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【はじめてのnote】 好奇心と違和感が、今日も私を動かす

私は、東京大学に進学し、経済産業省で10年間働いてきました。
肩書きだけを見れば「順調」な人生に映るのかもしれません。

ただ、正直に言うと、私はずっと、どこか息苦しさを感じながら歩んできました。はっきりとした不満があったわけではありません。
それでも、「このまま進み続けた先に、本当に自分が行きたい場所はあるのだろうか」。そんな問いが、心の奥に静かに残り続けていたのです。

このnote記事で、私は成功談や自慢話を書きたいわけではありません。

むしろ、なぜ私は“霞ヶ関”に居続けることを選ばなかったのか。
なぜ今、地方創生とスタートアップという、一見すると遠回りに見える場所にいるのか。その理由を、自分自身のためにも、そして読んでくださる方のためにも、一度きちんと書き残してみようと思いました。

このnoteを読み終えたとき
「人生は学歴や仕事だけで決まるものではなく、正解も一つではない。」
「自分で選び、動き続ける限り、人生は何度でも良くしていける。」

そう感じてもらえたら嬉しいです。


ユーモアと好奇心でできた「普通の感覚」


私の両親は、いわゆる教育熱心なタイプではありませんでした。

子どもの頃、勉強や進路について強く言われた記憶は、ほとんどありません。母からよく言われていたのは、「人を騙すな」「嘘をつくな」、そのくらいです。
今振り返ると、それは私を縛るための言葉ではなく、母自身の人生観だったのだと思います。

私の名前「真也」は、「真実の“真”」から取ったと聞かされました。正しくあれ、というよりも、「自分に嘘をつくな」という意味だったのだと、今は感じています。

我が家で大切にされていたのは、勉強よりもユーモアでした。特に父方の家系は、どんな話も最後は少し笑いに変えてしまうような人たちです。

母が結婚の挨拶で父の実家を訪れたとき、祖父は一通り話をしたあと、最後にこう言ったそうです。

「どこからどこまでが本当の話だと思いますか?」

初対面でそんなことを言う祖父を、私はどこか誇らしく思っています。
真実を大切にしながらも、真面目になりすぎない。その距離感が、私の好奇心と“息のしやすさ”をつくってくれたのだと思います。


公立育ちの私が、東大で感じた違和感


中学時代、私が通っていた学校は、いわゆる荒れた環境でした。

ヤンキーと呼ばれる生徒も多く、授業が成立しないことも珍しくありませんでした。私はその中で、サッカー部に所属していました。

価値観も背景もまったく違う人たちと、同じグラウンドでボールを追いかける日々は、教室で過ごすだけでは得られない学びを与えてくれました。

敵対せず、かといって距離を取りすぎることもなく、どう関係を築くか、どう信頼を得るか、無意識のうちに学んでいたのは、サッカー部での経験のおかげだと思います。

その後、柏陽高校から東京大学を目指しましたが、当時の私は「自分が東大に行く人間だ」という実感は、ほとんどありませんでした。模試の判定はいつもE判定。受かったらラッキー、くらいの気持ちだったのが正直なところです。ただ、本番では得意だった数学が驚くほど解けました。
合格通知を家で見たとき、嬉しさよりも先に、まず驚きが来たのを覚えています。

東大に入学して、私は初めて、はっきりとした違和感を覚えました。
周囲には、灘や開成といった名門私立出身の人たちが当たり前のようにいます。予備校や受験の“共通言語”が飛び交う中で、公立高校出身で、部活引退後に一気に勉強した私は、完全に少数派でした。

優劣の話ではありません。ただ、育ってきた世界が違う。
そのズレが、日常の何気ない会話の端々に表れていたのです。
このとき初めて、「自分は、どこかに属しきれない人間なのかもしれない」と感じました。

ただ一方で、その感覚は、どこかで自分の支えにもなっていました。
いわゆるエリートと言われる環境の中で育ってきた人たちの価値観だけではなく、もっと一般的な感覚を持ったまま社会を見ることにも意味があるのではないか。

むしろ、そうした感覚を持ったまま、社会の中枢に近い場所で働くことに意味があるのではないか。
そんな思いもあって、私は「普通の感覚」を失わずに「社会に関わることのできる仕事」をしたいと考えるようになりました。


経産省で強まっていった違和感


大学卒業後、私は社会の中枢に近い場所で働きたいという思いから、経済産業省に入省しました。その根底には、「社会を少しでも良くしたい」という強い思いがありました。

資源エネルギー庁では、再生可能エネルギーや省エネ政策に関わる仕事を担当していました。 例えば、エネルギー白書を、できるだけ一般の人にも読みやすいものにしようと工夫したり、政策の内容を政治家や関係者の方々に丁寧に説明したり。そんな日々を過ごしていました。

もちろん、簡単なことばかりではありませんでした。
相手によって前提も関心も違い、話がうまく噛み合わないこともある。時には、対話がぶつかりそうになる場面もありました。

それでも、対話を投げ出さずに向き合い続けることができたのは、公立の学校で、多様な人たちと関わりながら育ってきた経験があったからだと思います。

一方で、働き続ける中で、少しずつ自分の感覚が変わっていくのも感じていました。
気づけば、「成果を出すためには、労働時間を増やすことも当然だ」という考え方に、自分自身が染まっていったのです。

本来の私は、仕事だけではなく、やりがいや、日々の生活、人との時間も含めた“バランス”を大事にしたかったはずでした。
それなのに、いつの間にか、「常に高い基準で働き続けること」が当たり前になり、仕事以外のバランスが少しずつ崩れていきました。

また、政策の議論の中でも、違和感を抱く場面が増えていきました。
中小企業について語られる際、モデルケースとして取り上げられるのは、優良企業や、十分なリソースを持つ組織が中心でした。

もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
ただ、現実には、もっと不器用で、余裕がなくて、理想通りには動けない人たちもたくさんいます。
そうした現実との距離を感じるたびに、「この感覚は、少し“普通”からずれてきているのではないか」と思うようになっていきました。

経産省が悪かった、という話ではありません。
むしろ、その環境の中で、自分の感覚を後回しにし、周囲の価値観に強く引っ張られていたのは、自分自身だったのだと思います。


サンディエゴ留学という転機


「このままでは、自分が自分ではなくなってしまうかもしれない」
そんな感覚が、少しずつ大きくなっていきました。

だからこそ私は、一度立ち止まり、「自分にとって本当に大切にしたいものを見つめ直さなければならない」そう思うようになっていました。

そんなタイミングで訪れたのが、サンディエゴへの留学の機会でした。
きっかけ自体は、とても現実的なものです。役所の制度として留学のチャンスがあり、膨大な仕事をこなしながら必死に準備を重ね、ようやく掴み取った機会でした。

当時は、日本で起業家やスタートアップと関わる仕事も増えており、「本場のアメリカを、自分の目で見てみたい」という思いが強くなっていました。
イノベーションの中心地であるシリコンバレー周辺の大学には、すでに多くの先輩たちが進学していました。しかし私は、そこに自分なりの意味を見いだせませんでした。だからこそ、あえて“王道”を外す道を選びました。

そこで偶然出会ったのが、カリフォルニア大学サンディエゴの大学院です。
派手さのある街ではありません。しかし、ヘルスケア産業を中心に、着実に産業が育っている。そして何より惹かれたのは、「年間300日晴れる」と言われる、その穏やかな土地そのものでした。


「人生は別の形でも成立する」ということ


大学院では、公共政策や国際関係論を学びながら、計量経済学やデータ分析といった、再現性のある思考法にも触れました。

入試の仕組みも、日本とは大きく異なります。TOEFLやGREのスコアだけでなく、英語でのエッセイ、推薦状、課外活動なども含めて評価される。単なる学力だけではなく、「この人を受け入れる意味があるか」を大学側が見ているのです。
そこで私は初めて、「人は環境によって、努力の仕方そのものが変わる」ということを、実感として理解しました。

サンディエゴでは、人々が仕事と生活を無理なく両立していました。早朝から深夜まで働くことが美徳とされる空気は、そこにはありません。
家族と過ごす時間。自然の中で過ごす時間。友人とスポーツを楽しむ時間。そうしたものが、“特別なこと”ではなく、当たり前に大切にされていました。

スタートアップの世界も同じです。一夜にして成功する企業は、ほとんどありません。数十年という時間をかけて産業を育てていく。失敗は前提であり、挑戦そのものが称賛される文化がありました。
このとき私は初めて、「人生は、こういう形でも成立するのだ」と、心の底から納得したのです。


霞ヶ関には戻らず、地方を選んだ


留学後、私は三重県庁への出向を選びました。

理由はシンプルです。日本でサンディエゴのようなエコシステムをつくるとしたら、東京ではなく、地方の現場に身を置く必要があると感じたからです。

サンディエゴも、30年、40年という時間をかけて産業を育ててきました。「産業が生まれなければ、地方創生は続かない。」そう強く思うようになっていました。

実際に三重で暮らしてみると、意外なほど違和感はありませんでした。サンディエゴも三重も車社会で、大きなホームセンターがあり、生活のリズムがどこか似ています。
何より、人が温かい。正直、東京よりもずっとトゲが少ないと感じました。

一方で、仕事は戸惑いの連続でした。議会対応は、想像以上に難しいものです。論理が正しいだけでは、物事は進みません。
背景も、感情も、歴史も、すべてが絡み合っています。
その代わり、人との距離は圧倒的に近い。顔と名前が一致する関係性の中で、仕事が進んでいきます。

そしてここで私は、改めて実感しました。
「産業が生まれない限り、地方は持続しない」という現実を。


いま、私がやっていること


現在、私は地方とスタートアップをつなぐ仕事をしています。

海外のスタートアップと地方の現場を結び、本来なら出会うことのなかった人たちが出会い、そこから事業が生まれていく。
そのプロセスに、私は一番ワクワクしています。

霞が関、自治体、スタートアップ。
これまでの経験は、すべて今につながっています。
1分で要点を伝える力。泥臭く現場と向き合う姿勢。アイデアを現実に落とし込む感覚。どれも、無駄な経験ではなかったと、今は思えます。

私の理想は、サンディエゴのようなエコシステムが、日本の各地に少しずつ根付いていくことです。
今、私が一番心を動かされる瞬間は、本来なら出会うことのなかった人たちが出会い、そこから何かが生まれる、その瞬間です。

たとえば、異なる国や分野に属する組織同士が連携するケース。
背景や前提が大きく違っていても、対話を重ねることで、驚くほど噛み合い、事業が動き出すことがあります。
その場に立ち会えることが、たまらなく面白いのです。

町に仕事が生まれるには、時間がかかります。正直、10年単位の話です。
それでも、若くて起業家精神のある学生が関わり、刺激を受け、「ここで何かやってみたい」と感じてくれる。
その連鎖が、やがてサンディエゴのような形になると、私は信じています。

経産省で学んだ「1分で説明する力」。地方行政で知った「人と人との距離感」。スタートアップ支援の現場で身についた「実装する感覚」。
それらすべてが、今の私の中で、一本の線としてつながっています。


これから、noteで書いていきたいこと


振り返ると、私の人生は、いつも王道から少し外れた場所にありました。
でも、それは普通の家庭で育った私の「普通の感覚」を失わないための、私なりの選択だったのだと思っています。

もし今、キャリアや生き方に違和感を抱えている人がいたら、伝えたいことがあります。違和感は、間違いではありません。むしろそれは、次の場所へ進むための、とても健全なサインだと思います。

これからnoteでは、立派な結論を書こうとは思っていません。
模索しながら、考えていることを、そのまま言葉にしていきたいと思っています。ビジネスの話も書くでしょう。でもそれだけではなく、日常で感じた小さな幸せや、くだらない出来事、自分が何に迷い、何を大切にしているのかも、正直に残していきたいです。

努力できる人が、きちんと報われる環境。
志を持って働こうとしていた、あの頃の自分が報われる社会。
きれいごとでもいいから、そんなことを、書いていきたいと思っています。

文頭でも書きましたが、このnoteを読み終えたとき、
「人生は学歴や仕事だけで決まるものではなく、正解も一つではない。」
「自分で選び、動き続ける限り、人生は何度でも良くしていける。」
そう感じてもらえたら嬉しいです。

私自身も、まだ途中です。だからこそ、この場所に、心のままに書き残していきたいと思っています。

上松 真也


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