【長編】山猫軒のオーダーシート(2)
「ことに肥とったお方や若いお方は、
大歓迎いたします」
◆
ツクルとは幼少期からの付き合いであるものの、それほど頻繁に会っているわけではない。同じ団地で暮らしており、たまに顔を合わせる程度。クラスメイトであったときも、会話は必要最低限であり、三科創と村井時雨に繋がりを見出す者は少なかっただろう。
義務教育までは学校も同じだったが、高校からは別々で、大学生になってからは、顔を合わす頻度も格段に減った。一番遭遇率が高かったのは朝夕の駐輪場だが、今は生活サイクルもまちまちとなり、出くわすことはほぼない。最後に面と向かって話したのは、いつだったか。昨年暮れの祖母の葬儀、いや、母と妹が引っ越し、あの家でひとり暮らしをすることになった、とたしか報告した。あの時が最後であれば、四ヶ月ぶりほどになる。
それほど栄えている街ではないため、駅前にカラオケ店はひとつだけ。言われたとおり受付で『三科』の名を告げると、二〇三号室を案内された。お飲み物はドリンクバーから、と言われたが、コップ片手に向かう気にはなれない。階段を使い、二階へと直行する。
店内では、アップテンポの曲が喧しく鳴り響いている。それに混じり、ドア越しに伝わる利用客の歌声。こういう場所には初めてきた。そもそも夜に出歩くことが少なく、慣れない喧騒に、すでに五感が疲弊してきている。普段なら寝ている時間であるため、身体も重い。
しかし、眠気はない。頭の中では警鐘が鳴り続けている。
先ほどの電話。今、ツクルを襲っているもの、これから自分に襲いかかってくるものに対する危機感が、否応なしに意識を覚醒させる。
二〇三号室にたどり着く。
磨りガラスのドアを開けると、両側に人の姿が見えた。右手、L字型のソファの長辺に銀縁のメガネをかけたツクルの姿、テーブルを挟んで、スツールと思しきものに座っている、痩せた黒髪の男。
「来てくれて助かる」
ツクルが俺を見て頷く。前髪をセンターで分けた、色白の顔。平均よりは小柄で華奢な身体。外傷の類は見当たらない。
電話で感じたような声の震えもなく、いつも通り冷静なトーン。何かしら物理的な危機の渦中にいることも想定していたが、その心配はなさそうだった。
「飲み物を取ってこい」
ツクルが言う。「要らない」と答えるが、「取ってこい。長くなる」と再び押される。
この非常事態に、何を言っているのか。
「あ、じゃあ僕も行こうかな」
左手で、聞き慣れない声がした。
聞き慣れない、もとい初めて聞く声。
目を向けると、左側にいる男が、笑みとともにこちらを見上げている。
「村井君、久しぶり。黒川稔です」
黒川。
枯れ枝のように細く長い身体。Vネックのシャツにスキニーパンツという装いが、その体型を強調している。その節くれだった見た目から想像されるものより、柔らかく、中性的な声音だ。もはや遠い記憶ではあるが、小学五年の当時感じていた刺々しく不穏なオーラともイメージが違う。
「行こう」
反応を返せない俺に声をかけ、黒川は立ち上がる。身長は同じくらいか、黒く波打つ髪に半分隠れた細い目が、俺と同じ高さでアーチを描き。
俺はツクルを一度見る。変わらず無表情のままであることを確認し、ドアを抜ける黒川の背に続く。
ドリンクバーまで無言で歩き、互いにグラスを手にしたところで、黒川が口を開いた。
「村井君、変わったね。もう少し派手なイメージだったけれど」
怒りにも恐怖にも似た感覚が、背筋をなぞる。
お前がそれをするのか、と言いたくなった。緊急で、訳もわからず駆けつけた相手に対して、混沌の真ん中にいるであろうお前が、気安くアイスブレイクのような話題を振るのか、と。
お前は。
人を殺したのでは、ないのか。
「喋れるようになったんだな」
グラスに水を汲みながら、俺は言う。勢いが強く、細かな飛沫が指先と手の甲に散らばる。
「あぁ、うん。なんとかね」
「いつから」
「え、何が」
「いつから喋れるようになった」
転校してきた五年生の時分、黒川はまったく喋れなかった。比喩でなく、一言も発しない。表情も乏しく、およそ口を開くのは飯を食うときだけだったように思う。
その異質さ異様さは子供心にも「何かある」と察するに足るもので、俺たちクラスの面々は、そんな黒川との適切な距離を測るのに四苦八苦していた。
そして、測り損ねた。
結果として、黒川が進級を待たずして学校を去ることになるまで、俺たちがその肉声を耳にすることはただの一度もなかった。
「中学に上がった頃のことだよ。母親と暮らすことをやめて、叔父叔母のところに住むことになってから、徐々に回復していった」
黒川は答える。気が変わったか、グラスを棚に戻し、陶器のカップを取り出した。続いてほうじ茶のティーパックを選び、中身を入れて、湯を注ぐ。
母親と離れて、ということは、そこに原因があったのか。当時の様子を思い出しても、黒川の症状は「声を出せない」と言うより「心を開けない」ものであった気がする。
震えないのは、声帯でなく、感情。
「でも、今はこの通り。後で話すけれど、声を仕事にしようとしているぐらいでさ」ティーパックを上下させ、黒川は俺を見る。「それより驚いたよ。三科君を訪ねていったら、村井君を呼び出すんだもん。二人が友達だったなんて、あの頃は全然知らなかった」
「ただの腐れ縁だ」
俺は言う。そして水の入ったグラスを片手に、ドリンクバーから一歩離れた。三科君にも何か持って行こうか。黒川が訊ねるので、要らない、と答える。
「欲しければあいつは自分で取りにくる」
踵を返し、元いた部屋へと。廊下を進む途中、急に喉の渇きを覚え始めた。手持ちのグラスに口をつけたい衝動に駆られたが、唾液を飲み込み、我慢した。
*
人を殺した、かくまって欲しい。
黒川の話を要約すると、この二点だった。
再び集った二〇三号室。壁沿い奥、L字型ソファの短辺にツクル、長辺に俺。俺とテーブルを挟んで真向かいに、スツールに座る黒川という配置。照明は薄暗く、ブラックライトの直線的な光が、ツクルの着ている白いシャツを紫に染め。ドア越しに聞こえる音楽のリズム音が、小刻みに室内に侵食してくる。
「アナウンサー学校に通って、芸能事務所に入ったんだ。声を活かした仕事がしたくてさ。事務所のプロフィールも、『声優・ナレーター』のカテゴリーに入れてもらっている」
黒川は語る。トートバックからスマートフォンを取り出し、いくつか操作の上、俺の方へ向けテーブルに置いた。
「瀬野はじめ君とかいる事務所なんだけど、知らないかな」
知らない。有名人だろうか。
光る画面を見る。
『リンクス・プロダクション』と書かれたヘッダーの下、黒川の言う通り『声優・ナレーター』の文字と共に、宣材写真が整然と並んでいる。最上列に、その『瀬野』というタレントの名と写真。スクロールすると、最後列の真ん中に、黒川のそれがあった。真白い背景に、斜めの角度で微笑む顔が映っている。
本人を前に実感が湧かないが、どうやら嘘ではないらしい。黒川は事務所に所属し、声優として活動している。
と、思ったが、
「ずっと仕事が無かったんだ」
自分の写真を見下ろしながら、黒川は言う。
「所属して二年が経っても、何ひとつオファーはない。どのオーディションにも引っかからず、振られる仕事は、声とは関係のない現場のアシスタント。日雇いや短期のアルバイトをしながら、どうにか食いつないでいる有り様でさ」
二年が経っても。それだけ厳しい業界ということだろうか。素人目には、その状況で二年も続けられていることが不思議に映る。
「でも、ようやく初仕事が決まった」
顔を上げる。
「朗読の収録なんだ。Webドラマで使われる素材だから、全編流れるわけではないけれど。でも、真っ当な声の仕事」
その収録が明後日、土曜日にある。だから、それまでかくまって欲しい。
黒川は言って、頭を下げる。
突拍子もない展開に、頭がついていかない。肝心の部分が伏せられたままだ。
こちらを向く頭頂部を、俺は睨みつける。
「ツクルからは、お前が人を殺した、と聞いている」
黒川は頭を上げ、一度俺を見てから、目を伏せた。
「うん」
小さいながら、揺るぎない肯定。
どうか間違いであって欲しい。そう期待してはいたが、無駄だった。落胆と同時に、熱風にも似た衝動が、首筋から頭上へと這い上がる。
殺した。
人の命を、奪った。
「本当か」
「うん」
「本当に殺したのか」
「そう」
「いつ殺した。誰を殺した。なぜ殺した」
「シグ」
ツクルの声に、振り向く。物静かな表情がこちらを向いている。
「落ち着け」
メガネの奥の、冷たい目。
俺は鼻から息を吐き、頭蓋の熱を逃した。目線を下に、いまだ口をつけていなかったグラスを持ち上げ、水を飲み。そして再び黒川を見た。
「何があった」
薄暗がりの中、カラオケのディスプレイを流れるプロモーション映像。音を切った状態で続く、賑やかしいそれの明滅が、黒川の顔に当たる。目鼻の作り出す陰影が、濃さを増す。
「一緒に暮らしていた女性がいたんだ。動かなくなったのは、その子」
「……動かなくなった?」
「無責任な言い方に聞こえるかもしれない。でも、感覚的にはそれに近い」
黒川は言う。
「よくある話さ。声の仕事で身を立てる、という夢を追い続けている僕を、ずっと彼女は支えてくれていた。でもさっきも言ったように、事務所に入ってもうすぐ二年だ。なかなか芽が出ないままの僕に、次第に愛想を尽かし始めた」
初仕事が決まった、という知らせを、彼女は喜ばなかった、と言う。
「いよいよこれは別れるしかない、と話を切り出したところ、口論になった。もともと火種が燻っていた分、お互いヒートアップしちゃって。彼女も相当思い詰めていたんだろう、半狂乱になり、家中のものを僕に投げつけてきた」
黒川はそこで、前髪を持ち上げた。露わになった額に、赤黒く、抉れたような跡がある。まだ血が乾ききっていないのか、ブラックライトの明かりを受け、ぬるりと光った。
「化粧瓶を投げてきたんだ。それが直撃した。視界が真っ白に光って、とても痛くて。瞬間的にカッとなって……」
化粧瓶を拾い、投げ返した。
黒川は前髪を下ろし、両手で顔を覆う。その隙間から、細々と言葉を吐いた。
「彼女のどこにそれが当たったのか、わからない。ただ短い悲鳴と鈍い音がして。視界がクリアに戻る頃には、もう彼女は床に倒れていた」
血が流れていて、
声に応えなくて、
息をしていなくて、
動かなくなった。
「直感的に、もう駄目だと思った。蘇生を試みてもきっと間に合わない。そういう状態だった」掠れた声で、黒川は続ける。「そこでまず頭に浮かんだのが、明後日の仕事のことだった」
「…………は?」
思わず声が出た。
顔を覆う指の隙間から、黒川の見開いた目が覗く。
「救急車を呼んでも警察を呼んでも、事情を聞かれ、拘束される。そんなことをしていたら、収録どころじゃない。せっかく掴んだチャンスなのに、このままでは棒に振ってしまう」
「ちょっと待て」俺は割って入る。「……まずそれは、いつのことだ」
「今朝だよ」
「今、その彼女の身体はどこにある」
黒川はそこでようやく顔から手を離し、能面のような表情で、俺を見た。
「家」
右耳から左耳へ、ノイズが駆ける。その音波の摩擦で、脳幹が焼け焦げるような感覚。
「置き去りにしてきたのか」
「うん」
「朗読の仕事をするために」
「うん」
黒煙が立ち込めるように、思考が濁されていく。今なお横たわったまま、無人の部屋に放置されている女性を想像し、濁りは一層濃さを増す。
動かなくなった、身体。
動けなくなった、身体。
動かさなかった、身体。
靄を払うように首を振り、俺はツクルを見る。メガネの奥の目はなお冷たく、その顔に表情はない。
「警察は」
「呼んでいない」
なぜ呼ばない、という問いを飲み込む。ツクルがそう判断した。動かさない、と、そう決めた。
黒川へ目線を戻す。
「ここに来た理由は。その切羽詰まった状況で、どうしてツクルを訪ねてきた。お前と俺たちが同級生だったのは、ただの数ヶ月。その間、親しくしていたどころか、俺たちはクラスぐるみでお前を……」
言い淀む。
拒絶。疎外。どれも適切でなく、誠実でもない気がして、ありのままの言葉を使う。
「お前を、いじめの対象にしていた」
黒川のうねりのある前髪、その奥にある瞳がわずかに歪んだ。その歪んだ瞳に向け、俺は続ける。
「悪いがここで謝罪をする気も、当時を振り返る気もない」
「……うん」
「とにかく、俺たちとお前は良好な関係にはなかった。お前が学校を去った後も、まったくの没交渉。今さらになって訪ね、頼ってくる理由が思い浮かばない」
黒川はそこで首を動かし、顔をツクルに向けた。
「話していい?」
俺もツクルの方を向く。無表情の白い顔が、小さく頷きを返す。
「手紙をもらったんだ。三科君に」
声を受け、また黒川を見る。
「手紙?」
「そう」
「ツクルから、お前にか?」
「うん。君たちの学校を転校して、しばらくしたタイミングで」
「事実だ」
信じられない、本当なのか。そう訊ねたくなる機先を制し、ツクルの声が肯定を返す。
行き場を失った疑念を、喉の奥で持て余す。
「……信じられない」
持て余し、やはり口にした。嫌味に映ったか、ツクルの小さな舌打ちが聞こえた。
「その手紙がとても印象に残っていて。頼るなら三科君だ、と家を訪ねた」
「信憑性がないな。内容だけでなく、住所まで覚えていた、と?」
「うん。部屋番号までは記憶にないけれど、団地の場所は覚えている。それに、実は前にも一度、来たことがあった」
「……え」
「声が出るようになった頃だから、中学の頃だよ。手紙に書いてあった住所を頼りに、三科君を訪ねた。日中だったし、インターフォンを押す勇気も出なくて、周辺をうろうろしているだけだったから、三科君には会えなかったけれど」
自嘲気味に、それでいて懐かしむような口調で、黒川は話す。
「何をしに行ったんだ」
「声が出るようになった、と報告しに」
答えると、黒川は両膝に手をついて、おもむろに立ち上がった。カラオケの機体へ近づき、マイクを手に持つ。
突然の行動を前に、目で追うしかない俺に向け、黒川は苦笑を浮かべた。
「村井君、君の反応は常識的なものだと思う。だから今から僕がすることも、不謹慎で、不愉快に感じるかもしれない」
光るディスプレイの前に立ち、逆光を受ける形で、俺を見下ろし。
黒川はマイクのスイッチを入れた。
「声が出るようになった。今ここで、それを報告させて欲しい」
