連載小説「三角公園」第6話
6-1
2001年
「瑞穂、久し振り。同窓会の葉書届いた?」
受話器の向こうから、未知子ちゃんの滑舌のいい声が響いた。職場からかけているらしく、忙しなく電話に対応する声が、かすかに聞こえた。どんよりとした空気の漂う研究室にいた私は、電話の向こうに広がる世界に気後れした。
「うん、届いたよ。ごめん、まだ葉書出してないや」
私は廊下に出るために、研究室の扉を後ろ手で閉めた。窓から射す初夏の陽が頬を照らした。
「今年は、お盆にやるから来られるでしょ? 頼むよ~、人数足りないと元が取れないんだ」
高校一年の同窓会は、今まで年末に何度かあった。私はバイト先の予備校の冬期講習を言い訳に欠席してきた。
「じゃあ、今年は行こうかな……」
「本当? ああ、よかった。助かるよ~」
未知子ちゃんの声が、重荷を下ろしたように軽やかになった。
「いま、職場でしょ? 昼休み?」
「うん。デスクで食事中。銀行員ならお金の計算が得意だろうって、幹事押し付けられちゃってさ。瑞穂が参加してくれて、ようやく二十人。これで元が取れそう」
外資系銀行に就職した未知子ちゃんは、時差の関係で激務が続いていた。そんな彼女に幹事を押し付けたのは誰だと憤りが湧いてきた。
「ひどい話だね。できることがあれば何でも手伝うよ」
「ありがと、マジ助かる」
同窓会は見栄の張り合いだと聞いたことがあった。在学中はぱっとしなかったのに、出世した子には、周囲を見返す格好の機会になる。在学中は冴えていたのに落ちぶれた子は、顔を出したくないだろう。久し振りという笑顔に見え隠れする思惑を想像すると、やはり欠席すればよかったかという思いが胸を占めた。
「そうそう、今年は桜子ちゃんも来るって」
思いがけない一言に、私は反射的に身構えた。
「本当に? 帰国してるの?」
「実家に葉書送ったら、お母さんがメールで知らせてくれたみたいで、国際電話がかかってきたよ。超びっくり。ちょうど帰国する時期だから来るって」
「元気そうだった……?」
「うん、高校のときのテンションのまんま。耳が痛くなったよ。UCサンフランシスコのメディカルスクールに入ったんだってね。さすが、桜子ちゃんだね。UCサンフランシスコって、メディカルスクールでは世界のトップ5だよ」
桜子が順調に人生のコマを進めていることを知り、嫉妬と称賛の混じった感情が広がった。私も第一志望の大学に入り、修士課程に進み、来春から総研に就職が決まった。決して悪くないと自信を持ってきたが、アメリカで成功している桜子を思うと、取るに足らないものに思えてきた。
「桜子ちゃん、瑞穂が大学院いったのも、助手の彼がいるのも知らなかったよ。連絡とってなかったの?」
「最近はね……」
本当は高校卒業以来、連絡を取っていなかった。
「瑞穂に彼氏がいるって話したら、めちゃくちゃ驚いてたよ。ウソーって何回も叫んで、ありえな~いを耳が痛くなるほど連発した」
思った以上に見下されていたことに、激しい不快感が込み上げた。しばらく忘れていた、体に毒がまわる感覚がよみがえってきた。
「頭にきたから、何がそんなにおかしいの、瑞穂みたいに魅力的な女性に彼氏ができるのは全然おかしくないよって言い返しといたよ。そしたら、さすがに黙ったけど」
「ありがと。悪いね、気を遣わせて」
未知子ちゃんの気持ちが嬉しく、桜子に何を言われても胸を張っていられる気がした。
電話を切ると、研究室に戻り、コンピュータの前に座った。マウスを滑らせてスリープ状態を解除し、どきどきしながらメールの受信箱をクリックした。届いていたのは迷惑メール二通だけ。今朝、晴樹さんに送ったメールに返信はなかった。がっくりと落ちそうな肩を気力で押し上げた。
博士論文を提出した晴樹さんは、今年の春から特別プロジェクトの助手になった。二年の任期だが、彼は早く安定した大学教員になることを切望していた。
私は、晴樹さんが職に就いてから、彼の立場を考え、公の場では彼と話すことを控えた。彼が研究に集中できるように、周囲の目がないときに文献のコピーや資料収集を手伝い、食事をつくり、洗濯や掃除などできることは何でもした。そうすることで、自分の存在意義を確かめ、漠然と感じていた不安を鎮めようとしていた。
晴樹さんの気持ちが離れたと思いたくなかった。だが、以前のように、情熱的に愛情を示すことはなくなり、精神的な距離を置かれていることをひしひしと感じていた。連絡するのも、会おうというのも私からになった。私が誘えば彼は断らず、相変わらず優しかったので、問い詰められなかった。時折見せる、思い詰めた眼差しの意味もわからなかった。
今までの彼は、二人のあいだに問題が生じたら、互いに納得するまで話しあって解決することを心がけてくれた。その誠実さのおかげで、不安になることはなく、この人で本当によかったと何度思ったかわからない。
三年以上も付き合っていれば、最初のような情熱がなくなるのは当然だと言い聞かせてきた。それでも、メールの返事が遅れるだけで、研究が手につかなくなるほど不安をかき立てられた。気にし始めると、文献や資料を読んでいても、目が文字を追うだけで、頭に入らなくなった。修士論文の中間発表も控えているので、しっかりしなければと自分を叱咤した。
6-2
同窓会の会場は、高校から一駅先にあるホテルの宴会場だった。駅からホテルまで、いつもより少しヒールの高い靴で歩いた。額に噴きだす汗をハンカチで抑えながらエアコンのきいたホテルに入ると、温度差に体が適応するのに数秒かかった。どこかの会社の宴会がお開きになったようで、顔を赤くしたスーツ姿の男性が、ロビーに溢れていた。大声でしゃべっていた彼らをかきわけるように進んだ。
受付にいた未知子ちゃんは、3分の2が出席してくれたと上機嫌だった。セットする時間があれば睡眠に充てたいと短くした髪は、溌剌とした彼女に似合っていた。後で受付を交代すると約束し、会場に足を踏み入れた。
高校の頃、シャンデリアが華やかな宴会場に入ると、特別な気分になったことを思い出した。改めて見回すと、壁やテーブルの傷みと色褪せた杏色の絨毯が目についた。シャンデリアの光に、化粧に気合いが入った級友たちの顔が照らされていた。女たちの装いには、実物以上の自分を見せようとする気負いが溢れていた。たかが女だけの同窓会にと嘲る思いもあったが、そういう自分も、少しでも細く見えるワンピースを選んだ。流れているベートーヴェンの田園に、追憶に誘われそうになったが、気を取り直してカウンターでシャンパンをもらった。
「瑞穂ちゃんっ!」
いきなり抱きつかれ、グラスを落としそうになった。
「桜子……」
私はグラスを守りながら、桜子の華奢な背中に腕を回した。妖艶に香るシャネルの香水が、すっと鼻腔に侵入してきた。明らかにデザイナーズブランドの黒いワンピースは、華奢な体に吸いつくように密着していた。
「付き合ってるんだってねっ!!」
桜子は私の体を離すと、開口一番に尋ねた。彼女の肌は小麦色に焼け、高校のときにはなかった精悍さに満ちていた。ピンヒールを履き、170センチを優に超えた彼女は、周囲を圧倒するオーラを放っていた。世の中に、この女に惹きつけられない男がいるだろうかと思うほどの存在感だった。
「うん。桜子、派手に驚いていたんだってね。そんなにおかしい?」
余裕をもって接しようとしたのに、思いのほか攻撃的になってしまった。
「うん。すごく、びっくりした」
もともと率直だった桜子の言動は、アメリカ暮らしで、拍車がかかっていた。それが私の自衛本能を刺激した。
「こんな私でも、大切にしてくれる人に出会えたから幸せだよ」
「そっか。ね、彼氏紹介してよ。会ってみたい」
「は?」
「だめ? 本当はいないとか、別れちゃったとか?」
「違うよっ!」不快感が込み上げ、思わず語気を荒げた。
「だったら、いいじゃん! 私、アメリカだし、今回会えなければ、いつ会えるかわからないし」
「でも、彼は仕事してるし、論文書きも忙しいから、こっちに来させるのも」
「それなら、私がそっちに行くよ。いつなら大丈夫?」
否応なしに鼻腔に侵入してくる香水のように、桜子は再び私の人生に侵入してきた。
9月はじめ、桜子は大きくて重いスーツケースを2つ引き、高速バスでつくばセンターにやってきた。センターから2人で路線バスに乗り、春日のアパートまでスーツケースを運ぶだけで、へとへとになった。熱さと疲れで口を聞くのも億劫だった。蝉の声がいつもより喧しく、神経を苛立たせた。
桜子は、私が出した冷たい麦茶を一気飲みした。グラスについたワインレッドの口紅が、やけに毒々しく感じた。
「明日、7時15分、つくばセンターから成田空港行きのバスを予約したんだ。朝早いけど、バスあるかな? なければ、タクシー頼まないと」
朝早くから、バス停までスーツケースの運搬を手伝うことを面倒だと思いながら、バスの時刻表を確認した。
「6時57分があるよ。これで、ぎりぎり間に合うんじゃない?」
「じゃあ、それに乗る。ごめんね、朝早くからバタバタして」
晴樹さんは、仕事が終わった後、合流することになっていた。私はクーラーを強く効かせ、テーブルに缶ビールやチューハイ、手作りのつまみを並べた。桜子は空腹だったらしく、だし巻き玉子と肉じゃが、シーフードサラダを豪快に平らげた。
私達は、菖蒲先生のことを話題にしたいと思いながらも、互いに切り出すのを避けていた。それを反映したように、会話はどこか実がなく、上滑りだった。
「瑞穂ちゃん、一度サンフランシスコに来なよ。案内するよ」
「そうだね。9月7日に修士論文の中間発表が終わって、バイトが10日にあるから、そのあと1週間くらいなら行けるかな」
「その辺だと、私は10日にニューヨークで研究会があって、ついでに父の職場を訪ねる予定……」桜子は手帳をめくりながら言った。
「じゃあ、12あたりで、チケット探してみるね」
「いま、決めちゃおうよ。その方が、予定が決めやすくて助かる」
「じゃあ、今ネットつなぐから、調べてみよう」
私はコンピュータを立ち上げ、ネットに接続した。桜子は、私のコンピュータのキーを忙しなく叩き、必要な情報を探した。
「私、11日夜にはサンフランシスコに戻れるように、ニューヨーク発の便を予約した。昼の便だから、朝早めにワールドトレードセンターに寄って、お父さんに会ってから空港行く予定。瑞穂ちゃんは、12日に着けるように、成田―サンフランシスコ便を予約するのでいい? なるべく、安い券を見つけるね」
「うん、ありがとう」
桜子が探してくれた便は、私にとっても都合が良く、個人情報を入力して予約が完了した。つくばセンターから成田空港までのバスも予約でき、渡航の準備が完了した。
「私、空港まで、車で迎えにいくね。シスコは楽しいよ。ケーブルカー乗れるし、アルカトラズ島も行けるし、蟹も食べられるよ」
「ありがとう、悪いね。すごい楽しみ」
「ところで、瑞穂ちゃん、何で院に進んだの?」
専門を生かした仕事に就きたかったのが一番の理由だが、晴樹さんとつり合うレベルになりたい思いもあった。そして、いつか菖蒲先生と再会したとき、知的に対等でいたいという願望が、心の奥底にあったことは否定できない。
「リサーチの仕事に就きたかったから、もっと知識をつける必要があったの。修士論文は、アフガニスタンの女性支援におけるNGOの役割で書いてるよ」
「NGOって、アメリカとかヨーロッパのだよね?」
「うん、日本のNGOも対象にするけど」
「ふ~ん。アフガニスタンなら、タリバンの女性に対する人権侵害とか?」
私が頷くと、桜子は、かすかな侮蔑を含んだ口調で言った。
「あれって現地の人と欧米の世論に、かなりズレがあるんだって。欧米が問題にすることも、現地の人は大して問題にしていないことが多いって」
「でも、私たちの基準からしたら、明らかに女性の権利が抑圧されていて」
「私たちの基準って、結局は欧米の基準だよね。それをサポートする論文を書くのか。瑞穂ちゃんは、相変わらず主流に従う優等生だね」
「どういう意味?」
桜子は、険悪になった空気を払拭するように、高校時代に見慣れたやわらかい笑顔を見せ、話題を変えた。
「瑞穂ちゃん、彼氏がいて、就職も決まって、怖いものなしだね~」
酔いが回っていたのか、桜子は腰掛けていた私のベッドに、ばたんとあおむけに寝転がった。
「桜子も、彼氏いるんでしょ? アメリカ人、日本人?」
「今はフリー」
「そうなんだ。どんな人と付き合ってきたの? どの人が一番良かった?」
桜子は身を起こし、ベッドに腰掛けて背筋を伸ばすと、自分の膝に目を落とした。彼女は視線を落としたまま、歯切れの悪い口調で切り出した。
「実はね、去年、少しだけ菖蒲先生と付き合ったというか……、ホテルに行く関係になったの」
6-3
エアコンの低いうなりも、喧しい蝉の声も、潮が引くように遠ざかっていった。桜子の唇が、毒を放つように禍々しく動いていた。
「どうして、何でそうなったの……?」
私は動揺を隠す余裕などなく、呂律のまわらない口で尋ねた。
「去年、パレスチナで医療ボランティアして、子供に感謝されたとき、先生に御礼を言いたい思いがどうしようもなく高まって、手紙を書いたの。それからメールするようになって」
「ちょっと待って。桜子、先生の住所知ってたんだ……?」
「アメリカに行く前に教えてもらったけど、どうして?」
記憶に一撃が加えられ、視界が揺らいだ。
あのとき、先生は私が年賀状を出すことさえ拒み、冷酷に突き放した。それなのに、桜子には住所を教えていた。先生の前で、桜子と私は対等だったはずだ……!
「パレスチナから日本に飛んで、都内で会ったの。話しているうちに、流れでホテルに。それから、アメリカに帰るまで何度か会って、その度に。帰国してから連絡取れなくなって、それっきり。メルアドも住所も変えられて、メールも手紙も届かなくなった……。それから、先生がずっと忘れられなくて、誰とも付き合ってない……。先生よりハイレベルな人は山ほどいるのに、彼の声が、言葉が、身体が忘れられないの! 先生を全身で覚えているの。幸せになった瑞穂ちゃんが羨ましいよ!」
「そう、なんだ……」
目の前にある桜子の体に、先生の体が重なったと想像すると、不快感が入道雲のように湧きあがり、吐き気がしてきた。次々と生み出される桜子の言葉は、雑音のように私の体をすり抜け、意味を成さずに消えていった。
6時を過ぎ、晴樹さんが来てくれた。
彼は私が用意したビーフシチューを食べながら、桜子の話に耳を傾けていた。私は口を挟む気力が湧かず、桜子と彼が交わす言葉が自然に増えた。
「桜子さん、アラビア語できるんだ」
「うん。大学のときから勉強していて、ルームメイトがエジプト人だったから。パレスチナ自治区にある大学のサマープログラムも行ったよ。初めてパレスチナの土を踏んだ瞬間、すごく感動した」
「そうか、桜子さんには日本、パレスチナとイギリスの血が流れているんだもんね。感慨深いものがあったろうね」
「うん。祖父はイギリスとパレスチナのハーフ。イギリスの委任統治領だったパレスチナのエルサレムで、イギリス人の行政官の父と、キリスト教のアラブ人女性のあいだに生れたの。祖父の父は、イギリスに奥さんがいたけど、帰国するとき幼い祖父を連れていって、全寮制の学校に入れたの。肌の色が違う祖父は、イギリスで随分差別されたんだって。そんな祖父がカメラマンになって日本に来たとき、祖母と知りあったの。うちの曾祖父母は一時アメリカに出稼ぎに行っていたから、祖母はアメリカ生まれで、英語ぺらぺら。そんな縁で、日本で通訳を探していた祖父と知り合って、恋に落ちて結婚。父は終戦の年に生れたの」
「なるほどね。お祖父さんは、パレスチナに戻らなかったの?」
「祖母は、祖父の心は常にパレスチナにあったと言ってた。英国人の父親との関係が複雑だったから、母親や故郷への思いは格別だったみたい。だから、そこにイスラエルが建国されたことが、許せなかった。祖父はそのとき、祖母と父を日本に残して、パレスチナに行ってしまったの。エルサレムを追われた祖父の家族は、いつか帰ろうと家の鍵を持ったまま、ヨルダンに移住。英国籍の祖父はイスラエルで写真を撮り続けて、イスラエル軍の理不尽な暴力を訴え続けた。撮影中に、イスラエル軍の流れ弾に当たって死んだの」
「そう……。お祖父さんの撮った写真、残っているんでしょ?」
「うん。祖母が何枚か保存していたから。悲しい写真だとは思ったけど、祖父がそこに、どんな思いを込めたかはわからなかった。でも、エドワード・サイードを読んで、祖父の憤りがわかったの……」
「桜子さん、理系なのにサイード読んでるんだ」
「うん。高校の英語の先生に、私の祖父がパレスチナ人だって話したら、サイードを勧められたの。それ読んで、祖父が何に憤っていたか、よくわかった。私もパレスチナのために何かしたくて、去年、夏休みにパレスチナで活動している医療NGOでインターンしたの。現地の子供に感謝されたときは、人生で一番感動した。私に流れている祖父の血が騒いでた……」
「それがいま、桜子さんを動かしているんだね……」
晴樹さんは、少し躊躇ったあと、静かに尋ねた。
「桜子さん、子供の頃、外見のことで嫌な思いしたんじゃない?」
「うん、幼稚園でも小学校でも、外人って言われていじめられたよ。中学では先輩に目をつけられたし。でも、これはうちでは宿命みたいなもの。祖母は、アメリカから日本に帰ってきたとき、日本語が下手で苛められた。父も外見のせいで苛められた。だから、私も仕方ないって、諦めてきたけどね……」
「桜子さん、アメリカに行って解放されたんじゃない? バックグラウンドが複雑な人なんて山ほどいるし、それは全然特別なことじゃない。在日コリアンの友達も、アメリカに来て自由になれたって言ってたよ」
桜子は、ふっとリラックスした表情になり、眩しそうに晴樹さんを見た。
「うん。すごく楽になった。自分のルーツともじっくり向き合えて、誇りに思えるようになった。日本にいるときは、瑞穂ちゃんみたいな、主流というか、普通の日本人にならないとっていう強迫観念に捉われていたから……」
「俺は、アメリカに行って、日本人としてのアイデンティティを強めたけどね。いま、サンフランシスコどうなってるかな……。俺のいた頃と随分変わってるだろうな」
「一度来てよ。案内するよ」
疎外感に耐えられなくなり、晴樹さんが差し入れてくれたワインをあおった。かっと全身が熱くなった。頭がぼうっとし、目を閉じると、絡みつく桜子と先生の裸体が浮かび、それが桜子と晴樹さんに変わった。
「瑞穂、どうかした? 具合悪いのか?」
「ちょっと、酔ったみたい」
「めずらしいな。瑞穂が酔うなんて」
「あ、もしかして、さっき私が余計な話しちゃったからかな?」
桜子の無邪気な声が私を苛立たせた。
「余計な話?」晴樹さんが怪訝そうに尋ねた。
「私たち、高校のとき、同じ先生を好きだったの。その人と私が、少しだけ付き合ったけど、捨てられちゃった話……」
「桜子!」
「それって、サイードを勧めた英語の先生?」
晴樹さんは、内臓まで響くような低い声で尋ねた。
「え、菖蒲先生のこと知ってるの?」
「もう、その話はいいでしょ!」
桜子は、私の剣幕に肩を竦めた。
私は空になった皿をふらつく足でシンクに運び、仕切り直すように問いかけた。
「晴樹さん、シチューのおかわりは? 桜子、晴樹さんが買ってきてくれたケーキ食べる?」
「あ、俺、ごはんがあれば、かけて食いたい」
晴樹さんが、空気を和らげるような声で応じてくれた。
「え~、カレーじゃなくてシチューだよぅ」桜子が口を挟んだ。
「俺。シチューはご飯にかけると決めてるの。パンより、ごはんのほうが美味いと思わない?」
「そっか、うん。日本人はご飯だよね」
「そういえば、桜子さん、大学では寮に住んでるんだよね。食事まずくない?」
「超まずい! パンもシリアルも糖分高いし、生活習慣病を製造してるとしか思えないよね~」
「でも、桜子さん、スリムだよね。俺、帰国したとき、今より10キロくらい太ってたよ。半年くらい、こんにゃく麺とか食べてダイエットしたけど」
「私、アメリカ行って半年で、7キロくらい太ったんだよ。これじゃいけないと思って、食事に気を遣って、ジム行って、体型を保つようにしてるよ」
2人の声が、頭のなかで絡みあうように響き、気が狂いそうだった。私は、飲み物を買ってくると外に出た。晴樹さんは、危ないから自分が行くと言ったが、外の風に当たれば気分が良くなると言い張り、半ば強引に飛び出した。
6-4
まとわりつく湿気が息苦しかった。月光は刺さるように眩しく、世界のすべてが自分に刀向かってくるようだった。桜子への憎しみが、腹の中で生物のように蠢いていた。処理しきれない感情を鎮めようと、ひたすら歩いた。
通り過ぎた大型トラックがまき散らした排気ガスで、吐きそうになり、バス停のベンチに座り込んだ。上を見ると、電燈の明かりに引きつけられた虫が、その周囲を飛び交っていた。私は長い間、飛び交う虫を睨みつけていた。
体が冷え、少し気持ちが落ち着いてくると、彼らを2人きりにしてしまったことを後悔した。春日のコンビニでビールを買い、速足でアパートに戻った。
「これ以上、俺が拘束していいのかと、ずっと考えていたんだ……」
晴樹さんの思い詰めた声に足が止まった。安アパートは話声が外まで筒抜けだった。
「彼女は俺みたいに、就職できる可能性が見えない博士課程に進まないで、修士でやめると決めた。女性問題の知識を評価されて、途上国の調査に関わる総研に内定した。学んできたことを無駄にしない職に就けた。無駄のない人生だよ」
「瑞穂ちゃんは教科書みたいに堅実な人生を歩める人だよ。でも優等生すぎて、完璧すぎて、疲れない? 晴樹さんの負担になるなら、瑞穂ちゃんを解放してあげて」
彼の答えを聞くのが耐えられず、勢いよくドアを開けた。2人が、気まずそうに口を噤んだ。私は充満する濃密な空気を切り裂くように、缶ビールをどすんとテーブルに置いた。
気まずい空気が流れたが、誰もそれを修復しようとしないまま、お開きになった。桜子はシャワーを浴びにいき、晴樹さんは片づけを手伝ってから、帰っていった。
シャワーを浴びた桜子は、私のベッドで死んだように眠ってしまった。床に布団を敷いた私は、浅い眠りのなか、桜子と菖蒲先生と晴樹さんが出てくる夢を何度もみた。夢と覚醒をさまよい続け、現実と夢の区別さえ、つかなくなりそうだった。
目を開けた時、自分の目を疑った。時計は7時10分前を指していた。昨夜、目覚まし時計をかけ忘れたかと思ったが、6時にかけたアラームを止めた形跡があった。慌てて桜子を揺り起こしたが、もう路線バスに間に合わない。
髪をなでつけながら、忙しなく荷物をまとめる桜子を横目に、私は晴樹さんに電話した。桜子を高速バスに乗せてしまいたかった。10分強で来た彼の軽自動車に、桜子の大きなスーツケースを詰め込んだ。トランクに1つ、後部座席に1つを載せると、私が乗る余地はなかった。私は寝ぼけ眼の桜子を助手席に押し込み、つくばセンターに走り去る車を見送った。
7時半を過ぎた頃、無事に乗れたかを確かめようと、晴樹さんの携帯に電話した。応答のないまま、留守電に切り替わった。30分後に再びかけたが、何度か呼び出し音が鳴った後、切れてしまった。胸騒ぎがし、すぐにかけ直すと、電源が入っていないか、電波の届かないところにいるとアナウンスが流れた。居ても立ってもいられない自分を叱咤し、電話してと晴樹さんの携帯にメールを入れたが、いつまで待っても連絡はなかった。
昼頃、桜子からメールが入った。
件名 なし
瑞穂ちゃん
急にこんなこと言ってごめんね。晴樹さんに空港まで送ってもらって、いろいろ話したけど、彼とは別れたほうがいいよ。このまま付き合ってたら、瑞穂ちゃんも彼も辛いと思う。瑞穂ちゃんがこっち来たとき、また話そう! これから飛行機乗るよ~!
2人のあいだに何かあったのは、明らかだった。あるのは憎しみだけだった。桜子なんか消えてしまえばいい、死ねばいいと本気で思った。
「高速バスが出ちゃってたから、そのまま彼女を成田空港まで送った。それだけだよ。センターで放り出すわけにいかないだろ」
私は晴樹さんの研究室に押しかけ、パソコンの前に座っていた彼を問い詰めた。窓の外には、夜の帳が下り始めていた。
「それなら、何で私の電話を切ったの?」
「運転中だったからだよ」
「空港に着いたら、連絡くらいできたでしょ? どうして、こんな時間まで、電話1本も、メール1通も、くれなかったの?」
「桜子さんと話していたから」
「桜子のフライトは昼でしょ。手荷物検査まで見送っても、こんな時間まで」
「いろいろ考えることがあったんだ。処理しなくてはならない仕事があったから、研究室にきたんだよ」
言い訳しかしない彼を前に、怒りよりも悲しみが募った。
「晴樹さん、私が心配するとか、嫌な思いするとか、少しも考えなかったの? 私より桜子のほうが大切なの?」
「どうして、いきなり話が飛躍するんだ?」
彼のうんざりしたような声に、心底悲しくなり、私は胸に滞っていた不安を言葉にしてしまった。
「昨夜から、晴樹さんと桜子、すごく気が合ってて、私は置いていかれた気分だった。2人して、私のことを堅苦しいとか言って……」
「すまない……。嫌な思いさせたな」
晴樹さんは、マウスに手をかけたまま、キーボードに視線を落とし、眼鏡を押し上げた。
「私、何か悪いことした? 何でそんなこと言われなくちゃならないの?」
「瑞穂は何も悪くないよ」
「だったら、何で距離を置くの? 私に飽きたの? 私、この数カ月、ずっと苦しかったよ、不安だったよ。修論も何も手に付かなくなるくらい。どうしたら不安がなくなるの? もう、わからない……」
頬を伝った涙を乱暴に拭い、顔を背けた。晴樹さんは、膝の上で拳を握り、そこに目を落としていた。窓からのぞく月を雲が滑るように覆ってしまった。
「瑞穂……」
晴樹さんは、椅子を回転させて私と向き合った。私に向けられた眼鏡の奥の瞳は、ぞっとするほどの悲愴感に満ちていた。
「桜子さんと話して、思ったんだ」
「何?」
「もう、俺は君を縛りつけるべきではない……。このままだと、俺は君のお荷物になる」
体中から血の気が引き、崩れ落ちそうになる自分を気力で支えた。何が彼をここまで追い詰めてしまったのか、わからなかった。
「何、何が言いたいの……? 桜子のことを好きになったの?」
「そうじゃないよ。彼女と話して、ずっと考えていたことが形になっただけだ……。俺は、もう君を解放すべきだ」
何のことか問い詰めたいのに、頭が真っ白になり、喉が押し潰されたように声が出なかった。そんな私に、晴樹さんは苦悩のにじむ声で言った。
「もうやめよう」
「どういうこと?」
がちがちと歯が鳴り、息苦しいほど鼓動が激しくなった。
「別れて、俺以外の男を考えてほしい」
「何が言いたいの? 菖蒲先生のことは、もう本当に何も思っていないよ。だから、そのことにこだわらないで!」
「そうじゃないんだ。瑞穂だって、将来が見えない男と付き合い続けても、時間の無駄だろ。瑞穂がまだ若いうちに、解放すべきだと思ったんだ」
「嫌だよ、そんなの。意味わからない。私は晴樹さん以外、考えられない!」
「このままだと、俺がきつい……。すまないが、もう、会うのも、俺の研究室に来るのも、連絡するのも止めてほしい。今まで本当にありがとう」
半狂乱の私を残し、晴樹さんは研究室を出ていった。私は、その場にへたりこんだまま動けなかった。
