ソクラテスが現れなければ「教育」はどうなっていたか

哲学って「役に立たない」というイメージの人は多いのではないだろうか。実際、哲学書をたくさん読んでる人から「哲学は役に立つとか考えちゃダメ」と言われたことがある。哲学を好んでいる人自身が役立つことを拒絶してる。そのことが「哲学は役に立たない」イメージを助長しているのかも。

ビジネス雑誌なんかでも「経営哲学」とか銘打たれたりしている。こうした用法は「素人には決して理解できない深遠な思想」という前提が隠されているように思える。つまり、哲学は深淵すぎて一般人には理解不可能なもの、というイメージがこうしたところでも補強されている気がする。

ヘーゲル哲学者の本で面白い指摘があった。「哲学をやたら難しいものであるかのように哲学者が語りたがるのは、坊主や漢籍の専門家の伝統を真似したのではないか」と。葬式のお経は何度聞いても意味が分からない呪文。昔の行政文書は漢文で書かれていて、一般人には読めなかった。

お経とか漢文とかを駆使することが知識人の誇りであり、一般人と差別化する重要な手段だった。哲学はその「知識人」の作法をマネて、やたら難しい用語を駆使して一般の人々には理解できない深遠な思想、というフリをしたかったのではないか、という指摘だった。結構当たっている気がする。

私は、哲学はもっとわかりやすく語れるし、役にも立つものだと考えている。しかし哲学を紹介する本は言葉が妙に小難しいし、変に過去の哲学者に義理立てして、その哲学者が言ったことを正確に伝えようとするばかりに、分かりやすく伝えようという努力が放棄されていたり。

一つには、○○という哲学者の専門家、と呼ばれる人は、その業界で使われている用語と違う言葉を使うことが怖いのだろう。業界人から叩かれるかもと心配になるのでは。そう考えると、専門家であればあるほど、素人向けにやさしく解説することはかえって難しいのかもしれない。

だとすれば、私みたいな哲学の素人が書いたほうがいいのかもしれない。もし変なことを書いても「素人だから」で済ませられる。間違ったところは、興味を持った人がその後勉強することで修正してもらったらいい。まずは興味を持ってもらうことだ。

私が思う、哲学は役に立つし分かりやすいことがわかる人物は、やはりソクラテスだろう。ソクラテスが登場しなければ、「教育」という考え方がそもそも生まれなかったかもしれない。人を育てるという発想がそもそも生まれなかったかもしれない。その意味で(も)ソクラテスは巨大な人物。

ソクラテス以前の思想家たちは、師匠より優れた人間を生み出す発想に乏しかったようだ。数学で有名なピタゴラスが創始した教団では、数字はすべて有理数という数で表される、と考えていた。ところが弟子の一人が無理数を発見すると、殺されてしまった。師匠の教えを汚した罪で。

ソクラテスと同時代人で、当時ギリシャ世界で随一の天才といわれたプロタゴラスという人物がいた。しかしこの人物からは大した弟子が育っていない。プロタゴラスだけが天才で、弟子はプロタゴラスの教えを忠実にコピペする存在でしかなかった。しかしコピーは必ず劣化コピーになる。

ところが、ソクラテスは違った。弟子たちが自分を超えることを喜んだ。自分にない才能が伸びていくことを面白がった。実際、ソクラテスは、プラトン、アリストテレスなど、西欧、ひいては世界の歴史にとんでもない影響を与える大哲学者を生んでいる。

プラトンは、ソクラテスが恐らく構想したことがない「国家」というものを構想した。アリストテレスはそのプラトンの弟子だが、徹底して「観察」することにより、知力がそんなに優れていなくても世界の秘密を解き明かし、次々に発見し続ける手法を確立した。二人とも、西欧、そして世界の歴史を変えた。

では、ソクラテスのどこがすごかったのだろう?私が思うに、産婆術(助産術)だと思う。ソクラテスは若者に説教するのではなく、若者たちの話を聞きたがり、面白がった。ソクラテスがどんどん質問するものだから、若者はそれに答えようと知恵を絞り、答えをひねり出す。すると。

思ってもみなかったようなアイディアが口から飛び出てくるので、若者自身が驚いた。ソクラテスのそばにいて、ソクラテスの問いに答えようとすると、まるで自分が賢者になったかのように知恵がこんこんと湧いてくる。だからソクラテスは若者たちに人気のじいさんだった。

若者たちは、ソクラテスにはない能力を発揮した。弟子のひとり、アルキビアデスは、アテネで一流の将軍だっただけでなく、スパルタでも徴用され、ペルシャに行っても大もて。変幻自在の才能を発揮している。ソクラテスは人を育てることが大変うまかった。

師匠を超える、師匠にもない才能を育てる技術、それが産婆術。それを身をもって示したのがソクラテス。もしソクラテスが現れず、産婆術という手法を目にしていなかったら、私たちの時代に学校なるものは存在せず、教育という発想も生まれなかったかもしれない。あるのは宗教団体だけだったかも。

ソクラテスは友人宅に遊びに行ったとき、召使をそばに呼び、図形を目の前にしていろいろ質問した結果、ソクラテスも召使も知らなかった図形の定理を発見する、というエピソードが「メノン」という本で描かれている。産婆術は、まだ誰も知らない知を発見できる素晴らしい技術。

事実上、このソクラテスが哲学の強力さを示したと言えるだろう。人を育てることは可能だ、しかも支障を超えるような弟子を育てることも可能だ、ということを、産婆術で実証して見せたソクラテスの影響力はとてつもない。ソクラテスが現れなければ、世界の姿はまるで違っていただろう。

そう考えると、哲学はとてつもなく役に立つし、そんなに難しい言葉で説明する必要もない。もっともっと、哲学を身近で役に立つものとして捉えても構わないと思う。そのつもりで、哲学・思想を紹介する本を昨年2月に執筆した。

幸い、本書も重版が決定した様子。哲学・思想という、売れない分野で重版ができたというのはありがたいこと。哲学や思想がとても身近なものであり、役に立つ者でもあることを、本書で味わっていただけたら幸い。

「世界をアップデートする方法 哲学・思想の学び方」
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