見出し画像

連載小説「三角公園」第3話


3-1

   二学期が始まって少し経った頃だった。
 授業と授業のあいだの十分休みに、菖蒲先生が教室の入り口から私を呼んだ。その声に、数人の級友が振り返った。未知子ちゃんと早弁をしていた私は、だし巻き玉子をつまんでいた箸を置き、慌てて立ち上がった。
「どうしたんですか?」
 久し振りに姿を見た途端、夏休みのあいだ封じ込めようとしてきた思いが、波打つように騒ぎ出した。
 先生は声を落とし、放課後、三角公園で待っていてくれないかと言った。
「大丈夫ですけど、何かあったんですか?」
 先生は後で話すと言い残し、足早に去った。まだつながっていられた歓びで胸が熱くなり、細い背中が見えなくなるまで見つめていた。


 
 授業が終わると、はやる思いで公園に自転車をとばした。先生はまだ来ていなかった。鉛色の空は、今にもつかみかかってきそうだった。公園の木々は、生温かい風にざわざわと騒いでいた。枝に張られた蜘蛛くもの巣に、二匹のちょうがかかっていた。一匹は今まで見たことのない鮮やかな蝶で、もう一匹はどこにでもいる小さな蝶だった。蜘蛛は、小さな蝶に襲いかからんとしていた。思わず目を背けると、先生が背後に立っていて、跳び上がりそうになった。
 
 先生は待たせたことを謝りながら、私を石造りの椅子に導いた。久し振りに、先生の瞳に私だけが映っていた。感慨が込み上げてきたが、会話を途切れさせてはならない焦りが先行し、明るい声で尋ねた。


「夏休み、どうしていたんですか?」
「アメリカの大学に資料の収集に行って、その後は研究室に缶詰になって論文を書いてた」
 私の知らない世界の話をされ、そうですかと相槌を打つしかなかった。
「君は?」
「予備校の夏期講習に通っていました。あとは中学の同窓会でボーリングに行ったり、同じクラスの友達と花火を見に行ったりしました」
 何度か合コンにいったが、誰にも連絡先を聞かれなかったことは黙っていた。


「桜子に会わなかったのか?」
「ええ……」私は居心地の悪さを覚えながら答えた。
 先生は細い顎に手を当て、考え込むように視線を落とした。見たことのないほど思い詰めた横顔に見惚れてしまう自分が悔しかった。


 二匹の柴犬を連れたおじいさんが公園に入ってきて、電燈の脇にあるベンチに座った。先生と私の視線は、自然と柴犬に注がれた。毛の色や体の大きさはほとんど同じだが、一匹はしゅっと締まった顔つきで、もう一匹は丸々していた。二匹は尻尾をちぎれんばかりに振り、競うように飼い主にすりよった。おじいさんは目を細め、二匹を交互に撫でていた。


 先生は、私に視線を戻し、一語一語を絞り出すように言った。
「桜子の担任の堀越ほりこし先生は、大学時代のサークルの先輩なんだ。彼から相談を受けた。桜子の欠席が増えて、成績も下がっているそうだ。クラスの人間関係がうまくいっていないことは、彼も気づいていて心配している。僕と仲がいいようだから、何か聞いていないかと……。瑞穂になら、いろいろ話していると思ったんだが」


 言葉に詰まった。桜子に連絡しなかった後ろめたさと、彼女が遠くに行ってしまった寂しさがせめぎあっていた。柴犬を連れたおじいさんがベンチから立ち上がり、二匹を引きつれて公園を出ていった。


「何も聞いていないのか……? 君たち、あんなに仲が良かったじゃないか」
 先生の口調に、かすかに非難めいたものが感じられた。それに刺激され、私は突っかかるように尋ねた。
「桜子と何があったんですか? 桜子は、水曜日にお菓子を食べるのをやめようと言いました。はっきりした理由も教えてくれなかった。心配になって桜子の教室に行っても、休みがちで。菖蒲先生に聞いても、答えてくれなかったじゃないですか! 私、ずっと心配していたんですよ……」


 私の剣幕に口を噤んだ先生をさらに問い詰めた。
「ずっと三人でお菓子を食べていたのに、急にもうやめようと言われて、わけがわかりません。私より、先生のほうが知ってるんじゃないですか?」


 先生はきまり悪そうに目を伏せた。それを見ると、振り上げたこぶしを、どうしていいかわからないような気分になった。
「すみません、失礼な言い方をしてしまって……」


 先生は首を左右に振り、石造りのテーブルに少し体を乗り出すと、声を落として切り出した。
「瑞穂にしか言えないことだから、絶対に内緒にしてほしい……。実は、期末試験の後、ここで桜子から言われたんだ……」
 私は続きを促すように、先生の色素の薄い瞳を見返した。


「ずっと好きだった。交際してほしいと……」


 頭の奥がしんとしびれた。桜子が、そんな大切なことを私に相談せずに実行したショックに打ちのめされた。だが、次の瞬間、彼女が私の気持ちを知っていたことを思い出し、出し抜かれた複雑な感情が、黒いインクをこぼしたように胸に広がった。


3-2

「先生は、何て答えたんですか……?」
「気持ちは嬉しいが、こたえられないと言った」
「あんなに美人で、スタイル抜群で、頭がいい子でもだめなんですか?」
「彼女の女性としての価値はわかっている。普通に出会っていたら、僕は見向きもされないだろう。でも、良識のある君ならわかるだろ? 教師と生徒の恋愛は厳禁だ。生徒と性的関係を持てば、教師は懲戒免職。非常勤の僕の替わりなんて、いくらでもいるから簡単に首だ。例えプラトニックな交際だったとしても、そんなの信じてもらえず、親や周囲はあることないこと言いたてる。もし、親が訴えて警察沙汰になれば、教師は県の淫行条例違反で逮捕される。高校教師は、この歳になっても学生をしている僕にとって、生きるために必要な収入源なんだよ。まあ、親に養われている君に、いくらこんなことを言っても、伝わらないだろうけど」
 圧倒するような勢いでまくしたてた先生を前に、これが普段は私たちに見せない本来の彼だと思った。
「卒業まで隠しておけば大丈夫じゃないですか。内緒で付き合ってる先生と生徒はいると思うし」
 彼はおずおずと言う私に、嘲笑あざわらうような眼差しを向けた。
「桜子にそんなことができると思うか? 浮かれて、誰彼構わずしゃべってしまうのは目に見えているだろう。在学中は、普通の恋人のようにデートしたり、一緒に帰ったりできないし、関係を周囲に隠し続けなければならない。そんな窮屈な付き合いが、彼女に合っていると思うか?」
 先生の観察があまりにも的確で、返す言葉がなかった。


「教師が生徒と付き合うなら、正式な交際は卒業まで待って、しかも結婚する覚悟がないとリスクが大きい。うまくいかなくて別れた後に、元生徒から訴えられた教師もいるんだぞ。合意の上で、教師と未成年の生徒が性行為に及んだとしても、関係が変われば、生徒側は嘘なんかいくらだってつける。先生に強要されたと言えば、教師の人生は台無しだ」
 くどくどと語る彼の話を聞きながら、怒りを通り越して悲しみが胸を占めた。桜子が聞きたかったのは、私が聞きたいのは、こんなことではない。
「先生は桜子を女の子としてどう思っているんですか? 桜子が卒業して、生徒ではなくなった後も可能性はないんですか?」
 間髪入れずに、きっぱりとした答えが返ってきた。
「僕は生徒を恋愛対象として見られない」
 気持ちを見透かされたようなショックで、全身から血の気が引いた。はっきりと可能性を断たれたという点で、桜子も私も同じだった。
「もちろん、若い子が好きで、生徒と結婚したがっている教師はいる。だから、くだらないドラマが流行るんだろ。僕はああいう関係には全く興味がない」
「だったら、どんな人なら恋愛対象になるんですか?」
「僕は若くて可愛いだけの女に興味はない。むしろ軽蔑するね。魅力を感じるのは戦友になれる女性だ。知的に同レベルでいられる人がいい。だから、同じ研究室の仲間とか、同じ分野を研究している人が理想だ。少なくとも、研究とか創作とか、何らかの知的創造をする人ではないと無理だ」
 そのときの私は、彼が話したことをそのまま理解できたわけではない。ただ、今の自分も桜子も、箸にも棒にもかからない子供だと言われたことはわかった。桜子が、どれほどプライドを傷つけられたかと慮った。
 聞くのが怖かったが、一番聞きたいことを勢いで尋ねた。
「いま好きな人はいるんですか? 恋人をつくる気はないって言っていましたよね」
「ずっと思ってきた人はいる……。同じ研究室の後輩なんだ」
 ショックが続きすぎて麻痺しかけていた心が、再び血を流しはじめたが、何でもないふりをして尋ねた。
「桜子にも、そのことは話したんですか?」
「いま君に話したことは大体ね。彼女は、何で自分ではだめなのかと食い下がってきた。丁寧に時間をかけて話して、理解してもらったとは思う……。いまは理解できなくて僕を恨むかもしれないが、大人になったら必ずわかる。そうしたら、僕に感謝するだろう」
「じゃあ、何で先生は、一年間も私たちとお菓子を食べていたんですか? 先生が桜子の気持ちに、気付かなかったはずはないでしょう。答える気がないなら、何でもっと早く断わらなかったんですか。桜子は毎週何を作るか考えて、レシピや材料を揃えて、先生に喜んでもらおうとひたむきに頑張っていて! 桜子の心を弄んでいるみたいで、かわいそうじゃないですか!」
 私は桜子にかこつけ、行き場のない気持ちを先生にぶつけていた。
「まず、言っておくが……」
 先生は感情的になった私に珍獣を見るような視線を投げてから、開き直ったように雄弁に話し始めた。
「僕がいつ桜子を弄んだ? 気を持たせるようなことを言ったり、態度で示したことがあったか? 僕は特定の生徒を特別扱いしないように注意してきた。誤解されないように、生徒と二人だけになるのも極力避けた。職員室に、よく質問に来た君を避けたのも、変に疑われるのが迷惑だったからだ。君たちと一緒にいたときも、どちらかを特別扱いしなかっただろ? 僕の言動は、教師として必要な範囲に留めていたはずだ。教師の善意と、男女の好意をごっちゃにしないでもらいたい」
 屈辱で全身がかっと熱を帯びた。鯛焼きを食べた日のことも、スピーチコンテストで推してもらったことも色を失っていった。もう守るものが何もないと思うと、全てを壊してしまいたい衝動が突き上げてきた。
「それなら、もっと早く桜子を突き放すこともできたじゃないですか!」
 先生は顔色一つ変えず、うんざりした口調で答えた。
「だったら、拒絶したほうが良かったか? 君たちは、僕が君たちと過ごすことを望んでいただろ? それが、君たちの勉強のモチベーションになったり、生活に張りが出るなら、教師としてそうするべきだと思ったからだよ。君らは優秀で、将来有望な生徒だからな。良識のある君なら、そのくらいはわかってくれていると思っていたが」
 私は拳をきつく握りしめ、腹の底から突き上げてくる怒りを堪えた。
 静かに近づいてくる夕闇が、先生の輪郭をぼかしていった。音もなく降りはじめた糸のような雨が、電燈の光に照らされていた。
「優秀な生徒だったら誰でも、私たちと同じように付き合ってくれたんですか? 屋上で一緒にお昼を食べている先輩たちもそうなんですか?」
 一縷の望みにすがるように尋ねると、先生は困惑したように押し黙った。腰が曲がったおばあさんが、鯛焼き屋の看板をひきずるように、店の中にしまうのが見えた。店の電気が消えると、店の前にある自動販売機の放つ光が、やけにまぶしく見えた。
「何とか言ってください……!」
 先生は、ふっと小さく息を吐き、観念したように言った。
「君たちといる時間が好きだった。だから、勤務時間外でも付き合った。正反対な二人が、楽しそうに話すのを見るのが好きで、そこに救いを見出していた。大学での辛い現実から逃避できた……。僕の影響で、二人が花開くのを見ていたかったのかもしれない……」
 その言葉に救いを感じる一方で、私と桜子は彼のなかで分かちがたく結びつけられていることが重くのしかかった。
「桜子は可能性を秘めた生徒だ。彼女は自分の能力をどう生かすべきか、決めかねていた。だが、僕と話すうち、精神科医になって、戦争で心に傷を負った人の力になりたいと言うようになった。桜子の父方のお祖父さんは、パレスチナ人と英国人のハーフの写真家で、イスラエル軍に殺された。だから彼女は、イスラエルとの戦争で難民になったり、心に傷を負ったパレスチナ人への思いが強い。精神科医としてパレスチナに行くのが目標だそうだ」
 初めて聞いた話だった……。桜子が、そんなことを考えていたこと、それを私ではなく、先生と共有していたことに胸をかきむしられた。『夜と霧』の感想を話したとき、桜子がパレスチナ人の権利のために声を荒らげたことがようやく腑に落ちた。

「桜子のことは、どうにかしなければと思っている……。だが、いま、僕が彼女に近づくのはよくないから、君に頼むしかない。親友として、桜子の力になってくれないか。彼女が道を踏み外さないように支えてほしいんだ」
 私は先生が桜子を心配していることに激しく嫉妬していた。先生に胸の内を打ち明け、そんな役割は嫌だと、子供のようにだだをこねたかった。

「正直、自信がないです……。どうしたらいいか……」
 先生は心底困ったように視線を落とした。それを見て、彼にこんな顔をさせたことを即座に後悔した。
「その、私は口下手だし、デリケートになっている桜子を傷つけることを言ってしまわないかと不安だったので……」

 とっさに取り繕った私に、先生は包み込むような優しい声で言った。
「君が一人で抱えることはない。僕はいつでも相談に乗るよ。何かあったら連絡してくれないか」
 先生は焦げ茶色の手帳を出し、最後の頁を破ると、そこにアパートの電話番号を書いてくれた。
「またここで、三人で話せるように願ってるよ……」

 私は少し躊躇ったあと、それを受け取った。この人とつながっているためには、桜子が必要なのだ。そのためなら、この役目に甘んじると心に決めた。先生は、ほんの少し重荷を下ろしたように、強張った頬を緩めた。その表情は写真に撮っておきたいほど魅力的で、私がそれを引き出せたことに胸が震えた。

 私と先生は自転車にまたがり、暗くなった道を駅へと急いだ。田圃に霧がかかり、秋の虫が鳴いていた。駅に着くと、都心方面に向かう電車が、ちょうど入ってきたところで、駅員のがなる声が響いていた。先生は自転車を乱暴に止め、全速力で駆けていった。反対側のホームに渡る通路から、先生を乗せた電車を見えなくなるまで見送った。ホームに下りて空を見上げると、朧月が浮かんでいた。月を縁取る光は弱々しく、泣いているように見えた。
 そう言えば、今日は話が途切れる心配をしなかったと気付いた。桜子を心配するという目的のもと、私たちは親密に話していた……。そのことに気付くと、ざらざらとした感情が胸に広がった。


 桜子の母親は長身で、透けるように色が白く、20年後の桜子を彷彿させる美人だったが、全身から突き放すような冷たさを放っていた。何度遊びに行っても、私を警戒するような物腰が抜けず、歓迎されていると思ったことはない。そんな母親に促され、私は二階に上がった。


「桜子、入るよ……」
 部屋に足を踏み入れると、澱んだ空気に息が詰まった。
 よく晴れた昼下がりだった。柿の木の枝が窓にかかり、カーペットに精緻な影を落としていた。去年、桜子と一緒に柿をもぎ、先生と食べるためにゼリーを作った。不意にそのことを思い出し、感傷的になった。
 
 桜子は私に背を向けて座イスに座り、足を投げ出していた。だらしなく見えがちな姿勢でも、桜子だと映画のワンシーンのように画になった。テレビの中で、白いかつらをつけた西洋人が、忙しなくしゃべりながら、チェンバロを弾いていた。
 
 桜子は私が背後にいても、それを消そうとしなかった。
「映画見てたんだ」
「……」
「これ、何の映画?」
 桜子は、脇にあった映画雑誌の切り抜きを無言で私に渡した。モーツァルトの才能に嫉妬した作曲家のサリエリが、彼を追い詰め、死に追いやったことを語る『アマデウス』。
「私、瑞穂ちゃんに殺されちゃうのかな……?」
 桜子は一人言とも、私に言ったとも取れる口調で言った。
「え?」


「これ、菖蒲先生のお薦め。瑞穂ちゃんにも教えてやれって言われた。後で貸すから見てね」
 控えめなノックが聞こえ、母親がどら焼きとお茶の載ったお盆を置いていった。

 桜子はリモコンで映画を止め、私に向き直った。
「来てくれてありがと。何か気まずくって、避けちゃってごめん……」
 私は激しく首を左右に振った。桜子は視線を泳がせ、手にしたリモコンをしばらく弄んでいた。


 私は、美味しそうだからいただくねと、どら焼きをかじった。桜子もそれに続き、私たちはしばらく無言で、どら焼きを食べ、香りのいい玉露をすすった。どら焼きは大好物なのに、その日は甘さがやけに強く感じられた。


「瑞穂ちゃんといると、いろいろ思い出しちゃって、苦しかったから」
「うん……」
「菖蒲先生から聞いたんでしょ……?」
 私は頷いた。
「先生、桜子のこと、すごく心配してるよ。欠席が増えてるらしいし……」
「もう、止めてよっ!」桜子は声を荒らげた。
「あの人、何考えてるかわからない。話しても、話しても、かみ合わなくて、宇宙人と話してるみたい! 高校生には興味がないとか、知的創造をする人でないとだめだとか、人をバカにしたみたいに上から目線で。その気がないのに心配しないでほしい!」
 私は彼女の中に眠っていた荒々しさにたじろぎながらも、激しく同意した。
「本当にそうだよ。あの人は遠すぎて、私たちの手に負えないよ」
「とか言って、私のこと遠ざけて、先生を自分のものにしようとしてるんでしょ? 瑞穂ちゃんって、お堅いけど、そういうところはしっかりしてそう」


 桜子が吐いた毒に、私の中に蓄積していた毒が刺激された。
「は、何でそういうこと言うの? 私だって、あの人に相手にされてないよ。わかってるでしょ?」
 桜子は私を一瞥し、「まあ、そうだろうね」と憐れみをにじませた口調で言った。むっとしたが、喧嘩をしに来たのではないと自分を抑えた。
 桜子は独り言を言うように吐き出した。
「あの人、捕まえようとしても、雲をつかむみたい。近づこうとしても、決して距離を縮めてくれない。それどころか、どんどん遠くにいっちゃう」
「そうだよ、まさにそう……」
「だから、もうやめたよ」
「やめたって?」
「菖蒲先生の周りをうろうろするの。私、彼氏できたし」
「え、いつから?」
「夏休み。予備校の夏期講習で知り合った人。慶応医学部志望で、家は病院。二浪してるから三歳上。私のこと、すごい評価してくれる。その人の友達に医大生がたくさんいて、受験のこととか、大学生活のこととか教えてくれるんだよ。彼も友達も車持ってるから、いろんなとこに遊びに連れてってもらえて楽しいよ。あ、私、学校休んでも、予備校の自習室で勉強してるから大丈夫。心配しないで」


 予備校の喫煙所に座り込み、煙草を吸いながら大声で話している浪人生たちの姿が脳裏を過った。どこの予備校にも、そんな人たちがいる。未知子ちゃんと、ああいう人になりたくないよねと話していたことを思い出し、妙な胸騒ぎがした。
 私は、それを振り払うように続けた。
「菖蒲先生から聞いたよ。桜子、精神科医になって、中東に行きたいんだってね。受験勉強にも気合い入るよね。お祖父さんのこととか初めて知った。そういうこと、全然話してくれないんだね……」
「別に話す必要ないでしょ。まあ、そういうことだから、勉強はするよ」
「でも、学校には来ないと。出席日数が足りなくなったらやばいよ」
「大丈夫だよ、ぎりぎりのところで止めておくから」
「それ、まずいよ。今まで頑張ってきたのに、そういうことしたら先生方の印象が悪くなるよ。欠席が多いと、指定校推薦が取りにくくなるし」
「ああ~、瑞穂ちゃんって、真面目の塊。息詰まる! 私、欠席多いから、推薦は諦めてるの。だから、学校のテストは関係ないの。学校より、予備校にいたほうが勉強はかどるから。彼とも一緒にいられるし」


 私は憮然とし、対抗するように尋ねた。
「桜子、その彼といて本当に幸せ……?」
「幸せだよ。高校生に行けないような、高級ホテルのレストランとか連れてってもらえるし。今まで、ずいぶん時間を無駄にしちゃったから、これからは楽しむよ!」


 桜子は私と違い、どこにでもいけるのだと思った。合コンに行っても、誰からも連絡先を聞かれず、ブスと陰口を言われる私とは違うのだ。恵まれた桜子は、それに見合う華やかな高校生活を送るのが似つかわしい。私はそう思うことで、彼女が先生から遠ざかっていくのを止めなかった。


「ねえ、『ミシシッピ・バーニング』見る? 『アマデウス』は持って帰って見て。返すのはいつでもいいから」
 桜子は『アマデウス』をデッキから取り出して私に渡した。

3-3

 群青色の空に上弦の月が浮かんでいた。地平線の辺りは、まだあかね色で、そのコントラストが美しかった。桜子と菖蒲先生と、こんな空を眺めながら帰ったことを思い出した。
 
 自転車を止めると、三角公園の金木犀の香りが、むせ返るほど漂ってきた。芳香に勇気づけられ、電話ボックスの扉を押した。電話にテレクラのカードが張りつけてあるのに気付き、目を背けた。番号を押す指が緊張で何度も止まり、その度に受話器を置いてしまい、テレフォンカードが何度も戻された。
 
 何度目かで、ようやく番号が押せたが、呼び出し音は何度も鳴り続けた。留守番電話にも切り替わらなかった。諦めて受話器を置こうとしたとき、「もしもし」と警戒したような声が聞こえ、驚いて切ってしまいそうになった。
 
 私が上擦った声で名乗ると、先生は待たせてすまなかったと謝った。
「指導教授に電話で雑用を頼まれるから、居留守を使うことが多いんだ。留守電に吹き込まれるのも嫌だから入れていない」
 私にはついていけない話で、大変ですねと返した。
 
 受話器の向こうにある生活の気配を感じ取ろうと、耳を澄ませた。先生が見ていたテレビの音、聴いていた音楽が聞こえないかと耳をこらしたが、ただ静かだった。その静寂は、私の侵入を拒む先生の意志のように思えた。


「先生、何をしていたんですか?」
「本を読んでいた」
「何の本ですか?」
「ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』。『地獄の黙示録』という映画の原作だ。何度も読んだけど、論文で引用するから読み返していた」
「その映画、桜子の家で観ました」
「そうか。桜子は映画が好きなんだよな」
「ええ。あの映画に原作があったんですね」
「映画の舞台はヴェトナム戦争後期のヴェトナムだろ? 原作ではアフリカのコンゴ川流域だ。図書館にあるから読んでみて。桜子にも教えてやるといい」


「あの、桜子のことなんですけど……」
 私は沈黙がやってくる前に切り出した。電話の向こうで、先生がにわかに身構えたのがわかった。
 私は桜子に浪人生の恋人ができたこと、学校を休んでも予備校には行っていること、欠席は差し支えのない範囲に留めると言っていたことを話した。 相槌を打ちながら聞いていた先生は、そうかと言った後、しばらく黙っていた。私はその沈黙に寄り添った。耳ですべての情報を得なくてはならない電話は、思った以上にエネルギーが必要だった。


 沈黙に耐えられなくなった私は、胸に滞っていたことを一気に吐き出した。
「考え過ぎかもしれないけれど、何だか心配です。桜子は純粋だから、悪い方向に向かわないかと……。桜子と同じ予備校の子に聞いたんですが……。桜子は、喫煙所とか、近くのモスバーガーに溜まって、大声でげらげら笑いながら話している人たちと、いつも一緒にいるらしいです」
 電話の向こうの空気が強張ったのがわかった。
「僕も同じことを心配していた……」


 桜子を案じる気持ちが、受話器を通し、静かに重なっていった。それは、桜子が常に私たちのあいだにいることを意識させられる痛みも伴っていた。


「彼女は賢い。取り返しのつかないところまではいかないよ。今、何を言っても、反発するだけだろうが、このままではいけないとわかっているよ」
 先生の声に、自分に言い聞かせるような響きが感じられた。だが、彼は私よりずっと物事を正確に見抜けることを思い出し、その通りになる気がした。
「僕たちにできるのは、彼女が戻れる場所をつくることだ。欠席が増えているのは、クラスの居心地が悪いからだろう。そのことは僕から担任に言っておく。君はこれからも彼女の味方でいてほしい。クラスに居場所がなくても、学内に信頼できる友達がいれば救われる」
「ええ。でも彼女、私といると、先生のことを思い出してしまって、辛いと言っていたんです……」
 
 先生は再び押し黙り、濃度を増した沈黙が流れた。だが、それは重苦しくはなく、二人で桜子を心配した親密さをはらんでいた。
「それでも、桜子にとって、君が一番信頼できる友達だ。君まで離れてしまったら、桜子はどうなる。きついかもしれないけど、これからも彼女を支えてくれないか? 僕は、また公園で、三人で他愛のない話がしたいよ」
 わかりましたと機械的に答えた。電話の向こうで、先生が安堵しているのがわかった。
「何かあったら、また教えてほしい。三回鳴らして切った後、もう一度かけてくれないか。そうすれば必ず出るよ。出なかったら本当に留守だ」
 先生の声が、さっきより澄んでいるように聞こえた。
「わかりました。おやすみなさい」


 電話を切ろうとすると、先生が尋ねた。
「ところで、いまどこからかけているんだ? さっき、踏切の音がした」
「三角公園の電話ボックスです。金木犀の香りに癒されてますよ」
「こんな時間に危ないじゃないか!」
 大声を出され、心臓が跳ね上がった。だが、父以外の男の人に心配されたのは生まれて初めてで、泣きたくなるような幸せが込み上げてきた。
「平気ですよ。結構、人通り多いし。うちの学校の子も通ります」
 電話の向こうから、あきれたような溜息が聞こえた。
「ここから、かけたかったんです! ここは、三人で過ごした場所です。だから、ここからが一番いい気がして……」
 少し間が空いたあと、かどが取れた声が返ってきた。
「早く帰りなさい。金木犀の匂いに気を取られてると、ぎんなんを踏むぞ」
 
 自転車を飛ばしながら、耳に残る先生の声を何度も再生した。月光が田圃に降り注いでいた。重なり合う虫の音がオーケストラのように聞こえた。去年の今頃、この道を三人で帰った。桜子は今ここにいなくても、私たちの間にいた。

 私は桜子と話し、新しい情報を得るたびに、公園の公衆電話から先生に電話をした。受話器ごしに先生と共有する時間は限りなく甘美だった。


3-4

 土曜の夜だった。未知子ちゃんとの長電話を切った直後、待っていたかのように電話が鳴った。まだキャッチホンはなかった。誰かをずっと待たせていた罪悪感で背筋が冷えた。父の仕事の電話ではないことを祈った。


 びくびくしながら応答すると「瑞穂か?」と切迫感のある声が返ってきた。
「菖蒲先生!?」
「僕だ。夜遅くすまない。瑞穂の番号は堀越先生に名簿で調べてもらった」
「構いませんが、どうしたんですか?」
 電話のディスプレイは、10時49分を表示していた。さっきから吹いている木枯らしの音が不気味に響いた。遠くから犬の遠吠えが聞こえてきた。
「桜子が都内のバーで補導された。飲酒していたそうだ……」
 喉が押し潰されたように声が出なかった。
 数日前、学校で話したときの桜子の顔が浮かんだ。模試の成績が上がって、自信がついたと喜んでいた。
「学校には……? 先生が知っているということは……」
「担任が連絡をもらったそうで、僕に知らせてくれた」
「桜子はどうなるんですか?」
「堀越先生は、飲酒のことがあるから、恐らく停学だろうと言っていた。処分が決まるのは週明けだ」
 
 補導、飲酒、停学……。桜子に似合わない言葉ばかりだった。いろいろなことが少しずつ重なり合い、この事態になった気がした。私は関係ないと思おうとしても、すべて私が導いたことのような思いが抜けなかった。先生に責任を逃れようとする思いを見透かされないかと、居心地が悪かった。


「大丈夫か?」先生の低い声が、現実へ引き戻してくれた。
「はい……」
 先生は動揺する私を落ち着かせようと、穏やかな声で言った。
「瑞穂は心配性だからな。僕は結構、楽観的だよ。桜子は優秀で、先生方の評価も高いから寛大な処分になるよ」
「桜子は、いまどこに……?」
「母親が警察に迎えにいったそうだから、家だろう」
「この時間に電話したらまずいですよね?」
「もう、11時になるしな」


「私、明日、桜子の家に行ってきます」
 その一言を待っていたかのように、晴れやかな声が返ってきた。
「そうしてくれるか? 僕も話したいけど、担任でもないのに、そこまでするのも気が引けるし」
 その声を聞き、先生に心配されている桜子に嫉妬した。いつまで、こんな役を務めればいいのかと、やりきれなさが疾風のように全身を駆け抜けた。
「明日、戻ったら電話します」
 私は感情を抑えた声で言い放ち、自分から電話を切った。
 

 桜子の家に向かって自転車をこぎながら、かける言葉を探したが、何も見つからないまま呼び鈴を押した。化粧っけのない顔でドアを開けた母親から、いつもの冷たさが感じられず、すがるような目を向けられた。受け止めるのが辛く、お土産のケーキを渡して、逃げるように二階へ上がった。
 
 ノックを躊躇していると、ドアが中から開いた。桜子は黒いジャージ姿で、髪はバレッタで無造作に束ねられていた。カーテンの閉まった部屋には、まだ夜の匂いが残っていた。

「眠れた?」ソファを勧められた私は、隣に掛けた桜子に尋ねた。
「うん。ちょっと前に起きたところ。昨日、アメリカに赴任しているお父さんと電話で話したから、寝たのは遅かったけど、よく寝たよ」
 桜子の目は腫れておらず、本当に良く眠ったようだった。
「朝ごはん食べた?」
 桜子は頷いた。
「じゃあ、お腹一杯かな。ケーキ、持ってきたんだ。無理なら、私が二個食べるよ」
「マジ? ありがと、食べたい!」
 桜子は部屋のドアを開け、母親にケーキを持ってきてと叫んだ。
 
 桜子が気丈に振舞っているのか、思ったほど堪えていないのかは、読めなかった。だが、裏表のない桜子の性格を考えれば、それほど参っていないのかもしれないと思った。


「良かった、食欲はあるみたいで。菖蒲先生も安心するよ」
 ソファに戻った桜子の体が、びくりと強張ったのがわかった。
「先生、昨夜遅く、うちに電話してきたんだよ。心配だから、様子を見てきてほしいって」
 桜子は美しい人形になってしまったように、しばらく何も言わなかった。
「どうして自分で来ないわけ……?」
 桜子のかすれた声は、胸を突き刺すような悲愴感を帯びていた。
「遠慮してるんだよ。担任でもないし、出しゃばるのはよくないからって」
「自分で来ればいいのに!」
 桜子の悲痛な叫びは、重力に引かれる石のように、ぼとりと床に落ちた。

 ノックの音がしたので、一瞬迷ったが、私が母親からトレイを受け取った。母親は何かを察したのか、何も言わず、ゆっくりと階段を降りていった。

「ケーキ食べる……?」
 桜子が答えないので、机の上にトレイを置いた。

 桜子の反応を観察していると、薄々と感じていたことが、かたちになった。彼女は先生の気を引きたくて、心配させることをしていたのだ。気持ちはわからなくはないが、振り回され続けたことへの苛立ちがせり上がってきた。

「もういい加減にしなよ。どれだけ、まわりに迷惑かけたと思ってるの?」
 自分でも驚くほど、棘のある言い方になってしまった。
「先生のこと、まだ好きなんでしょ……? もう、先生に心配をかけるのはやめなよ。そういうの子供っぽいよ」


「わかったようなこと、言わないでよ!!」
 桜子の悲鳴のような声が空気を切り裂いた。桜子は床を踏み鳴らしてソファから立ち上がり、私をきっと睨みつけた。
「瑞穂ちゃんに何がわかるの? 先生に告白する勇気がなくて、何もしない人に言われたくないよ。私が消えたのをいいことに、その優等生面で先生にまとわりついて、私をダメな子扱いしてるんでしょ! 私がこうなって、いい気分でしょ? ずっと私を羨ましがってたもんね。そういうの息が詰まるんだよ。私はどうしたらよかったわけ?」


 核心をつく言葉以上に、胸を抉るものはなかった。その反動で、今まで気持ちを押し込めてきた苦しさが爆発した。

「何でわからないの? 先生が、どっちか一人と仲良くしないことくらい、わかってたでしょ? 私たちが仲良くしてなかったら、先生との水曜日もなかったんだよ。私だって、ずっと苦しかったよ!」

「すぐそうやって、勇気がないのを正当化する。自分に自信がないからだよ」

「桜子みたいに綺麗で、恵まれた人には、私の気持ちわかんないよ! 私はずっと、男子に気持ち悪いとかブスとか、彼女にしたくない女ナンバー1とか言われてきたんだよ。中学のとき、好きな人から、ぞっとする、こっち見るなって言われて、バイ菌扱いされたんだよ。そんなことばかりで、自信持ちたくても持てないんだよ!」

「だからって、何も言わないで優等生でいるのがえらいの? 私は可哀そうですって顔して、いつも不満そうなのを見ると、鬱陶しくて仕方なかった!」

 崩れ落ちそうになる体を気力で支える私に、桜子は容赦なく憎しみを炸裂させた。

「帰ってよ、いるだけで鬱陶しい! 瑞穂ちゃんみたいな、うじうじした性格にだけはなりたくない!!」


 コートとカバンを掴み、桜子の家を飛び出した。ひたすら自転車をこぎ続け、三角公園にたどりついた。電話ボックスに飛び込み、夢中で菖蒲先生の家の番号を押した。三度切りを忘れてしまったが、先生はすぐに出た。
 先生の低い声を聞いた途端、張り詰めていたものが切れ、涙が溢れ出した。
「はい、菖蒲です。もしもし、もしもし……」
 
 何か言おうとしたが言葉にならなかった。しばらく沈黙が続いたあと、先生は静かに問いかけた。
「瑞穂か? そうだろ……?」
「先生……」嗚咽を抑え、声を絞り出した。
「今、どこだ?」
「桜子の家に、すぐ行ってあげてください。桜子に必要なのは先生です。桜子は先生にかまってほしいから、心配させることばかりしてたんです」
 それだけ言って、乱暴に受話器を置いた。テレフォンカードが戻り、さっさと受け取れと言わんばかりに、ピピーと機械音が鳴り続けた。
 

 三角公園には誰もいなかった。あざやかな寒椿に明るい冬の陽が降り注いでいた。打ちひしがれた自分と無関係に存在する自然の営みが、腹立たしかった。私はテラスの下の椅子にへたりこみ、涙が流れるにまかせた。


 涙がおさまってからも、立ち上がる気力が湧かず、放心したように座っていた。泣いて体が火照ったせいで、寒さを感じる余裕はなかったが、ブーツの中の爪先は凍りつきそうだった。いつまでも、ここにいるわけにはいかないと思い、ティッシュで鼻をかんでいたら、自転車が勢いよく公園に乗り入れた。


 振り返ると、黒いダッフルコートを着た先生が、肩で息をしていた。眼鏡をかけているのを見たのは、初めてだった。いつも櫛目が見える髪には寝癖が目立ち、毛先があちこちに向いていた。よく見ると、コートからのぞくズボンはジャージだった。隙のない服装しか見たことがなかったので、この格好で電車に乗ってきたことに面食らった。


「何があった?」先生は荒い息のまま尋ねた。
「いえ、別に」
「そんな顔で、別にと言われて信じるやつがいたら、とんでもないバカだ。少なくとも僕はその類のバカではない」
「桜子に本当のことを言われて、傷ついてるだけです……」
 先生は小さく溜息をつくと、私の隣に腰を下ろした。
「ここは寒いから、温かいものでも飲みに行くか?」
 ここで大丈夫ですと言うと、先生は眉間に縦じわをつくった。少し迷った後、鯛焼き屋の前にある自動販売機で温かい缶コーヒーを買ってきてくれた。


 私たちは、暫く黙ってコーヒーを飲んだ。ミルクティーが好きな私には、漆黒のコーヒーは苦かった。風が冷たくなり、夕暮れの気配が忍び寄ってきた。子供の頃から、日曜の午後は一番物悲しい時間だった。


「先生、桜子のところは?」
「君の様子が変だったから真直ぐここに来た。ここにいてくれてよかったよ」
 部屋着のまま飛んできてくれた先生の優しさが、ずたずたになった心に染みた。何があったと尋ねられ、抱えていたものが決壊したように溢れ出した。


「こうなったのは、すべて私のせいです。私が桜子と一緒にいなければ、こんなことにならなかったんです」
「何があったか知らないが、自分を責めるのはやめなさい」
「いえ、全部私の性格が招いたことです。私は桜子に嫉妬してばかりでした。だから、桜子は何も悪くないのに、嫌な思いをさせていたんです。桜子は自慢の友達なのに、湧いてくる嫉妬はどうしようもなかったんです。今日、桜子に、鬱陶しくて仕方なかった、私みたいなうじうじした性格にはなりたくないって怒鳴られました。私が一緒にいなければ、彼女はああならなかったんです……」
「長く一緒にいれば、嫌なところが見えてくるのは当然だろ。人間関係なんて、個性のぶつかり合いなんだから」
「桜子が、あれほど私を嫌っていたなんて、ショックで……。ずっと近くにいたのに、想像できなかった……」
「相手が何を考えているかなんて、誰にもわからないよ。同じものを見て、わかりあえていると思っていても、いざ話してみると、これほど考えが違うのかと唖然とすることなんてよくある。桜子は気が立って、攻撃的になっているんだ。桜子が瑞穂を信頼しているのは僕が良く知っている」


 先生の真摯な瞳が私を見つめていた。このままでいれば、先生の優しさにすがっていられる。だが、その先に何があるだろうか。桜子に言われたことが頭のなかで木霊こだまのように響き、私を駆り立てた。


「問題はっ、私が先生を好きになってしまったことです! あの鯛焼きをご馳走してもらった日から、ずっと……。桜子に隠してきたけど、気づかれてました。私の気持ちに気付いたことで、桜子は信頼できる相談相手がいなくなってしまったんです。桜子が今のクラスで辛いときも、先生に告白しようと決めたときも……、相談できる友達がいなかったんです。彼女を孤立させて、追い詰めたのは私です……!」


 先生の目に悲しげな困惑が浮かんだ。
「いいです、何も言わないでください! わかってますから」
 自己満足だけの告白をした後は、惨めさと虚しさだけが残った。子供の頃から憧れていた初めての告白が、こんなものに終わってしまった……。惨めすぎて、目頭が熱くなり、さっき止めたはずの涙が再び溢れ出した。
「いや、元凶は僕だ。君たちの好意が心地良くて、それを楽しんでいたから、二人とも苦しめてしまった……」
「先生は悪くないです。私たちに、かけがえのない時間をくれました……」
 
 言いたいことは山ほどあったのに、涙で言葉にならなかった。全てが壊れてしまった。ここで三人が笑い合うことはもう二度とないだろう……。


 先生はポケットを探り、私のびしょびしょの頬にハンカチをあてた。
「ごめんな、瑞穂……」
 先生は自分のコートを脱いで、私の体を包んだ。コートから石鹸の香りの香水がふわっと漂ってきた。好きでもない女にできたのは、これが精一杯だったのだろう。こんなときくらい抱き締めてくれてもいいじゃないかと、悔しくて余計に泣けてきた。私の背中をさする骨ばった指の感触は、今でも覚えている。

#創作大賞2023