【短編】かゆみ人間
すれちがいの車両が遅れているらしく、しばらく電車が動く気配はなさそうだ。
手持ち無沙汰になり、いつものゲームアプリを立ち上げると、かりかりかり、と耳慣れた音が聞こえてきた。
ぼくは上着の内ポケットを開いて中を見る。やはり予想通りだった。
発生源は、ぼくのかゆみ人間だ。
首の辺りはすでに赤く腫れていて、今は手の指を必死で掻きむしっている。
なんとなく、自分の手に目を向ける。乾燥か、かぶれるような植物に触れてしまったか。心当たりはない。
考えているうちに、むずむずと指に掻痒感を覚え、軽く叩いて紛らわす。
もう一度、内ポケットを覗き込む。かゆみ人間は相変わらず掻いているが、疲れたような表情がうかがえる。覇気もない。
最近、ふとしたときに、かゆみを感じることがある。
かゆみ人間のC線維ホッピングがうまく機能していないのか、調子の悪い日が増えてきた。
この個体を購入して同期したのは、もう5年前だ。とっくに買い替え時は過ぎている。仕方がないのかもしれない。
すれちがい車両が駅に到着し、乗り換えの人々が乗りこんできた。
ぼくの隣にも人が座る。
かゆみ人間に気を取られていたぼくは、ちらと横目で伺う。
スカートの腿の上にそっと重ねられた手。その肌の張りから、若い女性だろうと推測する。
ぼくは顔を上げ、背もたれの方に頭を預けた。艶のある黒髪がかすかに視界に入る。
と、すぐに電車が動き出した。
ぼくは、背筋をすこし緩めて、手元のスマホに目を落とす。
しばらくして、女性が手の甲を気にし始めたのがわかった。
彼女はかゆみ人間を持っていないのかも。なんとなく想像していると、指に違和感を覚えた。小さく叩いてごまかす。
いよいよ、かゆみ人間が機能していない。
襟に手をやり、そっと内ポケットを開くと、うつろな瞳で見上げているかゆみ人間と目が合う。
本来なら、自分の代わりに指を掻いているはずだ──
ふと、隣の女性の仕草を思い出す。彼女も同じ左手の中指を気にしていた。
どういうことだろう……
考えているうちに、女性が今度は胸の辺りを気にし始めたのがわかった。たまに見る、下着のズレを治す仕草だ。
すると、ぼくの方も脇の辺りがむずがゆくなってきた。シャツの上から肉を摘んでかゆみを紛らわせながら、ある現象の名前が脳裏にちらつく。
C線維ホッピングの混線──
古いかゆみ人間で起こりがちな不具合だと、聞いたことがある。
騙し騙し使っていたが、いよいよ寿命なのだろう。
夜。
かゆみ人間は、加湿器のアロマを浴びながらすやすやと眠っている。
性別のないかゆみ人間。その顔には深く皺が刻まれている。
ぼくは、なるべく刺激のない綿素材を選んで服を着せている。
それでも古い機種だと混線は起こってしまう。
色々考えていると、昼間の女性のことを思い出した。
電車から降りて行くときに一瞬だけ見えた横顔。そのふっくらとした頬に、なぜかすこし心が弾んだ。
そんな記憶が蘇ってきて、脇のあたりがむずむずしてくるが、不快感はない。
本来は、すぐにでもかゆみ人間ショップに足を向けるべきなのだろう。
でも。
明日だけ、この子をポケットに忍ばせてみよう。
あと、もう1日だけ──
ふと、そんな気にもなってくる。
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