【番外編④・完】美容クリニックで病んだのは、仕事ができなかったからではない
美容クリニックで病んだ理由を、ずっと考えていた。
仕事ができなかったから。
最初は、そう思っていた。
覚えが悪いから。
気が利かないから。
美容クリニックに向いていなかったから。
そうやって、全部自分のせいにしていた。
でも今なら、少し違うと思う。
私が本当に削られたのは、仕事そのものではなかった。
私を嫌っているかもしれない人たちの中に、
毎日、自分から入っていくことだった。
1. できるようになりたかった。でも、打つ手がなかった
最初に空気が変わったと感じたのは、
お客様からクレームが入ったあとだった。
美容クリニック編の第4話にも書いたが、
そのクレームは私に対してではなかった。
先輩に対してだった。
「前の人の方が丁寧だった」
「今回の施術は雑だった」
そう言われたらしい。
前の担当者は、私だった。
それまで、少し気安かった空気が、
その日を境に冷たくなった。
私は肌で感じた。
あ、何かが変わった。
でもその時の私は、
それを先輩のせいだとは思えなかった。
私が仕事ができないから。
私が不器用だから。
私のせいで、先輩へのクレームにつながってしまった。
そう思った。
今思えば、健気な後輩である。
自分が責められているわけでもないのに、
勝手に責任を背負いに行っていた。
ご苦労なことである。
でも当時の私は、本気だった。
迷惑をかけたくなかった。
早く覚えたかった。
少しでも認められたかった。
だから、なんとかしようとした。
施術に入らない時間は、
少しでも知識を身につけようとした。
機械にも触りたかった。
早く覚えたかった。
少しでも即戦力になりたかった。
でも、そのたびに言われた。
「今は知識とかいいから
「機械は施術のタイミングでしか触らせないから」
「時間外はさせられないから、早く帰って」
正論だったのかもしれない。
時間外に練習させられない。
勝手に機械を触らせられない。
それはたぶん、職場としては間違っていない。
でも、私は困った。
できるようになりたい。
でも、練習はできない。
知識をつけたい。
でも、今はいいと言われる。
早く戦力になりたい。
でも、何をすればいいのか分からない。
努力しろと言われた方が、まだ楽だった。
そう言われたら、そこに向かって走れた。
だが、走る方向が分からない。
なんとかしたいのに、なんともできない。
打つ手がないことが、ずっと苦しかった。
2. 「白湯さんじゃない?」と言われる側になった
それから、その空気は少しずつ周りにも伝わっていった。
何かあると、
「白湯さんじゃない?」
そんな声が、ひそかに上がるようになった。
もちろん、はっきり責められたわけではない。
でも、その場にいると分かる。
ああ、最初から私は疑われる側なんだ。
そう思った。
それが他の人のミスだと分かると、
空気は急に変わった。
「あれ、〇〇さんでもミスするんですね」
「えー、珍しいですね」
秒速で手のひらを返す。
私が何かを進んでやっても、
「あー……ありがとう」
という感じだった。
ありがたい、というより、
触れたくないものに触ってしまったような空気。
新人の味方をしても、得することなんてない。
ましてや、すでに誰かに嫌われている新人なら、なおさらだ。
誰も悪者になりたくない。
誰も面倒な空気に巻き込まれたくない。
私だって、逆の立場なら助けに行けたかは怪しい。
人間、そんなに立派ではない。
そう思うからこそ、余計にきつかった。
誰かに意地悪をされた、とはっきり言えた方がまだ楽だった。
怒鳴られたわけでもない。
無視されたわけでもない。
何かを直接言われたわけでもない。
ただ、空気だけが冷たい。
触るもの全部が、少しずつ地雷に見えてくる。
何をしても、何かを間違えた気がした。
正直、今でも分からない。
なぜあんなに、先輩が私を嫌っていたのか。
年齢は一つしか違わなかった。
相手は美人で、仕事もできて、
都会の美容クリニックに馴染んでいる人。
私は地方から出てきたばかりの、
芋っぽさの抜けない、年だけ重ねた新人だった。
書いていて、少し悲しくなってきた。
でも事実である。
何が気に障ったのかは、分からない。
分からないからこそ、苦しかった。
「なんとなく嫌われている」
には、どうしたらいいのか分からなかった。
謝る相手も分からない。
直す場所も分からない。
正解も分からない。
ただ毎日、
自分の存在だけが少しずつ邪魔になっていく感じがした。
これが一番きつかった。
3. 憧れた場所ほど、逃げるのが遅れる
美容クリニックは、私にとって憧れの場所だった。
地方の病棟で働いていた頃、
私は都会の美容クリニックにずっと憧れていた。
きれいな職場。
美意識の高いスタッフ。
おしゃれな制服。
都会で働く自分。
今思うと、なんて分かりやすいのだろう。
でも当時の私は、本気でそこに行きたかった。
田んぼの見える病院の休憩室で、
120円の菓子パンをかじりながら、
こんな田舎、早く出ていってやる。
そう思っていた。
そして、ようやく手に入れた場所だった。
だから余計に、辞められなかった。
ここを辞めたら、負けた気がした。
せっかく都会に出てきたのに。
せっかく第一志望に受かったのに。
せっかく友人にも、美容クリニックに転職したと話したのに。
いまさら、
「実はつらくて辞めたいです」
なんて言えなかった。
見栄である。
立派な見栄である。
リボンをかけて差し出せるくらい、
きれいに整った見栄だった。
私はその見栄を抱えたまま、
毎日出勤していた。
本当はもう、かなりしんどかった。
憧れた場所で傷つくと、
人はなかなか逃げられない。
欲しかった場所だったからこそ、
逃げたいと思っている自分を認めるのに時間がかかった。
4. 家までついてくる職場から、自分を連れ出した
仕事が終わっても、完全には終わらなかった。
携帯のグループチャットだ。
業務連絡。
確認事項。
誰かへの注意。
明日の共有。
休日の夜にも、普通に流れてきた。
もちろん、どの職場にも連絡はある。
必要な連絡もある。
分かっているのだが、当時の私にはきつかった。
スマホが鳴るたびに、心臓が跳ねた。
また何か言われるのではないか。
また私が何か間違えたのではないか。
そんなことを考えてしまう。
家にいるのに、心だけ職場に置きっぱなしだった。
家族とご飯を食べていても、
お風呂に入っていても、
布団に入っていても、
頭のどこかに、あの職場があった。
職場にいる時だけ我慢すればいい。
最初はそう思っていた。
でも違った。
嫌われているかもしれない空気は、
退勤しても消えなかった。
ちゃんと家までついてきた。
なかなか律儀な空気である。
そこまでついてこなくていいのに。
私は何度もそう思った。
私は、完璧な新人ではなかった。
それは分かっている。
覚えが早かったわけでもない。
美容クリニックの空気にすぐ馴染めたわけでもない。
気の利いた一言が言えるタイプでもなかった。
むしろ、気の利いた一言を言おうとして、
余計なことを言うタイプである。
だから、仕事で注意されること自体は仕方なかったと思う。
でも、病んだ理由はそこではない。
仕事ができなかったから病んだのではない。
できるようになりたかったのに、
何をしても空回りして、
頑張っても、
手伝っても、
黙っていても、
そこにいるだけで間違っているような気がした。
人は、分かりやすく壊れるわけではない。
ある日突然、
バキッと音を立てて壊れるわけでもない。
少なくとも私は、そうではなかった。
少しずつだった。
朝、目が覚めるのが嫌になる。
スマホの通知が怖くなる。
職場に着く前から胸が重くなる。
帰り道に、ほっとするより先に明日のことを考えてしまう。
そうやって、削られていった。
結局、私はその美容クリニックを辞めた。
辞めるまで、何度も迷った。
本当に辞めていいのか。
もう少し頑張るべきではないか。
せっかく入ったのにもったいないのではないか。
でも、もう十分だった。
朝が怖い。
通知が怖い。
職場では息を殺して過ごす。
ここまで揃ったら、
なかなか立派な辞めどきである。
だから辞めた。
私は、あの場所から自分を連れ出したのだと思っている。
制服を着て、
普通の顔をして、
何も傷ついていない人みたいに出勤していた自分を、
もうそこにいなくていいよ、と
ようやく外に出した。
美容クリニックで働いたことを、後悔しているわけではない。
やってみたかった世界を見られた。
きれいな人たちの本気も見た。
顔とお金とプライドが並んでいる場所も見た。
自分の弱さも、欲深さも見た。
なかなか濃い社会科見学だったと思う。
美容クリニック番外編は、これで終わりです。
憧れて入った場所で、
思いきり現実を見て、
けっこう傷ついて、
それでも今は、別の場所でなんとか暮らしている。
人生は、思っていたよりしぶとい。
できればもう少し、上品にしぶとくありたい。
そこは今後の課題である。
美容クリニック編では書ききれなかった番外編まで、
読んでくださってありがとうございました。
次はまた少し場所を変えて、
働くこと、暮らすこと、そして私がどうやって今の生活までたどり着いたのかを
書いていこうと思います。
これからも白湯の人生記録は、まだまだ続きます。
暇つぶしにでも、
人生の参考にでも、
ふらっと読んでいただけたらうれしいです。
美容クリニック編の全12話はこちらにまとめています。
↓ 全話まとめはこちら
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