夜次元クジラは金魚鉢を飲む #28
28. 夢と過去
浴衣姿の人垣の合間から海斗が現れ、その照れくさそうな笑顔はシンと目が合うとスッと消えた。顔をそむけた海斗の後ろに紺地の浴衣を着た森谷が立っていたが、彼女はシンと波留には気づいていないようだった。
「俺、焼きトウモロコシ食いたい」
「まだ食べるの?」
森谷の姿を隠すように、海斗は彼女の背中を押して人混みの中に消えた。シンは、去年の夏に海斗から届いた意味不明のメールを思い出していた。
『見なかったことにしろよ。諦めるために俺がムリ言ったんだから』
あの時は意味が分からず『なんの話?』とシンが返信すると、『シンにしては気の利いた返しでウケた。サンキュ』と返って来た。サンキュと言われてしまうと何をどう聞いていいものかわからず、結局そのまま忘れてしまっていた。
海斗が森谷のことを気にかけていたのは知っている。ちょうど一年ほど前、森谷が恋人を事故で亡くしたという話をシンは海斗から聞いたのだ。「大丈夫かなあ、うちの担任」という海斗の言葉に、恋愛感情がこめられているとは少しも考えなかった。『諦める』というメールの文字を見たときも、受験のためにサーフィンをやめるんじゃないかとか、そういう心配をした記憶がある。
「海斗は、森谷先生が好きだったのかな」
シンがつぶやくと、「さあね」と思いのほか素っ気ない返事が返ってきた。
「興味があっただけかもしれない。大人の女の人に」
「興味があるのは好きってことだろ? 興味がないのに好きになんかなれない」
「僕はこの世界に興味があるけど、好きな人はいない。死んだ母親は好き。でもそれは興味じゃないし、シンだって、父親に興味がないわけじゃないよね。興味があるからよけい嫌になるんだ」
「親父に興味なんてないよ。波留こそ、あの人たちのことどう思ってるの? 自分にそっくりな叔父さんとか、一緒に暮らしてる父親希望の男の人とか」
口にしながら、波留を傷つけたかもしれないとシンは思う。現実では絶対にこんなことは聞かない。それでも、波留が不機嫌そうに目をそらすのを見て後悔した。
「ごめん、言い過ぎた」
「いいよ、別に。あの人たちのことは深く考えないようにしてる。好きか嫌いかなんて考えない方がいいんだ。近ければ見たくないものも見えるし、期待したら落胆する。嫌いになればイライラしてこっちが疲れるだけ」
「波留、寂しくない?」手を握ろうとしたけれど、やはり波留の体に触れることはできなかった。
「親切面してこっちのテリトリーに入って来られる方が苦痛。あの人たちが興味あるのは僕じゃない。叔父さんには家族がいるし、田辺さんは僕の母親に近づきたいだけ。那波ママは何考えてるのか分からない」
「俺は波留に興味があるよ。夢に見るくらい、波留のことが好きなんだと思う」
波留は目を見開いたあと、風船がしぼむように小さくため息をついて「ごめん」と口にした。金魚の水槽の前にしゃがみ込み、指を水に浸して金魚がすり抜けていくのをながめている。泣いているのかと心配になって、シンは波留の顔をのぞきこんだ。泣いてはいなかったけれど、伏した目が悲しそうだ。
「シンは僕が他の女の子と違うから興味が湧いたんだよ。シンの言う好きは恋愛とかそういうことだよね。それはたぶん勘違い」
「波留は、俺に興味ない?」
「あるよ。でも僕はたぶん恋愛できない。誰かに恋したことなんて一度もない。別に僕は一人でいいんだ。夜次元クジラとの対話はおもしろいし、こうやって四次元散歩するのも楽しい。体がなくても、触れられなくても、誰の目にも映らなくても、僕はいる。時間と空間を越えて」
波留の言葉はまるでうわ言のようだった。ぼんやりした目つきをして、水槽の中でブラブラと手を動かしている。その手がピタリと止まった。
「そういえば、海斗にはシンが見えてたよね」
「えっ? うん、たぶん」
何か考えこんでいる様子の波留は、パッと顔をあげると「そっか」と膝を打った。
「海斗にとってはシンが対話者なんだ。仲良いもんね」
「対話者?」
「うん。話し相手っていうか、自問自答の相手。夜次元クジラは絵本の中では少年の対話者なんだ。どうして僕は花に触れられるんだろうとか、どうして僕は星を星だと思うんだろうとか。少年はそういう疑問をクジラに尋ねる。かんたんに言うと、答えは自分の中に見つけなさいっていう話。僕にとっても夜次元クジラは対話者なんだ。森谷先生の対話者は出目金。シンは海斗の対話者だから、四次元にいても海斗にはシンが見えたんだよ。もしさっき海斗がシンの肩でも叩こうとしたらヤバかったね。体すり抜けちゃうから、デートどころじゃなくなってるよ、きっと」
「海斗も俺みたいに夢だって気づくんじゃないの?」
「あっ、そうか。シンにも僕が見えたんだ」
波留はうろうろと目を泳がせ、「波留?」とシンが問いかけるとためらいがちに視線を合わせた。
「シンは一人でいるとき、心の中で誰かに話しかけたりする? 声に出してもいいけど」
シンが最初に思い浮かべたのは、昨夜からずっと頭の中に居座っている波留だった。口にするのが照れくさくて言い淀んだ一瞬に、波留に出会うずっと前から無意識に話しかけている相手がいることに思い当たった。
「海」
「海?」
そのとき、シンの目の前にいる波留も金魚すくいの店主も、屋台も鳥居も神社もすべてのものが海に沈んだ。波留は立ち上がり、驚いた様子でキョロキョロとあたりを見回している。
「微睡の海だ」シンが言った。
「これが?」波留は水中に揺れる提灯の明かりを呆然とながめている。
「サーフィンで波を待ってる時に、海に話しかけるんだ。寝る前もぼんやり考えごとしてると海が現れるから、なんか話しかけたりしてる」
空を見上げた波留が、「クジラ」とつぶやいた。はるか高くから潜り下りてくるクジラは、大声で笑ってシンの体をビリビリと振動させる。
「おもしろい」
クジラは大きく口を開けて、全てを飲み込もうとしていた。
「波留っ!」
クジラが尾ビレで生み出した渦が波留を巻き込み、シンは引き離されないように手を伸ばした。波留は落ち着いた様子で流れに身を任せている。
「シンは大丈夫。戻りたいって思えばちゃんと三次元に戻れるはずだから。また明日、学校で」
クジラのつくった微睡の海の渦に翻弄され、波留の姿はどんどん遠ざかっていく。いつの間にか屋台は消え、波留の姿もなにもかも漆黒の闇に飲まれて見えなくなった。
次回/29.スノードーム
#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022
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