【短編】パワーアシストカタツムリ
危ない──
そう思ったときには、身体が勝手に動いていた。
転げ落ちてきた男を抱き止めた僕は、その体重を支えるため、一段下へ片足だけ伸ばした。
約2秒待つ。
落ち着いたのを見極めてから、ゆっくりと踊り場に向かう。
「気をつけてくださいね」
僕は背中のリュックに手を伸ばして、ポケットを探り、ハンドタオルを取り出す。
できるだけ濡れていない場所に敷いて、男を座らせた。
おそらく還暦はゆうに超えているであろうその男は、しばらく荒い息を吐いたあと、雨やわなあ……とひとりごとを呟く。
たしかに雨のせいで地面が濡れている。気をつけないと足を滑らせることもあるだろう。
だからこそ、僕は思う。
なぜカタツムリを使わないのだろう。
男はいまどき珍しく、筋力アシスト用のカタツムリ弾性スーツも、ガード用甲殻デバイスも、なにも身につけていない。
それら旧来型のパワーアシストタイプは、最近では廉価版も普及して、誰にでも手の届く価格になっている。なによりもユーザーフレンドリーで使い方もシンプルだ。
誰かが伝えてくれたのか、それとも騒ぎが耳に入ったのか、駆けつけた駅員にその場を任せることにした僕は、階段を上がりホームに出た。
電車が来るまであと1分。
その間にスマホでAIによるニュースまとめサイトを確認する。ざっと流し読みするだけで、この1日の世界情勢が難なく理解できた。
先日、メンタルカタツムリを打ってから、目に見えて思考がクリアになった。世界が遅くなったようにすら感じる。
まだテスト段階とのことだが、間違いなく今後普及する技術になるだろう。
乗り込んだ車両で、すぐ目についた空席に足を向けた。
と、リュックの女性が視界に入ってきた。
どうやら、同じ席を目指しているようだ。
約1秒後にかち合うことが瞬時にわかり、僕は歩調を緩めた。
競い合ってまで座る必要もない。
そんな判断だったが、予想外なことに女の歩みも同じように遅くなる。
思わず視線を向けると、女と目が合った。
その潤いのある瞳を見て、反射的に首筋に手をやる。ちょうどメンタルカタツムリの注射を打った場所。その痕が、なぜか疼きだしたのだ。
と、女も首筋を気にし始めたことで、僕は気づいた。
彼女も、そうなのだろう──
注射液の主成分はカタツムリの粘液に含まれる糖タンパク質、ムチンの一種。それが神経伝達物質の効率を劇的に向上させるのだとか。
今は、人での治験の段階だ。
「良ければ、お席どうぞ」
リュックの肩ひもの部分に両手をかけたまま、女が言った。
「いえ。僕は立ってますので」
言いながら、僕のほうも無意識に肩ひもに手をやってしまう。
しばらく目を合わせたまま、その場に立ちつくす。
おそらく同じ気持ちなのだ。
反射的に席を目指したものの、座りたいわけではない。
パワーアシストカタツムリのおかげで体力が向上しているから。
これが理性で考えた理由だ。
でも、本質はそこじゃない。本能でそう感じていた。
僕はリュックの肩ひもを掴む手を、ぎゅっと強く握りしめた。
「本当に大丈夫ですので」
続けて僕が言うと、肩ひもを握る女の手にも力がこもったのがわかった。
「私も、すぐに降りますので」
こんなやりとりを何度か続けているあいだに、別の男が割りこんできて、何食わぬ顔で席に座った。
僕は思わずほっと息をついた。
車内で立ったまま、目を閉じてこの数日のことを反芻する。
そうだ。
ちょうど、メンタルカタツムリを打った頃からだ。
なぜか、リュックを下ろす行為に心理的なハードルを感じるようになった。
背中が軽くなる──
それだけのことに、強烈な不安を覚える。
理屈はわからない。言語化できない感情だ。
いったい、なにが起こっているのだろうか……
考えれば考えるほど焦燥が膨れあがり、全身から汗が吹き出してくるのがわかった。
僕は額を手で拭う。
と、粘性のある液体が、ねっとりと糸を引いた。
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