80年代中学生にエモいのは、もはや戦後ではない。
ことわざ事典を愛した子ども時代
子どもの頃の愛読書は、ことわざ事典でした。
四字熟語も好き。中学生からは国語便覧が大好き。広辞苑も読んでいました。
新聞は小学生の頃からスポーツ欄と投書欄を読み始め、中学生で隅々まで読み、大学卒業まで毎日読んでいました。今では考えられませんが、朝に新聞を読むのが日課。
中学の通学中には、通勤中の大人が読んでいる新聞をのぞき見し、高校から大学にかけては、他人が読む『日本経済新聞』の「私の履歴書」連載を毎日のように読んでいました。
電車の中吊り広告も欠かさずチェック。
どうやら私は“活字が好きな子”だったようです。
好きな四字熟語がクセ強め
ちなみに小学生の私が好きな四字熟語は「朝三暮四」。
実質的な内容は変わらないのに、表面的な違いや目先の利益に惑わされて、同じことであると見抜けない愚かさを指す熟語。サルたちが目先の利益(朝にエサを多くもらえること)に捉われて、一日の合計が変わらないという本質に気づかない愚かさを風刺しています。
サルの愚かさが示唆に富む!と思ってお気に入りでした。
子どもの思考の多様性を個性と思う父は、私のユニークな好みを尊重してくれましたが、母には理解不能で、「ママは嫌いだわ。それが好きって、外で言わないでほしいわ。別の熟語にしなさい」とキレ気味でした。
ことわざで育つ女子
それでも、私のことわざ好きを両親も理解していて、ことわざを使って話しかけてきました。
小学生の習い事には「石の上にも三年。我慢しなさい」。夏休みの宿題をてきとうにやれば、「急がば回れ。一石二鳥はないよ。二兎追う者は一兎を得ずだよ」と叱られる。
短期留学を考えるように話すときには、「井の中の蛙大海を知らず。英語を勉強しに行って世界を見てみたら?」のような感じで。
母と近所のおばさんたちが何やら真面目に話していたときに「三人よれば文殊の知恵?」と話しかけたあとに、母にこっぴどく叱られました。
井戸端会議の空気が悪くなったようで。
あとから知ったことですが、母は私のことわざ事典を読んで学び、便覧の歳時記のページの二十四節気から食事を考えたそうです。冬至は柚子湯に入り、かぼちゃを食べる。お節料理のときは、その由来を聞かせる。
大人になってから、私は季節を表す語彙が多いなと思ったのは、母の努力の賜物でした。
「教科書は読み物」という価値観
小学生の私にとって教科書は“読み物”でした。国語の教科書は4月中に読み終える。社会の教科書もおもしろい話として読む。理科も話題によってはおもしろい。音楽の教科書まで読んでいました。趣味というか、フェチというか。
漫画は好まなかった変わった子どもです。「りぼん」や「マーガレット」を買ったこてはないし、皆んなの会話についていけなかった。「ときめきトゥナイト」の話しで盛り上がる女子界隈はだいぶ遠い世界でした。
小学生の6年間、私は読書感想文を二つ書いていました。課題図書と、自分の好きな本。
私の感想文は、「先生、あのね」のかわいい時代から、その物語のスピンオフを書いたり、主人公を評論したり、主人公の気持ちになって独白したり、クセ強めなスタイルだったので大賞とは無縁。佳作で満足していました。それでも夏休み中は推敲に費やし、清書するころには飽きていました。
あの頃の先生には感謝です。二つも読書感想文を出す生徒は、確実に仕事を増やしているから。
中学生になると、周りの子の文章が急に大人っぽくなるなか、私は作風を変えず子ども味の残る文章。難しめに書くと自分らしさがなくなるけれど、かといって自分の文体だと子どもっぽい。
おでこのニキビと、自分の文体迷子。この二つが私の思春期の悩みでした。平和すぎる。
そんな私は、国語の小論文が苦手でした。本筋以外のところに着目しがちで、まともに書けない。担任の先生から、小論文が必要な大学は諦めて、国語で試験を受けようと提案されました。だよね、なんか私、違うところでハマりがちだもんね。やめときます。
社会の教科書の推しフレーズ「もはや戦後ではない」
社会の教科書で一番好きなフレーズは「もはや戦後ではない」。
昭和の終わりから平成にかけて、80年代に中学生だった私は、バブル景気の勢いを体感しながら多感な時期を過ごしました。
「もはや戦後でない」は、日本の戦後史における経済的・精神的な転換点を象徴する名フレーズ。私は個人的に、日本一の名コピーだと思っています。こんなに肯定的で、高揚感がある宣言ってありますか。
1956年、経済企画庁が作成した『経済白書』(昭和31年度 年次経済報告)の冒頭部分。敗戦からわずか11年で日本が戦前の経済水準を回復・上回り、公式に「戦後を脱した」と宣言した言葉です。
このフレーズ以降、日本は復興期から成長期へと切り替わり、高度経済成長期へ本格突入。国民の目標が「生活の再建」から「豊かな生活の実現」へ変わり、積極的な消費が促されました。
つまりこれは、「イケイケになる日本宣言」のような言葉だったのです。
1956年は、中学生の私にとっては30年前のこと。
40年前には焼け野原だった国が、がむしゃらに努力をして到達した宣言に、私は“エモ”を感じました。
80年代CMの「エモ」と「現実」
その頃にエモを感じたのは、西武百貨店の「おいしい生活」と、日産セフィーロの「くう・ねる・あそぶ」。
豊かな消費社会において、生活の質やスタイルを楽しむ精神的な豊かさを提案した広告で、バブル崩壊直前のゆとりある空気をまとっていて、おしゃれだと感じていました。
セフィーロの井上陽水のCMは今も脳裏に残っています。
ウッディ・アレンを知ったのは、西武百貨店のコマーシャル。
一方で、リゲインの「24時間戦えますか」はリアルでした。“モーレツ”の頃から変わっていない。
それは「欲しがりません、勝つまでは」で厳しい時代を生き抜いた頃から続く、日本の根本的な考え方なのだろうと中学生ながら思っていました。
日本のこの感じが続くかぎり、経済も私の身長も右肩上がり、未来は明るいと信じていました。
後編 女子大生のバブル崩壊から今年の漢字へに続きます
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