【長編】山猫軒のオーダーシート(4)
「注文はずいぶん多いでしょうが
どうか一々こらえて下さい。」
◆
『彼女?』
友達を家に泊める、と電話で告げた俺に、母はまずそう反応した。
「違う。小学校の頃の同級生だ」
『女の子?』
「男」
『あぁ、そう……』
つまらない、とでも言いたげに、母は声のトーンを落とす。
『別に友達を泊めるぐらい、断りなんか入れなくてもいいわよ。今はあなたの家なんだから』
「名義も家賃を払っているのも母さんだ」
『名義も家賃を払っているのも母さんな下宿生が、世の中に何人いると思っているの?』
知らない。そういうものなのだろうか。
『胡桃』電話の向こう、母が呼びかける。移動しながらなのか、歩行の振動音を感じた。『お兄ちゃんだよ』
時計を見る。もうすぐ日付が変わるような時間だ。
「まだ起きていたのか」
『普段寝ているはずのあなたが電話してきたから、何事かと思い叩き起こしたのよ』
「わざわざ起こす必要はない」
『あなたと話したがっているの。代わるわよ』
ガサゴソとした摩擦音に続き、妹の細い息づかいが聞こえてきた。
『おにいちゃん』
「胡桃、元気か」
『げんきー』
眠気もあいまってか、舌足らずな物言い。こわばっていた胸がほぐれる。
『リハビリがんばってるよ』
「そうか。えらいな」
『あとあした、おかあさんとピクニックいく』
「ピクニック?」
『こないだもいったよねー』おそらくは、近くにいる母に向け。『みち、いっぱいあるいたよ』
「歩いたのか」
『すごい?』
「すごい。よく頑張ったな」
『ぷひゅーぅ』
妹がよくやる、家族間では馴染みの笑い方だ。
『ちょっとさむかった』
「大丈夫だったか」
『でもネコいた』
「ネコか。よかったな」
『おにいちゃんも、あしたいこう』
「……明日はちょっと難しい」
『じゃあこんど』
「あぁ、今度行こう」
おやすみ、と言い合って会話が終わる。再び電話の相手が母に変わる。
『最近ときどき、公園に行くのよ。芝生のあるところが近くにあって。だいぶしっかり脚が動かせるようになってきたと思う。ほら、前はちょっと外に出るにも、まず一階まで階段を下りなきゃいけないから、大変だったじゃない。ここだと、お出かけにも気軽にチャレンジできる』
「そうか」
『ふふ。たまにこうして電話してあげて。あなたがいなくて寂しがっている』
「そちらから電話してくればいい」
『そんなこと言ったら、毎日かけちゃうよ。あの子』
別に構わない、と答えかけ、思いとどまる。
妹は端末を持っていない。電話をかけるとなると、母親のものを使うことになる。これまで幾度も緊急連絡を受けた番号だ。着信がある都度、何かあったか、とやきもきして身が持たない。
『まぁ、そんなこんなで、こっちは順調にやっているから。あなたも自由にやんなさい』
あとね。少し顰めた声で。『本当に女の子呼ぶときは、絶対今みたく電話入れてきちゃ駄目よ。興醒めだから。ドン引きされちゃう』
「切るぞ」
『うん、おやすみ。友達と楽しんで』
「おやすみ」
通話が切れる。なんだかとても疲れた気がして、俺は長めの息を吐いた。
「どうだった」
家のダイニングテーブル、隣に座るツクルが訊ねる。
「別に連絡は要らない、と言われた」
「だろうな」
無表情の相槌。さもありなん、といった様子だ。そもそもこいつは俺が電話をかける前から「わざわざ断る必要があるのか」と疑問を呈していた。
旧友と再会し、盛り上がり、家に招いて、そのまま泊める。それがツクルが作ったシナリオだ。
仮に警察に目をつけられたときの予防策として、以降、俺たちの行動は、全てこれに準えたものとする。それもただ筋をなぞるだけでは意味がなく、外見上、必要なリアリティはすべて確保しなければならない。
そのため、俺たちがあの話し合いの後まずやったことと言えば、引き続きカラオケに居座り、黒川の歌を聴くことだった。
ツクル曰く、『防犯カメラ対策』。俺は気づいていなかったが、あのカラオケの個室にはドーム型のカメラが設置されており、後々その映像がチェックされたときのため、不自然に映らぬ挙動をとっておく必要がある、とのこと。
カラオケに来ておいて一曲も歌わないなどありえない、ということだろうか。それを言うならば、すでに数十分ただ語り合うだけの絵面が収録されているはずであり、さらには仰々しく頭を下げた場面もある。ナチュラルを装うには手遅れな状況では、とも思えたが、ツクルの見立てでは「その辺りはどうとでもなる」らしい。久闊を叙していた、四方山話に花が咲いた。いくらでも誤魔化しは効くし、真実も似たようなものだ、とのこと。
「一番のハードルは、家に招くほど『盛り上がった』という部分。その演出だ」
理由は明快で、「俺もお前も、滅多なことでは盛り上がらない」。なるほど、それはその通りであり、もし警察が俺たちの人となりまで調べたならば、たちまち先述のシナリオは信憑性を失う。三科君はそんなことしません。村井君に限ってありえません。冗談のような話だが、そんな証言が集まり嘘が露見することも、大いにありうる。
「普通にしていれば、盛り上がらない。だから、普通じゃないことをする必要がある。現状ここまでで、最もイレギュラーかつセンセーショナルな要素は何か。『黒川が人を殺した』は知らない前提。なら残りはひとつしかない」
『昔、声が出なかった同級生が、声の仕事に就こうとしている』。
「その象徴として、黒川の歌を使う。あの黒川が、人に歌を聴かせるほどの変貌を遂げた。そこに感銘を受け、気持ちが昂った。この線で行く」
それでも俺たち二人が『盛り上がる』には足りないかと思うが、他に要素がないのだから仕方がない。実際、黒川の歌声には、いっとき胸を奪われもした。
そして言いたくはないが、そこに『昔、自分たちがいじめていた黒川が』という要素が加わるならば、わからなくはない展開だ。再会により過去のわだかまりが解け、その安堵と高揚が後押ししての流れであるのなら、およそ不自然ではない。
とにかく、俺たちは黒川の歌を聴くこととなった。先にアカペラで披露された楽曲を始め、数曲を立て続けに。ちなみに最新の曲以外は、どれも俺の知らないものだった。
『旧友と会い』、『盛り上がった』。カラオケを後にした俺たちは、続く『家に招く』の演出のため、道中コンビニで、食べもしない菓子や飲み物を購入した。黒川の下着や衛生用品もここで買ってしまうか、との話になったが、「この段階ではやめておけ」とのツクルの指示だった。後で追加の飲み物を買いに出る、その時にしろ、と。
しかし、追加の買い出しはなさそうだった。
俺の家にたどり着き、買ったものをテーブルに置いて間もなく、黒川はうつらうつらとし始め、そのまま泥のように眠ってしまった。
そして、今である。
招いた友人を『泊める』。そこにもリアリティを出すのであれば、母に断りを入れるべきであろう、と思い電話を入れた。結果、冒頭の通り。母からは「不要」と返され、ツクルからため息をつかれている。
「俺もお前も、すでに二十歳だ」
ダイニングのテーブル、菓子類の海の中、灯台のように立つビールのロング缶に指で触れ、ツクルは言う。
「老婆心ながら言わせてもらうと、おばさんがお前にひとり暮らしをさせているのも、その辺を考慮してのことじゃないか」
「……自立しろ、と言いたいのか」
「一言で言うなら」
「経済的に難しい」
「精神的な話をしている」
いつまでいい子のままでいるつもりだ、秘密のひとつも持ってみせろ。そう言いたいのだろうか。
だが、秘密ならすでにある。何しろ、犯罪の片棒を担いでいるのだ。親の教えに従順であるとは到底言えない。恩を仇で返す裏切りである。
裏切り。
その単語に行き当たり、ようやく思う。
息子が殺人犯をかくまった、という事実は、母に、妹に、どれほどの影響があるのだろう。
最終的に黒川は自首をするつもりだ。逃避行の間、この家に寝泊まりしたことも証言される。嘘が露見するか否かに関わらず、その事実は公になるだろう。
特に嘘がバレた場合、何もないとはいかないはずだ。バレたら、俺は犯罪者となる。家族にまで直接的なペナルティは課されないとしても、後ろ指をさされ、もしかしたら今の環境を失う事態に及ぶかもしれない。
先ほど聞いた、妹の無邪気な声がよみがえる。
胃の底が空洞に化けたような感覚。
「どうした」
ツクルが訊ねる。
「いや」息を吐く。「急に自分のやっていることが、怖くなってきた」
「あぁ、その話か……」
ツクルは缶ビールから指先を離し、今度はスナック菓子の袋をつまむ。しかし口を開くことはせずに、軽く持ち上げるだけ。そのまま気だるげに持て余す。
「揺れるよな」
「え?」
「心が揺れる」平然とした様子で。「俺も同じだ。一度はこの選択をしたものの、まだ揺れている。果たしてこれで正しかったのか、わからない」
「…………意外な台詞だな」
「そうか? 普通だろう」
ツクルはスナック菓子をテーブルに置く。何本かあるペットボトルから、ミネラルウォーターのそれを取り上げ、キャップを開けて口をつけた。思えばこいつが何か飲むのを見るのは、今日これが初めてのことだ。
口を離し、キャップを閉める横顔に向け、俺は問う。
「何かしら信念めいたものがあり、この道を選んだものと思っていたが」
「信念を持つことと後悔をしないことは別物だ」
「後悔しているのか」
「当然だ」メガネのつる越しに、俺を睨む。「お前、俺を何だと思っている?」
難しい問いだ。常日頃、こいつは一体何なんだ、と思っている。
「失った可能性に思いを馳せないのは、想像力が欠如しているか、盲目的になっているか。どちらの状態もとても危うい」ツクルは言う。「シグ、だからお前の感じている恐怖や、俺の抱く後悔は、正常な反応だよ」
「正常、か」
「そして俺たちが正常である限り、続く」
「よくわからないな」
「心揺れながらも、やるしかないということだ」
俺は黒川を見る。テーブルに突っ伏したまま、呼吸と共に上下する身体。顔は見えない。
「こいつに手紙を書いたのか」
「あぁ」
「信じられない」
「しつこい」
「どんな内容だ。何を書いた」
そこにツクルの『信念めいたもの』があるのだろう。そう思っての問いかけだったが、
「覚えていない」
にべもなくツクルは答えた。
「十年近く前のことだ。何を書いたかまでは記憶にない。だが、当時抱いていた思いなら、思い出せる」
お前、あのときのことをどれくらい覚えている。
ツクルは俺を見て、唐突に訊ねた。
あのとき。黒川が俺たちのクラスにいた、あの数ヶ月間のことか。
「それこそ十年近く前だ。さほど鮮明には覚えていない」俺は答える。「黒川が来てしばらくして、あいつに対する嫌がらせが始まった。次第にエスカレートしていって……あぁ、そうだ。担任が変わったな。体調を崩していなくなった」
「その担任を追い詰めたのが、俺だ」
「え?」
ツクルはまた、テーブルの上の菓子を無造作にいじり始める。今度はスナックではなく、チョコレートの詰め合わせ。開封せず、ただ持ち上げる。
「いじめがひどくなってきたとき、一度相談された。放課後呼び出され、どうすればいいと思う、と意見を訊かれた」
「担任にか」
「担任に」
「初めて聞いた」
「初めて言ったよ」
記憶にある限り、ツクルが学級委員長やそれに類するリーダーの立ち位置にいたことはない。むしろ大人しく、目立たないタイプであったように思う。そのツクルに目をつけ、意見を求めたということか。
当時の担任、薄情なことに今や顔も名も思い出せないが、どうやら人を見る目は確かだったらしい。
「なんと答えたんだ」
「『自分で考えてください』」
驚かない。いかにもツクルらしい返答だ。
「黒川君は喋れない。喋れないから不気味に映る。不気味な相手を嫌がるのは自然なことだ。排除したがるのも理解ができる」チョコレート菓子をテーブルに戻す。パッケージ裏面、製品情報の細かい記載があらわになる。「これは仕方がないことだ。仕方がないことには、太刀打ちできない」
だから、自分で考えてください。
そう言った。
「担任がいなくなったのは、それからほどなくしてのことだ」
「それを、後悔しているのか」
「責任を感じている、という方が近いかもしれない」
担任が倒れた。その波紋が親たちにも拡がった。保護者からもクラスの現状を問題視する声が上がり始め、結果、黒川は転校を余儀なくされた。
「最初の引き金を引いたのは、俺だ」
「だとしてもお前の責任じゃない」
「じゃあ、誰が悪いんだろうな」
ツクルが言う。俺でなく、虚空を見つめている。
誰が、悪い?
「シグ。お前、あのときのいじめについて、罪悪感はあるか」
問われ、俺は反射的にテーブルの黒川を見た。変わらぬ寝息。それを確認し、答える。
「正直、あまり感じていない」
「俺も同じだ」ツクルが言う。「実際、俺は何もしていない。かと言って、誰か主犯格の人間がいたかと言うと、そうでもない。教室中に充満している悪意のようなものが、時折牙を剥き、黒川に襲いかかる。そんな感じだった」
言えた立場ではないのかもしれない。
だが、言い得て妙だ、と感じた。
直接的な暴力や嫌がらせに及ぶ例もあるにはあったが、それが日常的に頻発していたわけでも、特定の手を下す人間がいたわけでもない。
教室に潜み、黒川を排除しようとする『何か』。そいつが気まぐれに俺たちに乗り移り、時に悪さをする。あらためて振り返ると、あれはたしかに、そういう現象だった。
そう、『現象』。自然に生じるもの。
ならば、仕方がない。
仕方がないことには、太刀打ちできない。
「本当に太刀打ちできなかったんだろうか」
ツクルが言う。
「自分が一体、何を相手にしているのか、当時の俺はわからなかった。わからないまま、戦うことを放棄した。それがずっと引っかかっている。さっきも言ったように、手紙の内容は覚えていないが、手紙を書いたこと自体は覚えているよ。その『何か』への恐怖と敗北感に耐えきれず、手紙を書いて、教員に渡した。黒川君に届けてください、と頭を下げた」
それが結果として、今夜、黒川を自分のもとに引き寄せた。
あの頃、助けられなかった男が、助けを求めて、ここに来た。
「思し召しだとも、巡り合わせだとも思わない。だが、不完全燃焼のまま残った過去を、ここで払拭できるかもしれない」
「それが、黒川のために動く理由か」
「話を聞いていたか」自嘲気味に、ツクル。「これは俺のエゴだ。信念、とお前は言ったが、そんなご立派なものじゃない」
今の黒川のためにやっているわけでも、
昔の黒川のためにやっているわけでもない。
「自分のためにやっている。ただの我儘だよ」
俺は息を吐き、ツクルから目を逸らす。
「その我儘に、俺は巻き込まれたわけか」
「すまないとは思っている」悪びれもせず。「だが、協力者が必要だった。この逃避行で一番リスキーなのは、黒川の挙動が未知数であることだ。突発的な行動に出ないよう、誰かが監視しておく必要がある」
「突発的な行動?」
「一番は、自殺」
言葉に詰まる。
「人を殺してきたんだ。十分あり得る」ツクルは言う。「安全な場所で、誰かが側に居続けるべきだ。となると一人では荷が重い。だからお前を頼った」
「どうして俺を」
「信用できる」
思わず吹き出しそうになった。こいつが俺に対し、そんなウエットな感情を抱いていたとは。
「信用できる、の基準がわからない」
言い返すと、ツクルは無表情のまま、こちらを見向きもせずに答えた。
「裏切られても、文句は言わない。俺がそう決意できる人間が、俺の信用できる人間だ」
また、言葉に詰まる。
衒いのない物言い。本心なのだろう。
「そう言われると、裏切りづらい」
「気にするな。お前の自由だ」
そろそろ帰る。言って、ツクルは椅子を引き、立ち上がった。これだけもらっていくぞ、と飲みかけのペットボトルを持ち上げ、歩き出す。
「お前、明日は何限からだ」
明日。金曜。家を出る前、確認したカリキュラムを思い出す。
「二限から五限まで」
「そうか。朝また来る」
端的に言い残し、ツクルはダイニングから去っていく。
座ったまま身を捩り、俺はその背を見送った。
