努力は報われなくても、価値がある
「あすなろ」という木があります。
語源については諸説あるようですが、私は「あすは檜(ひのき)になろう」という解釈が大好きです。
実際には、あすなろは檜にはなれません。
それでもなお、檜になろうとする。その姿に、私はなぜか心を打たれます。
檜になれなくてもいい。大木になれなくてもいい。
それでも、今日よりも明日、少しでも高く、少しでも強くあろうとする。 その姿勢そのものが、美しいと感じるのです。
私は思います。
人が美しいと感じるのは、到達した瞬間ではなく、到達を目指し続ける時間なのだと。
現状に安住しないということ。
「まあ、これくらいでいいか」と言わないこと。
そこにこそ、人間の尊厳が宿るのだと思います。
点数では測れない努力の価値
努力は、必ずしも100点を生みません。
挑戦しても、思うような結果が出ないことはあります。望んだ場所に届かないこともあります。
それでも、努力は確実に何かを変えます。
100点に到達しなくても、80点を生む。−100の問題を−70に減らす。
私は、そこに価値があると思っています。
大事なのは、「到達」ではなく、「目指し続ける姿勢」です。
結果が保証されているから頑張るのではない。報われるから努力するのでもない。
努力そのものが美しい。
この感覚は、成果主義とは真逆です。
成果主義は「勝った人」にスポットライトを当てます。けれど、私が心を動かされるのは、勝った人よりも、挑み続けている人です。
サッカーをしていたときも、そうでした。
プレーが上手いかどうかよりも、顔を真っ赤にして、息を切らしながらも挑み続ける姿を、美しいと感じました。
どこか不器用でも、あきらめずに向き合う姿。
一生懸命な姿は、どうしようもなく尊い。
そこには、数字では測れない価値があると、私は確信しています。
努力は必ずしも報われない中で
ただし、現実は甘くありません。
理不尽な出来事はいくらでもあります。
自分が進めた仕事の手柄を持っていかれる。正論を言っても通じない。筋の通っていないことが、当たり前のようにまかり通る。
社会は、必ずしも努力を正当に評価してくれるわけではありません。
私自身、そんな葛藤に押しつぶされそうになったことは、一度や二度ではありませんでした。
けれど、問題や課題を「分かっている」だけでは、何も変わりません。 本当に変化を生むには、その問題に対して自分が動かなければ意味がない。
人生の中で、そう強く感じた瞬間が何度かありました。
正解探しよりも、引き受ける勇気を持つ
私はかつて、就職活動の中で、民間企業に進むか、国の行政機関に進むかで迷った時期がありました。
私には、ずっと大事にしている信念があります。
「誰もが努力でき、その努力が報われる社会をつくりたい。将来にポジティブな期待を持てる日本にしたい。」
評論家でいることは簡単です。
ただ思っているだけでは、何も変わらない。
難しいと分かっていても、誰かが引き受けなければ、社会は変わりません。当時の私にあったのは、合理的な最適解を求める感覚ではありませんでした。
「自分がその問題に関わるべきかどうか」という、ある種の覚悟に近い感覚でした。
「簡単ではないと分かっていても、社会が少しでも良い方向に進む可能性があるなら、自分もそこに関わりたい」
そう考え、私は国の行政機関への道を選びました。
もし今、あの頃の自分に戻ってもう一度やり直せるとしても、私は再び経産省の門を叩くでしょう。
だからこそ、あの時の決断は間違いなく「正解」だったと言い切れます。
外側から安全に問題を分析するのではなく、自らが当事者となる道を選んだことに、一点の後悔もありません。
冷静さと温度のあいだで
経済学には「クールヘッドとウォームハート」という言葉があります。 冷静な頭と、温かい心。
冷静な分析だけでは、人は動きません。
けれど、熱い思いだけでも社会は動きません。
大切なのは、冷静な頭と、温かい心。
数字を見る力。構造を理解する力。そして、人の痛みに想像力を持つ力。
どちらか一方では足りない。
そのバランスの中に、持続可能な努力があるのだと思います。
分析を冷たい計算だけにしない。
一方で、努力を感情論だけで終わらせない。
私は「考える人」でもありたいし、「動く人」でもありたい。
分析と当事者性、その間に立ち続けたいと思っています。
虚しさから始まる物語 『ファウスト』
私が好きな本に、ファウスト があります。
ドイツの文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が生涯をかけて書いた二部構成の大作で、テーマは「人間の欲望と救済」です。
主人公ファウストは、知識も名声も手に入れた学者です。
それでも彼は、人生に深い虚しさを抱えています。
そこへ悪魔メフィストフェレスが現れ、こう契約を持ちかけます。
「この世で本当に満足した瞬間があれば、そのときお前の魂をもらう」
若さを取り戻したファウストは、純粋な少女グレートヒェンと恋に落ちます。しかしその恋は、彼女を不幸へと追い込みます。母と兄は命を落とし、彼女自身も罪を負うことになる。最後は処刑されますが、信仰によって魂は救われます。
第二部でファウストは、より大きな世界へ向かいます。
権力、国家建設、理想社会の実現。
晩年、彼は「人々のために自由な土地を築く」という理想に生きがいを見出します。
そして、ある出来事をきっかけに、こう口にします。
「この瞬間よ、とどまれ! あなたはなんと美しいのだ!」
(原文:Verweile doch! du bist so schön!)
契約どおりなら、魂は悪魔のものになるはずでした。
それでも彼は救われます。
なぜなら彼は、決して立ち止まらなかったからです。
絶えず努力し、より良くあろうとし続けた。その姿勢そのものが、天上から肯定されたのです。
私はそこに、人間の美しさを見るのです。
「あすなろ」という生き方への希望
努力は、必ずしも報われません。
むしろ、報われないことのほうが多いかもしれない。傷つき、遠回りし、ときには失うこともある。
それでもなお、檜になろうとする。
100点でなくても、80点を目指す。−100を、せめて−70にしようとする。結果よりも、その「向かう姿勢」にこそ価値があるのではないか。 私はそう思います。
私は、努力している人間を肯定する世界をつくりたい。
勝った人だけが称賛される社会ではなく、挑み続けている人を、きちんと尊敬できる社会。
満足しないこと。安住しないこと。
それは、楽な生き方ではありません。けれど、そこにしか見えない景色がある。
檜になれなくてもいい。
それでも、檜になろうとする。
その姿を、私は美しいと思うのです。
追伸
人はそれぞれ、違うカードを持っています。
大きい小さいではなく、ただ「違う」ということ。
もし自分に何か与えられているものがあるなら、それを社会に生かす責任もあるのではないか。
それは特権意識ではありません。
「世の中を少しでも良くするために、生かさなければならない」という感覚に近いものです。
満足しないということは、欲深さではなく、より良くあろうとする誠実さなのかもしれません。
だから私は、これからも「あすなろ」であり続けたいと思います。
上松 真也
