現実から遊離する子育て、現実に接地した子育て

愛知県に住んでる時、私立中学に市民講師を頼まれた。画用紙を使った実験を考えて「カッター用意してください」と頼んだら「カッターは禁止です」という。じゃあハサミで、というとそれも禁止。なぜ?と聞くと、「医者や弁護士を目指してる大事なお子さんを預かっていて、怪我させるわけにいかないから」と話すその先生がなぜか誇らしげ。いやそこ、恥じ入りながら話すとこでしょ。

医者になるのに刃物一つ触ったことないって、患者からしたら恐ろしくて仕方ない。メス一つマトモに扱えるか分かりゃしない。外科医ともなればノコギリも使う。一体どうやって医者になるというのか?

そういえば近年、外科医になりたがる学生がいなくなり、美容や精神科を希望する学生が多いだとか。「刃物から遠ざける」ことが医師としての道に影響しているのだとすれば、あまり安易に考えることはできない。

医者の世界だけではない。共同研究してるとある大企業の人によると、研究者であろうとカッターはおいそれと使えないのだという。カッターを使いたければ申請書を提出してハンコを押してもらい、カッター使用が許可されている特別な部屋に行き、安全手袋をした上で使うのだという。後で「ここ、もう少し削ったほうがいいな」と気がついても、また申請するところから始めなければならない。

こんなまどろっこしいことをしていたら、研究・開発なんか進まない。カッター使えたら数分で済むことなのに、手続きだけで1時間以上、もし予約で一杯なら翌日以降になるかも。もう面倒くさくなって、その加工を諦める人も出てくるかも。

実はその企業だけではない。旧財閥系の大企業も、自動車系列の大企業でもカッターなどの刃物は禁止だという。2000年代に手持ちのカッターも没収され「刀狩」と呼ばれたという。そりゃ、日本の研究・開発力が落ちても仕方ないよ。

さて、私は大学院の卒業旅行にインドネシアのギリ・メノウという島に行った。散歩してると、ヤシの葉で組んだだけの小屋で手招きする人がいる。ヤムイモを振る舞ってくれた。すると身ぶり手ぶりでココナッツミルクを飲んでみるか?と勧めてくれた。飲んでみたいと伝えると、5歳くらいの女の子が、頭ほどもある巨大なナタを振り下ろして器用に五角形の刻みを入れ、パカっと開けて中身を飲ませてくれた。

私はたまげた。5歳前後の幼い女の子がそんな巨大なナタを自在に扱えるとは!とても利発そうな顔をしていた。この子が適切な教育を受けたら、それはそれは聡明な人間に育つぞ、と感じた。

気になるのは刃物だけではない。「火」もそう。

阪神大震災のとき、7人の高校生ボランティアに「被災者が暖をとれるように火を起こしといて」とライター渡してその場を離れた。

1時間経ってその場に戻ると、まだ火が起こせてない。7人もいて何してたの?と訊くと、「交代で火をつけようとしましたけど燃えませんでした」と、先端の焦げた角材と火ぶくれした親指を見せてきた。太い角材を火であぶれば燃えると思っていたらしい。7人もいて。

2000年代に入り、笑い話としてその話を紹介したら、旧帝大の学生5人とも赤い顔をしている。どうした?と訊くと「それでも燃えると思っていました」という回答だった。

「ベルセルク」という漫画で、主人公のガッツが、柱のように太い角材にマッチの火のような小さな炎を近づけて燃やそうとするシーンがある。その漫画はリアルな描写で私も大好きなのだが、「作者も編集者も火を起こした経験が乏しいんだな・・・」と感じた。

切断や燃焼という現象は、物理や化学の基本。それを体験で知っていないということは、現実離れした知識しか持ち合わせていないということ。何かアイデアがひらめいたとしても、現実には何の役にも立たない空理空論に陥りかねない。体験が乏しいままに知識をどれだけ積み上げても、それは砂上の楼閣。

教員をやっている親戚から驚くような話を聞いたことがある。その子は全教科百点を取るような子だったのだけど、上皿天秤で10g計れ、と言われて、片方の皿に「10g」と書いた紙切れを載せたという。ペーパーテストなら満点とれても、実社会でそんなことをしていたら役立たずになってしまう。

実際、高校まで大変優秀な成績をおさめ、旧帝大の工学部に現役合格したものの、トンカチやドライバーなどを触ったことがなく、何でも自作しなければならない工学部の課題についていけず、不登校となるうち、行方知れずになったという。

子どもの頃は、大きなケガは避けなければならないが、少々のケガなら許容してでも刃物や火の扱いを知っておいたほうがよいと思う。それらの基礎体験がないと、知識が現実に着地しないものになる。現実から遊離したものになってしまう。

大事に大事に育てた結果、無能力者に育ててしまう。そんなことが日本では少なからず起きているらしい。大企業の少なからず(すべて調べ上げているわけではないので)で「刀狩」が行われているということは、そうした、無体験であるがゆえに不必要に怯えている人が取り締まる側に回ることが増えているからではないか、と思う。そして事実、不器用に育てられた子ども時代を経て、適切な刃物や火の扱いを知らないまま大人となり、事故を起こしてはまた厳しく規制される原因を作るという悪循環に陥っているのではないか。

私が私立中学に子どもを送る気がなかったのは、それもある。ケガをさせないようにという理由、受験に役に立たないという理由で副教科に熱心でない私立もあると聞く。それでは、知識が現実に接地する機会を失ってしまう。現実体験を少しでも増やせる副教科はとても大切だと思う。

私が佐藤ママの指導法に批判的なのは、そのあたりにも理由がある。あまりにも座学に偏りすぎ。座学は、現実体験と接地していなければ意味がない。なのに座学ばかり積み重ねる。屋上屋を架す愚に似ている。そうして積み上げた知識は、どれだけ壮麗でも砂上の楼閣となりかねない。

生成AIでは「記号接地問題」というのがあるらしい。もっともらしい説を唱えるけど、現実に接地していない言葉(記号)の羅列でしかなく、生成AIが誤った説を唱えてしまうことがある原因。

ところがこの「記号接地問題」を抱えている知識人は少なくない。どこかから聞きかじった知識を組み合わせて論を展開するのは巧みだけど、現実に立脚していないから空理空論。こうした人間に育つと、生成AIが唱えた空理空論をそのまま信じ込みかねない。

これからの人材に求められる力、それは「現実にいかに接地するか」だと思う。私の予感では、人工知能は身体を持つことがやや難しい。機械はケガを治すような自己修復機能がない。水や塩気、砂ぼこりに弱く、錆びると交換を余儀なくされるから、高額でもペイする分野にしかロボットは普及できないだろう。人工知能は、平地でない場所で身体を動かすということが、かなり長いあいだ困難であると予想される。

ならば、現実にいかに立脚した体験を積むかが大切。それなしに座学をいくら積んでも、「記号接地問題」が起きる。現実に立脚しない論の展開なら、もはや生成AIのほうが優れている。

現実の世界はどうなっているのか。それを身体で、肌で、五感で感じとる。そうした経験を、持てる知識の「校閲」に用いる。そうした人間が、これからの強みになるように思う。

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