夜次元クジラは金魚鉢を飲む #18

)クジラリンク(マリンスノー


18. ゆがめるもの


 波留が部屋に戻ると、充電ランプの緑の光が暗闇の中にポツンとあった。胸にある苛立ちをぶつけるにはスケッチブックでは狭すぎて、クローゼットにしまっていたWIZMEEウィズミーの電源を久しぶりに入れたのは昨日の夜のことだ。けれど、昨夜はプログラム更新中に充電が切れて結局使えなかった。

 那波のために写真モデルを引き受けてはみたものの、それがあの男・・・の入れ知恵だと分かっているからモヤモヤがおさまらない。顔は映らないようにするし、中高生のあいだでヨガが広まれば地区サークルの申請ができる、そうなれば人口の少ないこの街でもお客さんが来てくれると思うから。あの男と三人でいるとき那波はそう言って波留を説得したけれど、彼女の隣に並ぶあの男の表情が自分の案だと言っていた。

 部屋の電気をつけて手に持っていたワンピースを放り投げ、WIZMEEの充電コードを引き抜いた。ドアの外からは那波とあの男――田辺の声が聞こえている。

 那波が田辺一季タナベイッキを家に連れてきたのは二週間ほど前だった。仕事で出入りするという話が一泊二泊とずるずると居座り、洗面所には歯ブラシとシェーバーが置かれ、いつの間にか一緒に住むような話になっていた。田辺が来なければおそらくWIZMEEはクローゼットの中で眠ったままだった。

 波留はWIZMEEを手に取り、装着する前にふと気になってカーテンをめくった。外灯に照らされた海岸道路にシンの姿はなく、窓を開けて身を乗り出してみたけれどCONAの明かりも消えている。夜風は濃い潮の匂いがした。

 窓を閉め、WIZMEEを被って固定したあと視野透過度をフルに設定した。視野角はMRモードで五十二度。波留はベッド脇に丸めていたヨガマットを床に広げ、その上に乗った。

 視野透過度ゼロのVRモードだと、知らないうちに移動して物にぶつかることがある。留里のアトリエには十分な広さがあったけれど、この部屋では足元にガイドが必要で、ヨガマットの上なら手を伸ばしてもぶつかるものはない。

 セパレートタイプのグリップコントローラーを両方の手首に固定し、BGMリストからクジラの鳴き声を選択する。VRモードにし、描画アプリを起動した。新規作成を選択すると世界は真っ白になる。

 白い空間の中で、波留は軽くジャンプして足踏みした。最近は四次元散歩のせいか疲労感が続いていたけれど、怒りが蓄積するとエネルギーに変換されるらしい。諦めることに慣れてしまって、自分の中にこれだけのエネルギーが残っていたことが不思議なくらいだ。

 視野の右上にブラシとパレットが表示され、波留は大きめのエアブラシを選んで色は以前夜空の写真からキャプチャーした青みがかった黒を選択した。汽笛のようなクジラの鳴き声が耳元で聞こえる。右手をまっすぐ前に伸ばし、BGMに合わせてクルッと体を一回転させると波留のまわりに土星のように黒い輪ができる。クククッと、BGMに混じって夜次元クジラの声が聞こえた気がした。

 一心不乱に手を動かし、波留は世界を夜の色に塗り潰す。卵の殻を内側から塗装するように、丸く、隙間なく黒くすると、波留は一度WIZMEEを外してティーシャツの袖で汗を拭った。

「夜は作らなくてもある」夜次元クジラはベッドに横たわり、ギロリと眼だけを動かした。

「そんなのわかってる」

 もとより背景色を設定すれば簡単に黒一色の世界になる。けれど、それでは意味がない。

「僕がつくってるのはとばり

「何を隔てる?」

「僕と、僕をゆがめるもの」

 夜次元クジラは頭をもたげ、波留に向かって口を大きく開けた。外側から見ると夜次元クジラの体は透き通っているのに、その口の内側は途方もなく深い闇を湛えている。

「愚かな妄想だ。三次元にいるからゆがめられる。縛られて捻れる。さっさと離れればいいものを、中途半端なやつらだ」

「やつらって?」

「お前と、黒い金魚。それから……」夜次元クジラは最後まで言わず、フーッと潮を吹いた。

 波留は再びWIZMEEをつけ、ブラシの設定を変えて粗い銀色のスプレーを吹きながらゆっくりと床に腰をおろしてあぐらをかく。空間設定を五倍に拡大するとテントに針で穴を開けた簡易プラネタリウムのような世界ができあがった。

 コントローラーを手探りで外して床に置き、手を伸ばして光の粒に触れようとしたけれど波留の目に自分の手は映らない。意識だけがぽかっと宙に浮いているような感覚は、波留の気持ちを少し開放的にする。と同時に不安を掻き立てる。

「雑な夜だ」

 帳をすり抜けて夜次元クジラが顔を出し、狭苦しそうにまわりを見回すと、金魚くらいの大きさまで体を小さく縮めた。簡易プラネタリウムの夜空に浮かぶ小さな夜次元クジラは、さっき海辺で見た光景とも、留里の描いた絵本とも比べものにならないくらい作り物めいて見える。

「星は、それを星だと信じているから夜には星がある」

 夜次元クジラはからかうように絵本の一文を口にした。星が星に見えないのも、クジラが夜空に馴染まないのも、波留がそれを信じられないからだ。

「じゃあ、僕は信じるよ」

 心とは裏腹に、波留は絵本にある台詞を口にした。夜次元クジラはむくむくと体を大きくし、人くらいの大きさになって波留の隣に横たわる。

「夜次元クジラ。僕は留里ママに会いたい」

「会えばいい。会いたいと思えば会える。三次元から離れればひとつになれる」

「いつも分からない。夜次元クジラの言う四次元って、あの世のこと?」

「四次元には生も死もない。最初からあり、永遠にあり続けるだけだ」

 四次元に行きたくないのか、と夜次元クジラはいつも波留を試すように言った。その四次元とは、波留が勝手に名付けた「四次元散歩」とは違うようだった。けれど、波留にはその違いが分からない。

「行くのか?」夜次元クジラが聞いた。

「行くよ」

 波留がWIZMEEを外すと、ひと息つく間もなく夜次元クジラは口を開ける。夜次元クジラの内側にある漆黒の世界に飲まれて光が消える瞬間、波留は服の上からペンダントを握りしめ、そして留里ママに会えるよう祈る。

 目を凝らしていると闇は次第に薄らいでいき、コーヒーにミルクを入れたようなマーブル模様の景色が見えはじめた。それはゆっくりと意味のある形をとりはじめ、遠くからゆがんで聞こえていた音は徐々に近づき、突然、水の中から顔を出したようにクリアな世界が目の前に広がった。

 波留が通っていた小学校の校舎だ。


次回/19.母親たち

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