排除された者の痛みがある」
Wさんは山道の途中で足を止めた。
処刑場跡を振り返るように、少しだけ体の向きを変えた。
「全国水平社の創立は一九二二年。京都です。しかし、水平社運動の根幹にある被差別の歴史は、近江にも深く根を下ろしていた。この土地には、差別を受けた人々が集住する集落が多くあった。今もあります。そういう場所は、かつて『処刑場の近く』に置かれることが多かった」
処刑場の近く。
その意味を、僕は一拍遅れて理解した。
処刑を執行する役割を担わされた人々。
死体を処理する役割を押しつけられた人々。
誰もやりたがらない仕事を、「卑しい」とされる者たちに押しつけ、押しつけたことを理由にさらに蔑む。
その循環が、処刑場という場所を核にして回っていた。
「処刑された者の無念と、処刑に関わらされた者の無念が、同じ場所に堆積している」
Wさんはそう言った。
「だから、処刑場跡に出る霊が一つの顔を持たないのは当然なんです。あそこには一つの無念ではなく、幾重にも折り重なった無念がある。殺された者の無念。殺す役を強いられた者の無念。弔われなかった者の無念。弔うことを許されなかった者の無念。それらが混ざり合って、甲冑の侍になったり、首のない幽霊になったり、時代も性別も合わない姿で現れる」
幾重にも折り重なった無念。
僕は歩きながら、自分の取材がいつの間にか変質していることに気づいた。
最初、僕は怪談を集めに来たのだ。
琵琶湖周辺の鬼伝承に絡めた怪異体験を取材し、記事にまとめる。
それが編集部からの依頼だった。
怪談を聞き、土地を歩き、歴史的な背景を添えて、読み物として仕上げる。
それだけのはずだった。
だが、いつからか、怪談はそれ自体が目的ではなくなっていた。
怪談は窓だった。
窓の向こうに見えるものを追いかけているうちに、窓そのものは意識の端に退いていた。
僕が追っていたのは、「鬼」の正体だった。
鬼とは何か。
なぜこの土地に鬼の伝承がこれほど多いのか。
なぜ鬼は退治される側なのか。
なぜ退治した側が英雄になり、退治された側は名前さえ残らないのか。
その問いが、取材を駆動し始めていた。
*
Wさんと別れた後、僕は信楽の町に一泊した。
小さな旅館の、畳の匂いがする部屋で、この日の取材を整理した。
ノートを広げ、Wさんの言葉を思い出しながら、時系列を組み立てた。
シガイの森。一五七九年。安土宗論。
処刑された僧侶たち。名も伝わらない信徒たち。
四百年経っても切れない木。
立って見ている女の霊。
多羅尾処刑場。毎年十二月二十日。
名前の残らない罪人たち。
甲冑の侍。首のない幽霊。
二つの場所に共通しているのは、弔いの不在だった。
処刑された者は、弔われなかった。
いや、正確に言えば、弔いが十分に行われなかった。
名前が記録されなかった。
墓が立てられなかった。
誰かがその死を悼み、名を呼び、手を合わせるということが、なされなかった。
そして弔われなかった者は、土地に残る。
これは民俗学的な常識だ。
無縁仏の概念。
供養されない死者は成仏できず、この世に留まる。
留まり続ける者は、やがて怪異として知覚される。
だが、Wさんの話を聞いた後では、この「常識」がもう少し複雑な色合いを帯びて見えた。
弔われなかったのは、偶然ではない。
意図的に弔いから排除されたのだ。
処刑された者は罪人であり、罪人を弔うことは許されなかった。
あるいは、弔う者もまた罪に問われた。
弔いの不在は、権力による排除の延長線上にある。
殺し、名を奪い、弔いさえ許さない。
それが「鬼にする」ということなのではないか。
鬼とは、退治される怪物のことではない。
鬼とは、排除され、名を奪われ、弔いから締め出された者のことだ。
生きているうちは追われ、殺され、死んでからは弔われず、忘れられる。
しかし忘れられても消えはしない。
消えないから、土地に残る。
土地に残ったものが、怪異として現れる。
怪談とは、鬼の声なのではないか。
排除された者が、それでも消えずに残り、声を上げ続けている。
その声を聞き取るのが、怪談の蒐集だとするならば。
僕がやっていることは、怪談を集めているのではなく、鬼の声を聞きに行っているのだ。
そう思った瞬間、背筋が冷えた。
冷えたのは恐怖からではなかった。
自分の足元が、いつの間にかぬかるんでいることに気づいたからだ。
怪談の蒐集者として安全な場所に立っていたはずの僕が、気づけば、鬼たちの側に足を踏み入れかけている。
聞く者は、やがて語る者になる。
語る者は、やがて語られる者になる。
その予感が、根拠もなく、しかし確かな手触りを持って、旅館の畳の上で僕の横に座っていた。
*
翌朝、旅館を出る前に、僕は宿の女将に挨拶をした。
六十代と思しき、穏やかな顔の女性だった。
朝食の片づけをしながら、「信楽は初めてですか」と訊かれたので、取材で来たことを伝えた。
怪談の取材で、とは言わなかった。郷土史の取材で、と言った。
女将は少しだけ間を置いてから、こう言った。
「多羅尾のほうには行かはりましたか」
行った、と答えた。
「処刑場も」
はい。
女将はそれ以上何も言わなかった。
ただ、僕が宿を出るとき、玄関先で一言だけ付け加えた。
「あそこのことは、あんまり書かんといてあげてくださいね」
書かないでほしい。
それが、処刑された者のためなのか、処刑に関わった者のためなのか、今もそこに住んでいる人々のためなのか、僕には判断がつかなかった。
おそらく、その全てだったのだろう。
書くな、という言葉を、僕はこの取材の中で何度か聞くことになる。
直接的にそう言われたのは、このときが最初だった。
女将は柔らかい口調で言った。
命令でも懇願でもなく、ごく自然に、当たり前のことを当たり前に口にするように。
書かないでほしい。
しかし僕はこうして書いている。
*
宿を出て、車に乗り込む前に、もう一度だけ振り返った。
信楽の町は朝もやの中にあった。
窯元の煙突から薄い煙が上がり、陶器の狸たちが軒先に並んでいた。
穏やかな朝だった。
鬼とは何か。
その問いが、最初に僕の中に芽生えたのはいつだったろうか。
白鬚神社の取材のあたりだった気がする。
あの鳥居の前で、猿田彦の話を聞いたときに、何かが引っかかった。
道案内の神。
しかし同時に、異形の神。
天狗の原型とも言われる、長い鼻の、赤い顔の、人ならざる者。
神と鬼の境界は、思っていたよりもずっと曖昧だった。
比叡山で最澄と酒呑童子の伝承を追ったとき、その曖昧さはさらに深まった。
追放された者が鬼になる。
鬼を退治した者が英雄になる。
しかし退治された鬼の側から見れば、英雄こそが暴力の行使者だ。
視点を反転させるだけで、善悪の構図は崩れる。
乙女ヶ池で藤原仲麻呂の話を聞いたとき、僕は「鬼」という概念が政治的な装置であることを理解し始めていた。
権力に逆らった者を「鬼」と呼び、討伐する。
討伐は正義であり、鬼は悪である。
その構図を維持するためには、鬼の側の声を消さなければならない。
名前を消し、顔を消し、弔いを消す。
そしてシガイの森と多羅尾処刑場で、僕は「消された者」の痕跡に触れた。
消しても消えないものがある。
名前を奪っても、顔を潰しても、弔いから排除しても、なお残るものがある。
それが怪異として現れる。
女の霊として立ち、甲冑の侍として歩き、首のない幽霊として彷徨う。
鬼とは、消されても消えない者のことだ。
その認識が、僕の中で一つの確信として固まりつつあった。
同時に、僕は自分の立ち位置が変わっていることを自覚していた。
怪談を集める者から、鬼の正体を追う者へ。
記事を書くための取材から、何か別のものを探す旅へ。
編集部の依頼は郷土史の記事だった。
鬼伝承をテーマにした、読み物としてのルポルタージュ。
それが、いつの間にか、別のものに変わっている。
何に変わったのか、この時点ではまだ正確に言語化できなかった。
ただ、一つだけ分かっていたことがある。
僕はもう、引き返せない場所にいた。
編集部に「やっぱりやめます」と電話することは、物理的には可能だ。
取材を打ち切り、大阪に帰り、別の仕事に取りかかればいい。
そうすることに何の障害もない。
しかし、そうしないだろうという確信が、自分の中にあった。
この旅を続ける。
続けなければならない。
鬼の正体を、最後まで追わなければならない。
なぜそう思うのかは分からなかった。
使命感とも違う。
好奇心とも違う。
もっと根の深いところから湧き上がってくる、理由のない衝動。
あるいはそれは、あの森の縁に立っていた女と同じものなのかもしれない。
立って、見ている。
先にこちらを見ている。
僕がこの旅を始める前から、何かが僕を見ていた。
そして僕は、見られていることに、ようやく気づき始めていた。
*
信楽を発ち、国道を北上した。
車窓から琵琶湖が見えた。
灰色の水面が、曇天の空と区別がつかないほど同じ色をしていた。
湖と空の境界が消えている。
すべてが一枚の灰色に塗りつぶされて、どこまでが水でどこからが空なのか、分からなくなる瞬間がある。
名前のない境界。
鬼と人の境界。
弔われる者と弔われない者の境界。
記録に残る者と残らない者の境界。
そのどれもが、琵琶湖の水平線のように、曖昧で、不確かで、見る角度によって移動する。
次の取材先は、もう決まっていた。
琵琶湖の底に沈んでいるものを、見に行かなければならなかった。
(第六章 了)
