夜次元クジラは金魚鉢を飲む #27

27.二人の四次元散歩
深夜一時をまわった頃、シンはベッドの中でぼんやりスノードームをながめていた。
部屋の電気を消すと、幼いころ天井に貼った星形の夜光シールがぼんやりと淡い光をまとい、北斗七星と北極星があらわれる。スノードームの中にも、マリンスノーのようなキラキラした星が光っていた。
ヘッドボードにスノードームを置いて天井の星をながめているうち、微睡の海が見えはじめて星がユラユラ揺れる。眠いのに体の芯が興奮しているのは、頭の中に居座っている波留のせいだ。
寝返りを打つと、波留がハンギングバスケットの傍に立っていた。一番上の小さなバスケットに手をのばし、スノードームがそこにないことに気づくとシンの眠るベッドを振り返る。ずいぶん分かりやすく願望の反映された夢だとシンは思った。
波留の後ろの壁から、クジラがぬっと姿を現した。体長はシンの背丈と同じくらいで、波留の横をすり抜けてシンの顔をのぞき込み、ギョロッと瞳をひと回りさせる。波留はヘッドボードにスノードームを見つけて「アッ」と小さく声をあげ、シンが傍に寝ていることなどお構いなしに顔を近づけた。
「これがここにあるってことは」つぶやいて、波留はきょろきょろと部屋を見回した。
「一時半か。未来に来るのは初めてだね。いつなんだろう。そんなに先じゃないと思うけど、連休は明けてるのかな」
「まだだよ」
シンが答えると、波留はビクッと肩を震わせて体を引いた。クジラは頭をもたげ、真上からシンの顔をまじまじと見下ろしてくる。
「おもしろい」
クジラが体を揺らして笑うと、微睡の海がクジラに合わせてユラユラと揺れた。
「シン、起きてたんだ」
「えっと、寝てると思う。波留が部屋にいるし、クジラが泳いでるし」
「クジラ、見えるの? 僕のことも」
「見えるよ。こういうパターンの夢、めずらしい。いつもは海だけなのに」
波留は驚いたように自分の手足を見ると、神妙な顔つきをして胸の前で両手を合わせた。その手は重なり合い、右手は左手をすり抜けてクロスする。それを見た波留はおかしそうにクスッと笑い声を漏らし、「体だ」とつぶやいた。
「シンは海の夢をよく見るの?」
「寝る間際にね、見てる景色と海が重なる。微睡の海って呼んでるんだけど、だいたいそのまま寝ちゃう。でも、夢にまで波留が出て来るってちょっとヤバいよね」
「ヤバい?」
「うん。なんて言うか、……さすがに夢でも本人には言えない。とりあえず、夢でも会えてうれしい」
「ふうん、へんなの」
波留は顔をそむけ、ベッドの隅に腰を下ろした。シンはもぞもぞと布団から這い出し、波留とは反対側のベッドの隅であぐらをかく。それからヘッドボードに置いてあったスノードームを手にとると、天井近くにいるクジラと比べるように頭の上に掲げた。
「全然違うね」
クジラはまたククッと笑ったようだった。
「波留の言ってた夜次元クジラ、検索してみたんだ。VR絵本ってすげえ高いんだね。驚いた」
「安いのもたくさんあるよ。夜次元クジラはどっちかっていうと大人向けのアート作品だから、そういう値段がついてる」
「ふうん。ところで、波留は海斗に興味あるの? さっきも色々聞いてたし」
「さっき? もしかして、僕がシンの部屋に来たのって、さっきなの?」
「そうだよ。俺、波留が帰ってからずっと波留のこと考えてる。家のこと大変そうだなあとか、叔父さんとは上手くいってないのかなあとか、あと、海斗とは普通に話してたなあとか。ねえ、波留は海斗のことが好きなの?」
波留は困惑したように首をひねり、いつもの癖で胸元を掴んだ。シンはどうせ夢なのだからと、身を乗り出して波留に手を伸ばしたけれど、その手は何の感触も得られないまま彼女の頬をすり抜ける。顔を強ばらせた波留が、すり抜けていったシンの指先をじっと見つめていた。
「夢なら触れられると思ったのに、夢だから触れられないのか」と、シンが苦笑すると、ククッと天井から笑い声が聞こえた。
「お前も波留と同じところに来ればいい」
「どうやって?」
クジラはシンの質問には答えず「行きたいか?」と静かに聞いた。波留はどこか不安げな顔でペンダントを握りしめている。
「行きたい」
シンがクジラを見上げると、目の前でクジラがぱっくりと口を開けた。自分と同じくらいの大きさだったはずのクジラの口は、部屋ごと飲み込んでしまうほどの大きさになり、シンの視界を覆い尽くす。その中は黒よりももっと暗い黒だ。
――飲まれる……!
シンはギュっと目を閉じてスノードームを握りしめた。このまま目を開けたらきっと布団の中で、せっかくの波留との夢も終わってしまう。そう思うと、目を開けるのが惜しい。
海に漂っている感覚があるのに何も見えないと不安が募り、ふと、もう朝になっているのなら金魚部屋に行けば波留に会えるのだと気づき、シンはそうっと瞼を持ち上げてみた。けれど、そこはベッドの中でも自分の部屋でもなく、隣町にある神社だった。手にはスノードームがある。
宵闇の参道は屋台と提灯の灯りに照らされ、浴衣を着た人たちでごった返していた。振り返るとすぐ傍に波留が立っていて、彼女がまだ夢の中にいることにホッとする。
「シン、ここは?」
「国府神社。自転車で一時間半かけて海斗と夏祭りに来たことがある」
「へえ」
波留は本殿の方に歩き出し、シンはその手を握ろうとしたけれど、伸ばした手は彼女の体に触れられない。「クジラの嘘つき」シンがぼやくと、波留が「ホント、そうなんだ」と笑った。
「四次元同士で触れるのは無理みたいだね。そういえば僕はクジラに触れたことない。クジラは思わせぶりな言葉で僕らのリアクションを楽しんでるんだ。僕らがゲームを楽しむみたいに、クジラは僕らで遊んでる」
人混みの中を波留は歩き、参道を埋め尽くす人々は彼女の体をすり抜けていった。姿を見失いそうになり、シンは慌てて彼女の後を追いかける。
イカ焼きの香ばしい香り、りんご飴の甘い匂い、お好み焼き、射的にヨーヨー釣り、お面の並んだ夜店は去年映画がヒットした『妖魔犬士BOWZ』のキャラクターでいっぱいだった。波留はその店の前で足を止め、ピンと耳の立った主人公柴ノ輔のお面をじっと見る。
「BOWZが流行ったのって去年だよね。シン、去年の夏はここに来た?」
「来てない。俺が海斗と来たのは小学生の頃だから」
「そっか。じゃあここにいるのは誰なんだろう」
キョロキョロと辺りを見回したあと、波留は「あそこに意識を向けて」と朱色の鳥居のてっぺんを指した。波留の姿がフッとシンの隣から消え、鳥居の上に現れる。
「えっ?」
動揺する間もなく、シンの足元に朱色の鳥居があった。
「すげえ、瞬間移動だ。もしかして空も飛べるかな」
参道の上空に目を走らせたシンは、景色が変わったことに気づいた。鳥居の上に立つ波留の姿は数十メートル離れた場所にあり、足下を見ると人がぞろぞろ歩いている。思いがけない高さにゾッと背筋を震わせたとき、「僕を見て」とすぐそばで波留の声がした。
「時間も、空間も、意識を向けた場所に行くんだ。おおよそだけどね。時間の流れは体に染み付いてるから多少伸び縮みはあっても連続性を保ったまま進んでく。でも、空間は三次元感覚をしっかり持っておかないとあちこち飛んじゃう。特に、意識が地面から離れてるときは。だから、しばらく僕に意識を向けてて」
「わかった」シンは波留の顔を見つめたまま小さくうなずいた。
波留は落とし物を探すように足下に向けた視線を動かしながら、ゆっくり歩いて宙を移動していく。シンが波留の横顔をここぞとばかりに見つめていると、「穴開いちゃったよ」と海斗の声が聞こえた。金魚すくいの屋台の前で、海斗が破れたポイを手に悔しがっている。
「あ、いた」
波留の声がシンの耳に届いた時には、二人とも金魚すくいの屋台のそばに立っていた。海斗は二メートルほど離れたところにいるけれど、行き交う人に遮られて誰と来ているのかよく見えない。
「二匹でいいよ、海斗君」
シンの耳に届いたのは聞き覚えのある声だった。
「じゃあ、そろそろ花火始まるから河川敷の方行こうか」
「ちょっ、ちょっと待って、海斗君」
「手くらい繋いでもいいじゃん。今日だけだから。俺ちゃんと諦めるって言ったよね」
チラッと見えた森谷の姿と、その手を引く海斗。これは一体どういう夢なのだろう。
シンは何か見てはいけないものを見ている気がして動揺を抑えられなかった。
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