連載小説「三角公園」第5話
5-1
1998年
「早川さん、いま帰り?」
バイト先の予備校を出た途端、自転車を引いた春木くんに声をかけられ、心臓がとびあがった。
「うん、お疲れ様……。もう遅いから早く帰ってね」
九時を過ぎていた。私はバス停に向かって歩調を早めた。
「自習室で勉強してたら、時間忘れちゃって。帰ろうと思ったら、早川さんがいたから。この前のこと謝ろうと思って……」
バス停の前で、強引に唇を奪われそうになった恐怖がよみがえった。
私は押し黙ったまま、速足で歩き続けた。梅雨明けの生温かい夜風がまとわりついてきた。脚が長い春木くんは、何の苦もなく肩を並べてきた。
早くバスが来てくれることを願ったが、次のバスまでに十分あった。
「バス来るまで一緒にいますよ。変な奴が出たら危ないし」
「大丈夫だから、早く帰って」
「いや、心配だから。もうあんなことしませんから。反省してます」
「もういいから。ご両親が心配するから、早く帰って」
春木くんは、不貞腐れたように端正なマスクを歪めたが、すぐに気を取り直して言った。
「じゃ、バスが来るまで、俺の話を聞いてよ。俺、大学、京都にしようと思ってたけど、地元もいいと思って。それで悩んでて……」
彼のチューターの私は、進路の話を持ちだされると邪険にできなかった。彼はそれを知ってか、距離を取ろうとすると、進路相談や質問を持ちだした。
「今日はもう遅いし……。面談希望出してくれれば、時間つくるから」
「わかった……。ねえ、早川さんは、どうして今の大学を選んだの?」
「勉強したい分野が充実していたから」
話を長引かせたくない私は、わざと手短に答えていた。
「ふーん。ねえ、高校のとき部活とかやってた?」
「高校では、やってなかった」
「中学は?」
「陸上部」
「へえ、そうなんだ。でも、言われてみれば、そんな感じ。そういえば、よく走ってるって言ってたもんね。何で、高校でやらなかったの?」
「中学のとき、先輩との関係がしんどくて、もうごめんだと思ったから」
「あー、体育会系はきついよね。女同士は怖いんだろうな。得意な種目は?」
「長距離」
「へー、スタミナあるんだね」
「足が遅いから、根性でどうにかなる種目しか選べなかったの」
話が広がりも深まりもしないのは、私が意図的にそうしていたからだ。そんな自分に気付くたび、あの頃の菖蒲先生もそうしていたのだろうと、苛立ちと後ろめたさを感じた。
ようやく近づいてきたバスのヘッドライトが、救いに見えた。逃げるようにバスに乗り込み、春木くんに手を振った。座席に落ち着くと、どっと疲れが出て、深く身を沈めた。窓の外には、同じ形をした建物が闇に沈んでいた。無機質で冷たい印象を与える街かもしれないが、私は好きだった。目を閉じ、バスの揺れに身を委ねると、やや運転が荒いと思ったが、酔うほどではなかった。
目を閉じると、校長に言われたことがよみがえった。
「特定の生徒と親しくなり過ぎないようにね。生徒は、大切なお客様だからね。親御さんから、息子を誘惑する先生がいるなんて言われたら困るんだよ。君にも辞めてもらうことになる」
おさまらない感情が腹のなかで燻った。私はチューターとして義務を果たしていただけだ。それなのに、こんなことを言われたことがやりきれなかった。
校長は憮然とした私を見て、口調を和らげた。
「気をつけてと言っているだけだから、悪く取らないでね。早川さんには、三年も続けてもらっているし、信頼している。だから、今年から英語の授業も任せた。これからも貴女と働きたいから言っているんだよ」
「ありがとうございます。私は講師として、チューターとして、必要なことをしてきたつもりです。一部の生徒を特別扱いしたことはありません。そのことだけは、ご理解いただければと……」
「もちろん、わかってるよ。困ったことが出てきたら、すぐに報告してね。何かあってからじゃ遅いから」
「わかりました。すぐに、ご報告させていただきます」
校長の前を辞すと、以前から苦手だった化粧の濃い数学講師が、ピンヒールをかつかつ鳴らしながら近寄ってきた。
「気を持たせるようなことを言ったんでしょ? そうじゃなければ、なつかないもの。随分時間をかけて、面談してたじゃない。ニキビ多いけど、いい男だもんね」
反論したい衝動に駆られたが、露骨に否定すれば、状況を悪くすると思い、拳を握って耐えた。
大学入学と同時に始めた予備校のバイトは、生活の一部になっていた。授業準備に時間をとられたが、それ以上にやりがいがあり、時給も良かった。地道に取り組んだおかげで、少しずつ慕ってくれる生徒も増え、スタッフにも信頼された。
春木くんの好意が、三年かけて築いた信頼を台無しにしてしまうと思うと、その存在が爆弾に思えた。だが、彼に悪気がないだけに複雑だった。
高校の頃、私も桜子も、付きまとうことが先生の立場を難しいものにしていたことに、考えが及ばなかった。少女漫画では、純真でひたむきな女の子が魅力的に描かれ、たいていその思いは報われた。気のない生徒に思いをぶつけられ、困惑する先生の心情など描かれていなかった……。
気を持たせるようなことを言ったのでは、という数学講師の言葉が、耳から離れなかった。
チューターは生徒と面談して調書をつくり、進路相談に乗る。春木くんは、面談で、受験勉強と部活の両立に悩んでいることを吐露した。所属するサッカー部は全国大会常連で、県内から精鋭メンバーが集まっていた。受験を意識した彼は、レギュラーになれないのに、体力を消耗する部活を続けることに疑問を感じていた。兄弟が多く、浪人したくない彼は、部活を辞めて受験勉強に専念しようと決めた。だが、仲間から、どう思われるかが、気がかりだった。彼のなかで、答えが出ているのに気付いた私は、いま何が一番大切かを考えて選択してほしいと助言した。部活を辞めた彼は、予備校に入り浸り、私に付きまとうようになった。
私の言動に、行きすぎがあったかと振り返ったが、適切な範囲に留めていたと思う。確かに、面談の回数は他の生徒より多いが、チューターは生徒から希望が出れば、応じなくてはならない。これから、彼とどう向き合うかを考えると、気が重かった。
菖蒲先生も、私と桜子のことで、こんな思いをしたのかと思うと、思い出すたびに、悲しみと憤りを呼び起こした言動の一つ一つが、新たな意味に塗り替えられていった。
とても長い時間をかけ、菖蒲先生に近づいているという実感があった。今なら、あの頃よりずっと先生を理解できると思うと、行き場のない思いが胸の中で騒いだ。
忘れた日など一日もなく、会いたいという激情に駆られたことは何度もあった。高校のとき、思いが抑えられなくなり、先生が助手をしている大学に忍び込んだが、いくら探しても会えなかった。大学に受かったとき、勇気を振り絞って先生に電話したが、この番号は現在使われていないとアナウンスが流れた。呆けたようにそれを聞きながら、もう本当に縁が切れてしまったのだと思った。
5-2
研究学園都市で大学生活を送りながら、菖蒲先生の所属する研究室のホームページを時々のぞいた。助手として登録されていた先生の名前は、いつのまにか消えていて、もはや消息さえもわからなかった。
波立つ気持ちを引きずったままアパートに帰ると、留守電の赤いランプが点滅していた。再生すると「加藤先生が明日はマイクロフィルムの複写を頼むとのことです、そのあと飲み会もあるのでよかったら参加してください」と水原さんの穏やかな声が流れ、力強く現実に引き戻された。
水原晴樹さんは大学院博士課程に所属していて、私の指導教授のリサーチアシスタントだった。誰にでも丁寧に接するので、相談をする大学院生や学部生が絶えなかった。物腰は穏やかなのに、気難しい教授を前にしても、必要なことは一歩も譲らずに主張する芯の強さもあり、素敵な人だと思った。
国際政治ゼミの後、印刷室で教授に頼まれた文献のコピーをしているとき、初めて彼と言葉を交わした。印刷室に入ってきた彼は、私が傍らの机に置いた本に目を留め、穏やかな声で話し掛けてきた。
「エドワード・サイード読むの?」
「あ、はい」コピー機に用紙を入れていた私は、慌てて彼のほうを向き、上擦った声で答えた。
「授業の教科書? うちの学部に読ませる先生はいないと思うけど」
「高校のときの先生に勧められたんです……。今年から、少しずつ読んでいるんですけど、なかなか進まなくて」
ずっと、読まなくてはと思っていたが、あの突き放された日の記憶と結びついていたために、避けてきてしまい、読み始めたのは最近だった。
「サイードを勧めるなんて、センスいい先生だね。俺も尊敬する知識人だよ」
菖蒲先生を評価してくれたことで、私はますます彼に好感を抱いた。
「そうなんですか。ぜひ、いろいろ教えてください。正直、難しくて、理解できているかわからないです。いま、『オリエンタリズム』と『パレスチナ問題』を読みました。高校のとき、祖父にパレスチナの血が入っている友達がいたので、彼女が憤っていた理由が今になってわかりました」
「そう。俺も全部理解してるわけじゃないけど、よかったらいつでも聞いて」
彼は思いついたように言った。
「アメリカに留学していたとき、ニューヨークのレストランでサイードを見かけたんだ。話しかけたかったけど、連れと真剣に話していて、そういう雰囲気じゃなかった。結局、ちらちら見ていただけ。惜しいことをしたな」
水原さんの人懐っこさは、私の心を解きほぐす力があった。
「それ、わかります。声をかける雰囲気じゃないと思うと、遠慮しちゃいますよね。私、昔から、言いたいことを我慢して、逆に相手に気を遣わせてしまうことがあって……」
「俺もそういうことあったな。それで、損することもあるよね。俺はアメリカ生活で、随分図々しくなったけど」
「やっぱり、アメリカ行くと変わりますか?」
「うん、それはあったね。日米関係を研究しようと思ったのも、アメリカ留学したからだし。ところで、どんなことに興味があってあのゼミに入ったの?」
「イスラム教の信仰と女性の権利向上をめぐる問題です。特に、アフガニスタンに関心があります。タリバンが勢力を拡大してから、女性の権利が後退しているんです。教育や仕事の機会が制限されて、親族の男性が付き添わないと外出を許されなかったり、ブルカの着用を強制されたり」
「研究しがいのあるテーマだね。うまくいけば、卒論もそれで書けそうだね」
思いのほか話が弾み、本当に久し振りに、この男性をもっと知りたいという思いが泉のように湧き出てきた。その日から、挨拶を交わすようになり、会話が増えていった。彼ともっと一緒にいたかった私は、教授の雑用を進んで手伝った。その縁で、大学院の飲み会にも呼んでもらえるようになった。
5-3
翌日の大学院の飲み会で、めずらしく飲まなかった水原さんが、車で私を送ってくれた。月夜に誘われ、筑波山をドライブすることになった。市内の夜景が見える山道に車を止め、車内でペットボトルのお茶を飲みながら話をした。車も人も通らず、怖いほどの静けさだった。月が雲間を縫うように動くのを見ると、自分も地球と一緒に動いていると実感した。
彼の声は、くっきりと輪郭をもって耳に届いた。
「高校一年のとき、父の転勤で、サンフランシスコに行ったんだ」
「だから、英語が堪能なんですね。論文も英語で書いてるし」
「最初は英語がわからなくて、辛くて、日本に帰ることばかり考えていた」
「水原さんにも、そんな時期があったんですね……」
「うん。同じ高校にいた日本人も、同じようなものだった。そこから、頭一つ抜けようと必死だった。しんどい日々が続いたけど、一年くらい経って、どうにかアメリカでやっていけそうな気がした。とにかくアメリカに馴染むことだけ考えて、英語も上達した。家族は二年で帰国したけど、俺は残って、南カリフォルニア大学に入った。大学で、一つ上の日系四世の恋人ができた。彼女の家族にも気にいられて、長期休暇はサンノゼの彼女の実家で過ごした。そのまま彼女と結婚して、アメリカ国籍を取るつもりだったんだ。あの頃の俺は、世界の中心であるアメリカで居場所をつくることに必死だった。今思えば、痛い奴だったな」
彼は窓を下げて夜風を入れた。澱んだ空気が対流し、私たちの間をすり抜けていった。風に乱される彼のやわらかそうな前髪を、手を伸ばして直したくなった。
「アメリカに馴染んで余裕が出てくると、アメリカ化に必死になっている日本人学生を冷めた目で観察するようになった。英語のニックネームをつけて、日本をバカにして、アメリカをひたすら崇めて……。日本人学生とは付き合わずに、白人とばかり話したがった。それを見て、自分もああだったのかと恥かしくなったよ」
「複雑ですね」
「うん。そんなとき、ルームメイトのチュニジア人と将来について話した。彼は、開国後の日本が植民地にならずに大国になって、敗戦後は短期間で復興して、経済大国になったことを評価していて、日本人の俺に、一目置いてくれた。彼は優秀な男だったよ。アメリカで機械工学の学位を取って、祖国の発展に貢献したいと熱い思いを抱いていた。俺がこのままアメリカに残ると言ったら、おまえがやりたい仕事はアメリカじゃないとできないのか? 日米関係を勉強してるなら、何で日本に帰ってその知識を生かさない? アメリカにいないとできない仕事なら仕方ないが、そうでないなら、日本に帰って国のために尽くすべきだ。たくさんの優秀な日本人が、そうして日本を発展させてきたんじゃないかと、口角に泡を飛ばして説教したんだ」
彼は当時のことを思い出して、くっくと肩を揺らして笑い、ずれた縁なし眼鏡を押し上げた。
「大きなお世話だ、俺がどこで何をしようと関係ないだろと言い返したよ。でも、無節操なアメリカ化に疑問を感じていただけに、彼に言われたことはがつんと響いた。俺はこのままでいいのか、何をしたいか、何ができるかと真剣に考えた……。考えた末に出した結論が、日本とアメリカで生活した経験を生かせる仕事をすること」
「いろいろ選択肢がありますね……」
「うん。俺は日米関係に関わりたかった。横須賀で生まれ育ったから、基地が身近で、子供のときから日米関係を意識してきた。その関係が対等ではないことも、すぐに気付いた。俺は、日本がアメリカとの密接な関係を維持しながらも、うまく国益を推進して、戦略的な関係を築くのに貢献したいと思った。だから、外交官か日米関係の学者になると決めた。その時点で、六年もアメリカにいたし、日本の大学でも学びたかった。合わなければ、アメリカに戻ればいいと思ったし。日本で大学院に入ってから、研究が面白くて、こうして残っちゃったけど」
「彼女さんは、日本に来ることに抵抗はなかったんですか?」
彼は、そこなんだよと少し沈んだ声で言った。
「俺との将来を信じていた彼女には寝耳に水だった。彼女は日系でも、日本に興味がなかった。日本語を話さないし、日本に住むことなど想像できなかった。時間をかけて話し合ったけれど、何度話しあっても平行線。彼女は、アメリカの大学で日米関係を教えればいいと俺を説得しようとしたけど、俺は日本側から関わりたかった。そんなことを繰り返し、互いに疲れ果てて、結局別れることになった。底抜けに明るかった彼女が精神不安定になって、カウンセリングに通うのを見るのは辛かった。彼女の親にも、息子のように可愛がってもらっていたから、悲しませてしまった。俺が全て悪いから、ひたすら謝ることしかできなかった。こんな男、最低だよな……」
「そんなことありません! 人は成長していくし、それに伴って、どうしても一緒にいられなくなることもあると思います。水原さんが、彼女と誠実に話し合ったことで、彼女は救われたと思います。時間はかかったかもしれないけれど、彼女はきっと納得できていますよ」
媚びる気持ちはなく、自然に湧いた言葉だった。こんな誠実な人と付き合えたら、たとえ悲しい結果に終わっても、後悔しないだろう。彼の恋人になりたい思いが、抑えきれないほど高まっていた。
「ありがとう……」
彼は、しばらく窓の外を見ていた。窓を閉めると、一語一語を絞り出すように続けた。
「実は、しばらく恋愛ができなかったんだ……。彼女をあんな目に遭わせて、俺は幸せになる資格がないという思いがあった。だから、いいなと思う女性に出会っても、好きになり過ぎる前に、気持ちにブレーキをかけてきた」
「それは違います! 水原さんのような誠実な人と付き合う人が、幸せじゃないはずはありません。どんどん恋愛してほしいです!」
私はほとんど悲鳴のように叫んでいた。
「本当にそう思ってくれる……?」彼の声は掠れていた。
私は強く肯いた。
彼は解き放たれたように口元を緩め、私の瞳を真直ぐに捉えた。
「早川さんに出会って、会うたびに好きになって……、思いを封じ込めることができなくなった。あれから、初めて、女性と真剣に向き合いたいと思えたんだ。こんな俺だけど、付き合ってもらえないかな?」
私には一点の迷いもなかった。
「私も水原さんが好きです。よろしくお願いします」
「このことを話してから決めてもらおうと思ったから……、安心した」
私はシートベルトを外すと、彼の頭を自分の胸にそっと抱き寄せた。
「いまのお話を聞いて、聞く前よりずっと好きになりました……」
5-4
「ごちそうさま」
水原さんは、茶碗に残った最後の米粒を口に運んでから箸置きに箸を揃えて置いた。彼の一つ一つの仕草から、誠実さと育ちの良さがにじみ出ていた。
「けんちん汁も、ハンバーグも、厚焼き卵もサラダもすごく美味しかった。瑞穂、料理上手いな」
「よかった。いま、お茶淹れますね」
空になった食器を洗いながら、彼にちらりと目を遣ると、すっかり寛いだ様子で、ニュース番組を見ていた。私の部屋に彼がいる風景が当たり前になっていくことに、くすぐったいような幸福感が込み上げてきた。
お茶を入れた私が卓袱台の前に座ると、彼はリモコンでテレビを消した。
「バイトのことで相談があったんだろ?」
私は彼に促され、春木くんのこと、校長に言われたことをかいつまんで話した。
「そんな大事なこと、もっと早く話してくれればよかったのに。瑞穂は一人で抱え過ぎだよ。せめて俺の前では、無理をしないでほしい」
「ごめんなさい……。水原さんとうまくいっていたから、誤解されたり、嫌な思いをさせたくなかったんです。いまの幸せが壊れるのが怖かったから……」
彼は憮然とした面持ちで言った。
「そんなことで、壊れるわけないだろ。俺は瑞穂より6つも年上なのに、頼られなかったことが淋しい」
「ごめんなさい……」
「それから、もう水原さんはないだろ」
「じゃあ、晴樹さん……」
「うん」
晴樹さんは一呼吸置いてから続けた。
「本音を言えば、心配だからバイトを辞めてほしい。でも、瑞穂は中途半端に投げ出すのは絶対に嫌なんだろ? 学生だから適当にやってると思われるのも」
晴樹さんは私の性格をわかり過ぎるくらいに、わかってくれていた。
「春木くんの担当を外してもらおうと思ったこともあったよ。でも、社会人になったら、嫌なお客様に当たるたびに担当代わるなんてできないし。それに、彼が傷ついて勉強に身が入らなくなったら困るし……。大事な時期だからね」
「俺は今の対応で間違っていないと思うよ。チューターとしての立場を超えずに、適切な距離をとっていれば問題ないと思う」
「ありがとう。そう言ってもらえると安心します」
「これからは予備校まで、車で迎えに行くよ。それと、彼氏がいることは、春木くんに言っておいたほうがいいな」
「うん、そうする。ありがとうね。迷惑かけてごめんなさい」
彼は照れを隠すように、湯気の立つお茶を飲みほした。私は満ち足りた思いで、彼の茶碗にお茶のおかわりを注いだ。
「高校生ってさ……」彼は茶碗を手に取りながら言った。
「好きっていう気持ちだけで動けるよな。相手が困るとか考える余裕なくて……。年齢と経験を重ねると、相手のことを思いやれるようにはなるけど、真直ぐにぶつかる力は失っていく」
「そうですね。私、高校のとき好きな先生がいて、友達と一緒にまとわりついていたから、春木くんの真っ直ぐな気持ちもよくわかる。春木くんのことがあって、あのころ先生をどれだけ難しい立場に追い込んでいたか、今になってようやくわかってきたんです……」
「それって、エドワード・サイードを勧めた先生?」
晴樹さんの声が、無理にさりげなさを装ったように聞こえ、それが私の心を波立たせた。
「そうだけど……」
「付き合ってたの?」
「まさか! 全然相手にされなかったよ。美人で頭がいい友達が同じ先生を好きで、ごちゃごちゃして大変なことになったから、よく覚えてるだけ」
「ごちゃごちゃってどういうこと?」
「え? まあ、2年間でいろいろあって……」
「聞きたいな」
反射的に体が強張った。あの頃のことを話したら、心の底に押し込めた様々な感情が動き出してしまい、平静でいられなくなる気がした。そのことが、晴樹さんとの幸せに影を落とすのは嫌だった。
「瑞穂の過去のこと、聞いたことなかったし」
「話すことがないからだよ。唯一の経験は、一年のとき、友達の紹介で、都内の大学に通う同級生と二回くらいデートしたこと。急に連絡が取れなくなって、自然消滅。後で、紹介してくれた友達を通して、何か違うって言われた。それだけ」
「それは辛かったな……。でも、そのことより、高校の先生のことのほうが瑞穂のなかで重みがあるんじゃない……?」
晴樹さんの声は、それを確信しているかのようだった。私の言動が、知らないうちにそんな印象を与えていたと思うと複雑だった。
「ごめん……。過去のことをとやかく言う気はないんだ」
晴樹さんは私の目を正面から捉えて言い継いだ。
「瑞穂は俺の過去を知った上で、受け入れてくれただろ。だから俺は、また恋愛ができるようになった。瑞穂は俺をトラウマから解放してくれた特別な女性なんだ。だから、俺も瑞穂のことをもっと知りたい」
この人には、きちんと話さなければ失礼だと思った。
「わかった。でも、もう未練ないし、昔話だと思って聞いてね」
そう前置きして、私は長い長い話を始めた。
あの複雑な関係、激しい感情を言葉にするのは難しかった。うまく伝わったかはわからない。嫉妬深かった自分を知られ、晴樹さんを幻滅させる不安もあった。それでも、今の私たちは大丈夫だと信じたから話すことができた。
話し終えると、沈めてきた様々な感情が、乱暴に攪拌されたように胸の中で渦巻いていた。だが、それはもう台風のように暴走することはなかった。
晴樹さんが淹れ直してくれたお茶を飲むと、随分時間が経ったという静かな感慨が、波紋のように胸に広がっていった。さっきより傾いた月がカーテンの隙間から覗いていた。
私はリモコンを取り、効きすぎたエアコンを弱めた。
「今でも本当にたまに、夢を見るの。先生が高校の廊下を歩いていて、私は声をかけようと速足で追いつこうとする。何を話そうか、話が途切れないかと不安を抱きながら……。先生の背中がだんだん大きくなって、あと少しで追いつくとき、桜子が飛びだしてきて、先生に声をかけるの。振り返った先生は私にも物憂い笑顔を向けてくれる。私もつられて笑顔になってしまう。私と桜子は、先生の両脇に並んで、三人で歩きだすの。桜子にじゃまされたはずなのに、何だかほっとしているんだ。四年も前の話だけど、濃厚な時間だったから、潜在意識に刻印されたのかな。うちの親が、今でも大学入試の夢を見ると言ってたけど、それと似たようなものだと思う」
「俺、何だか心配だな……」
「何が?」
「もし、その先生が現れたら、瑞穂は何もかも放り出して、すぐに飛んでいってしまうんじゃないか? 俺と付き合ってることなんて関係なく」
「どうして? もう、何年も経ってるし、付き合ってたわけでもないし」
「手に入らなかった人って、どんなに時間が経っても、宝石みたいに輝いてみえるだろ。そういう人には勝てない気がする……」
晴樹さんの気弱な声を聞き、私は話したことを心底後悔した。
「俺、タイムマシンで四年前に遡って、その先生を殴りたい」
彼の言葉は、私の心のひだまで震わせた。
「でも、私もいま、春木くんに同じことをしてるから、先生を責められない」
「瑞穂は彼を弄んでない。その先生は、二人の好意を弄んでたんだよ。『アマデウス』を勧めたのなんて、瑞穂を侮辱したとしか思えない。それから、暴言を吐いて瑞穂を傷つけた桜子さんも許せない。まあ、もとはといえば、先生が二人を弄んで、楽しんでたのが悪いんだろうけど」
「だけど、桜子のことは、私が嫉妬したり、先生への気持ちを押し込めてたのが悪いし……。私と桜子が絶交しなかったのは、先生のおかげだから……」
「瑞穂は、そんなひどい扱いを受けるべきじゃないんだ!」
晴樹さんが声を荒らげたのは、後にも先にもこのときだけだった。彼は私に口づけ、弁解を続ける私の口を封じた。
「かわいそうに、辛かったな……」彼は私の髪を優しく撫でた。
ずっと、こんな言葉が欲しかったと気付いた。胸につかえていたものが溶け出し、一筋の涙になって流れた。私はやっと、閉じ込められていた三角公園から出られた気がした。私たちは、とても自然に唇を求めあい、やがて貪り合うように体を重ねた。
私は晴樹さんの愛情に包まれ、あの夢を見なくなった。だが、そのとき私は、彼の中でも、あの関係が動きだしてしまったことに気付かなかった。
