【長編】山猫軒のオーダーシート(7)
「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい。」
◆
今日が初対面だと言うのに、黒川とモクバはそれを感じさせないほど打ち解けていた。
「黒川のボイスサンプル聴いたか、村井。すげぇぞ、やっぱプロって感じ。声色の多さ半端じゃない」
「ありがとう。でもこれぐらいは普通だよ」
「いやいや、芝居もうまいから。村井聴いた? 『注文の多い料理店』。オレ、聴かせてもらっちゃった。もうな、リーディングライブだよ。生の迫力浴びちゃったわ」
「今回の仕事は収録だけれどね」
「なんで売れてねぇんだよ。瀬野はじめもいるような事務所なんだろ。村井、知ってる? 瀬野はじめ。めっちゃ売れっ子。アニメとかめっちゃ出てる」
「瀬野君は、アナウンサー学校も同じだよ」
「マジ?すげえ」
テーブルの対岸。途切れることなく、川の流れのように続く会話を、俺は黙って聞いている。時折、質問を投げかけられるが、答える間もなく話題は次へ。母親が親戚と話すとき、こんな感じだったな、とぼんやり思う。
モクバがよく喋るのはわかる。見るからに快活で、コミュニケーション能力も高そうだ。集団にいても目を引くタイプだろう。ツクルの友人だ、というのが信じられない。
それに黒川がついていけているのが驚きだ。昔の仏頂面で無口なこいつしか知らぬ身としては、目の前の光景が信じられない。声量もテンポもモクバに引けを取ることなく、ラリーを継続させている。
不粋な想像かもしれないが、長年声を失い過ごしていた分、人との繋がりに飢えているのかもしれない。誰かと言葉を交わし、意思疎通を図ること自体に快感を見出している。楽しげにモクバと話す姿からは、そんな、半ば貪欲とも映る衝動が垣間見える。
それを知ってか知らずか、黒川と歓談を続けるモクバ。
この男に言いたいことは、三つ。
①ツクルから着信があったのは今日の正午。この家に来たのがその一時間後と仮定しても、かれこれ五時間近く居続けていることになる。そろそろ帰ってもよいのではないか。
②ツクルは黒川が突発的な行動に出ないよう、誰か見張りを立てる意味でこいつを呼んだ。俺が帰宅してきた今、その役目はすでに終わっている。そろそろ帰ってもよいのではないか。
③ツクルのシナリオでは、俺たちは看病のために黒川の側に居続けている。赤の他人のこいつがピンチヒッターとして駆けつけるのはおよそ不自然だ。そろそろ帰ってもよいのではないか。
「一体いつ帰るんだ、お前は」
「へ?」
間の抜けた顔で、モクバはこちらを振り向く。
「あ、さーせん。なんか盛り上がっちゃって」
「楽しげなところ言いたくはないが」俺は黒川に目線を向ける。「こいつは人を殺している。明日の仕事が終わったら、警察に自首する。それをわかっているか」
景色がモノトーンに変わったような沈黙が生まれた。黒川の顔から生気が消え、一方で表情はそれについていかず、口は笑った形のまま固定されている。
だが、モクバは止まらなかった。
「だよなー。黒川、明日ぶち込まれちゃうんだよなー。せっかく仲良くなったのに」
場違いな物言いに、頭がくらりと揺れた。
「何を言っているんだ」
「え?」
「人が死んでいるんだぞ」
「でもわざとじゃないんだろ。正当防衛的な。あぁでも、逃げちゃってるからなー、罪には問われちゃうんだろうなー」
「その態度は不謹慎だ」
「お互いさまだろ」モクバは頭に手をやったまま、黒目だけをこちらに向ける。「三科もお前も、こいつがヒトゴロシだとわかった上で、かくまってんだろ。その時点で、死んだ女への冒涜だ。オレたちは等しく共犯者だよ」
教科書を読み上げるように、淡々と。
「お前はそれでいいのか」
「それで、って?」
「どうして共犯者になることをよしとした」
「別にたいした理由はねぇよ。三科に頼まれて、事情聞いたらなんか大変そうだから、手伝ってるだけ」
「正気の沙汰じゃない」
「お互いな」言って、鼻息を漏らす。「まぁ、今のモチベーションは多少違うかな。黒川の人となりもわかったし。だって昔、病気で喋れなかったのに、声優として仕事が来るまで巻き返したんだろ。すげぇじゃん」
黒川が驚いたようにモクバを見る。モクバは続ける。
「どの道、殺してしまった事実は変わらない。その上、罪を償う気もあるんなら、あとはタイミングの問題じゃねぇの。ほんの数日、後ろめたさに目を瞑りやり過ごせば、長年の夢を叶えられるんだ。いずれお縄につくっていう結果が変わらないなら、多少先延ばしにしても構わないんじゃねーか」
うん、これだな。これが俺の理由だわ。納得顔で、一人頷くモクバ。
俺は息を吐き、受け取った言葉を吟味する。
お互いさま、とこいつは言ったが、ツクルや俺とは根本的なところが異なる。
ツクルは黒川に対する過去、俺はツクルに対する過去という背景があり、この逃避行への協力を決めた。しかし、こいつは違う。その理由となるものが何もない。
善悪を超えた行動指針が自分の中にあって、それに従った結果こうなった。"理由"ではなく"理屈"で動く。相手が誰であれ、同じ事情を抱えた人間なら、こいつはこの選択をする。
早川木馬。
どこかズレていると感じていたが、想像以上だ。大幅にネジが吹っ飛んでいる。
「危険なやつだな」
「お前らもな。五十歩百歩だろ」
と、そこでインターホンが鳴った。まず最初にツクルの帰還が思い浮かんだが、すぐさま警察が訪ねてくる可能性にも思い至り、危機感が走る。
だが。
「お、来たんじゃね」
あろうことか、モクバがスマートフォンを片手に立ち上がる。
「なんだ」
「あ、来てる」
「だから何がだ」
「ピザ」
「ピザ?」
「晩メシ。腹減ったから、頼んだんだよ」
「は? いつ頼んだ」
「お前が帰ってくる、ちょっと前」廊下へと出ながら、モクバは声を張る。「安心しろって。三人分ちゃんとオーダーしてるから」
人の家にいながら、勝手すぎやしないか。そう言いたくなったが、もう遅い。玄関から受け渡しの声が聞こえる。
シナリオ上、出前を取るのは大丈夫だろうか。黒川は調子を崩し、家で寝込んでいる設定だ。外で食うわけにはいかない。大丈夫。頼んだのがピザというところは今ひとつだが、出前自体は間違った選択ではない。
「じゃーん」平らな箱が入った袋を抱え、モクバが玄関から戻ってくる。テーブルの中央にどさりと置いて、腕を腰に。「じゃ、おっ始めますか」
「何をだ」
「前夜祭。明日は記念すべき、黒川の初仕事だ」
一瞬の静寂。
「ありがとう」
黒川が頭を下げる。気づかなかったが、髪に隠れ、いつの間にか額の傷に絆創膏が貼ってある。
「本当に、ありがとう」
村井、グラス取ってくれ。モクバの言葉に、俺は立ち上がる。棚へ向かう前に冷蔵庫に寄り、昨夜アリバイ作りのために購入したジュースのペットボトルを引き抜く。
そう言えば、黒川のボイスサンプルとやらを聴きそびれていることを、何故かこのタイミングで俺は思い出した。
*
前夜祭は早々に終了となった。
広げたピザを半分も食べ終わらぬうちに、黒川が眠りについてしまった。まだ十九時台。眠気を訴え出したのがあまりに唐突であったため、まさか本当に頭の傷が悪さをしているのでは、と心配になった。
しかし、
「大丈夫だ」
ピザを頬張りながらモクバが言う。
「薬のせいだよ」
「薬?」
「ミンザイ」
『ミンザイ』。その四音を四文字に変え、頭の中で『眠剤』と変換するのに、時間を要した。
俺は、黒川が先ほどまで口をつけていたグラスを見やる。
「……睡眠薬?」
「そ」
「どうしてそんなものが」
「俺が飲ませた」口の中のものを嚥下して、モクバ。「グラスに入れて溶け込ませた。ここまで早く効くとはな。思った以上に消耗してんぞ、こいつ」
食卓で交わす会話の延長、といった口調が、余計に違和感を煽る。
「何をしているんだ」
「でかい声を出すな。起きんだろうが」グラスを持ち、中の炭酸飲料を口へ。一度リスのように頬を膨らませ、音を立て飲み込んだ。「安心しろ、単に寝かせただけだ。取って喰おうとしているわけじゃない」
モクバは立ち上がり、指をひと舐めして、俺を見る。
「大丈夫か?」
「……何がだ」
「お前のグラスにも、同じように一服盛っているかもしれないぜ」
咄嗟に身構える。しかし、その先どうしてよいかわからず、とりあえず口を片手で覆った。
「おっそ」
モクバは笑う。そして俺のグラスに手を伸ばし、中身の水を口へ。また音を立てて飲み込み、グラスを置く。
「ほれ、安心しろ。何も入れてねぇよ」
水道借りるぞ、とキッチンに回り、シンクで手を洗うモクバ。その背を見ながら、俺はゆっくりと口に当てた手を下ろす。
「……どういうつもりだ」
質問には答えず、タオルで手を拭きながら、モクバは部屋を見渡す。そして壁にもたれかかるように置かれている黒のトートバックに目をとめた。黒川の背後を横切り、それの前でしゃがみ込む。
そして重なった肩紐を両手で割いて、開いた口に手を入れた。
「おい」
「静かにしろって」
「何をしているんだ」
返答はない。様子がよくわからず、俺もそちらに近づく。
モクバはカバンから財布を抜き取り、二つ折りのそれを迷わず開く。差し込んであるカード類を景気良く抜き取り、その他、紙幣や硬貨もすべて取り出して、床へ。内ポケットにも指を入れ、その中にあるものも外に出す。
指先に挟まれているものを見て、ぎょっとした。数センチ四方のビニール。小さいアイテムながら、傍目からも、それが避妊具であることがわかった。
女性と暮らしていた。
黒川の話が、急に生々しさをもって迫る。
モクバはビニールを摘み上げ、つまらなそうに顔を顰めた後、他の中身と同様、床に並べる。そこで初めて、そのビニールの表面に油性ペンらしきもので何か書かれていることに気がついた。数字が八桁。見たところ、日付だろうか。
疑問を払拭する間もなく、モクバがカードの束を鷲掴み、中から運転免許証と思しきものを選出する。裏面も確かめた上、表を向けてまた床に置き。そしてポケットからスマートフォンを取り出し、数十センチの距離からそれを撮影した。
それでことは済んだのか。すぐさま床の中身を元に戻し始める。
突拍子がないにも関わらず、動き自体には無駄がないため、口を挟む隙がない。
「何をしている」繰り返す。
「交付日が最近だ。多分住所は変わってないだろ」
「住所? 免許のか」
「そ。こいつの住所」
モクバは財布をカバンに突っ込む。突っ込んだまま、その手をしばらく中で彷徨わせ、「あった」と引き抜いた。
小さく金属のぶつかり合う音。
楕円形のキーホルダーに、細長い金属片。
鍵。
「おい」
さすがに詰め寄り、モクバの腕を掴み上げた。
「どういうつもりだ」
「行くんだよ、こいつの家に」
「は?」
「お前こそ、どういうつもりだ」
フリーズする。
なんだ? 今、質問されたのか?
この状況で、俺が?
「昔の同級生が人を殺しました。人を殺すのはいけないことです。でも親友がそいつを助けたがっているので、協力することにしました」腕を掴まれたまま、真顔で俺を見上げる。「それでよくやっているよな」
冷たいものが胸に広がり、それが瞬時に熱くなる。
「お前だって、ツクルに協力しているだろう」
「違ぇよ。別に、人殺しの逃避行に協力しようと決めたことを、非難しているわけじゃない。人殺しの逃避行に協力しようと決めた、その状況に甘んじている。オレが言いたいのはそこだ」
わからない。こいつは何を言っているんだ。
「犯罪の片棒を担ぐんだ。下手すりゃ自分もただじゃすまない。つまり人生が懸かっている。それにしては、お前は無防備すぎる」
「何が言いたい」
「ちゃんとこの目で確かめるべきだ」
起こっていることを。
己の罪を。
「…………死体を、見に行くということか?」
頷くモクバ。
「正気か」
「お前の方が正気か、村井。ここまで関わった時点で、黒川の殺人は対岸の火事じゃない。何が燃えてるか、どれだけ燃えてるか、確かめずにこのまま進む気かよ」
「俺たちが燃やしているわけじゃあない。確かめずとも、明日こいつを初仕事に送り出せば、俺たちの役目はそれで終わる」
「あぁ、そこだな」
「なんだと?」
「村井、お前さ」
モクバはしゃがんだ状態から立ち上がる。その動きに翻弄され、俺は掴んだモクバの腕を離した。
目線が合う。
「苦しみや不条理にただ耐え忍ぶことが、生きることだとか思ってねぇか」
肋骨を小突かれたような衝撃が、胸に走った。痛みはなく、骨を揺らす振動が、身体の隅々へと伝播していく。
「この住所なら、三時間あれば戻ってこれんだろ。黒川のこの様子じゃ、多分それまで起きやしない」いつの間にか、スマートフォンを操作し、モクバは地図アプリを確認している。そして画面から目を上げ、再び俺を見た。「村井、お前も来い」
俺もか。問い返したいが、声が出ない。先ほどの振動が、まだ身体を駆け巡っている。
「明日までしのげばそれで終わる。そう、お前は言ったけどよ。今のこの状況、それも確実かはわからない。黒川が俺たちに、何か隠している可能性だってある」
「……それがこいつを眠らせた理由か」
「頭が回るようになってきたじゃねぇか」
いいぜ、村井。思考しろ。口の端を持ち上げ、モクバは笑う。満足げな様子とは裏腹に、俺の胸中では葛藤が続く。
ただ、かくまえばそれでいい。その前提で、俺はツクルに協力した。
ならば俺は、当初通りツクルに従うまでじゃないのか。
ツクルは。
ツクルは今、どこにいる。
「三科が戻ってくる保証はないぜ」
頭の中を読まれたようで、はっとする。
モクバは続ける。
「いいさ。行かない。それも自由だ。だけどいいのか、三時間経って俺が戻って、黒川の言った通り家に女の死体がありました、と報告する。思考を始めたお前はそれを、ハイそうですか、と受け入れられるか。納得できるか」
「俺は……」
「現実から逃げるのは勝手だ。目を逸らすのも、目を背けるのも、お前の自由。でもな村井、どこまで逃げても、見ぬフリしても、俺たちがいるのは現実だぜ」
時間がねぇ。最後の誘いだ。
前置きして、今度はモクバが俺の腕を掴む。
身体中をめぐっていた振動が、いっとき止まる。
「一緒に来いよ、村井時雨」
力強く。そして片眉を上げ、不敵な笑み。
「ぼんやりしてっと、喰われんぞ」
