連載小説「三角公園」第7話
7-1
私の頭には、一刻も早くサンフランシスコに飛び、桜子を問い詰めることしかなかった。なぜ、こんなことになってしまったのか、晴樹さんに何を言ったのか、彼女の口から説明させなければ気が済まなかった。そんな考えに駆り立てられていた私は、自分が放った銃弾が、桜子の体を貫く夢を毎晩見た。
最悪の精神状態で迎えた修士論文の中間発表は、自分でも嫌になるくらいにできが悪かった。発表自体は問題なく進んだ。だが、寝不足がたたり、質疑応答で頭が回らず、意味をなさない回答をしてしまい、副査の教授を怒らせた。ただでさえ、ぼろぼろだった私は、さらに滅入ってしまった。
晴樹さんは、あれから私の電話やメールを無視し続けた。大学でも、そこにいないかのように振舞われた。もう一度話そうと、彼のアパートの前で待っていても、話すことはもうないと拒絶された。取りつく島のない彼を前に、桜子と話せば、突破口が開ける気がした。
それは永遠に実現しなかった。
2001年9月11日朝、ニューヨークのワールドトレードセンターに飛行機が2機突入した。桜子は、その日の朝、空港に向かう前に、ワールドトレードセンターで働いている父親を訪ね、父親とともに犠牲になった。
桜子のいない世界で、アメリカは「テロとの戦い」を宣言した。ウサマ・ビン・ラディン率いるアルカイーダの関与が疑われ、アメリカは彼らをかくまうアフガニスタンのタリバン政権に引き渡しを要求した。私が研究してきたアフガニスタンが、テロの拠点となっていたことに身震いした。アメリカの主導で、引き渡しを拒否し続けるタリバンを攻撃する道筋が着々と整えられていった。
7-2
その晩は、櫛のような月が妖しい光を放っていた。
父親と桜子の遺影が並んでいた。写真のなかの桜子は、マリンブルーのブラウスを着て微笑んでいた。日本ではあまり見かけない白人向けの色だが、桜子にはよく似合っていた。細長い真っ白な箱のなかに、桜子はいない。通夜と葬儀は、家族が気持ちの区切りをつけるためだった。
私がサンフランシスコに行くと言わなければ、桜子はあの便で帰らず、父親を訪ねた時間も違っただろう。私が殺したという思いが絡みつき、生きていることが拷問だった。祭壇の前に立った私の手は、焼香ができないほど震え、逃げるようにその場を辞してしまった。
斎場の外に出たとき、誰かに腕を掴まれた。振り返った私は、悲鳴をあげそうになった。電燈の光を浴びた蒼白い顔が、桜子と重なった。桜子の母親は、そんな私を見下ろすように睨みつけた。
「あなたと会うためにあの子は……」母親は声を詰まらせた。
「申し訳ございませんっ……!」
土下座した私に、母親は容赦なく憎しみをぶつけた。
「高校のときから、あなたが来ると嫌な予感がしたのよっ!」
誰かが、彼女を抱きかかえるようにして、連れていった。焼香を終えた参列者の無遠慮な視線を感じたが、身体ががたがたと震え、立ち上がることができなかった。
すっと差し伸べられた手に驚いて顔を上げると、呼吸が止まった。その人は、しゃがみこんで、石のように動かない私を助け起こした。
「久し振りだな、瑞穂」
菖蒲先生の頭上に、月が怖いくらいに煌々と輝いていた。先生は、高校時代の記憶よりも、随分年を取り、やつれたように見えた。
「歩けるか?」
反応のない私を見て、彼は私の腕を掴んで歩きだした。夢と現実の区別がつかないまま、ふわふわした足取りで歩いた。バイパスを走る車のテールランプの列が、遠くに見えた。先生は駐車場に止めた黒い軽自動車に私を押し込んだ。
車は月に追われるように進んだ。私はいま先生の車に乗っているのだと、だんだん実感が湧いてきた。この6年、彼との再会をどれだけ夢見たかと思うと、こんなときに再会したことがただ悲しかった。
車は三角公園の前に止まった。石造りのテーブルと椅子はまだあった。電話ボックスもあった。公園はほとんど変わっていないのに、あの頃の私たちはもうどこにもいなかった。
「君に会いたかった……」
先生の声は、迷子になった少年のように、心許なかった。
「君と一緒に、ここで桜子を送ってやりたかった。僕は高校を辞めてからも、何度かここに来たんだ。君たちといた頃が、無性に懐かしくなってね……」
魂が抜けたような先生の声に、私は耐えられなくなった。
「私が殺したんですっ……!」喉を突き破るように言葉が飛び出した。
「桜子なんか、死ねばいいと思ってたんです!」
「落ち着かないか。何を言っているかわからない」
「さっきの見たでしょ? 桜子のお母さんだって、そう思ってる!」
取り乱す私の両肩を掴み、先生は子供を宥めるような口調で問いかけた。
「何があったんだ?」
何から話していいかわからず、ボールを投げつけるように、浮かんでくる思いを吐き出した。
「先生、桜子がアメリカに発つとき、連絡先を教えたでしょ? 私には、教えてくれなかった……! 教えてくれなかったばかりか、もう自分のまわりをうろうろするな、迷惑だって拒絶した!」
「いつの話だ。渡米後の彼女の動向に関心があったから、住所を教えた。たいしたことじゃないだろう」
「たいしたことじゃない?」自分でも驚くほどの低い声が出た。
「私には大問題だった! あの頃、先生は桜子と私をずっと対等に扱ってくれたじゃない。桜子のことは嫌いだった。でも、私と同じように先生を好きで、同じように拒絶されたと思うと憎めなかった。だけど、夏に桜子に会って、同じじゃなかったと知って、ずっと心を支えていたものが壊れちゃったんです」
「つまり、僕のせいなのか……」
先生は力なく呟き、色素の薄い唇をかんだ。
「先生、桜子と寝たんでしょ? 桜子のこと、本気で好きだったの?」
先生は、黙って俯いたままだった。
「本気じゃなかったの? それなら何で! 桜子は先生のこと、今でも忘れられない人だって言ってたのに……!」
弱い電燈の光でも、先生が今にも泣き出しそうな顔をしているとわかった。
「あのとき、僕は助手の任期が切れて、非常勤講師しかない生活が続いていた。先が見えないから、恋人ともその二年前に別れたんだ。その元彼女が、大学教員になった後輩と結婚したと知って、心が折れそうだった。そんなとき、パレスチナで医療ボランティアをしていた桜子から、先生が私の背中を押してくれなかったら、今の私はないとメールがきた。嬉しかったよ……。時間が経っても慕ってもらえたこと、彼女の人生を切り開く一助になれたこと。そんな思いが昂じて、あの純粋な明るさに溺れたんだ……。でも……」
「何ですか?」
「僕には、あの明るさは眩しすぎて、きつかった。会うたびに、瑞穂が足りないと思った。僕は君たち2人といるのが好きだったんだ。この公園で、君たちと過ごすのが……。いつも夢を見ていて、プラス思考の塊の桜子と、しっかり現実を見ていて、少し悲観的なところのある瑞穂。僕は、2人のバランスに心地良さを求めていた……」
「結局、桜子は癒しで、私は堅苦しい女って言いたいんでしょ! 私の大切な人はみんな、桜子にとられちゃうんです! だからっ、あのとき桜子なんか死ねばいいと思った……!」
「みんなって、どういうことだ?」
私は憑かれたように話した。晴樹さんとの交際、桜子と晴樹さんが意気投合してしまった夜の様子、桜子が空港から彼と別れろとメールを送ってきたこと、その日のうちに彼から別れを告げられた事実、私がサンフランシスコに行く日が違えば、桜子はあの日の朝、ワールドトレードセンターに行かなかったこと。
黙って聞いていた先生は、抑揚に乏しい声で尋ねた。
「君は死ねと思うだけで人が殺せるのか? それなら、世界中の人が人殺しになるぞ」
黙っている私に先生は畳みかけた。
「君がテロリストに、ワールドトレードセンターに突入して桜子を殺せと言ったのか?」
「そうじゃないけど、でも、私があの日にシスコに行くと言わなければ」
「君が桜子に、あの日の朝、ワールドトレードセンターに行けと命令したのか? 違うだろ? だったら、二度とそんなことを口にするな! 桜子を殺したのはアメリカだ。アメリカの横暴で結果を考えない外交だ。イスラエルに肩入れして、中東をひっかきまわしたアメリカだよ!」
「でも、桜子のお母さんは……」
「お母さんだって、わかっているはずだ。どこかに気持ちをぶつけなくては、やりきれないんだ。落ち着いたら、一緒に桜子の家に線香をあげにいこう」
「私にそんな資格ありません! 私がいるから、みんな不幸になるんです!」
「もう、よせ!」
次の瞬間、私は先生の腕の中にいた。先生に抱き締められているのに、押し潰された心の中で、苦しさが渦巻き、息ができなかった。
先生は私の体を離し、車の鍵を取り出すと、低い声で言った。
「送っていこう」
その瞬間、暗闇のなかにたった一人取り残されるような恐怖に全身が震えた。
「嫌です! 一人になると、気が狂いそうになるんです……!!もう、生きているのも嫌なんです……!!」
先生は、だだをこねる子供を安心させるように、もう一度私を抱き締めた。
「いまの君を一人にするわけにはいかないようだな……」
先生の弱々しい声と腕の強さに、彼も一人になりたくないのだとわかった。だが、不意に桜子の顔が浮かび、弾かれたように体を離してしまった。
7-3
車は闇のなかをひたすら南に向かい、古い2階建てアパートの前で止まった。アパートの上に浮かぶ月が、私を咎めるようで足が竦んだ。
私は借りてきた猫のように、部屋の隅に座り、先生が布団を敷くスペースをつくるのを見ていた。先生の机を囲むように、本が山積みになっていた。周囲には、脱いだ衣類やレトルト食品の容器が散乱し、床が見えなかった。
先生が先にシャワーを浴びた。私はその後で、着替えのTシャツと短パンを借り、バスルームに入った。湯気に混じり、先生の匂いがほのかにたゆたっていた。先生が使っているボディーソープ、シャンプー、カミソリを見ると、下腹が熱を持ち始め、皮膚の下を蟻が這いまわるような感覚が走った。だが、この後、何もないのはわかっていた。仮に、私が桜子のように先生に抱かれ、対等になったとしても、いまそのことに何の意味があるだろうか。
先生と私は、狭い部屋にどうにか2枚並べた布団に入った。布団は少し黴くさかった。2人とも何度も寝がえりをうったり、トイレに起きたりを繰り返して朝を迎えた。私は夜が明けるという自然の営みを待ちわびながら、朝の光を浴びると、また一日が始まることに絶望した。
先生は湯呑に注いだ野菜ジュースを飲みほし、短大の非常勤講師に出かけた。家を出る間際に、鍵を閉めたら、ポストに入れておくよう言い残した。
先生は帰ってきたとき、まだ私がいても何も言わなかった。特別驚いたようにも見えなかった。私は冷蔵庫にあった材料で親子丼を作った。先生は残さず食べてくれたが、私は食欲がわかず、ラップをかけて冷蔵庫にしまった。
「最後に食事をしたのはいつだ?」
腕組みをして冷蔵庫に寄りかかった先生は、食器を洗う私の背中に詰問するような口調で尋ねた。
「さあ……」
「一口でも食え。鏡を見たか? そんなに痩せて、栄養失調で死ぬぞ」
「そうなりたいです」
「僕は困る。そんなことになって、ここで死なれたら迷惑だ」
「だったら、放り出してください」
先生は溜息をつき、冷蔵庫に入れたばかりの親子丼を出して、テーブルにどんと置いた。私は皿を洗いながら、最後に食べたのはいつかと考えた。
「これが食えないなら、何か消化のいいものを買ってくる。果物なら食べられるか? ヨーグルトかプリンのほうがいいか?」
「何も食べたくありません」
「それなら、牛乳か野菜ジュースでも飲んで、もう寝なさい」
私は野菜ジュースを一口だけ飲んで布団に入った。眠ると桜子を痛めつける夢を見るので、目だけ閉じて横たわり、朝が来るのをひたすら待った。
それが何日か続いた。携帯電話の充電はとっくに切れ、研究室の仲間や家族からの連絡も途絶えた。一度だけ外出し、見つけたスーパーとユニクロで必要なものを購入した。出ていかなければと思っていたが、先生にそれをほのめかされるのが怖かった。
桜子はもう帰ってこないのに、生きている私が罪の意識に怯えていることさえも偽善的に思えてきた。生きていていいのかもわからず、先のことなど何も考えられなかった。月は太っていくのに、私の心はすりへっていった。
7-4
5日ほど経った頃だった。仕事から戻った先生は、明日旅行に行こうと言い出した。
わけがわからないまま、私は喪服で出掛けるしかなかった。先生も私に合わせて喪服を着てくれた。無理をしないでと言っても、これでいいと言い張った。
行き先を知らされないまま北に向かう新幹線のなかで、先生は沈黙を埋めるように思い出話を始めた。
「元彼女は、出会ったときは学部の4年だった。彼女は大学院への進学を希望していたから、教授に頼まれて院生だった僕が相談に乗っていたんだ。内気そうに見えたのに、自分の意見をはっきり言う女性だった。高度な議論ができる才媛なのに、意外と女性らしいところもあって、そのギャップに、どきどきした。一緒にいるのが楽しくて、いつの間にか好きになっていた。付き合いたいと言われて嬉しかったよ。でも、就職が決まらず、自信の持てない僕は、答えを曖昧にしていた」
私は、なぜ先生が、急にこんな話を始めたのかわからないまま、引き込まれていった。
「先生、付き合う人とは結婚を考えるって、言っていましたね……」
「うん。あのとき君に話したように、助手に決まったとき、僕から交際を申し込んだ。あのときは舞い上がっていて、このまま母校に残れるか、それなりの大学に就職が決まるような、根拠のない自信に満ちていたんだ。だから、ゆくゆくは結婚する心づもりだった。交際を申し込んだとき、彼女は嬉し涙を流していたな。でも、それからが大変だった。助手は教員に準ずるから、学生との交際は厳禁。周囲には絶対内緒で、学内で必要以上に話すことも、大学のメールアドレスで連絡をとるのも控えた。2人とも、Yahooメールのアドレスを取った。薄給の僕は携帯を持たなかったから、連絡手段はメールと家の電話。大学近辺や人目につきそうな場所を避けて、彼女のアパートで会うことがほとんどだった。外で会うときは、横浜や軽井沢までいった。彼女は、どこにいても関係者に見られないかと、びくびくしている僕を気遣って、普通の恋人のように手をつないだり、腕を組んで歩くのも我慢してくれた」
先生は、飛ぶように流れていく車窓の景色に軽く目を遣ってから言い継いだ。
「僕は、任期が終わる頃にも次の職が決まらなかったが、幸い2年延長できた。彼女が博士課程に進んだから、周囲に内緒の付き合いが続いた。延長した任期が切れて、非常勤講師しかなくなった僕は、彼女の気持ちに応える余裕をなくしていった。焦りと不安に押し潰されて、女どころではなくなったんだ。自分の将来のことで頭が一杯で、好きだ嫌いだと考える余裕さえ失くしていた。彼女が、おどおどと僕の顔色を伺いながらデートに誘ってくると、鬱陶しいと思いながら、義務感で付き合った」
晴樹さんもそうだとは思いたくなかった。だが、彼がそっけなくなった理由を他に探そうとしても見つからなかった。彼の言動の一つ一つが、新たな意味を付与されて胸に迫ってきた。
「最後は、彼女の意地で関係が成り立っていたようなものだ。彼女は、僕が喜ぶ顔が見たくて、ありとあらゆることを考えた。僕が楽しかったと思えるデートにしようと、僕の興味のありそうなところを調べて、下見をして、入念にコースを練ってくれた。彼女の部屋で会うときは、手の込んだ料理を作ってくれた。今思えば、相当苦しかったと思うのに、2人でいるときは明るく振舞っていた。時々、もう少し自分のことを考えて欲しい、不安で涙が止まらなくなるとメールで訴えることはあった。でも、僕の前では、冷たくあしらわれても、感情的になったり、泣いたりすることはなかった」
「彼女の気持ち、すごくわかります……」
「だからこそ、僕は彼女を解放したかったんだよ。まだ若くて、賢くて、きれいで、魅力的な女性だ。他の人と幸せになれる可能性があるのに、僕のために時間を無駄にさせるのが心苦しかった。むしろ、彼女の存在が負担だった」
「負担って……」
「ひどい言い方かもしれない。だが、僕も、たぶん安定した就職が決まらない院生や研究職を志す者はみな、先の見えない不安と日々戦いながら、業績を増やすために歯を食いしばって研究を続けている。研究者の求人サイトで応募できそうなものを見つけると、時間と金をかけて面倒な書類をつくる。苦労して書類を揃えても、書類審査を通過できる確率は極めて低い。奇跡的に書類審査を通ると、面接や模擬授業に神経をすり減らす。時間と労力、金をかけたのに、不採用通知が入った薄い封筒を受け取ると、名状しがたい虚しさに襲われる。手応えのあった面接のあとは、本当に辛い。既にいる教員と専門分野が重複しすぎている、競争相手の推薦者に力があったとか、どうにもならない事情で落とされることもある。次こそはと気持ちを奮い立たせても、応募できる求人がいつ出るかわからない。何カ月待っても出ないこともある。諦めて会社勤めを探そうとしても、年齢制限にひっかかる。そもそも、日本で文学の博士を雇ってくれる会社などないに等しい。女性なら結婚すればいいけど、男はそうはいかない。自分の実力が足りないから職に就けないのは、十分に自覚している。だが、受け皿をつくらずに、大学院の定員を増やした旧文部省もどうかと思う。まあ、恨んでも現状は変わらないけどな。自分で選んだ道だから、耐えるしかない。精神のバランスを崩して、薬の世話になってる奴も少なくない。僕だって、紙一重だ。そんな状態で、彼女のことなんか、ましてや結婚なんて考えられるはずないだろ」
「でも、私は結婚よりも、ただ好きな人の傍にいて、支えになりたかった!」
「彼女もそんなことを言っていたよ。でも、そんなありがたい言葉も、将来の不安で頭が一杯の僕には響かないんだ。もっとも、僕の言葉も、本当の意味では彼女に届いてなかった。彼女は、博士号を取ったのに定職に就けず、何者でもないまま生きる男の恐怖は、本当の意味でわかっていなかった。僕は彼女に、将来が不安で恋愛どころではないと言う。彼女は僕の言葉を正面から受け止められず、少しでも僕との関係に希望を見出せる解釈をする。その繰り返しだった。立場も求めるものも違うから、コミュニケーションが成り立たないんだ。どうにもならないところまで行って、ぼろぼろになって、ようやく彼女は別れを受け入れた。2人で幸せになりたいのに、自分の存在が負担になっているのは辛い、私にできるのは別れることだけだと……」
「先生は、後悔していないんですか?」
「彼女を解放できてほっとしてるよ。彼女には、今までの感謝と、もっと君を大切にしてくれる人と幸せになってほしいと伝えた。彼女は、大学の専任教員になった僕の後輩と結婚した。聞いたときは、本当に辛かったが、これでよかったと思ったよ」
先生は私の反応を窺うように、ゆっくりと言い継いだ。
「君の彼も、僕と同じような思いだったんじゃないか?」
晴樹さんの言動をそう解釈するべきなのか……。自分の存在が、そこまで負担になっていたと思うと、体中から力が抜け、ぐったりとシートに身を沈めた。先生はそんな私に、憐れむようにも、突き放すようにも見える視線を向けてから、腕組みをして居眠りを始めた。
7-5
盛岡で降りた私たちは、そこから電車を乗り継いだ。降りた駅の名前は、覚えていない。先生はそこでタクシーを拾い、行先を告げた。
タクシーを降りると、稲刈り前の田圃が広がっていた。
「君にこれを見せたかった。だから、故郷の友人に電話して、まだ稲刈りをしていない田圃を探してもらった」
訳がわからないという顔をした私に、先生は言った。
「瑞穂、覚えているか? 高校のとき、君には水を含んだ稲穂のように、嵐を耐え、再び頭をもたげるしなやかな強さがあると言ったな。君は、その名にふさわしい強さを持つ女性だと」
黄金色のしなった穂が、晩夏の陽を受けて輝いていた。
「君は身に付けた専門知識を生かせる就職先があり、若さも健康な体もある。頭も切れる。そして、今の君は高校のときとは比べ物にならないくらい綺麗だ。これから、やりがいのある仕事をして、恋人をつくって、結婚して家庭を築ける。眩しいほどの可能性に満ちている。今は辛いだろうが、修士論文を完成させて、卒業して、仕事を頑張るんだ。君のことを大切にしてくれる人と出会って、今度こそ幸せになれ。僕も桜子も、君の彼もそれを望んでいる」
「彼の就職が決まるまで、待ってはいけないんですか……! 私に愛される歓びを教えてくれた唯一の人なんです。将来のことを考えてくれるより、いま傍にいてくれるほうがずっと嬉しいのに!」
先生は、うんざりしたように眉根を寄せた。
「君はあの頃と何も変わってないな……。僕は何のために、身を削られる思いで、君に恥さらしな話をしたんだろうか」
「私はこの6年で成長しました! あのときわからなかった先生の立場もわかったし!」
先生は、むきになった私を遮って続けた。
「あの頃も、君は仕事に就いているかより、好きといってくれる気持ちのほうが大切と言ったな。だが、男には責任も、プライドもあるし、そうはいっていられない。君の元彼は、君を将来の見えない自分から解放したいと思ったんだ。情けない自分をこれ以上、見せたくなかったんだ。その気持ちを汲んでやらずに、彼を追いまわしたら、もっと苦しめることになるぞ」
「ただ、好きな人と一緒にいたいだけなのに……。どうしてこんなことになってしまうんですか。私、何か悪いことしましたか?」
先生は首を左右に振り、諭すような声で言った。
「その人の存在自体が、誰かを苦しめ、傷つけてしまうことがある。悲しい運命だがどうにもならない。そんなときは、離れるしかないんだ。桜子は、そんな状況から瑞穂を解放したかったから、彼と別れろとメールを送ったんじゃないか。桜子は、何だかんだ言っても、君を大切に思っているといつも言っていたよ。彼女の意図を理解してやらないと、いつまでも送ってやれないぞ」
その瞬間、頭のなかで何かが弾け、一つの真実がくっきりと立ち現れた。
私と桜子も離れるべきだった。
高校のとき、私と桜子は何度も決裂しそうになったが、その度に先生が修復してきた。私と桜子と過ごす時間を求める先生の思いが、私と桜子の先生への恋心が絡み合い、私たちを三角公園に閉じ込めてきたのだ。
目頭が熱くなり、黄金色の穂がゆがんだ。先生は私の肩に手を置き、低い声で言った。
「君が桜子を殺したと苦しんでいるなら、その元凶を作ったのは僕だ。僕が君たちに関わらなければ、すべては始まらなかった。君は何も悪くない。悪いのはすべて僕だ。僕がその罪をすべて背負う。だから……、君は、もう自分を解放して生きるんだ」
先生の優しさに涙が溢れた。私は涙を拭いながら、振り返って尋ねた。
「先生は、これから、どうするんですか……?」
先生の瞳が険しい光を放ち、咎めるような口調で言った。
「僕みたいな定職のない研究者にとって、その質問が一番辛い。若い院生はそれがわかっていないんだ」
先生は絞り出すように続けた。
「僕一人なら、大学の非常勤講師でどうにか食べていける。いざとなれば、清掃員でも、日雇いの引っ越しバイトでも、何でもして食べていくよ。博士号を持っていても、それで食うしかない奴もいるんだ……」
話の接ぎ穂を失った私に、先生は絞り出すような声で続けた。
「学問を底上げするような意義ある研究をしたい、社会に貢献できる人材を育てたい、そう思って研究を続けてきたのに、その成果を生かす場が得られないことが、どれだけ辛く、惨めかわかるか……? こういう不満を抱えたクズは、周囲の人も巻き込んで不幸にするんだ。不幸のルーツが、そこにあるんだ……」
先生を支えたいような、すがりつきたいような激情に駆られた。間違っているとわかっていたが、言わずにはいられなかった。
「先生の傍にいてはいけませんか、少しでも力になれませんか……?」
先生は心底軽蔑するような視線を私に向けた。
「僕の意志をほんの少しでも尊重してくれるなら、もう忘れて、一切関わらないでほしい。ネットで僕を検索するのもやめてほしい。今の君が、僕にできることはそれだけだ」
先生は気力を振りしぼり、口角を押し上げて笑顔をつくった。
「心配ないよ。僕は瑞人だ。僕らは嵐の後で頭をもたげることができるだろ」
私も微笑もうとしたが、今にも崩れそうな泣き笑いにしかならなかった。
「君の家まで送り届けよう」
タクシーを拾おうと、大通りに向けて歩き出す先生の背中が、歪んで揺れていた。
「テロとの戦い」が、連鎖する暴力のように世界中を駆け巡るなか、私は資料を読み、インタビューをし、修士論文を書き続けた。
イスラエルは、自爆テロを続けるパレスチナ人との戦いを「テロとの戦い」に位置付け、お墨付きを得たように爆撃や侵攻を繰り返した。ウサマ・ビン・ラディンやアルカーイダの引き渡しを拒んだアフガニスタンには、有史連合(米英)と北部同盟により、山の地形が変わるほど、爆弾の雨が降り注いだ。
私は自分が投下した爆弾が、桜子の美しい身体を四散させる夢にうなされ続けた。
エピローグ
2004年
9・11同時多発テロに端を発した暴力の連鎖は収まらず、アフガニスタンの治安も未だに安定していなかった。私は就職した都内の総研で、アフガニスタンの復興支援の成果を調査するグループに配属され、現地にも足を運んでいた。
その日は、アフガニスタンで活動するNGOが都内で開いたシンポジウムがあった。会場を出ると、春の陽がまぶしく、朝の冷え込みに合わせた冬用のコートが重苦しかった。春らしい装いの若者や、スーツ姿で闊歩するビジネスマンが私を追い越していった。
花粉に反応した目をこすり、ふと視線を上げると、絵具で塗ったような青空が広がっていた。爆撃で荒廃したアフガニスタンで見上げた空が瞼の裏によみがえり、眩暈がしそうになった。だが、すぐに気を取り直し、途切れることのない人の流れに加わった。
地下鉄を乗り継いで総研に戻ると、アポなしの客が待っていると言われ、慌てて地下のラウンジに下りた。
私の忙しないヒールの音に、ソファに掛けて本を読んでいたスーツ姿の男性が顔を上げた。読んでいた本を置いて立ち上がったその人の顔を見て、凍りついた。
硬い表情で近づいてくる彼を前に、私の心臓は早鐘を打ち、手にうっすらと汗が滲んだ。
「急に訪ねてきてごめん。久し振りだな……」
張り詰めた空気のなか、自動販売機のうなる音が静かに響いていた。
「どうしても、話したいことがあるんだ」
私を見据える晴樹さんの眼差しには、静かな決意が宿り、拒絶できない気迫があった。ラウンジを見まわすと、書類を前に話しこんでいる研究員が2人いた。1人は顔見知りの先輩だった。
向かいの喫茶店に場所を移し、彼と向かい合った。
彼と会うのは、卒業以来初めてで、胸は嵐のようにざわめいていた。あの頃、子供過ぎた私が、彼を理解せずに追い詰めたことはわかっていた。だから、冷淡になった彼を責めてはいけないと頭ではわかっていた。
だが、あのとき彼は、桜子の死を悼む手紙をくれた以外、私と一切言葉を交わそうとしなかった。一番辛いときに手を差し伸べてくれず、無視を貫いた彼に、人はここまで冷酷になれるのかと心底憎んだ。
その一方で、愛された幸せな日々も記憶から消せなかった。苦しいとき、その記憶を映画のように何度も再生させた。
彼を前に、なぜあれだけ冷たい態度をとっておきながら会いにきたのかという複雑な感情と、これから話されることへの好奇心で、心のざわめきを鎮められなかった。私はアイスコーヒーにガムシロップを注ぎ、ストローでかき混ぜた。いつもは心を落ち着けてくれる氷の揺れる音も、そのときは効果を発揮しなかった。
「仕事は順調?」
「ええ。アフガニスタンの復興支援を評価するグループにいます」
距離の取り方がわからず、いつものビジネス口調が出た。
「そうか。頑張っているんだな」
店内には、ワグナーの勇壮な音楽が流れていたが、耳を傾ける気分になれなかった。
温かい珈琲にミルクを注ぎ、スプーンでかき混ぜる彼の手には、私の知らない力強さが備わっていた。誰かのために彼は変わったのかと、もやもやとした感情に捉われた。まだ、自分にそんな感情が残っていたことが複雑だった。
「忙しいの?」
「毎日、終電で帰る日々ですが、どうにかやってます」
「アフガニスタンの仕事をしてるの?」
「それと並行して、中東グループにも加わりました」
「中東?」
「はい。イスラエルがヨルダン川西岸地区との境界の外側に、分離壁を造ったじゃないですか」
「ああ、自爆テロから自分たちを守ると言う名目だけど、違法に増やしている入植地を既成事実化するための壁か」
「ええ。去年、国連が壁の建設に非難決議を出しました。それを受けて、国際司法裁判所も違法勧告を出したんです。それで、うちの研究所に、分離壁の建設で、パレスチナ側に出ている被害を調査するチームが立ちあがって、私もそこに加えてもらいました」
「それって、桜子さんのことと……?」
「ええ、まあ……。私に何ができるかと考えたら……」
桜子が犠牲になったテロの拠点となったアフガニスタン、彼女の思い入れが深かったパレスチナに関わるのは辛く、投げ出したくなることもあった。だが、私を動かしてきたのは、桜子への思いや菖蒲先生が最後にくれた言葉だった。
彼は珈琲を一口すすってから、強張った声で尋ねた。
「まだ、あの先生と一緒にいるの……?」
「は?」
「瑞穂は、あのサイードを勧めてくれた先生と付き合っているのかと思って……」
「何で、そうなるんですか? 意味がわかりません」
「あのとき、桜子さんのことをニュース番組で見て、テロで亡くなったと初めて知った。居ても立ってもいられなくて、瑞穂の家と携帯にかけた。何度かけても留守電か、電源が入っていないか電波の届かないところにいるだったから、心配になってアパートに行ったけど留守だった。それから毎日、アパートを訪ねた。何日か経ったころ、喪服を着た瑞穂が、年上の男性と一緒に、アパートの部屋に入るのを見た。瑞穂が先生って呼んでたから、すぐわかった……。もう俺が出る幕ではないと思った……」
「あのとき、先生は私を心配して、家まで送ってきてくれただけです。2人で家に入ったのは、お茶を飲んでいってもらったからです。先生とは、その日以来、一度も会っていないし、連絡先も知りません。それが、先生が望むことですから。いま、先生がどこで何をしているかも知りません」
彼は眉間のしわを濃くし、膝に目を落とすと、しばらく何も言わなかった。店内に流れるワグナーと、近くの席でオーダーを取る店員の滑舌のよい声が沈黙を包み込むように埋めていった。
「あのとき、冷淡な態度をとって本当にすまなかった。恋人ではなくても、どんな立場でも、俺は瑞穂の力になるべきだった」
私は頭を下げた彼を茫然と見ていた。しばらくして、頭を上げた彼は、失った時間を取り戻そうとするかのように、一息で続けた。
「瑞穂はあの先生と幸せになったのだと思って、自分を抑えていた。苦しくて、瑞穂を遠ざけることでしか自分を保てなかった。今さら、こんなことを言っても、遅いとわかってるけど、あのときは本当に申し訳なかった……」
意外にも、長いあいだ胸に滞っていた鉛の塊が溶けていくようだった。
「謝らなくてはならないのは私です。私はあなたが抱える将来の不安を本当の意味で理解できなかった。私の存在自体が、あなたを苦しめていることに気付けなかった。そのことを先生に指摘されました。先生は、その人の存在自体が、誰かを苦しめたり、傷つけてしまうことがある。悲しいことだけど、そんなときは、離れるしかないと言いました……。だから、あなたが私から離れていったことは、受け入れなければならないと思いました」
「離れるしかないか……」
彼は、その言葉を噛みしめるように呟いてから、言い継いだ。
「その先生の言ったことは、そのときは正しかった。けれど、俺は、状況が変われば、そうとも言えないと思う」
「どういう意味ですか?」
「あの頃の俺は、30を前に安定した職に就けなくて、瑞穂との将来を考えられなかった。焦りと自信のなさが常につきまとっていて、人生で一番苦しいときだった。このまま瑞穂と付き合っていても幸せにできない。瑞穂の時間を無駄にしてしまうと思ったから、別れを決めた。でも、状況が変わった。4月から、都内の私大に専任講師として勤めるんだ。今なら、瑞穂と真剣に向き合える。もう不安にさせない。もう一度、やり直せないか?」
強張った彼の声と揺るぎない眼差しから、本気だということが読みとれた。過去のことを思えば、相当の覚悟がないと、私を訪ねてこられないだろう。
嬉しかった。だが、何もなかったように元に戻ることなど無理だった。
「気持ちは嬉しいけど……」
彼が息を詰め、続きを待っているのがわかった。
「あなたは別れるとき、私ときちんと話しあってくれなかった。一方的な別れに納得できなくて、もう一度話そうとしても、あなたは一切受け付けなかった。前の恋人と別れる時、きちんと話し合ったと聞いていたから、私はそれにも値しない存在だったのかと絶望した。桜子が亡くなって、どん底にいるときも、あなたは支えてくれなかったばかりか、私を無視し続けた。傷ついたし、言葉にできないほど苦しんだ。あんなに愛してくれた人が、どうしてここまで冷たくなれるのかと人間不信になった。今の話を聞いても、その記憶は簡単に消えない。やり直しても、またあのときみたいに、急に捨てられるんじゃないかと不安がつきまとって、あなたを信じられない……」
彼は、しばらく苦しそうに視線を落としていたが、顔を上げると、私から一瞬たりとも目をそらさずに言った。
「あのとき説明しなかったのは……。俺の立場を話したら、瑞穂がそれでもいいから一緒にいたいと言うのがわかっていたからだ。そうしたら、俺は瑞穂を離せなくなってしまうし、俺の不安定な人生に巻き込んでしまうと思った。だから、冷たくして、恨まれて別れると心を鬼にした」
彼は珈琲を一口飲み、赤らんだ目を瞬かせた。
「俺がしたことを思えば、瑞穂がそう思うのは当然だ。だが、俺との可能性はもう1%もないか……?」
返事を躊躇う私に、彼が畳みかけた。
「もし、1%でも気持ちがあるなら俺と向き合ってくれないか。もちろん、最初から元に戻らなくていい。まずは、週に一度食事でもして、互いの気持ちを話そう。いまのように本音をぶつけてくれていい。話し合って、互いを理解することから始めよう。そうして、少しずつ距離を縮めていこう。俺はどんなに時間をかけても、瑞穂の信頼を取り戻したい。チャンスをくれないか?」
思わず笑みがこぼれた。
6年前、こんな誠実さに惹かれ、彼の恋人になりたい思いが抑えきれないほど高まったことを思い出した。いま目の前にいる彼の瞳には、苦悩の果てに道を切り開いた男の力強さが漲っていた。
瞼の裏に、桜子の残像が映り、あの日の先生の言葉が耳の奥で蘇り、時の彼方に消えていった。
「晴樹さん、今日は金曜だし、仕事終わったら飲みにいこうか?」
彼の瞳が光を放ち、蒼白だった頬に血が通っていくのがわかった。
(完)
参考文献
E・W・サイード(今沢紀子訳)『オリエンタリズム 上・下』(平凡社、1993年)
E・W・サイード(杉田英明訳)『パレスチナ問題』(みすず書房、2004年)
E・W・サイード(中野真紀子訳)『オスロからイラクへ―戦争とプロパガンダ 2000‐2003』(みすず書房、2005年)
田中宇『タリバン』(光文社新書、2004年)
宮淑子『先生と生徒の恋愛問題』(新潮社、2008年)
