【長編】山猫軒のオーダーシート(5)
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、
それからはきものの泥を落してください。」
◆
大声で目が覚めた。
最初は低い、振動音のような唸り。それが途切れずしばらく続いて、後に、ア、ア、と大砲を撃つような発声が。何事かと思い自室を出ると、廊下の扉を開けた先、ダイニングに黒川が立っていた。
「あ、おはよう」
昨夜の菓子類が残るテーブル。その傍らで姿勢よく、腹に手を当てた格好で、顔だけをこちらに向ける。
「何をしている」
「発声練習」そこではっとした表情に。「ごめん、日課で。うるさかった?」
「安普請なんだ。近所迷惑になるから、やめてくれ」
時計を見ると、朝の七時。昨夜、夜更かしした分、いつもより睡眠時間は少ない。まだ瞼の重い目を懸命に開き、俺は諸々の身支度を始める。
洗顔や着替えを済ませ、ダイニングに戻ると、黒川は変わらぬ姿勢でそこに立ち、今度は呼吸をしているところだった。
そう、呼吸だ。
大きく胸を膨らませて息を吸い、唇を尖らせ、長く吐く。かと思うと、短く吸って短く吐いたり、短く吸って長く吐いたり。
その呼吸音を聞きながら、俺は壁際のキッチンで作業を始めた。
二口コンロのうちひとつに鍋を置き、水と市販の出汁パックを入れ、火にかける。冷凍庫から、炊いた米をラップに小分けしたものを、ふたつ。続いて冷蔵庫から卵をふたつ。どちらも週末の分まで個数を計算し、ストックしていたものだ。一食分、減りが早まることになる。
「目玉焼きでいいか」背中で訊ねる。
唇をぶるぶると震わせていた黒川は、その音を止める。
「朝飯、作ってくれるの?」
「断ることもできる」
「嬉しい。ありがとう」
引き出しからカットわかめの袋を出し、中身を椀に。そこにポットの湯を注ぎ、ふやかす。
『旧友』を『家に泊めた』。ならば朝食ぐらい振る舞うのが自然だろう、と思ったが、このリアクションからするとめずらしいのだろうか。経験がないシチュエーションのため、何が普通なのかがわからない。
「村井君、料理できるんだね」
「簡単なものだけだ」
「すごい。僕もひとり暮らしのときチャレンジしたけれど、なかなかで」
「俺は家族がいたときから作っていた」
「あぁ、妹さんのため?」
振り向き、黒川を見る。自ずと睨みつけるような視線になっていたのかもしれない。少したじろいだ様子で苦笑いを返してくる。
「あ、ごめん。三科君から聞いていて」
村井時雨の部屋が使えないか、頼んでみる。
もともと家族で暮らしていたが、身体を悪くした妹のため、その家族が出て行った。
「だから今はひとり暮らしだ、って」
「……なるほどな」
あまり他人に知られたい話ではない。ましてや自分の目の及ばぬところで。しかし、成り行き上、ツクルも話さざるを得なかったのだろう。
「僕も一度だけ、妹さんを見たことがあるよ」
「え?」
「同じ学校にいるとき、村井君と一緒に下校しているところを見かけた。手を握って、歩くのを手伝っていた」
そんなところを見られていたのか。
俺が五年生のときだから、妹は二年生だ。確かに当時は、妹も学校に通っていた。まだ身体が小さい分、足への負担も少なく、ある程度自立して歩行もできた。それこそ手を握るくらいの補助があれば、通学路も難なく歩け、日常生活にも支障はなかった。
送り迎えの付き添いは祖母の役目だったので、たまたまその日は都合がつかなかったのだろう。そういうときも中にはあった。できるだけ人目につかぬよう気を払っていたはずだが、それを目撃されていたとは知らなかった。
「昨日も言ったけれど、村井君、髪を染めていたりして怖い印象だったから。みんな見えないところで色々あるんだな、と思って、よく覚えているんだ」
反射的に、頭の付け根あたりで何かが爆ぜる感覚がした。
「妹さん、だいぶ悪いの?」
「お前には関係ない」
黒川が怯んだように黙る。その様子に、言い方に険があったことを自覚するが、しかし取り繕う余裕はなかった。
火をかけ、出汁をとっている鍋の中身が、チリチリと音を立て始める。
「ごめん」
「何に対してだ」
「無神経に妹さんの話を振ったこと。それから、今、この状況について」
黒川は目線を下げる。
「もともと村井君は、僕に協力する気はなかった。こうして家を使わせてもらえているのは、三科君が君に頼んでくれたからだ」
言われて、ハッとする。
その通りだ。こいつではなくツクルに協力することを、俺が決めた。
「お前が謝ることじゃない」
「いや、謝ることだよ」
「なら勝手に謝っていろ。俺には響かない」
いまだ棘が抜けきらない物言いになったが、意外にも、黒川はそこで小さく吹き出し、笑った。
「何がおかしい」
「いや、なんだか、三科君と村井君の仲がいい理由が、ちょっとわかった気がして」人差し指で鼻の下を掻く。「なんだろう。二人とも、根本の部分で似ているよね」
「俺と、ツクルが?」
「他人に対してドライというか、世界に対して淡白というか。三科君はそこに自覚的で、村井君は無自覚って感じだけれど。芯の部分で、二人には通ずるものがある気がする」
鍋の音が激しさを増す。俺は火を弱め、そのクレッシェンドに一度休止符を挟んだ。
「付き合いが長いだけだ。ツクルの考えていることなど、俺にはわからない。特にわかろうとも思わない」
「そうかな。二人はお互いを理解し合っているように見えるけれど」
「気のせいだ」
「少なくとも、信頼し合ってはいるよね。僕が言うのもなんだけれど、そうでなければ、三科君はこんなことを村井君に頼もうとは思わなかっただろうし、村井君もそれを受け入れはしなかった」
信頼。
たしかにツクルからは昨夜、似たようなことを言われた。だが、俺がツクルの頼みを受け入れた理由は、どうだろう。
それは信頼だろうか。信用だろうか。
俺は菜箸で、鍋で踊る出汁パックを取り出す。淵に押し当て中身を絞り、そのまま生ごみ用のビニール袋へ。続いて箸を置いて冷蔵庫へ行き、味噌と共に豆腐のパックを出す。
鍋へと近づき、包丁で豆腐のパッケージを開け、中身の半分を手に乗せる。そのまま掌をまな板がわりに、横に縦に切り込みを入れ、サイコロ状となった豆腐を鍋へ。すべて入れ終えてすぐ、火を中火に変え、軽く水で手を洗い、今度は椀のわかめを入れる。
手際がいいというわけではない、最適化されてもいない。しかしここ数年間で身につき、ある程度ルーティンと化した、一連の動作。
「料理をするようになったきっかけは、ツクルだ」
いきなりの言葉で虚をつかれたか、背後から黒川の反応はない。
俺は続ける。
「妹は中学から学校へ行っていない。小学校も学年が進むにつれ、周囲の成長に追いつけず、学校生活を送ることが難しくなっていた。身体が大きくなり、歩行に支障が出てきたこともある。そんなとき、ちょうど病院から海外のリハビリ法を勧められた」
音を立てる鍋を見つめる。小さな気泡が、水面へ次々に浮かび上がる。
「そのリハビリでは、手足の運動と同じくらい、呼吸が重視されていた。脳に酸素を送り込むことで、麻痺した機能の回復を図る。そのため数十分おきに専用のマスクをつけ、呼吸を強くするプログラムが組まれていた」
とても学校にいては続けられない。
ならばいっそ通学はせず、そちらに集中しようという話になった。
「祖母も足腰が弱まり、送り迎えが難しくなっていた。俺はその頃高校生で、日中は祖母が、夕方以降は俺も一緒に妹の面倒を見ていた。一年ちょっとはそれで持っていたんだがな、やはり無理があったんだろう。祖母が倒れた」
祖母が入院し、俺は妹の世話を一手に引き受けることになった。母親も仕事の傍ら奔走してくれていたが、それでも俺にかかる比重が大きく増えた。
一日数十回に及ぶマスクの取り替え。
動かぬ手足を使ったリハビリの補助。固まった筋肉のマッサージ。
食事の調達。トイレの介助。風呂の世話。
母がいるときは学校へ行き、それが難しい時は授業を休み。
そのルーティンを朝から晩まで。
「ヤングケアラー」
黒川が呟く。
「いや、俺は何もケアなどできなかった。ただ訳もわからず、目の前のことをこなしていただけだ」
「そんなことは……」
「主観的にはそうだった」反論を断ち切る。「あれが具体的にいつの時期だったか、期間的にどれくらいだったのかも、すぐには思い出せない。カレンダーをろくに見ず、時計ばかり気にしていた。それぐらい、いっぱいいっぱいだった」
元々が満たされぬ境遇であるところ、さらに状況が揺れ動き。
自分の現在地を見失い、どこに行くべきか彷徨って。
祖母がいる環境という足場を失い、不安定であったその最中、ひょんなことからツクルと話す機会があった。
「あれもこれもと背負い込むのは、投げやりになっているのと同じだ。人に頼れ。そう言ってこの台所に立ち、俺と妹に料理を振る舞ってくれた」
献立は覚えていない。
味がどうだったかも記憶にない。
ただ、ここに立ち手を動かすツクルの後ろ姿が、鮮明に焼きついて残っている。
「後にも先にも、ツクルが俺を直接的に助けたのは、その一度だけだ」
「……救われたんだね」
「さぁな」
はぐらかしたわけでも、照れ隠しでもない。
純粋にわからない。
救われた、とも言えるのだろう。だが、単に暴走を止めてもらっただけとも言える。
襲いかかる現実との、距離の取り方を教わっただけ。
俺の本質は、変わってはいない。
「特にあの時の恩返しをしよう、という気もない。それでも、昨日のようにツクルに頭を下げられて、俺にはそれを断ることはできない」
鍋の様子を見る。わかめが完全に開いていることを確認。味噌を溶かし、沸騰し切らない頃合いを見計らって火を止める。続いて大ぶりのフライパンを取り出し、油を敷いて加熱。転がしたままの卵を持ち上げる。
「『注文の多い料理店』」
不意に、黒川の声。
俺は手を止め、振り向く。
「注文しても、されてもいないが」
「あぁ、いや、ごめん。そうじゃなくて」苦笑する顔。「明日の僕の初仕事、『注文の多い料理店』の朗読なんだ。宮沢賢治の」
知ってる?
首を傾げる黒川に、「まぁ」と頷きを返す。
狩猟をしていた二人の紳士が、山奥に迷い込む。闇夜の中歩き回り、腹を空かせていたところ、一軒の料理店を見つける。これ幸いと店に入ると、服を脱げ、身を清めろ、と次々と不可思議な注文を受ける。やがて、食べられるのは自分たちであることに気づき、命からがら逃げていく。
たしか、そんなストーリーだったか。別に読書家というわけではなく、きちんと原本を当たった記憶はない。絵本だかアニメだかで得たにわかの知識だ。
「『「うわあ。」がたがたがたがた。』
『「うわあ。」がたがたがたがた。』」
情感たっぷり、厚みのある声でそう言って、黒川は肩をすくめる。
「なんだ」
「朗読の一節だよ。こういうシーンがあるんだ」
「だから、それがどうしたんだ」
「台本をもらってさ。あらためてこの話を読んだとき、三科君の手紙を思い出したんだ」
昨夜も話に出た、あの手紙か。
「『ぼくには黒川君を追いやったものが何か、わかりません』。そう書かれていた」
「……どういう意味だ」
「僕にもさっぱり」首を振る。「でも、なんとなくわかるな、という気もしたんだ。『追いやったもの』という表現が、妙にしっくりときて」
何か見えない大きな力が、自分の幸せを邪魔している。
「そんな感覚って、村井君にもない?」
問いかけられ、昨夜、ツクルとした話を思い出す。俺たちに乗り移り、黒川をいじめていた『何か』。ツクルが正体を掴めず、戦うことを諦めた相手。
加えて何故か、妹のことも頭に過ぎった。続けて祖母が倒れたときのことも。そしてさらには、幼い頃にこの世を去った、父親の存在までもが思い出される。
幸せを邪魔する、『何か』。
ちりちりとフライパンが音を立て始め、俺は一度コンロの火を止めた。
「母親がね。全然喋らない人だったんだ」
黒川が言う。
「昔の僕みたく、声が出ないわけじゃない。近所の人や学校の先生、大人同士ならよく喋る。でも、僕に対しては何も話してくれなくて。外では普通なのに、家の中ではどうして、ってずっと不思議に感じていた」
きっと僕より大切なものがある人で、それを大切にするためには、僕が邪魔だったんだと思う。
レシピを読み上げるように淡々と、黒川は語る。
「母親のことだけじゃない。心が凍って笑いも泣きもできなくなったこと、声が閉ざされ誰とも何も話せなくなったこと、それが原因で行く先々で疎まれ腫れ物扱いされたこと。僕に降りかかったどれもが、僕にはどうしようもないことだった。なす術もなく、いいようにされるしかなかった」なお、淡々と。「その見えない大きな力にどんどん侵食される感覚が、『注文の多い料理店』の話と似ているな、って」
侵食される。喰われる。
頭の中、無自覚に調理され、食卓へ運ばれていく自分たちの姿が思い浮かんだ。
「そしてそれが『見えない何か』だ、と気づかせてくれたのが、三科君の手紙だった。これも擬人化っていうのかな。僕の幸せを邪魔しようとしている存在がいる、そう思うことで、襲いかかってくる理不尽に理由ができた気がして、ずいぶんと楽になったんだ」
だから、僕は三科君の手紙に救われた。
言って、黒川は屈託のない笑みを見せる。
「不思議な人だね。三科君は」
俺が何も言わずにいると、気を取り直したかのように、黒川は発声練習の姿勢に戻る。口周りのストレッチか、唇を窄めたり大きく開いたりを繰り返す。
俺は再びコンロの火を点け、フライパンを温める。
黒川の声が、母親と離れて暮らすようになって戻ってきた、という話を思い出した。今ほど聞いた、黒川が家庭内で受けてきた仕打ちを思うと、因果関係が結びつく。手持ちの情報だけで決めつけるのは短絡だろうが、その理解度で十分だ。俺にとっての妹の話題と同様、黒川にとっては踏み込まれたくない領域だろう。
同様。
おそらく黒川は、「自分たちは同じだ」と言いたいのだろう。
どうしようもない『見えない力』、『何か』に襲われながら、生きてきた。
その『何か』との向き合い方を、ツクルから教わり、救われた。
黒川がツクルを頼る理由も、俺がツクルに協力する理由も、同じ事情に端を発する。
たしかにそうなのかもしれない。
だが、それがどうした。
人を殺し逃げている人間と、たったひとつの共通項で、同じ括りにされてはたまらない。
シンパシーを感じられるのは心外であるし、感じることは不本意だ。
フライパンの温度が上がる。真上から卵をひとつずつ割ると、けたたましい音と共に、ふたつの黄身が踊り始める。それらを中心に白身が広がり、繋がり合おうとする様がやけに不愉快で、俺は菜箸を持ち、切り込みを入れた。
