【長編】山猫軒のオーダーシート(8)
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、
その他金物類、
ことに尖がったものは、
みんなここに置いてください」
◆
病室で、父親が顔を洗っていた。
妹の診断が下り、医師が去り。両親と俺、ベッドで眠る妹の四人が取り残されたその後だった。と言っても、その状況にあると認識したのはずいぶん後になってからで、当時の俺はそこに漂う沈痛な空気に、何が起こっているのかよくわからなかった。
「お父さん、どうしたの」
室内、出入り口近くに備え付けられた手洗い場で、何度も何度も顔を洗う父親が、見知らぬ動物のようにも映り、怖くなった。顔を洗っているの。隣で母親が答える。どうして洗っているの。汚れちゃったの。汚れたの、どうして。
「泣いているのよ」
煮え切らぬ返答を続けていた母親が、急に声を荒げるので、悲しくなり俺は泣き出した。しかし、母親の目にも涙が浮かび始め、困惑がそれを上回った。今は自分が泣いてはいけない場面であるような気がして、唇を噛み我慢した。
そんな様子を見てかどうか、母親は俺を抱きしめた。ごめんね、ありがとう、ごめんね。何度も頭を撫でられる。この場ではこの振る舞いが正解なのだろう。身体を覆う母の体温に安堵し、訳がわからないままにそう理解した。視界を母の肩に阻まれながら、父が顔を洗う水音を聞いていた。
その父親が事故で他界したのは、それから数年後のことだった。詳しい死因は知らない。事故だと聞いていたが、棺桶に寝そべった父親の身体は綺麗だった。
見た目の派手な人だった。長めの髪を明るく染め、耳にピアスを付け。顔立ちよりも、その二つの印象が強い。さすがにピアスは外されていたはずだが、棺に納められた姿は、生前のそれと大差がなかった。
別れを惜しむ暇はなく、慌ただしさが勝っていた。母親は喪主として奔走し、告別式の間は、ベビーカーに乗った妹と祖母と共に大人しくしていた。訪れる参列者には、祖母にも挨拶をする者がおり、そのうちの一人、知らない女性が俺に向け、言った。
「いっぱい、いっぱい、がんばってね」
何かしらの文脈があったはずだが、とにかくそう繰り返された。頷きを返すと、祖母が頭を撫でてくれた。
母親が合流し、家族だけになれたのは、出棺し、納骨の段になったときだった。白い灰に塗れ、小さくなった父の身体を前に、母と祖母はしばし呆然としていた。お別れだから、と無理矢理起こされた妹が、機嫌を損ねて泣き出して、それを契機に、母も祖母も涙を流した。
俺は泣かなかった。妹をあやしながら、母と祖母が骨を拾う背中を見ていた。
悲しみに襲われたとき。不幸に苛まれたとき。そうすることが、正解だと知っていた。そうしていれば、正解し続けていられる。そう思った。
「いっぱい、いっぱい、がんばってね」
その日、見知らぬ誰かに言われたその言葉が、収骨室を濡らす咽びと共に、鼓膜に残って離れなかった。
*
黒川の家は、電車を使って一時間ほどの距離にあった。帰宅するサラリーマンにまぎれながら、モクバと俺はそこに向かった。駅に着き、電車を降りるまでの間、俺たちの間に会話は無く、車内でもモクバは離れた場所でスマートフォンをいじっていた。
駅前の商店街を抜け、横断歩道を渡り。路地をいくつか曲がると、黒川のアパートに到着した。無骨な鉄柵に、ひび割れた壁。夜間、街灯の明かりが照らす中であっても、古く、築年数が経っていることがうかがえた。
「ここだな」
スマートフォンの地図アプリを切り、モクバ。首を巡らせ、辺りを見回す。
「ちょうど人がいない。行くぞ」
建物へ向け、小走りで駆け出す。俺もそれに続いた。
モクバに同行することを決めた俺だったが、決心が固まったわけではなかった。黒川の家に無断で忍び込むことや、そこにあるものを直視することへの躊躇は、この後に及んで消えていない。ただ、あそこに残り、眠る黒川と共にモクバの帰りを待つことに不安を感じ、そこから逃れるように家を出てきた。
右、左と動かす足が、地面を感じきれず、おぼつかない。ここまで来てはみたものの、いまだ現実感は抱けぬまま。とてつもない恐怖を感じる一方、どこかまだ夢の中にいるようでもある。
黒川の部屋は二階らしい。錆びた鉄製の階段を、できるだけ音を立てぬよう、俺たちは上る。右手に鉄柵、左手にドアと窓が並ぶ廊下を突き進み、手前から三つ目の扉の前へ。表札に、ご丁寧にも『黒川』と印字されたシールが貼られている。
この先に、死体がある。血を流し、横たわっている女性の死体。
扉を開けた向こう、待ち受けているであろう無惨な光景と、まだ嗅いだことのない類の異臭。それらが明確なビジョンを持たず、不穏な塊として、胸に迫ってくる。
「ハンカチ、持っているか」
モクバが問う。
「持っていない」
「じゃあ、袖口で手を覆え。指紋つけんなよ」
モクバは自分が言った通りにして、ポケットから鍵を取り出す。楕円の形をしたキーホルダーが付いた、黒川の鍵。それが鍵穴に差し込まれ、回転する。
解錠の音。
「入るぞ」
一気に扉を開け、モクバは中へ。俺も急いで身体を滑り込ませた。
中は暗闇。左隣にモクバの気配。背後でゆっくりとドアが閉められる。施錠の音はしない。
「しゅぅぅぅぅぅぅー」
一連の緊張を裂くように、モクバの長い息。俺も同じようにしたかったが、うまく呼吸が整わず、十分に息を吸えない、吐けない。
視線を前へ。廊下に面した窓からの明かりで、中の様子がぼんやりわかる。
入ってすぐに広めの空間。ここがそのままダイニングか。右手に扉。左手、窓の下にキッチン、その奥に冷蔵庫と食器棚。テーブルはない。
おそらく正面奥が居間だろう。磨りガラスが埋め込まれた戸が閉められている。
あるとしたら、あの先。
「村井。お前、人の死体って見たことあるか」
モクバが問う。
「……葬式でなら」
「俺もそんな感じだ」
お前は出すな、ふたつだと明るすぎる。言って、モクバはスマートフォンを取り出し、ライトを点ける。白く強い光。すぐさまそれを床に向け、足元を照らした。
「エンバーミングも死に化粧も保冷措置もねぇ。どんな感じなんだろうな、そのまま、ってのは」
「グロテスクな想像をさせるな」
「想像しようがしまいが、これから見る」
我が家よりもさらに狭い土間で靴を脱ぎ、モクバは中に踏み込んだ。俺もそれに倣う。靴下越しに、ひやりとした床の冷たさが伝わってくる。数歩の距離をそのまま進み、引き戸の前で立ち止まる。
モクバはそこで小さく息を吸い、急に弱々しい声で呟いた。
「あー、帰りてぇ……」
帰ればいいじゃないか。今から引き返そう。胸の中、踏ん切りのつかない自分が、答えようとする。
しかし、すぐさまモクバは元の顔つきに戻り、袖で覆った手を引き戸にかけた。
「村井、サンキュな。一緒に来てくれて」
一気にそれをスライドさせ、開ける。
青白い明かり。それを四角く切り取る、大窓。奥はベランダか。差し込む月光を、薄手のカーテンが濾過している。照らされた畳の床。ファンヒーター。ゴミ箱。ローテーブルの脚。テーブルの平面にはパソコン、置き時計、本。その奥に畳まれた布団。壁際、衣装ケース、三段のラック。ラックの上に写真立て。隣に、押入れと思われる褪せた柄の襖。
モクバがその襖に近づく。再び袖口で指先を覆い、手をかけ、開く。そしてスマートフォンのライトで中が照らした。
つっかえ棒に、ハンガーにかけられた服が大量に。それが、上段。下段にはダンボールや収納ボックス。一度襖を閉め、反対側を開いて確認。また上段に服。下段にはキャリーケースと、扇風機。
ない。
死体も、他にそれが収まる十分なスペースも。
「ねぇな」モクバが言う。
「……どういうことだ」
「そのままだ。黒川の家には死体がない」
なぁんか、そんな気がしてたんだよなぁ。頭を掻きながら、モクバはぼやく。
「そんな気がしていた?」
「いや、なんとなく、だよ。あいつ、人を殺すようには見えないし、殺してきたような雰囲気も感じない。殺気も死臭も漂っていない、っつーか」
「殺気や死臭がどんなものか、お前にわかるのか」
「いや、わかんねぇけど」
どういうことだ。
黒川の家には死体がなかった。どころか、黒川が言ったように、物を投げ合い争った形跡もない。部屋には必要最低限のアイテムしかなく、散らかるどころか、整然と片付けられている。
「そもそも、女と暮らしていた、って感じでもないよな。この部屋」ライトで軽く辺りを照らし、モクバは言う。「どころか、女が来ている形跡すらない」
「わかるのか」
「まぁ、そっちは。多少」
「黒川が嘘をついていた、ということか」
「状況だけ見るとそうなる」
「なぜ嘘をついた」
「知らねぇよ」モクバの鼻息。「おい、思考はどうした。お前もちゃんと自分で考えろ」
喰われんぞ。
一時間ほど前、家を出るにあたり、モクバに言われた言葉を思い出す。一体何に喰われるというのか。わからないが、とにかくこのまま受け身でいては危険だ、ということだろう。
試しに考えてみる。黒川は嘘をついていた。それは何故か。
いや、本当に嘘をついていたのか?
「ここは本当に黒川の家か」
「あん? あぁ、なるほどな」モクバは片目を瞑る。「残念ながら黒川の家だよ。あいつの免許証にあった住所がここで、あいつが持っていた鍵で中に入れた」
「ここで暮らしていたのだろうか」俺は言う。「たとえばここは仮住まいで、実質的には、交際している女性の家の方に住んでいた」
薄暗がりの中、モクバの目が見開かれるのがわかった。
「……いーね。いい線だ」
モクバは一度周囲を見回した後、押入れを離れ、ローテーブルの側、ゴミ箱を覗く。しゃがみ込み、スマートフォンのライトを当て、手を中へ。優しく中をかき混ぜ、人差し指と中指をピンセットのようにし、何かを抜き出した。
「だが残念。おそらく違う」
抜き出したのは白い紙。光が当たる。どうやらレシートらしい。
「一昨日の日付だ。中身は歯ブラシ。そしてパッケージのゴミが中にある。見るか」
促され、俺はモクバの横に。ドラッグストアのレシート。並ぶ商品名のうちには、たしかに半角文字で『ハブラシ』と見える。
モクバは続いてゴミ箱を照らした。プラスチックの長細いケースに、剥がされた台紙の先端がくっついた抜け殻が捨ててある。
「女の家で暮らしてんなら、買った歯ブラシここで開封しねぇだろ」
「たまたまかもしれない」
「でもやっぱ、違うと思うぜ」
モクバはレシートをゴミ箱に戻し、ポケットに手を入れた。先ほどこの家に入るとき使用した、楕円のキーホルダーがついた鍵を取り出し、かざしてみせる。
「合鍵がない。ついているのは、黒川の家の鍵だけだ。女の家に出入りしているなら、そっちの鍵もないとおかしい」
「別に持っているのかも」
「あのカバンの中にはなかった。ていうか、それ言い出したらキリねぇだろ」
「まぁ、そうだな」
「どうする? 次は冷蔵庫でも開けてみるか」
「……いや」
モクバの言うとおりだ。どこまで確かめても、そうでない可能性は捨てきれず、キリがない。蓋然性の高い方を選び、判断するしかない。
黒川はここで暮らしていた。そしてここには死体がない。
「ならどうして、嘘をついたんだ」
「さぁな。本人に訊けばわかんだろ」
言って、モクバはスマートフォンを横に構え、画面をタップし、一枚写真を撮影した。
フラッシュの明滅。
続けて、壁に、床に、寄って、引いて。同様に何度もシャッターを切る。その度、視界が白く染まり、しばらく光の残滓が舞う。
「何をしている」
「これから帰って黒川の話を聞く。そのとき、言い逃れができないよう証拠を撮っておく」
「不法侵入したことがバレてしまうな」
「眠剤飲ませて眠らせたこともな」
文句は言わせねぇさ、とっちめてやる。モクバは撮影を続ける。アングルを変え、画角を変え、そこまでやるか、という徹底ぶり。
気になるのはフラッシュだ。シャッターを切るたび、光が瞬く。先ほどまでスマートフォンの明かりに気を配っていたはずが、これでは外からも目立って見えるだろう。
「おい。もうやめ……」
言いかけたところ、過った光景に言葉が止まった。
白く光った視界、その中に引っかかる映像があった。
俺は先ほど被写体となった空間に近寄る。壁際、三段ラックのあたり。そのラックの上に立てられた写真立て。
手を伸ばしかけて、思いとどまり、そこに飾られた一葉に顔を寄せる。フラッシュに乱された瞳にも、それがどのような写真であるかは、はっきりとわかる。
親子写真だ。
母親と思しき女性と、まだ小学生にもなっていないであろう男の子が、手を繋ぎ、正面を向いて写っている。当然のことながら、男の子の顔立ちには、黒川稔の面影があった。
「黒川……」
思わず声が出た。
自分に興味を向けようとはしなかった、母親。その母親と離れたことで声を取り戻した、という黒川の話を思い出す。
その黒川が、古い母とのツーショット写真を部屋に飾っている。何か、触れてはいけないものに触れてしまったような、恐怖と焦燥が胸を走る。
どんな思いで、これを。
どんな思いが、これに。
「三科は知ってんのかな、これ」
モクバの声に振り向く。撮影した写真をチェックしているのか、スマートフォンの光に顔が青く照らされている。
「どっちかってーとそれの方が気になんな、オレは。三科はここに死体がないことを知っていて、なおオレたちを巻き込んだんだろうか」
同感だ。
ツクルは一体、どこまで知っている。
そして今、どこにいるのか。
「ツクルと連絡を取ろう」
俺は言う。そだな。モクバは一度スマートフォンを下げ、頷いた。あと数枚、と構え直して、玄関口の方を向き、またフラッシュを明滅させる。
人影。
「……え?」
筋肉がこわばる。一拍遅れて、全身を寒気が襲った。
誰かいる。
薄暗がりの中、玄関口に男のものと思われるシルエットがあった。
「……誰だ」
モクバが唾を飲み込む音。再びスマートフォンをかざし、ライトを玄関へ。スポットライトを浴びた格好で、男の姿が露わになる。
長身のスーツ姿。四十代ぐらいだろうか。坊主頭で、顔には表情が無い。
とく、とくと心臓が鼓動のスピードを上げる。
「ライトを下げろ」男の口から、低い声。「眩しくてかなわん」
モクバは手を下ろす。土間に立ったままの、スーツの下半身が照らされる。と同時に、男の手がポケットに。素早い動きで何かが引き抜かれ、数秒と待たず、鋭い光が明滅した。
遅れて、シャッター音。写真を撮られた、とそこでようやく気づく。
「やっべ」モクバの声。「村井、ベランダの鍵開けろ」
「ベランダ?」
「急げ」
「逃げても無駄だ」低い声。「逃げても追いかける。そして必ず捕まえる。だから余計な手間は取らせるな」
「……誰だよ、オッサン」
「『リンクス・プロダクション』、黒川稔の事務所の者だ。必要なら名刺を渡そう」
事務所。
思いもよらない人物の登場に、頭が混乱する。
「事務所の人間が、なんでここにいるんだ?」
「質問できる立場か。お前たちこそ、なぜここにいる。夜中、他人の家に侵入し、明かりもつけず撮影し。納得のいく説明が用意されているとは思えない」
言われてみれば、その通りだ。所属タレントの家を訪ねてきた事務所の人間と、俺たち。どちらが不審者か、と問われれば、十人が十人こちらを指さすことだろう。
「安心しろ。取って喰うつもりはない」
坊主頭の声が続く。
「……じゃあ、どうするつもりだ」
モクバの問いかけ。しかし、すぐには返答がなく、代わりに「ハ」と太い息を吐く摩擦音が聞こえた。
照らされたスーツの足元が動き、男の靴が部屋の中に入り込む。瞬く間にその足がこちらに近づき、すぐにけたたましい音が鳴った。
「敬語を使え。クソガキが」
目の前、モクバが胸ぐらを捕まれ、引き戸のガラス面に押しやられている。ガラスが揺れる振動から、後頭部にかけられた圧が伝わる。しかし、体勢を崩され、至近距離で睨みつけられながらも、モクバは男の顔から目を逸らさずにいる。
「取って喰うつもりはない、じゃねぇの?」
「お前たちの振る舞い次第だ」
「なるほどね」嘲笑し、そしてトーンを下げる。「村井、お前だけでも逃げろ。何されるかわかんねぇぞ」
呼びかけられ、はっとする。しかし、即座に動くことができない。男の顔がこちらを向いた。
「無駄だと言っただろう」
頭が回らない。どうすればいい。
「……何をすればいいですか」
俺は問うた。モクバから、舌打ちが聞こえ。対して男の纏う荒々しさが、わずかに和らぐ。
「お前たち、ミノルの知り合いだな」
ミノル。黒川のことか。
「……はい」
「今、ミノルはどこにいる」
「知らねぇよ」モクバが答える。「オッサン、黒川を探してんの?」
「あぁ、探している」
「見つけてどうするつもりだ」
「さぁな。社長が決めることだ」
「社長? あいつ、事務所相手に何かやらかしたのか」
男は答えない。
「教えろよ。事情がわからなくて、オレもこいつも困惑してんだ」モクバも怯まない。「少なくとも、力ずくじゃあ、オレたちは何も喋らないぜ」
男はしばらく黙った後、ため息をつき、モクバの胸元から手を離した。
「ここで話していても、埒が明かないな」
呟き、俺たちに背を向け、土足のまま玄関へと引き返す。そして扉の前、首だけを捻って、俺とモクバを見た。
「ついて来い。事務所で話をする」
首元を抑えながら、モクバが笑みを浮かべる。
俺は、自分でもよくわからぬままに、先ほどの親子写真を一瞥した。無表情の母と子の顔が、暗がりの中、正面からこちらを見返してきた。
