旅人にならなかった私たち──90年代女子的な深夜特急答え合わせ⑦マレー半島・シンガポール編2014年
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ゴム林を鈍行で抜けて
深夜特急を読むシリーズ。
タイからシンガポールへ。まずは私が覚えている旅と体験した旅。
1974年。タイからマレーシアへ、ゴム林の中を鈍行で、南下していく沢木耕太郎は、国境を越えたあたりから空気の違いを強く感じ始めます。
イスラム文化圏に入り、街の雰囲気が一変するのです。バンコクまでの「混沌・猥雑・雑多さ」が薄れていって、どこか秩序だった、落ち着いた空気に包まれます。でもペナンに着いて、泊まった宿はまた曖昧宿どころか娼館。タイトルにある「娼婦たちと野郎ども」は、アジア的なエネルギーの象徴でもあります。
19歳のペナンへの先入観と旅の心得
19歳の私は、深夜特急のおかげて、ペナンのイメージは娼館になりました。90年代当時、社会問題になっていた東南アジアでの日本人による買春、さらに香港編で、船乗りの馬春田が語っていたことも思い出すと、当時は日本人だけでなく世界中の人が東南アジアに買春しに行ってたんだなと思ったくらい。
娼婦たちとそのヒモとの会話はおもしろかったけど、私にはハードルが高そうだなと思った記憶。
大学の夏休みが終わって、大学に向かう土曜日の朝、山手線で、たしか馬術をやっているお坊ちゃん同級生に声をかけられて一緒に登校したら、夏休みの話しになりました。私がバンコクを旅行した話をしたら、彼はペナンに行ってテニスをしたという。
ん?
ペナン?
その日から、私の彼を見る目がかわって、ただのお坊ちゃんから、“アジアにとんでもないことしに行く変態野郎”に変わった。たぶん考えすぎ。彼は本当にテニスをして過ごしたのだろう。
そんなペナンで、沢木耕太郎は、旅の高揚が少しずつ冷めていき、「このまま進んでいいのか」という内省をする。自分が何を求めて旅しているのか、わからなくなる瞬間。
つまりここは、外の風景よりも「内面の揺れ」が主役になる章。女子大生の私は、一人旅してると、けっこう自分の揺れがダイレクトにわかるのね、旅する時には、自分の軸をちゃんとしとかないと、誘惑に負けるだけじゃなく、弱気になる自分にも負けちゃうな。旅って自分の内面とするものなんだな、それが旅の心得だと学んだ記憶です。
シンガポールで感じた違和感と生命力
沢木耕太郎は、クアラルンプールを経て、マレー半島の終点であるシンガポールに到着します。
当時すでに近代化が進んでいたシンガポールの整然とした街並みに、彼は違和感を覚えます。その中で生命力を感じたのが、日曜日のオーチャードストリートに集うフィリピン人メイドたちでした。集まって、お弁当を広げて、母国語で語らう。
その姿は、19歳の私には、上野に集まり、自分たちの言葉で話しながら過ごしていたイラン人男性の姿と重なって見えました。
1994年当時、日本で集団として目にする外国人といえばイラン人でした。違法テレカを売る姿は社会問題で、どこか怖く感じられましたが、彼らが群れていたのは、異国で生きる者同士が互いを労うためだったのかもしれないと思ったのです。
異国で暮らす大変さや、母国語で話す時間の必要性。そうしたものを、当時の私は自分なりに受け入れていきました。
不法滞在のイラン人や違法テレカといった光景は、90年代後半には見られなくなったように思いますが、94年の東京では、まだごく当たり前の風景でした。
旅に香港を見出さない
シンガポールで、沢木耕太郎が得た気づき。
タイやマレーシアのどんな街にいても、無意識のうちに香港を探し求めていたけれど、
シンガポールは香港ではないし、香港は香港にしかない。旅は、その瞬間にその場所でしか味わえない感動に身をまかせるもの。第二巻の巻末で、19歳の私が学んだことです。
2014年のシンガポール もう一つの旅
私がシンガポールを訪れたのは、2014年11月、39歳のときでした。アラフォー女子とともに、現地に駐在しているミドサー男子や、外国人と結婚してシンガポールに暮らす外国人妻女子を訪ねる旅でした。
社畜として働き、有給休暇を持て余していた39歳の私は、文化の日と振替休日を組み合わせて休みを取り、シンガポールへ向かいました。旅の友はアメブロ世代のアラフォー女子で、まだインスタグラムが主流になる前の時代です。そのため旅はバックパッカー風ではなく、ブログに映える旅スタイルになりました。
ザ・リッツ・カールトンに宿泊し、ワンピースを着てマリーナベイ・サンズでお茶をし、写真を撮りまくる。
ランチを一緒にした外国人妻女子の、メイドが家事をやってくれるリッチな暮らしぶりに少しの嫉妬を覚え、夜は駐在男子と食事を。チリクラブを食べ、ホーカーセンターを覗き、ナイトサファリを楽しみ、夜はホテルのバーで語らう。全体として、整った上品な大人旅でした。
崩れた予定と夜の会話
最終日はアラブ人街でシーシャを楽しむ予定でしたが、同行のアメブロ女子を突然襲った生理で予定はキャンセルに。
生理で不機嫌で、激おこぷんぷん丸のアメブロ女子を部屋で休ませたあと、私は駐在男子とホテルのバーへ向かいました。お酒を飲まない彼はミルクセーキを、社畜でアル中気味の私は強い酒を頼みました。シンガポールスリングのような軽やかなものではなく、ジンをロックで飲んだ記憶があります。
仕事の話や、彼の新婚生活の話をしました。彼は単身赴任で、日本にいる奥様とは別に暮らしており、休暇にはシンガポールを拠点に一緒に旅行をする生活を送っていました。結婚はいいものですよ、と彼はしみじみ語っていました。
旅をめぐる後悔と共感
深夜を過ぎる頃から、話題は旅へと移っていきました。
今回のシンガポール旅では、深夜特急に出てくるような場所を訪ねることはできませんでした。私はすでにバックパッカーとしての適齢期を過ぎてしまったのだと感じていました。
彼もまた、小さなリュックを背負い、マレー半島を鉄道で北上してバンコクを目指す旅をした経験がありました。しかし30代半ばになり、同じようにバックパックの旅には、自分はもう歳をとり過ぎたと。
二人でグラスを傾けながら語り合いました。
25歳で旅に出る決断はできなかったこと。
当時は旅に出ることがドロップアウトのように見えていたこと。
放浪に憧れながらも、それを自分の人生として引き受けることはできなかったこと。
そして、1974年に、25歳で旅に出た沢木耕太郎はやはり格好いいということ。
成仏した憧れと小さなif
このシンガポールの夜で、私の中のバックパッカーへの憧れは半分ほど消えました。残りの半分は、その半年後に会社を辞め、スペインを3週間旅したことでようやく成仏しました。
そしてスペインから帰国後、彼が離婚していたことを知ります。
もしその離婚が、あのシンガポールの夜より前だったとしたら。
彼の身長があと5cm高かったら。
それらは、私の人生の小さなifなのかもしれません。
深夜特急の再読編に続く
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