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【長編】山猫軒のオーダーシート(3)

「当軒は注文の多い料理店ですから
どうかそこはご承知ください」

宮沢賢治『注文の多い料理店』

 流行はやりの楽曲はおろか、名曲と親しまれるものにすらうといタイプの俺ではあるが、黒川がアカペラで歌うそのフレーズには聴き覚えがあった。

『君を守るために生まれてきた』。サビの歌詞をなぞる、滑らかな歌声。マイクを口元から離してなお響く声量、その音波がもたらす肌の振動から、素人目にも、気持ちひとつで歌っているわけでないことが理解ができた。誰かに届けるための歌い方で、誰かに届けるだけの技量がある。それがわかった。

 ワンフレーズを歌い切り、黒川はマイクを切る。ひとつ咳払いをして、小さく頭を下げた。

 上手い、と思う。
 その「上手い」が巷の平均値と比べどうであるかは知らない。これぐらいの奴は意外といるものなのだろうか。

「カラオケで聴くのは違和感があるレベル」こちらの意図を察したのか、同じく黒川の歌を聴いていたツクルが言う。「上手いよ」 

 こいつが褒め言葉を口にするとはめずらしい。思うと同時に、いつの間にか、意識が歌の批評に寄っていることに気がつく。引いていた波が戻ってくるようにして、今この場でこの歌声が挿入されたことへの違和感が、ようやく脳をひたし始める。

 何をやっているんだ、こいつは。

「ここまでできるようになったんだ」

 逆光を受け立ったまま、黒川が言う。

「声が出るようになっても、別に順風満帆なわけではなかった。当初は声帯がついていかなくて、普通に喋っても誰にも聞こえないし、張ろうと思えば咳き込むし。無理をした日は喉が枯れて、でも無理をしなければ、発声の感覚を忘れてしまいそうで。ちょうど声変わりの時期と重なったのも良くなかった。誰かとコミュニケーションをまともに取れるようになるまでに、ずいぶんと時間がかかった」

 村井君。俺に呼びかけ、黒川は続ける。

「君がさっき言ったように、僕はあのクラスでいじめにあっていた。でも正直、君たちが思うほど、僕は当時のことを気にしちゃいない。僕にはそれが普通だった」

 声が出ない。ただそれだけで、偏見を浴び、誤解を受けて。
 声が出ない。故に当然ながら、その誤解を解くことも叶わない。

「行く先々でそうだった。君たちのクラスが特別なわけじゃない。同じ調子で、何度も転校を繰り返していた」

 掠れた声音。
 前髪の奥、黒川の目は隠れて見えない。

「さっき言ったみたく、話せるようになってからも、周囲に溶け込むのは難しくて。高校には進学せず、医者に紹介されたボイストレーナーのところへ通った。その人と繋がりのあるアナウンサー学校にも入ることができて、そこでただ声を出すだけでなく、表現することを学んだ」

 声が出ないというマイナスから、声で魅了するというプラスの域へ。
「何とか食らいついて、ここまでできるようになったんだ」
 前髪の隙間から、目が見える。
「取り戻したこの声を活かす仕事に、僕は就きたい。今まで世界を汚すことしかできなかったこの声で、世界を動かすのに一役買いたい。そう強く思っている」
「人を殺してでも、か」

 俺は言う。
 疑問ではない、非難だ。この場にいるものとして、誰かがしなくてはならない、当然の指摘。
 黒川は口を結び、一瞬ひるんだ様子を見せた。怯んでくれたのが、唯一の救いに思えた。

 しかし、救いは訪れない。

「うん、そうだ」

 黒川は答える。

 俺は黒川の座っていた席を見る。スツールの下、床に直置きの形で、先ほどスマートフォンを取り出した布地のトートバッグがへたり込んでいる。

「ずっと気になっていたが、それはお前の荷物か」
「え、あ、これ? うん」
「人を殺した。その場から逃げてきた。そんな土壇場で、悠長に荷物をまとめて出てきたのか」
 言葉に詰まったような間が空く。俺は続ける。
「家の鍵はどうだ。閉めてきたか」
「…………それは」
「ずいぶんと冷静だな」

 黒川は再び俺の前に来て、テーブルに片手をつき、身を乗り出す。しかし、思い直したのか、すぐスツールに腰を戻し、下を向いて息を吐いた。

「このカバンには、台本が入っているんだ。これが無いと、仕事に行けない。床に倒れた彼女が、簡単に見つかられても困る。だから鍵をかけておく必要もあった」
「冷静だ」
「冷静じゃない。必死だった」

 長く、細く、息を吐く音。

「何度でも言うよ、村井君は正しい。でも、僕にはこれしかないんだ」下を向いたまま、うめくように。「決して大きな仕事じゃない。おそらく誰も気に留めない。でもこれを成し遂げないと、僕自身が僕の人生に意味を見出せない、肯定できない。そういう類のものなんだよ。そして今この機を逃したら、おそらく二度とチャンスは回って来ない」

 二度と。
 一生。

「一度切りでいいんだ。いや、一度切りしかない。誓うよ。これが終わったらきちんと罪を償う。その気持ちはちゃんとある」

 今一度、身を乗り出す。
 今度の勢いは強く、テーブルに載ったグラスとカップ、その水面がざわめくように揺らいだ。

「村井君、お願いだ。どうか力を貸してください」

 頭が下げられる。
 前髪が揺れ、先ほど見せられた傷が、再び顔を覗かせる。

 なるほどな、と思う。

 人を殺したこと。
 殺しておきながら、逃げてきたこと。
 逃げる行き先に、一時しか交わりのない旧友を選んだこと。
 その旧友に協力を仰ぐため、歌まで歌ってみせること。

 どうしてそんなことができるのか、疑問であった。不道徳で非常識な行いを、支離滅裂で意味不明なものだと感じていた。

 だが、違う。
 善悪も、倫理も、道義も、分別も、理解した上でこいつはやっている。
 こいつの中にある確たる優先順位に従い、理路整然と行動している。

 黒川稔。こいつは正常だ。
 正常に、狂っている。

「理解した」

 俺の声に、黒川の頭が上がる。

「……協力して、くれるの……?」
「しない。断る」俺は返す。「おそらくお前の思いは正しく理解している。理解した上で、断る」

 当然だ。こいつがいくら善悪や倫理の向こう側にいようとも、俺がいるのはこちら側。彼岸のルールは適用されない。

「人を殺したんだろう。見捨ててきたんだろう。そんなお前に手を貸すことに、嫌悪しか俺は感じない。その嫌悪は、お前が今訴えた内容では覆らない」

 正常なお前なら。
 狂ってなお正常なお前なら。

「俺の言っていることがわかるだろう」

 無言のまま、前髪の奥の瞳と目を合わせる。
 黒川はスツールに腰を落とし、肩を丸めて項垂うなだれる。そして力ない動きで、首を縦に振った。

 そのかげった顔に向け、俺は続ける。

「これでお前と俺の話は終わりだ」
「……うん」
「だから、しばらくそこで待っていろ」
「……え?」

 俺はグラスに口をつけ、その水位を下げる。そして右を向き、それまで黙り続けてきた幼馴染おさななじみを見た。

「ツクル、お前の話を聞く」俺は言う。「俺をここに呼び出したのは、お前だ」

 ツクルはひとつ息を吐き、銀縁メガネのブリッジを指で押し上げた。

 本題が始まる。

 三科みしなつくるともし幼馴染でなかったのなら。
 そう仮定したことが何度かある。

 先述の通り、俺たちは同じ団地で生まれ育ち、幼少の頃からの顔見知りであった。親同士の交流をきっかけに、無理矢理『おともだち』の枠にてがわれた存在。保育園も同じで、義務教育に入るまではまだ、一緒に過ごした記憶も記録も残っている。

 しかし、小、中学校へと進むにつれ、その仲も自然と疎遠になっていった。所属するコミュニティが数の意味でも種の意味でも広がりを見せる中、俺たちは単に「家が近い」だけの存在に成り下がり、『幼馴染』という聞こえのいいカテゴリに互いが互いを置くようになった。

 そこで、仮定である。
 三科創ともし幼少の頃からの仲でなかったのなら。
 俺は果たして、こいつと交わることがあったのだろうか。

 互いに口数が多い方ではない。積極的に他者と関わることもしない。そもそものスタンスからして、距離を近しくする機会は少なく、友人になる可能性は極めて低かったことだろう。

 しかし、その存在すら意識しなかったか、と言えば、そうではない。ツクルの特異なパーソナリティは、おそらく離れた場所にいたところで、俺の目を惹くものであっただろう、と思う。

 冷静で、周りに流されない。平易な言葉を使えば、そのような表現となろうか。だが、それだけでは伝えきれない独特さがある。冷たく鋭い刃物でありながら、泰然と揺るがぬ大木でもあるような。厳しさの一方で、どこか懐の深さを感じさせる、そんな雰囲気を持っている。

 普通に過ごしていればわからない。決して目立つタイプではないツクルの、一目には判別しにくいその特異さに、気がつく者はきっと少ない。

 気づけるとしたら、それは。
 おそらく、不安定な者。

 満たされず、揺れ動き、見失い、彷徨さまよって。
 各々の境遇がもたらす吹雪の中、何かしら拠り所がなければ立っていられぬ者にとって、ツクルのまとう"ゆるぎなさ"のようなものは、雪小屋の灯りのように煌々こうこうと光って映るに違いない。

 だから、俺はきっとツクルを見つける。
 満たされず、揺れ動き、見失い、彷徨った。
 そんな俺なら、その灯りを見逃すことはない。そう思う。

「黒川に協力する」

 開口一番、ツクルは俺に対し結論を述べた。

「理由は」
「そうしたいから」
「感情的だな」
「当然だ」

 人の行動原理は、突き詰めるとすべて感情だ。格言めいた物言いで付け加え、ツクルは俺を煙に巻く。
 その「感情」の中身を問いたいところだが、おそらく答えは返ってこない。少なくともこの場、黒川の前では。

 答える気があるなら、こいつは最初から明かしている。
 故に別の質問を重ねる。

「どう協力する」

 ツクルは頷く。

「シグの家でかくまって欲しい」

 まぁ、そうなるだろうな。予想はしていたので、驚かない。
 俺が呼び出された理由は、そこしかない。

 今年の春から、俺は一人暮らしをしている。家を出たわけではない。住んでいるのはツクルと同じ、生まれ育った団地のままだ。
 イレギュラーではあるが経緯は単純で、共に暮らしていた母と妹が家を出た、それだけである。父が早くに他界した我が家は、元々、俺のほかに母、妹、そして祖母を含めた四人家族だった。昨年祖母が亡くなり、三人に。そして母と妹が家を出て、俺一人になった。

 妹には障がいがある。幼い頃に病気を患い、その影響で右手右足に麻痺が残った。脳の発達にも支障があり、もう十七になるところ、知能は小学校低学年の水準だ。自力で生活することは困難で、食事、排泄を含め身の回りの世話が必要となる。

 祖母がいる頃は、そのケアをほぼ一任していた。祖母が体調を崩してからは、母が在宅勤務となり、祖母の代わりを担った。そして祖母が亡くなった。

 妹にとってよりよい環境に、との母の発案で、母と妹は郊外に移り住むことになった。俺も同行するものと思ったが、引っ越し先から今の大学へは通えない。結果として、あの団地の部屋は母の名義で借り続けたまま、俺一人が残り、住むこととなった。

 以上の経緯で、実家住まいにして一人暮らし。それが俺の現況である。

「可能か」
 ツクルが問う。
「物理的には」
 答える。もともと四人で暮らしていた部屋だ。スペースには余裕がある。

 しかし、そこで殺人犯をかくまう、となると話は別だ。
 承服しかねる理由がいくつもある。
 まず、第一に。

「俺たちが罪に問われる可能性は」
「ないとは言えない」ツクルは答える。「ネックになるのは、死体が第三者に見つかるかどうかだ」
「SNSで調べてみたらどうだ。すでに騒ぎになっているかもしれない」
「それをするのは後だ。足がつかないよう、ふるい端末でアカウントを作り、検索する」
「旧い端末など無いが」
「俺の家にあるものを使う。情報収集はその一台から。お前は検索を控えろ」
「そもそもアカウントを持っていない」
「重畳だ」
 軽く息を吐く。
「おそらくまだ見つかっていないだろうし、このまましばらくは見つからない可能性が高い。被害者と黒川が同居していたのであれば、すぐさま探そうとする家族はいない。せいぜい連絡がつかない知人が不審に思う程度だ。寒くなってきたこの時期、異臭が出始めるにも数日かかるだろう。リミットである明後日まで、逃げ切れる公算は高い」

 だが、何が起こるかわからない。

「なので、すでに死体が発見され、黒川が警察に追われている前提で行動する」
「……具体的には」
「見つかったときの言い訳を考えておく」
「嘘をつく、ということか」

 ツクルは頷く。

「嘘はシンプルであるほど強度が高い。だから『知らなかった』で突き通す」
「『知らなかった』」
「あぁ」

 俺たちはただ旧友に会い、意気投合してカラオケへ、そのまま盛り上がり家に泊めた。
 黒川が人を殺して逃げているなど、微塵も知らなかった。

「……突き通せると思うか」俺は問う。
「突き通す」ツクルは言う。「『知っていた』と立証するのは、この場を録音でもしていない限り、不可能だ。多少不自然に感じられようとも、俺たちが突き通しさえすれば、それを真実とせざるを得ない」
「多少の不自然では済まないだろう。数ヶ月だけの元同級生を、家に泊めることは普通ない」
「飲み屋で会った初対面のやつと盛り上がり、酔った勢いでホームパーティーに及ぶ学生もいる」
「あまり近づきたくないタイプだ」
「今から俺たちはそれになる」

 言って、ツクルはメガネのブリッジに指を当てた。

「脅されているパターン。巧妙に騙されているパターン。色々考えたが、これがベストだ。ただ『知らない』。逃走の補助をしている、という自覚がなかった。このひとつの嘘を貫き通す」

 嘘。
 そう、嘘をつく。
 警察という公権力に対し、真実を歪める。おそらくそれ自体も、罪に問われる行為だ。
 程度のほどはわからない。だが、情状酌量の余地があろうと、罰を受けることを免れようと、罪は罪。

「犯罪者になれ、ということか」
 俺はツクルを睨む。
「否定はしない」
 メガネから手を離し、ツクルは頷く。

 俺は肺に溜まった空気をゆっくりと吐き出す。グラスに残った水が目に入り、それを飲み干して立ち上がった。視線を向けてくる黒川を一度見下ろし、ツクルへと身体を向ける。

「黒川のため、そこまでする義理は、俺にはない」
「あぁ」
「この場で警察を呼び、こいつを突き出す。それが正しい行いだ」
「あぁ」
「日常を荒らされ、罪を背負う。お前の提案は、俺にとってはデメリットしかない。そういう不条理なことを頼もうとしていると、わかっているか」
「あぁ」

 問答の最中さなか、一ミリたりとも視線を逸さなかったツクルは、そこで初めて立ち上がり、頭を下げた。

「シグ、たのむ。お前しかいない」

 分けられた前髪が、重力に任せ、左右から雪崩なだれ。
 そのシンメトリーを見下ろしながら、俺はまた長めの息を吐いた。

 わかってはいた。
 善悪を、倫理を、条理を、分別を、こいつが見失うことはない。
 わかってはいた。
 善意を、倫理を、条理を、分別を、ただ真っ当に貫くだけと言うのなら、

 こいつは自分でやっている。

 何秒間の静寂。ドア越しに伝わる音楽のリズム音。隣で、黒川が唾液を飲む音。
 そこに被せるようにして、俺は答える。

「理解した。協力する」

 雪崩れた前髪を逆再生で元に戻し、ツクルの顔が持ち上がる。

「礼を言う」

 ブラックライトの下、いつもの無表情に、ほんのわずかな赤みが差しているように感じた。


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