連載小説「三角公園」第4話
4-1
1995年
亀裂が入った建物が倒壊していくように、私たちの関係は壊れていった。
停学が明けた桜子は、毅然とした佇まいで高校生活を送っていた。長かった髪はボブになり、アイメイクをやめ、口紅もつけなくなった。メイクをしていない顔はあどけなさを感じさせたが、まとっていた稚気は影を潜めていた。無遠慮な視線にも、ひそひそ話にも動じない桜子の背後に、菖蒲先生の支えがあると思うと、嫉妬が腹の中で騒いだ。桜子に言われたことは、真実ではあったが、私の心に簡単には消えない傷を残していた。もう、今までのように話すのは無理だった。
菖蒲先生とも、顔を合わせたくなかった。先生が高校にいる日は、廊下や階段で会わないように気をつけた。借りたハンカチは、洗ってアイロンをかけて、封筒に入れ、「ありがとうございました」とだけ書いたメモを添えて、職員室の菖蒲先生の机上に置いておいた。
桜子が私の家にやって来たのは、日曜の午前中だった。
応対に出た父に呼ばれ、玄関に立つ桜子を見たとき、驚きで硬直した。真っ白なコートとマフラーに身を包んだ桜子は、目を瞠るほど綺麗だった。着飾ってつくれる華やかさではなく、内面から放たれる輝きに気圧された。
桜子は、三角公園に行こうと春風のような声で言った。あんな暴言を吐いておいて、何もなかったように誘いにくる神経を疑い、露骨に眉をひそめた。
私の反応など意に介さずに微笑んでいる桜子を見ると、それでこそ桜子だと、諦めに似た感情が湧いてきた。嫌味の一つも言いたかったが、家族の前で言い争うのが面倒で、普段着にコートを羽織った。
桜子は、憮然とした私を持て余す様子も見せず、新しく買ったコートのことや、髪を切ってくれた美容師が好みだったことをひっきりなしに話していた。駅に向かう途中、道行く小学生の女の子が、桜子に羨望の眼差しを注いでいた。並んで歩いていた私には、憐れみの視線が飛んできた。
高校の最寄り駅で電車を降り、駅に置いてある自転車に乗った。私服でこの駅から自転車に乗るのは初めてだった。何だか変な気分だねと二人で笑ったことで、硬かった空気がほぐれていった。
冬の陽を浴び、溶け始めた田圃の霜柱が光っていた。冷気に刺激され、二人とも鼻をすすりながら、自転車をこいだ。
三角公園のベンチに座り、駅前のコンビニで買った肉まんを食べた。具の甘さと化学調味料の匂いが気になって、美味しいとは思えず、爽健美茶で流し込んだ。あんまんを買った桜子は、ぱくぱくと美味しそうに平らげていた。
「結局、あの人は桜子も私も選ばなかった……。『こころ』でも『友情』でも、二人から思われた人は、どちらかとくっついたよね」
私は菖蒲先生を「あの人」と突き放したように呼んだ。彼が三角関係の絡む小説を私たちに読ませていたこと、凡庸な才能のサリエリが非凡なモーツァルトに嫉妬し、死に追い込む『アマデウス』を見せたことに、冷ややかな憎しみが芽生えていた。
「本当だよね。何かバカにされた気分」
「でも、あの人には、かけがえのない時間や言葉をもらった。だから、憎みきれないのが悔しい」
「うん……。瑞穂ちゃんと話そうと思ったのも先生のおかげ」
私は、その意味を問うように桜子を見た。
「先生に強く言われたんだ。親友は大切にしろって。私が瑞穂ちゃんに爆発した日、瑞穂ちゃんがどれだけ自分を責めて泣いていたか教えてくれた。辛かったのはわかるけど、落ち着いたら謝って、親友を取り戻せって。またあの公園で、三人で話そうって……」
喉元に熱いものが込み上げてきた。ここで泣いても、桜子を白けさせるだけだとわかっていたので堪えた。寒いふりをして日あたりのいい場所に行き、深呼吸した。涙を逆流させようと上を向くと、すっかり葉を落とした木が、冬空に骸骨のような枝を広げていた。肌を刺す風を受け、コートの襟を立てた。
しばらくして、桜子が私の隣に立った。
「先生はいつも、瑞穂ちゃんを心配しているよ。私と先生には、瑞穂ちゃんしか共通の話題がないから、そのことばかり」
「私と話しているときは、桜子のことばかりだよ。桜子を二人で心配することで間がもった」
二人の深く重い溜息が、白く流れて消えた。
「瑞穂ちゃん、この間は、ひどいことたくさん言っちゃってごめんね。許してもらえるとは思えないけど、謝ります……」
許せるわけないと心のなかで毒づいた。多分、桜子も許してもらえないのを承知で言ったのだとわかっていた。
「桜子の言ったことは間違っていないよ。私のほうこそ、ずっと嫌な思いさせていて、本当に申し訳なかったと思う……。謝って済むことじゃないけど」
「瑞穂ちゃんのこと嫌いじゃない。だから、気持ちを隠してるの見ると申し訳なくて。でも先生をとられるのは嫌だし、どうしていいかわからなかった」
「私がライバル宣言して、正々堂々と戦えばよかったのかもしれない。まあ、二人とも相手にされなかっただろうけど……」
桜子は、白い手袋をした両手をこすり合わせながら、一番日当たりのいい場所に歩きだした。冬の陽を浴びた桜子は、スポットライトの中にいるモデルのようだった。
「先生に言われて決心がついたんだ」
桜子は私を振り返って言った。
「私、アメリカに行く」
「アメリカぁ?」
「前から、お父さんにニューヨークに来ないかって言われてたの。お父さんはニューヨークのワールドトレードセンターに入ってる会社で働いてるの。行きたかったよ。でも、先生と離れると思うと、瑞穂ちゃんに取られると思うと踏み切れなかった。今回のことで、またお父さんから、こっちで家族一緒に暮らそうと言われた。目標決まったし、前よりずっと、行きたいと思った。私、アメリカのメディカルスクールに行きたいの。戦争で心に傷を負った人の治療は、アメリカのほうが進んでいるし。アメリカで知識をつけたら、パレスチナに行きたいと思ってるの。けど……」
「何?」
「停学くらって、アメリカに逃げたって思われるのが嫌だったんだよね」
「は? そんなこと考えてたの? あんた、相当の見栄っ張りだね」
「先生にそのこと言ったら、そんなことにこだわって、チャンスを逃す奴があるかって」
「私も激しく同意」
「先生に、一年のとき君に言ったことを覚えているかと聞かれたの。忘れるはずないよ。与えられた能力を、社会を良くするために使えって。先生は、目標が決まって、それに向かう扉が開いているのに、進まない理由はないだろって背中を押してくれた。パレスチナ問題を勉強できる本も教えてくれた」
純白のコートに身を包んだ桜子は、そのまま光のなかに吸いこまれ、消えてしまいそうだった。そんな桜子を目で追いながら、あの人は、どこまでも先生だと思った。必要なときに必要な言葉をくれる、すごい先生だ。地味な彼にファンが多いことにも納得できた。
4-2
桜子がニューヨークに発って、しばらく経った頃だった。菖蒲先生から、三角公園に呼びだされた。
放課後、私が公園に着くと、先生は温かい爽健美茶を買って待っていてくれた。凍えるほど寒い日だったのに、コートの下の肌は火照っていた。
「桜子、行ってしまったな……」
先生はどんよりとした空を見上げてぽつりと言った。
もう三人で笑い合えない淋しさもあったが、桜子と離れてほっとした思いが強かった。だが、彼女も先生に失恋して旅立ったのかと思うと、同士のような感情を捨てきれなかった。
「いなくなってみると、心に穴があいた気分だな」
すっと二人の間に入り込んでくる桜子に、空気を支配されるのが嫌だった。まさか、桜子がいなくなった淋しさを分かち合うために、呼び出されたのかと思った。
「何か話があったんじゃないですか? わざわざ、人目につく場所で、二人きりで話すほどのことなんですか?」
先生は私の嫌味を意に介さずに切りだした。
「言わなくちゃならないことがあるんだ」
先生は爽健美茶のプルタブを引きあげ、パチンと割った。
「今年度で高校を辞めることにした」
世界が一瞬で色を失っていくような絶望に襲われ、田圃を吹きわたる北風の叫びが、やけに大きく聞こえた。
「春から、いまの大学で助手になることが決まったんだ」
私が打ちのめされていたのに、先生の声が澄んでいるのが癇に障った。その苛立ちが、私を現実につなぎとめた。
「高校の先生は続けないんですか……?」
即座にきっぱりとした答えが帰ってきた。
「時間的に無理だ。大学で教えるから」
精気に満ちた眼差しを見て、高校に微塵も未練を残していないことがわかった。この人はいるべき場所にいく……。絶望で、全身からするすると力が抜けていった。
私は最後の望みにすがるように尋ねた。
「高校の先生になる気はないんですか? 先生はすごくいい先生だと思います。先生の言葉は、たくさんの生徒を救えると思います」
先生は子供を諭すように言った。
「僕はね、大学でポストを得るために、この年齢になるまで、将来が見えない不安や、経済的な不安で狂いそうになりながら、研究を続けてきたんだ。大学でポストを得るために、すべてをかけてきたんだよ。高校で教えていたのは、生活費を稼ぐため。ようやく……、苦労が報われるんだ。二年の任期付だけれど、とにかく最初の一歩が踏み出せた」
おめでとうございますと言うべきだったが、私は憮然としていた。桜子も先生も行ってしまい、取り残された惨めさがじわじわと迫ってきた。
「すまない。まだ高校生の君には、どうでもいい話だったな。僕達みたいに、大学院の博士課程に残った者には、大学で職に就けるか否かでは、天国と地獄ほどの違いがあるんだ」
先生は、話さなければ気が済まないような勢いでまくしたてた。
「高校生の君にはぴんとこないだろうけど、男にとって、収入が得られることは大きな自信になる。僕は学生が長かったから、これでやっと親を安心させられる。あそこの家の息子は何をしているんだと陰口を言う親戚や近所の目を気にして、恥かしい思いをさせないで済む。仕送りもしてやれる。それに、恋人がいる奴は、ようやく将来の計画を立てられる。とにかく、専任になることで、がらりと世界が変わるんだ」
高校生と繰り返されることに、かちんときたが、自分にとって真実と思えることで反論するしかないのが悔しかった。
「女の子にとっては、仕事や収入よりも、好きだと言ってくれる気持ちのほうが大切だと思います……」
「君ら女子高生にとっては、そうかもしれない。でも、僕ぐらいの年になると、そうも言ってられない。結婚を考える年齢だからな。僕の院生仲間に、職に就けないから、いつまで経っても彼女と結婚できなくて振られた奴もいる。結婚した後、いつまでも安定したポストに就けない義理の息子に業を煮やした義両親が、別れさせた例もある。好きだけでは、どうにもならないこともあるんだよ。国立大の大学院まで出て、そんな惨めな道があるかと思うかもしれないが、それが現実だ。君も、大学院なんかいくもんじゃないよ」
どう返したらいいか戸惑う私に、先生はいつもの口調に戻って尋ねた。
「瑞穂は来年受験だな。国立を狙うのか?」
私は話を変えられるのを拒むように切り出した。
「先生、前に好きな人がいるって言いましたよね。研究室の後輩だって。その人とはどうなるんですか?」
先生は少し躊躇った後、意を決したように口を開いた。
「関係ないだろと言いたいが、君には、話さなくちゃいけないんだろうな」
私は心を砕かれまいと、鎧をまとうように身構えた。
「以前から、彼女は僕に好意を示してくれていた。僕も好きだったけど、将来が見えない身だし、自分のことで精一杯で、ずっとうやむやにしてきた。でも、助手に就くことが決まって先が見えた。彼女に交際を申し込んで、OKしてもらった。結婚を前提に付き合うつもりだ」
「結婚……」私は茫然とその言葉を繰り返した。
「僕は付き合う人とは結婚を考えるからね」
「そうですか。恋人のことも、お仕事のことも、おめでとうございます。それから、長い間、いろいろありがとうございました」
先生はありがとうと神妙に頷いたが、口元は嬉しさを隠せないようにほころんでいた。
どん底に突き落とされたはずなのに、涙は出なかった。打ちのめされることに免疫がつきすぎ、心が麻痺していたのかもしれない。
先生は仕切り直すように尋ねた。
「大学で何を勉強したいんだ?」
「女性の権利に興味があるんです。特にイスラム教の影響で、男性に抑圧されている女性を、どうしたら解放できるか勉強したいです。将来は、そういう女性を解放する活動をしている国際機関とかNGOで働きたいです。だから、国際関係学や地域研究を学べる大学に入りたいと思います」
私としては、よく考えたつもりだったのに、先生の口調は冷ややかだった。
「君は、西洋の価値観を押し付けることしか考えていないな」
「どういうことですか?」
「君の考えは、西洋が上で、それ以外は下。それ以外は、劣った、啓蒙すべき対象と見ている。言うことを聞かない国にミサイルをぶち込んで、屈服させるアメリカと同じだ。軍事力や経済力を武器に、西洋の価値観を押し付け続ければ、今にイスラムの反乱が起きるぞ」
「でも、イスラム教の国にも自立を望む女性がいます。運動も起こってるし」
「僕が言っているのはね、君が西洋の価値観を正しいと決めつけて、それを押し付けようとしていることだ。異文化を尊重していないことだ」
「そういうことじゃなくて、抑圧されている女性を解放したいと思っているだけです。先生は女性が教育を受けられなかったり、低年齢で結婚させられてしまったり、一人で外出できないのがいいことだと思いますか?」
先生は実のない議論に終止符を打つように言った。
「まあ、君が悪いわけではなくて、西洋の価値観が世界を席巻しているからな。君の学びたい領域と少しずれるかもしれないけれど、エドワード・サイードでも読んでみるといい」
先生は残った爽健美茶を飲み干した。私は終わりかけている時間をつかまえる思いで言った。
「さびしくなります……。桜子も先生もいなくなっちゃうなんて」
先生は、そうだなと感傷的な顔をつくって見せたが、もうそこに気持ちを残していないことは明白だった。
私は、すがりつくように尋ねた。
「大学選びの参考に、いろんな大学の大学祭やオープンキャンパスに行きたいんです。先生の大学の大学祭に行ったら、案内してもらえますか?」
「悪いが、そういう行事には関心がないんだ。大学祭のあいだは、うるさいから研究室に行けないし、迷惑極まりない行事だ」
「じゃ、年賀状とか出していいですか? 住所……」
「瑞穂」先生は私を遮り、諭すように言った。
「もう僕の周囲をうろうろするな。迷惑なんだよ。間違った相手に固執していると、本当に君を大切にしてくれる人を見過ごすぞ。自分を大事にしろ」
「桜子も……」私は震える唇で尋ねた。
先生は、ポケットに手を入れ、軽く瞬きをした。
「桜子のことも、こんなふうに突き放したんですか?」
先生は肯定も否定もしなかった。
「君たちはこれからだ。受験頑張れよ」
高校時代、二人で話したのはそれが最後だった。
冷酷に拒絶された悲しみは、三角公園を通りかかるたびに、収穫を待つ稲穂を見るたびに胸を抉った。そんなとき、桜子も悲しみを抱いて、異国に旅立ったと思うと、少しだけ救われた。
時が流れると、胸を切り裂くような悲しみは、いつか知的に対等になって、先生と再会したい思いに変わった。
