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連載小説「三角公園」第2話


2-1

1994年
 高校に入って二度目の春、三角公園の桜は、風にあおられて儚く散ってしまい、私達は桜の下でお菓子を食べる機会を逃してしまった。桜子は理系、私は文系なのでクラスが分かれ、菖蒲先生の授業もなくなり、私たちを繋ぐのは水曜日の放課後だけになっていた。

 桜子とクラスが別れると、一日中、気持ちを悟られないように神経を遣い続けることも、成績を比べられて落ち込むこともなくなった。そのことは、思った以上の解放感をもたらし、自分を取り戻せた気がした。他方で、桜子に新しい友人ができ、私の存在が薄くなると思うと言いようのない寂しさにも襲われた。


 だが、その心配は杞憂だった。
 桜子は新しいクラスで仲間外れにされ始めた。きっかけは、空気を読まない桜子の言動だったと噂で聞いた。
 桜子は、クラスの中心にいる仲良しグループに入った。そのリーダー格の莉子りこが、他の高校の先輩に告白し、プレゼントを渡したという。彼女のプレゼントは、「もらえない」とその場で返された。やけになった彼女は、強引にプレゼントを押し付けてきた。
 翌朝、校門の前に、その先輩が立っていた。女子高の前に男子が立っていれば、注目を集めないはずはない。登校する生徒は興味津々で、ひそひそ言いながら遠巻きに見ていた。莉子は頬を染めて先輩に近づいていった。だが彼は、「やっぱりもらえない」と、カバンの中から空色の包装紙とリボンでラッピングされたプレゼントを取り出し、莉子に返した。莉子は何とかもらってほしいと食い下がったが、彼は頑として受け取らなかった。
 莉子が教室で涙ながらにそれを語ると、他の子は最低男だと罵った。だが、桜子は「莉子ちゃん、面白ーい!」と歓声をあげたという。周囲は凍りついた。


 それをきっかけに桜子は仲間外れにされた。桜子が妬まれる要素を持ちすぎていたこともあり、莉子に同調する子は多かった。グループから追放された桜子は、クラスの隅で勉強ばかりしている子と一緒にいるしかなくなった。
 それだけでは収まらない莉子は、虫の居所が悪いと「ちょっと頭良くて可愛いからって、いい気になるなよ。頭いいくせに、人の気持ちがわかんなくて、いつもへらへらした顔してるの見るとイラつくんだよ」、「菖蒲の尻、追っかけまわすんじゃねえよ! 盛りのついた雌猫か?」、「ケバイ面に、ケバイ化粧してくるなよ、ケバ女」などと、桜子に暴言を浴びせたという。
 
 休み時間に桜子がよく私の教室にきたのは、居た堪れなかったからだとわかった。私は桜子を気の毒に思ったが、莉子たちの気持ちもよくわかった。同じクラスだったら、仲間外れにされる覚悟で桜子を庇うのは無理だったと思う。
 
 私は、一年のときから同じクラスだった未知子みちこちゃんと仲良くしていたので、桜子が私の教室に来たときは、三人で話していた。そんなとき、私は桜子に対する刺々しい気持ちが薄れ、ゆったりとした気分で接していることに気付いた。
 
 桜子が菖蒲先生のことを甲高い声で話し、教室に戻っていったあと、未知子ちゃんに言われてしまった。
「あんたたち、危なっかしくて、見てられない」
 周囲には、桜子がふりまいていったピンク色の空気がまだたゆたっていた。
「瑞穂も菖蒲先生のこと好きなんでしょ?」
 私は三人で見ていた予備校のパンフレットを落としそうになった。
「ちょっと待って、何でそうなるわけ? 私は桜子に付き合ってるだけで」
「見てればわかるよ。一年のとき、同じクラスだった子は、ほとんどが気付いてたよ。いつか瑞穂が限界になりそうって心配してたんだよ。菖蒲先生が好きなこと、桜子ちゃんに言ってないんでしょ?」
 未知子ちゃんは、切れ長の目で、詰問するように私を見据えた。
「桜子ちゃんなら、言っても大丈夫じゃない? あの子、どこか別世界に生きているというか……、不思議な子だし。案外、簡単に受け入れてくれるんじゃない? もし、ぎくしゃくしたら、もう離れたほうがいいよ。瑞穂にいい影響があると思えない」
 
 一番に浮かんだのは、桜子と離れれば先生との水曜日もなくなることだった。桜子とつながっている理由はそれだけだという直視を避けてきた真実に向き合わされた。


「そう簡単にはいかないよ……」
「そっか。まあ、二人は仲いいもんね」
「いま、桜子はクラスで孤立していて、成績も落ちてるし、先生と話せる水曜日が支えになってるから、ストレスの材料を増やすのも、どうかと思うんだ……。桜子のほうが先に好きになったわけだし」
 本心を隠すために、いい人を装う自分に、背中がむずむずするような不快感を覚えた。
「瑞穂、人を好きになるのは悪いことじゃないよ。誰が先に好きになったかなんて関係ないよ。本気なら、どんどんいきなよ!」
「うん、そうだよね」
 未知子ちゃんの言葉は、私を開き直らせた。私は勇気を振り絞り、職員室に戻る先生に声をかけることにした。


2-2

「菖蒲先生……」
 私は教科書を小脇に抱えて渡り廊下を行く先生と並んだ。内臓まで響くほど鼓動が激しくなり、喉はからからに乾いていた。
 

 先生は、「やあ、瑞穂」と唇の端を引き上げるような笑みを見せた。私たちは並んで歩きだしたが、途端にぎこちない沈黙が落ちてきた。
「三年生の授業だったんですか?」
「うん。選択科目の長文読解」
 再び訪れた沈黙を埋めようと、先生が尋ねた。
「瑞穂も職員室か?」
「いえ、ロッカー室に忘れ物をしちゃって」
 再び会話が途切れ、二人の足音がやけに大きく聞こえた。
「三年生の選択科目って、いくつ担当してるんですか?」
「二つ」
「両方とも長文読解ですか?」
「そう。センター試験対策と私立文系対策。結構、受講者が多いんだ」
 会話は広がりも深まりもせず、私は必死で言葉を探した。音楽の香月先生が、綺麗な先輩と談笑しながら私たちを追い越していき、会話の弾まない私達の惨めさが際立った。私は二人に対抗するように言った。
「長文って、途中で嫌になっちゃうんです」
「まあ、初めはそうだろうな」
「集中力が持たないんです」
 実のない会話が、シャボン玉のように生まれては消えていった。
 私たちは心なしか速足になっていた。埋めても埋めても降ってくる沈黙から逃れるように……。職員室が見えてくると、ほっとした。きっと、先生も同じだったのだろう。
 

 ひどく落ち込む私に、未知子ちゃんは、英語の質問をしてみればと助言してくれた。話さないと距離は縮まらないと後押しされ、私は問題集を持って放課後の職員室を尋ねた。
 

 先生は私の持っていった問題集を受け取り、長文を読み始めた。
 窓から射す午後の陽が、先生の横顔に降り注いでいた。先生が瞬きをするたびに、長い睫毛が光をはね返すようだった。見とれていると、先生が問題集に目を落としたまま、抑揚に乏しい声で言った。
「4番か? これは、読解力と文法知識の両方が問われる問題だな……」
 先生が私を見上げたので、真っ赤になって目を反らしてしまった。私は取り繕うように、先生の傍らにしゃがみ、問題集を覗きこんだ。先生の身体が動くと、石鹸の香りの香水がほのかに香った。
「まず、消去法だ。アとエは明らかに違うだろ」
 先生が口を開くと、首筋に空気の振動を感じ、体がじんわりと熱を帯びた。
「はい。私もそこまではわかりました」
「そこまでしぼれるだけでも、大したもんだぞ」
 私は、くすぐったい思いで肩を竦めた。
「でも、何でウが正しいのかわかりません。ガブリエルが、自分の病状が深刻だと知っていたかは書いていないし……」
「これは最後の問題だから、どうしても後半を見てしまうだろ? でも、最初の段落に戻ると……。ほら、この文を見落としていないか? Gabriel made up his mind that he was not going to get well. make up one’s mindには、that以下だと決め込むという意味もある。つまり、ゲイブリエルは自分の病気がもう良くならないと思いこんだということだ」
「ああ、そういう意味もあったんですね。私、決断するとか、決意するっていう意味しか知らなくって」
「うん。この文章と一緒に覚えてしまえば、もう忘れないだろう?」
「はい。ありがとうございました」
 問題が解決してしまうと、ぎこちない沈黙が訪れた。のしかかってくる沈黙をどうにかしなければと思いながら、いま桜子がきてくれたらと願った自分に気付いた。


 先生は、帰り支度をすると、じゃあなと出ていってしまった。
 桜子と三人でいるときは、会話が途絶える心配などなかったと思うと、ひどく惨めになった。私は桜子を通してしか、先生に近づけないことを思い知らされた。

 何度挑戦しても、そんなことが続いた。そのうち、先生は職員室に来た私の姿を捉えると、他の先生に話しかけたり、生徒が入室できない印刷室に消えるようになった。ひどく傷ついた私は、胃が荒れて、食事ができなくなるほど落ち込んだ。それでも、私が先生だったら、同じことをする気がした。間が持たない相手、一緒にいて疲れる相手を誰が恋人に選ぶだろうか……。

 出会いに乏しい女子高でも、二年になると、合コンが盛んになっていた。恋愛など縁がなさそうに見える子にも彼氏ができた。そんな子が、自分を一番に愛してくれる人がいるだけで、こんなに幸せになれると思わなかったと夢見心地で語っていた。そんな話を毎日聞かされるうち、こんな関係にしがみついていることがバカバカしく思えてきた。

 三人でお菓子を食べるのを止めればいいのだ。断る理由なら、いくらでもつくれた。予備校に行く、勉強が忙しい、好きな人ができた……。私が抜け、先生が桜子とお菓子を食べるのを断ることを考えると、胸が痛んだが、いつまでもあの関係に縛られているわけにはいかないと思った。

 私は一学期の終わりに、桜子に伝えようと決め、合コンに呼んでと級友に頼んだ。


2-3

 先生を忘れるために、打ち込めるものが欲しかった私は、英語のスピーチコンテストに応募した。祖母も母も教師として働き、仕事と家事の両立に苦労するのを見て育ったので、私は女性問題に関心があった。日本で女性がキャリアと家庭を両立させることがいかに難しいかを述べ、育児休暇や保育施設の充実を訴えたかった。選考会で学校代表に選ばれれば、市の大会に進める。そこで上位5人に入ると、夏休みに、姉妹都市があるアメリカのオレゴン州でホームステイができる。現地の高校生と、関心のある問題を話し合う時間もあると聞いた。アメリカで、女性の権利がどう確立されているかを尋ねたかった。
 
 私は英会話のアン先生の部屋を訪ねて英語の原稿を見てもらった。それが出来上がると、アン先生に発音を直してもらい、聴衆にアピールする方法を教えてもらって、万全の準備をした。菖蒲先生には頼らなかった。
 英語教師全員による選考会まで、ひたすら練習を重ねた。一つ一つの音を丁寧に発音しても流れを崩さないよう、アン先生が単語と単語がリエゾンするところを教えてくれたので、流れがスムーズになり、完成度が上がった。苦手なRとLの発音も、アン先生の粘り強い指導でコツをつかんでいた。目線の置き方や強さを工夫し、大事な部分を強調することでめりはりもついた。一年のときからの担任である鈴木先生は、自分のクラスから学校代表を出すと意気込み、アン先生との練習に顔を出してくれた。仕上がりを見た担任は、期待してるぞと上機嫌だった。


 だが、選考会の壇上に立ったとき、意気込み過ぎていた私は、頭が真っ白になってしまった。審査員の一員として座っていた菖蒲先生は、蒼い顔をした私を心配そうに見ていた。アン先生の勇気づけるような眼差しを感じ、気を取り直して話し始めたが、思った以上に声が出なかった。無理に声を張り上げたせいで、トーンが上がり、練習した発音やリエゾン、声の強弱、目線の置き方もめちゃめちゃになってしまった。投げ出してしまいたい衝動を抑え、とにかく最後まで続けようと思うと、どんどん早口になってしまった。アン先生に教えてもらったことを生かせず、ただ暗記した内容を話しているだけだった。担任は失望を隠さず、不機嫌そうに腕組みをしていた。話し終えると、憐れみの混じったぱらぱらとした拍手を浴び、居た堪れない思いで席に戻った。
 当然だが、私は代表になれなかった。担任は、内容は良かったのにと苦々しげにぼやいた。私は、ひたすら自分の弱さを謝るしかなかった。


 アン先生に申し訳なく、次の日の昼休みに、御礼と御詫びに先生の部屋を尋ねた。先生は、謝り続ける私に温かい眼差しを向け、「あなたはよくやったわ」と労ってくれた。申し訳なさが募り、顔を上げられなかった。
 アン先生は私を丸椅子に座らせ、アイスティーを出してくれた。アイスティーを注ぐアン先生の指は肉付きが良かったが、とても白くて長く、サーモンピンクのネイルが似合っていた。
「ミズホ、内容はあなたが一番だったわ。私だけではなくて、ショウブ先生もあなたを推したのよ」
 彼の名前を聞いただけで、体がびくりと反応してしまう自分が悔しかった。
 アン先生は、グラスを置き、むっちりとした脚を組むと、私に理解できるように、ゆっくりと一語一語を丁寧に発音して話してくれた。
「選ばれたサトコが票を集めたけど、私は納得できなかった。彼女のスピーチは、声量があって、発音も悪くなかった。けれど、ソフトボールが好きなことと、それを通じてアメリカ人と仲良くなりたいと主張するだけ。小中学生のソフトボールチームの交流なら十分かもしれないけれど、高校生レベルではなかったわ。私がそう言ったら、ショウブ先生が自分も同じ意見だと言ったの。ミズホのスピーチは、一番内容がしっかりしていた。先生方も、そのことがわからないはずはないでしょう。現地の高校生との交流があることを考慮すれば、しっかりした意見を持った生徒を選ぶべきだと一歩も引かなかった」
 アン先生は吸い込まれそうな瞳で私を見つめ、静脈の浮く脚を組み直した。
「スズキ先生が、ミズホは声量もなかったし、ハイトーンで、発音もいまいちで、せっかくの論点がぼやけたじゃないかと反論した。私は、ミズホを指導してきたから、練習では声が出ていることも、適切な速さで話せることも、発音がきれいなことも知っていると言い返したわ。これから、もっと練習して、どんどん良くなることもね。スズキ先生は、自分もそれは知っているけど、肝心なときに実力を発揮できない生徒は選べないと言うの。そしたらショウブ先生がね……」
 アン先生は、息を詰めた私の反応を楽しむように間を置いた。
「彼女はしなやかな強さを持つ生徒です。本番では必ず力を出します。どうか、最も代表にふさわしい生徒の道を閉ざさないでくださいって訴えたの。結局、立場が上のスズキ先生が、選考会で力を出せるのも実力だと押しきって、ショウブ先生の意見は通らなかった。でも、私はショウブ先生を見直した。年上の先生に遠慮せずに、正しいと思うことを堂々と言える人よ」
 驚きと嬉しさで胸が詰まった。アン先生は、茶目っけのある声で囁いた。
「彼はミズホのことを本当によく見ているのね」
 アン先生の部屋を出ると、無我夢中で職員室に走った。昼休みが終わりに近づき、三年生と弁当を食べていた菖蒲先生が引きあげてきたところだった。
「菖蒲先生!」
 先生と一緒にいた先輩が敵意に満ちた眼差しを向けるのも構わず、私は前に立ちはだかった。
「どうした?」
 先生は、髪を振り乱し、肩で息をする私に、怪訝そうに問いかけた。
「アン先生から聞きました。ありがとうございます! 昨日はダメダメだったけど、次は頑張ります」
 先生は「僕は瑞穂を信じているから」と抑揚のない声で言った。
 雷に打たれたような衝撃が全身を走った。
「スピコンに出るなら、少しくらい、僕を頼ってくれてもよかったのに……」
 先生は不貞腐れたように口の中でつぶやいた。
「だって、先生は迷惑そうだったじゃないですか」
 先生はすっと身をかがめ、私の耳元で言った。
「鈴木先生から、何で瑞穂がいつも僕に聞きにくるのかって言われたんだ。彼は瑞穂の担任で英語の先生だろ。僕にも立場があるんだよ」
 先生は「放課後、三角公園でな」と囁き、踵を返して職員室に戻った。


 私は階段を駆け下り、ロッカー室の隅に座りこんだ。鼻がつんとし、両手で鼻と口を覆った。幸せなのか悲しいのかわからなかった。ただあるのは、先生が好きという思いだけだった。やはり、三人で過ごす水曜日を切り捨てることはできないと思った。


2-4

 期末テストの後、桜子から、水曜日に三人で会うのはやめようと言われ、頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。


「どういうこと……?」
 私は三角公園のベンチで、かすれ声で尋ねた。桜子の目にはアイラインがくっきりと引かれ、まぶたに茶色のシャドウがかかっていた。清楚な桜子らしからぬ妖艶なメイクに、息苦しさを覚えた。アイメイクと、きりりとした眉は、彼女に脈打つ異国の血を想起させた。
 桜子の瞳に、ほんの一瞬、ぞっとするような冷たさが浮かんだ。だが、それを確かめる前に、彼女はいつものほんわかした表情をはりつけた。
「勉強忙しくなったし、毎週作るのがしんどくなったから、止めようと思って。長いあいだ付き合わせちゃってごめんね」
「そんなこといいよ。でも……、先生と話す時間がなくなっちゃうじゃない」
「別にいいよ」桜子は、もうその話はしたくないと言わんばかりにはねつけた。
「いいって、どうしたの急に? 先生と何かあったの?」


 桜子は口を開こうとしたが、すぐに形のいい唇をきゅっと結んだ。
「ずっと楽しかったじゃない。お菓子作らなくても、話すだけで楽しいじゃない……。私にとってもあの時間は大切だし……。淋しいじゃない」
 私は、真っ白になった頭で、壊れたラジオのように言葉を紡ぎ続けた。
「だから、もういいの。勉強したいから時間がもったいないの」
「でも、週一だよ。毎日ってわけじゃないし。桜子、成績いいじゃない」


 食い下がる私に、桜子は冷ややかな口調で尋ねた。
「何で瑞穂ちゃんがそんなにこだわるの?」
 桜子のどこに、こんな冷たさが潜んでいたのかと思うような、冷淡な響きだった。
「何でって。ずっと三人で楽しかったからだよ……。あの時間がなくなってしまうのなんて考えられないし」怯んだ私は口の中で答えた。


 桜子は私の反応を観察するかのように間を置いてから、蓮っ葉な口調で言った。
「瑞穂ちゃん、菖蒲先生は瑞穂ちゃんのものにならないよ」
 背中に水を浴びせられたような衝撃で、言葉に詰まった。
「どういう意味?」私の声はかすかに震えていた。
 
 桜子は私を見据えた。桜子の肩の向こうに、天を突くように伸びる稲が整然と並び、どこまでも続いていた。抜けるような青空と緑のコントラストがまぶしかった。同じ制服の子たちが、ミスター・チルドレンのイノセント・ワールドを大声で歌いながら駅に向かっていった。


「ずっと一緒にいて、気づかないはずないじゃん……。一年のときから、気づいてたよ」
「ごめん、ごめんね。もっと早く話すべきだった」
「もう、いいよ。じゃ、行くから」


 桜子は短くしたスカートを翻し、ピンクの自転車にまたがった。くしゅくしゅのルーズソックスに履われた足は、較べる気も起こらないほど長くてきれいだった。
「待って、桜子。夏期講習の申し込み行かないの?」
「私、別の予備校にするから。じゃあね」


 白いリュックを背負った背中は、燃えるような緑の中で小さくなっていき、やがて豆粒になって消えた。遠くで踏切の遮断機の音がした。


 それから夏休みまで、桜子が私の教室に来ることはなかった。桜子の教室を訪ねると、休んでいると言われた。家を訪ねようと思ったが、公園でのことを思い出すと足が竦んだ。まだ携帯電話などなく、お洒落な女子高生がようやくポケベルを持ち始めた時期で、連絡手段は固定電話しかなかった。桜子の母親の冷淡な態度が苦手だった私は、時が流れるにまかせてしまった。


 菖蒲先生に、何かあったのか恐る恐る尋ねた。勉強に本腰を入れたのだろうと言葉を濁され、それ以上は受け付けないと言わんばかりの態度だった。二人の間で、何かあったのを確信した。私を巻き込んでおきながら、急に蚊帳の外に置かれたことに気分がおさまらなかった。


 時が経ち、少し気持ちが落ち着くと、心にぽっかり穴が開いた。あれだけの時間を共有したのに、あっけなく終わってしまうのが悲しかった。時間の流れとともに深まっていく悲しみは、じわじわと私を蝕んだ。
 
 私は夏休みに入る前に、菖蒲先生に借りていた武者小路実篤『友情』を返した。桜子と三人で感想を話し合うはずの本だった。これで、三人をつなぐものが切れたと思うと、身を切られるように辛かった。だが、私だけがしがみついているのが悔しく、何でもないふりをして本を返した。先生は少し眉間を強張らせ、小さく頷いて受け取った。本の感想を伝えようとしたが、先生はそれを制するかのように、印刷室に消えてしまった。
 
 空虚になった心は、真夏の太陽に、じりじりと焼かれ、燃えかすを残した。私は桜子と三人で行く予定だった予備校の夏期講習に、未知子ちゃんと二人で通い、数学と英語の講習を受けた。

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