見出し画像

【長編】山猫軒のオーダーシート(6)

「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」

宮沢賢治『注文の多い料理店』

 第一志望の大学は、家から自転車で通える距離にあるところだった。偏差値的に、さらに高ランクの学校も合格圏にあったものの、妹のことを考え、通学の便を優先した。
 そもそも最初は進学するつもりはなかった。早々と働き、家計に助けを。そう考え就職活動に備えていたところ、しかし、高卒と大卒では生涯年収に大きな差があることを知り、大学受験を選択した。浪人をするわけにはいかなかったので、先述の通り志望校が安全圏にあったことは、幸運だった。

 その大学で今、授業を受けている。
 二限目、一般教養科目の『西洋史』。すり鉢状になった講義室の中腹に陣取り、黒板前でマイクを持つ教授の話に耳を傾ける。
 突っ伏して寝ている者、俯きスマートフォンをいじる者も散見される中、ノートを取る手を動かし続ける。食指の動かぬ内容であろうと、授業料に見合う学びを得なければ、割に合わない。最低限、単位を落とすようなロスは避ける必要がある。

 と、言いたいところだが、さすがに今日は身が入らない。

 教授の単調な口調に食らいつこうとはするものの、頭は昨夜から今朝にかけてのハイライトをなぞり、そこから派生する思索の数々が、現実を置き去りに、野放図に広がっていく。

 今朝。
 朝食を終えてしばらくの後、ツクルが家を訪ねてきた。

「黒川が体調を崩したことにする」

 一言目がそれだった。「『盛り上がり』、『家に招いて』、『そのまま泊まった』。しかし黒川の仕事は明日だ。もう一泊するには、それに足る別の理由が必要となる」。本当に一度寝て起きてきたのか、口調にも態度にも一切の変容を見せず、昨夜の続きを指示し始めた。

「その額の怪我が悪化したことにしよう。傷口が熱を持ち、動くのも辛くなった」

 黒川の頭部を指差し、ツクル。俺も目をやる。もはや意識から薄れていたが、髪に隠れて赤黒い傷跡が見て取れる。

 決して見慣れていたわけではない。
 無意識に見ないようにしていた。

 口論となった恋人から、化粧瓶を投げられ、ついた傷。その化粧瓶を投げ返し、黒川は女性を殺した。
 血生臭さから距離を置き、この逃避行に手を貸している。そんな俺たちに、そこにある死の影を思わせる状況証拠。

 こうしている間にも、黒川の家には腐食していく身体がある。目を逸らそうと、背けようと、その事実は変わらない。
 容赦なく、そう告げてくる。

「わかった」黒川は手を頭部にやり、顔をしかめる。「実際、まだ結構痛むしね」
「何か手当てできるものは」
「持ってない」
「そうか」俺を見る。「シグ。痛み止め、あるか」

 今更だが消毒もしておこう。ガーゼか何か被せておけ。急に傷に関する指示が飛ぶ。シナリオに沿うリアリティを出すためか、それとも単純に黒川をおもんぱかってのことか。
 ツクルは話の続きを始める。

「『黒川君が傷の痛みを訴えたので、安静にするよう僕らは伝えました』、『病院へ行くことも勧めましたが、不要だと言われました』、『どうしてそんな傷がついたかは、詳しく教えてくれませんでした』。これで行く」立て板に水のごとく。「『頭のことなので心配にもなり、誰かついておくことにしました』、『村井君は講義があったので、僕が看病をしました』、『全快にならぬまま夕方になり、明日は黒川君も仕事があるとのことだったので、今日も一泊して、仕事先にはここから向かえばいい、と提案しました』」

 不自然なところはあるか。メガネ越し、確認を求める目。「わからない」俺は正直に答え、付け加える。「他に何も思いつきもしない」

 いて言うならば、成人男性を相手に付きっきりの看病が必要か、という疑念はあったが、そこは黒川の動向を見守るため、ツクルが用意した方便なのだろう。

 一番は、自殺。
 人を殺してきたんだ。十分あり得る。

 昨夜の言葉が思い出される。
 下手をすれば、もうひとつ命がこの世から消えることになりかねない。今日、この家で、黒川がそれをする可能性だってあるのだ。その時俺たちに降りかかるであろう、心身への負担は計り知れない。

 の、だろうか。

「なんだ」
 俺の視線を感じ取ったか、ツクルがこちらを睨む。
「いや、なんでもない」
 目を逸らす。

 こいつはどうだか知らないが、俺には「黒川が命を絶つ」という想像がつかない。実感が湧かない、といった方が近いか。その異変がもたらすものを、現実感を持って捉えきれない。

 それで言うと、そもそものところ、この状況自体に現実感がない。黒川の家にはもう動くことのない身体があって、こうしている間にもそれは刻一刻と朽ちている。そこに対するリアリティが、圧倒的に欠如している。

 だが、それでいい。それがいい。

 欠如しているからこそ、踏みとどまっていられるのだろう。俺が知らないところで殺されたその女性には申し訳ないが、その女性が俺が知らないところで殺された、というこの不確かさ、曖昧さがなければ、すでに精神が崩壊している気がする。

「さっき検索をかけてみた。黒川の家近辺で死体が見つかった、という話は上がっていない」

 ツクルの言葉に、どきりとした。

「調べたのか」
「当然だ」

 たしか足がつかぬよう、ふるい端末を使うと言っていた。
 それで調べれば、俺たちの主観の混じらぬ、"事実"がわかる。

「あまり調べたくはないな」
「調べなくていい。ここには持ってこない」ツクルは言う。「そんなものが警察に見つかったら、弁明のしようがない。一応、検索履歴は残さないようにしているが、詳しく調べられたらそれでアウトだ」

『警察』という単語が、物々しく響く。

「ちょうどいい。大事なところを確認しておくぞ」
 ツクルは黒川を見て、言った。
「仮にこの家を警察が訪ねてきて、ここに黒川みのるはいるかと問われた場合。俺たちは迷わずお前を差し出す」

 黒川を見る。絶句したように黙り、しかし、すぐに神妙な面持ちで頷く。
 ツクルもまた、頷きを返した。

「シグも覚えておけ。そこが撤退線だ。俺たちはただ旧友を泊めて、看病しただけ。警察が来るなんて思いも寄らなかった。シナリオ上、こいつをかばう要素は一ミリも無い」
「あぁ。わかっている」
「本当にわかっているか」今度は俺を睨む。「その一線を超えた瞬間、言い訳の余地はなくなる。俺たちはれっきとした共犯者となり、罪に問われ、前科を背負う。俺たちだけでなく、俺たちの家族にも影響が出る」
「あぁ」
「情が移ろうと、切り捨てろ。気がとがめようと、切り捨てろ」

 しつこいぐらいに念を押してくる。太く短い息を吐いて、ツクルはメガネのブリッジを指で押し上げた。昨晩は眠れなかったのか、めずらしいことに疲労が見てとれた。

「疲れているな」
「さすがにな。お前は平気そうだ」
「あまり考えないようにしている」
「才能だ」また息を吐き。「防戦一方というのが辛いな。不確定要素が多すぎる」
「俺はお前に従う」
「そういうタイプが一番怖い」
「二人とも、ありがとう」

 急に割って入った声に、俺たちは黒川へ顔を向ける。涙をこらえるように顔面に皺を寄せ、深々と頭を下げてくる。

「ありがとう。恩に着るよ」

 ツクルは視線を背け、小さく咳払いをした。

「とにかく今日だ。今日を乗り切り、明日黒川を見送れば、俺たちの役目は終わる」言って、俺を見る。「シナリオ通り行こう。『村井君は講義があったので、僕が看病をしました』だ」
「お前は今日、講義は」
「サボりもせず、午前中から夕方までしっかり出席している学生は、少数派だよ」

 早く行け、と言い放つ。心なしか、追い出したがっているようにも見える。

「何かあれば電話で、だ。メッセージアプリの類は一切使うな」

 了解の旨を返し、指示に従い手当て用の救急箱を準備してから、俺は二人を置いて家を出た。

 チャイムの音が耳に響いて、意識が回想から戻る。講義が終わり、ざわめきが戻る講義室。動き出す周囲に押されるようにして、俺も帰り支度を始める。

 歯抜けとなり、行間だらけのノート。結局ろくに講義を聞けなかった。このままでは、午後の授業も無駄にしかねない。いっそ帰ってしまおうか、とも思うが、ツクルのシナリオにそれはない。このまま金曜日の学生をまっとうする義務がある。

「村井クン」

 カバンに荷物を詰めていたところ、声をかけられた。右側、長い講義机の端に、女子が二人、肩を寄せ合い立っている。
 見覚えがある。たしか同じクラスの二人組だ。大学にも一応クラス分けなるものがあり、入学当初はそのクラス単位での講義もあった。それをきっかけに、会話を交わした記憶がある。

「ひさしぶり〜」

 二人組のうち、巻き毛でワンピースを着た女子が手を振る。呼応するようにもう一人も手を上げた。対照的に、こちらはショートカットにパンツルックという出で立ち。

「なんだ」
「こっわ。怒ってる?」
「普通だ」
「そうだよねー。村井クンはこれが通常営業だよねー」

 通常営業。こちらのパーソナリティを把握した物言いである反面、俺はこの二人の名も思い出せない。

「何か用か」
 手を動かす作業を再開しながら、訊ねる。するとショートカットの方が机に手をつき、身を乗り出してきた。
「昨日、村井クン、駅前のカラオケにいなかった?」

 心臓が跳ねた。
 表情が崩れ、さらにはその顔を相手へと向けてしまう。

「うわ。バレた、みたいなカオしてるー」
「レア。写真撮りたい」
「売れる。界隈に売れる」

 顔を背ける。動揺を見せてしまった後悔と、それどころじゃないという焦りが、鼓動をさらに加速させ、呼吸を乱す。

 見られていた。
 どこだ。どの場面を見られた。

「……お前たちもあそこにいたのか」
「ううん。いたのはこの子だけ」
 巻き毛がショートカットを指差す。ピースサインでそれに応えるショートカット。
「どうも。フミ・ハルコです」

 何がおかしいのか、そこで二人は笑い合う。フミ・ハルコ。そう、フミハル。キャノン撃って。顔を見合わせ、盛り上がる。
 対してこちらは、これ以上顔を歪めぬよう、こらえるのに精一杯だ。

「なんか、オトモダチと一緒にいたよね」髪を耳にかけながら、ショートカットが言う。「いやもうビックリしたよ。村井クン、カラオケとか行くんだ、って」

 落ち着け。ツクルの顔を思い出す。
 シナリオに沿って。
 嘘はシンプルに。
 俺たちは、何も知らない。

「昔馴染みだ。久しぶりだから、と呼び出された」
「めっちゃ歌上手い子いなかった? 部屋の前通ったんだけど」

 言葉が続かない。
 黒川のことだ。どうやら思いのほか、あの場に肉薄されていたらしい。

 巻き毛がショートカットに顔を近づけ、耳打ちするように口に手を添える。

「フミ・ハルコさん。村井クン、怒ってる感じだと思います」
「あ、ごめんね。あそこ、私のバイト先なの」手刀で、空を切るジェスチャー。「しかも一瞬通りかかっただけだから。歌声聴こえて、ヤバ、って思って覗いたら、あにはからんや、村井クンいるじゃん、って」
「あにはからんや。久々に聞いたわ」
「それだけか」
「それだけです。覗き見してごめんなさい」
「フミハル根性出ちゃったね」
「いやでも、もしオンナと一緒だったなら、それこそフミハルってたわ。その場で写真撮って拡散してた」
「界隈激震。時雨しぐれ派号泣」

 会話に入り込めない。いや、入り込む必要はない。
 やり過ごせればそれでいい。

「そうか。変なところを見られたな」
 カバンに荷物を入れ込み、立ち上がる。
「村井クン、ウチらが誘っても全然ゴハン来ないじゃん」巻き毛が言う。「今度行こうよ、よかったらそのオトモダチも一緒にさ」
「機会があればな」
「え、マジ?」

 ショートカットが反応した。身体を斜めにして机の間に入り、ずんずん近づいてくる。

「じゃあさ、連絡先交換しとこ」
「え」
「スマホ出して」

 あ、私も。ショートカットの後ろから、巻き毛もこちらへ。二人してカバンに手を入れ、自分の端末を取り出し始める。
 断れる空気ではなく、俺もまた、ポケットからスマートフォンを取り出した。なんでもいいから、早くこの場を切り抜けたい。
 QRコード頂戴、やり方がわからない、中を見ていいなら端末ごと貸して。手渡すと、「失礼」と俺に画面を向け、顔認証を突破。そのまま二人して高速で指と端末を動かし、「ハイ」とすぐさま返却された。

 画面を見る。トーク画面に、二つの新規アイコン。そのうち上のひとつは『haruko』とあった。すぐさま、いくつかのスタンプが受信される。

「ドサマギで時雨のIDゲット」
「ついにやりましたな、ハルコ博士」
「今日を時雨記念日とする」
「宴じゃ」

 もう行くぞ、と目線で告げて、俺は反対側から講義机を出る。バイバーイ。自撮り送ってねー。間延びした声に、背後から見送られる。

 まだ呼吸が乱れている。歩を進める足、鞄を持つ腕の動きがぎこちない。

 見られているとは思わなかった。そういう可能性を、想定していなかった。
 黒川とツクルと俺、三人で紡いでいたフィクションに、いきなりリアルの登場人物が乱入してきたような異物感。

 黒川の額の傷を思い出す。
 現実だ。俺がいるのは、現実と地続きの世界だ。

 すり鉢状の講義室。その階段を登り切り、扉の前で振り返る。女子二人組の姿はもう見えない。

 人殺しをかくまっている。そう知れたら、あの二人はどんな反応を寄越よこすだろうか。食事に誘うなどもってのほか、二度と話しかけてこないに違いない。

 講義室の扉を開け、外に出る。
 今一度スマートフォンを取り出し、そこでようやく、ツクルからの着信が入っていたことに気がついた。

 夕方の講義が終わるまでに、二度、俺はツクルに電話をかけた。しかし、そのどちらにも応答はなく、『電源が入っていない』『電波の届かないところに』とガイダンスが流れる。最後の講義後、三度目をかけてみたが同じ。午前中に入っていた着信の意図はわからずじまいだった。

 何かイレギュラーがあったのか。空白だらけのノートを取り続けた一日を終え、ようやく自転車にまたがり、帰路につく。風を受け、ペダルを漕いでいる間も、不穏な想像が頭の中を駆け巡った。

 すでに警察があの家を訪ねている可能性。
 黒川が思いもよらぬ行動に出た可能性。

 選択肢を挙げてみるものの、その先、細かなディテールまではイメージが及ばない。あの家のドアを開け、出迎える何かしらの事態に、一体どのように備えればいいのか。具体的なビジョンを描けぬまま、俺は団地に到着し、ガレージに自転車を停める。

 階段を登り、踊り場に直接面したドア、その鍵穴にキーを差し込む。いきなり何かが襲ってくる、という危険もゼロではない。金属製のノブを回し、慎重に扉を開けた。

 玄関に入る。見慣れない靴が視界に映り、胃が縮んだ。

 誰だ。

 廊下の先、光が漏れるダイニングへの扉を見やる。すると微かな声と物音がして、その扉が向こうから開いた。

「あ、お帰り。お邪魔してまーす」

 小柄な、明るい髪の男が現れる。

「村井時雨サン、っスよね」
「……誰だ」
「あ、三科みしなから電話で聞いてない?」男は廊下の照明を点ける。顔にライトが当たるが、やはり見覚えはない。「いや、そっスよね。誰だ、って感じっスよね。マジ、突然すみません」
「……ツクルの知り合いか」
「知り合いです。大学の友達。早川木馬もくばって言います」

『モクバ』という、めずらしい名前に引っかかる。それを言えば『シグレ』もそうなのだろうが。

「ツクルはどうした」
「いやぁ、なんか急用ができたとかで。俺もいきなり呼び出されて、訳わかんなかったっスよ。とりあえず来てみたら、ヘビーな事情を聞かされた上、家主が戻ってくるまでここにいろ、とか言われるし」
「……黒川の話を聞いたのか」
「ヒトゴロシの話っスよね。聞きました」

 胸の中、困惑に入り混じるような形で、怒りと疑念が去来する。

 急用とは何だ。この一大事にも増して、重要な案件ということか。それもわざわざ代理を立てる必要がどこにある。しかも事情を洗いざらい話して。こいつが裏切り、警察に駆け込んだとしたら、一巻の終わりだ。 

 そこまで信用できる相手だ、ということか。
 だが、俺はこいつのことをまったく知らない。

「えーっと、怒っていらっしゃる?」
 モクバが顔を覗き込んでくる。
「あぁ」
「ですよねー。怒っていいシチュエーションですよねー」
「だが、ツクルの采配なら従う」
「え、マジ」
「そう俺が決めた」

 かっけー。モクバの反応を無視して、俺は靴を脱ぎ、揃えて置く。狭い土間に、俺のスニーカー、モクバのスリッポン、角度を九十度変えて右側の壁に寄せた、黒川の革靴が並ぶ。

 腕時計を見る。十八時を回ったところ。多少のイレギュラーはあるものの、あと数時間乗り切れば夜が更け、眠りについたら次は朝。そこまで乗り切れば、後は黒川を見送るだけで事は終わる。

 一体どんな事情があったのか。帰ってきたなら、問いただしてやろう。
 ツクルの靴が消えた玄関をもう一度見て、そう思うことにした。


(7)はこちら

いいなと思ったら応援しよう!