【長編】山猫軒のオーダーシート(12)
「いろいろ注文が多くて
うるさかったでしょう。
お気の毒でした。
もうこれだけです。
どうかからだ中に、
壺の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。」
◆
電話が鳴って、いい思いをしたことがまるでない。あのときもそうだった。
高校生の頃。祖母の入院中、入院先の病院から電話がかかってきた。母親が仕事で繋がらず、家にいる自分に連絡がきたものだ。祖母の様子に異変があり、すぐに来てほしい、という内容だった。
行こうにも、家には妹がいる。食事もトイレも一人では難しい。置いて出ていくわけにはいかない。一方で、祖母の異変は続いている。どうしてよいか途方に暮れ、とにかく妹の夕飯だけでも調達せねば、と慌てて外へ駆け出した。
そこで、ツクルと出くわした。
投げやりになるな。できることをやれ。
俺に頼るのは、そのできることのひとつだ。
にっちもさっちも行かない状況の俺に、ツクルはそう告げた。
結局、病院には母親が行くことになり、その晩はツクルが俺の家で夕飯を作ることとなった。以来、ツクルと接するたび、その姿が重なって浮かんでくる。
あの日、「頼れ」と俺に告げ、強引に俺を救ったツクル。
そのツクルが今再び、「頼む」と救いを求めている。
ソファの上、縛られたまま、俺は再び前を見る。血に塗れながら声を上げ、情事を続ける瀬野と【ママ】。二人がまぐわうベッドの横には、端末を手にツクルが折れるのを待つ、比留間とニット帽の男。
絶望的な状況に変わりはない。ツクルを「救う」ためには、この絶望を受け入れる必要がある。
負けたままでは、生きた心地がしない。
頭の中、先ほどの言葉を反芻する。
正直、ツクルの言うことに、同調することは難しい。
数多の人間の『思惑』により生まれた大きな流れ。その正体すら見極められず、戦わずして撤退した過去を払拭したい。今後生きていく上で、それは必要な通過儀礼であるという、その言い分は、話の上では理解できる。
だが、ピンと来ない。
おそらく、経験の違い。
さらには、生き方の違い。
ツクルが『思惑』と呼ぶ、俺たちを襲い、喰らう『何か』。たしかに黒川のいじめに関して言えば、そう結論づけることも可能かもしれない。しかし、ツクルのように人生を通し対峙するものとした場合、どうだろうか。
仮に自分の人生にまで視野を広げてみると、俺にとってそれは、単に人が生み出した『思惑』に留まらない。
例えば、妹の病気。例えば、父親の不在。例えば、祖母の衰え。
俺を喰らおうとしてきたものは、俺を喰らってきたものは、感情や思考に拠らぬところで発生した事象、抗えない『現実』だ。ツクルの言う『思惑』とは異なり、そこに俺自身の気持ちや思いは介入しえない。
ここにいない黒川にしても、事情は違うだろう。今、あいつを喰らおうとしているものは、仕事を奪われるという理不尽、さらには、利益を追求する『社会』そのものと言えるかもしれない。
つまるところ、その者の経験により『何か』の正体は変化する。そこに一義的な姿を求めるのは困難であるし、意味がない。
そして、対峙する相手が異なるならば、向き合い方もそれぞれで変わる。
干渉可能な『思惑』が相手のツクルは、それを上回る策を練ることで、勝利を試みている。
実利に揺れる『社会』が相手の黒川は、さらなる利害を提示することで、戦いを挑んでいる。
対して、俺は。
苦しみや不条理にただ耐え忍ぶことが、生きることだとか思ってねぇか。
家を出る前、まだモクバだった頃の瀬野に言われた。
その通りだ。俺は耐えてきた、忍んできた。病気や死別や老衰が相手だ。そうした『現実』を前に、できることなどそれしかない。
処世術とすら呼べないであろう、ただひとつのシンプルな方針。幼少の頃から染みついた習性、"生き方"と表現してもよいそれが、あらゆる困難への対処法となっていた。
その困難の中には、ツクルが対峙する『思惑』や、黒川が対峙する『社会』がもたらすものもあったかもしれない。しかし、俺はそれが何であるか、見極めようとはしなかった。相手の正体を問わず、"耐え忍ぶ"という方針を盲目的に貫いてきた。
今もまた、そうだ。
黒川の意図、瀬野の意図、ツクルの意図。それらを深く知ろうとはせず、唯々諾々と流されて。襲いかかってくるものの本質から目を背け続けた結果、騙され、運ばれ、囚われている。
戦わず、耐え忍ぶ。
この生き方のせいで、こうなった。
その報いを、これから受ける。
「理屈っぽくなったな、俺も」
ひとりごちる。お前の影響だぞ、との恨みを込めて、ツクルをひとつ睨んでやった。
「なんだ」
「別に」顔を逸らし、息を吐く。「わかった。協力する」
ツクルがこちらを向く気配。得体の知れぬものを見るような顔が、視界の端に映る。
「……断ってもらう前提だったんだがな」
「特に断る理由がない」
「正気か」
「さぁな」俺は前を向き、振動する【ママ】の身体を見やる。「生々しいものを見続けたせいか、ようやく感覚が麻痺してきた。おそらく、耐えられる。さっきお前が言ったように、大型犬とじゃれ合っているとでも思うことにするさ」
「シグ、待て」
「今までこうして生きてきた。ここで変えることもない」
嗚咽と悲鳴の中間のような声と共に、瀬野の動きがぴたりと止まった。しばらくそのまま固まった後、力尽きたように【ママ】の身体になだれ込む。荒い呼吸音が、デクレッシェンドで引いていく。
俺は立ち上がった。
「……シグ」
「行ってくる」
両手を後ろに縛られたまま、ベッドへと歩を進める。比留間が靴音を立て、こちらに近づいてくる。
「何をしている」
「三科を説得することができませんでした。今からその女性の相手をします」
「本気で言っているのか」
「はい」
不意に、蒸気が噴き出すような音。ベッドへと顔を向けると、瀬野に抱きしめられたまま寝そべる【ママ】の目が、赤く血走りこちらを見ている。
「ハジメ、押さえてろ」
言って、比留間は俺の胸ぐらを掴み、顔を近づけてくる。
「いいか。あの女は本気でやるぞ。あぁなったら、事務所のことなど関係ない。この先動画が流出しようが、世間に叩かれようが、欲望に任せてお前を喰らう」
「そうですか」
「投げやりになるな。俺たちとお前の利害は一致している。パスコードさえ入手できれば、お前も『リンクス』も助かるんだ」
「理解しています」
「狂っているのか、お前」いや、お前たち、だ。吐き捨て、比留間は俺の背後、ソファへと顔を向ける。「三科ァ、お前、友人を売ってまで何がしたいんだ。そこまでしてミノルを助けて、お前に何のメリットがある」
ツクルは答えない。
「……どうかしている」
顎の下にある比留間の拳から、微かな震動が伝わる。やがて諦めたようにその拳が開き、比留間の身体が俺から離れた。
「結束バンドはこのままでいいですか」
俺は訊ねる。
「まだそのままだ」
新しい声が聞こえた。目の前、比留間の大柄な体躯の後ろから、ニット帽の男が現れる。
「解放した途端、余計なことをされては困る。準備ができるまで、そのままだ」
「準備?」
「行為中のお前を撮影する。この先、ここでのことを口外したら、すぐにその動画を流出させる。流出先は世間じゃない。お前のスマートフォンに入っている、連絡先のすべてだ」
ふと、今日追加したばかりの二つのアイコンが浮かんだ。
なるほど。下手に不特定多数に知れるより、実害は大きい。
ニット帽は俺の横まで来て、冷徹な口調で続ける。
「お前、まさかここを耐えればすべてが終わる、とでも思っているんじゃないだろうな。お前が襲われた後も、俺たちは手を尽くして、三科創を止めるぞ」
「どうやってですか」
「手は色々とある」吐き捨てるように。「スマートフォンを出せ。連絡先をすべてコピーする」
ポケットの中です、と答えると、すぐさま指先が入り込み、乱暴にそれが引き抜かれた。
ちょうどそのタイミングで、端末が鳴った。
ニット帽の手に渡った画面を見る。上下逆さになった『母』の文字が、視界に飛び込んできた。
習性的に、背筋を危機感が走る。
「貸してください」
「母親からか」
「急ぎの内容かもしれない。電話をとってください」
「この状況でか」
「早く」
「出ないと怪しまれる。こいつの家はそういう家だ」
後ろから、ツクルの声。ニット帽は鼻息をふかし、スライドで応答、端末を俺の左耳に押し当てた。
「すぐに済ませろ」
耳を澄ませる。異常はないか。異音はないか。
「もしもし」
『おにいちゃん』妹の声がする。『こんばんはー』
「胡桃、どうした」
『こんばんはー』
デンワしていーい、って訊くのよ。背後で母親の声がする。そのお手本をなぞり、『デンワしていーい?』と舌足らずに、妹。
どうやら何かあったわけではなさそうだ。渦巻いた危機感を追い出すように、俺は息を吐いて、また吸う。
「少しなら大丈夫だ。どうした」
『おにいちゃん、ピクニック、いつくるー?』
「あぁ」昨夜の電話を思い出す。「すまない、まだわからない」
『いつわかる?』
「いつだろうな」
『あのね。今日もネコいた』
「そうか。今日も行ったんだったな」横目でニット帽の男を見る。「胡桃、悪いな。またこっちから……」
『ネコ、こわかった』
「こわかった?」
『ごはんあげようとしたら、ひっかいてきたのよね』母親が割って入る。『胡桃、お兄ちゃん忙しいみたい。また今度にしようか』
『えー』
『時雨、ごめんなさいね。昨日連絡もらったのがよっぽど嬉しかったみたい。あなたに電話する、って聞かなくて』
「ひっかいた、って大丈夫なのか」
『あぁ、ネコ? そう、なんか住み着いている野良猫がいるのよ』
「怪我は」
『たいしたことないわ』
「……そうか」
『でもびっくりしちゃって。だから、お兄ちゃんがいたら守ってもらえたね、って話してたの。ね、胡桃』
息が止まる。
脳の薄皮が剥がれるような痛みがあった。
『おにいちゃん、またいっしょにきてー』
胡桃の声。
「……あぁ」
『ぷひゅーぅ』
邪気のない笑い声と共に、『じゃあ、また』と母が電話を切る。一瞬の静寂に続けて、無機質な電子音が鼓膜に響く。
「終わったか」
ニット帽の男が話しかけてくる。だが、答えられない。
守ってもらえたね。
鼓膜の電子音にかぶさるようにして、母の言葉が鳴っている。
頭蓋の内側が、その残響で満ちていく。
守ってもらえたね。
いっぱい、いっぱい、がんばってね。
残響の奥から浮き出るように、母のものとは違う声が。あれはいつ。父の葬式だ。見知らぬ参列者からそれを言われた。
いっぱい、いっぱい、がんばってね。
おかあさんたちを、まもってあげてね。
残響が止む。
頭の中が静かになり、代わりに自分の鼓動の音が聴こえてくる。
「終わったか、と訊いている」ニット帽の声。
「……いや、終わっていない」俺は答える。
守る。
ただ、耐えるだけでなく、忍ぶだけでなく。
守るために。
生きる。
生きてきた。
意識を視界に。比留間のスーツ姿。奥にある天蓋付きのベッド。そこで重なる全裸の身体。急に周囲の明度が増し、色合いが濃くなったように感じる。
「……比留間サン、あなたの言う通りだ」
「……あ?」
「俺は、どうかしていた」
頭が痛くて、熱い。ツクルのシナリオ。大学の講義。不在着信。つながらない電話。瀬野の登場。事務所のエントランス。結束バンド。【ママ】の舌先。剥き出しの端末。不明のパスコード。ツクルの『思惑』。これまで触れた情報が、高速で流れていく。
状況は変わらない。『現実』は退いてはくれない。
考えろ。"守る"ためにはどうすればいいか。
考えろ。一体、何を"守る"べきか。
考えろ。
身体ごと後ろを振り向く。ソファに座ったままの、幼馴染の姿がそこに。メガネの奥の無機質な瞳と目が合う。
それだけで何かを悟ったのか、小さくひとつ、まっすぐな頷きが返ってきた。
俺は言う。
「裏切るぞ、ツクル」
「お前の自由だ」
間髪入れずにそう返し、何故かおかしげに、ツクルは肩を揺らして笑い始めた。
「あんたたち、覚悟した方がいいぞ」『リンクス』の面々に向け。「とびきりの異常値だ。こういう雨が時に降る」
濡れて凍えろ。
吐き捨てるように、ツクル。
俺はニット帽の男に向き直る。訝しげなその顔に向け、先ほどの台詞をなぞってみせた。
「終わりじゃありません」
そして続ける。
「今から始めます」
*
「まず、その端末のパスコードを突き止めたところで、おそらく意味はありません」
話し始めた俺に、比留間とニット帽の視線が集まる。
「……なんだと」
眉根を寄せる比留間に向け、俺は答える。
「こいつはこの交渉を、勝負事だと捉えています。そしてこいつの性格を鑑みたとき、ただ勝つことだけを考えているとは思えない」
「どういうことだ」
「勝った後のことまでぬかりなく計算している。それが三科創という人間です」
回りくどい言い方はよせ。鼻息荒く、比留間が俺を睨む。
「よしんばこの勝負にツクルが勝利し、明日の仕事に黒川がアサインされ直したとして、あなた方はどうするか」
「決まっている。交渉通りに、その端末から動画を消す」
「端末から消しただけで安心できますか。どこかにバックアップを残しているかもしれない。再びそれを材料にこの事務所に押し寄せ、直談判を挑んでくることがないとは言えない」
「そんな真似はさせない」
「どうやって?」
「働きかけ方はいくらでもある」
「そう。あなた方は働きかける」俺は言う。「ツクルは、それをさせない」
「どういうことだ」
今度はニット帽の男が。俺はその顔に向け、訊ねる。
「見ましたか」
「何をだ」
「ツクルがその動画を予約投稿するところを」
ニット帽の下の両目が、静かに見開かれる。見開かれたままゆっくりと、俺の端末を持つ手とは反対、ツクルから手渡された、剥き出しの端末へと瞳が動く。
「その中には、黒川の動画は入っていない」
俺は言った。
「ツクルが単身、この事務所に乗り込んできたのは、あなた方の意識を自分へと向けさせるためだ。しかしこれまでの話ぶりから、あなた方は、ツクルが動画をSNSに予約投稿した、その画面までは確認していない。確認させた上で端末を手渡した方が、注意を引きつけるには効果的なはず」
「……もともと、動画がない?」
「どころかおそらく、SNSのアプリすら端末には入っていないでしょう」
比留間がニット帽の男に近寄り、「寄越せ」と掌を差し出す。ニット帽の手から、ツクルの端末がそこに置かれる。
「最初から動画など入手していなかった。ただ一度、黒川に初仕事を与えるための方便だった。そうあなた方に理解させ、禍根を残さずにこのやりとりを終える。それがツクルの目指す勝利の形」
端末を握った比留間が、ツクルの正面まで進む。
その隙を見て、俺は天蓋付きのベッドを一瞥した。瀬野と【ママ】が一糸纏わぬ姿で重なり合い、映画でも眺めるように一部始終を見届けている。
再び視線をソファの方へ。
比留間がしゃがみ込み、ツクルと目線を合わせる。そしてそのメガネの前に、持ち運んだ端末をかざしてみせた。
「パスコードを言え」
低い声。ツクルは応じない。
「言え」
今度は、地の底から響くような声圧で。しばらく黙った後、ツクルは観念したように息を吐いた。
「347296」
比留間の指がすぐに動く。画面を確認し、いくつか操作を繰り返した後、立ち上がり、苛立たしげに端末をソファへと投げつけた。
「…………ふざけやがって…………」
真っ赤になった顔が、こちらを振り向く。
「そいつの言う通りだ。アプリも動画も存在しない。全部ブラフ、交渉は終わりだ」
「減点」俺は言う。
「は?」
「まだ、続きがあります」
ツクルがこちらを眺めているのを視界の端で捉えながら、俺は比留間とニット帽の男を交互に見る。
「禍根を残さず、交渉を終える。しかし、あなた方が完全に手を引くとは限らない。再び黒川との約束を反故にするかもしれないし、自分の身内に危害を加えるかもしれない。ツクルは周到です。その可能性を考慮し、対抗手段として、やはり別の場所に動画を保管していることも考えられる」
「端末からはその形跡は見えなかった」
「パッと見の形跡を消すなんて簡単だ。だが、仮に具に調べ上げられたとしても、足がつかない方法をツクルなら選ぶ」
「どういうことだ」
「これまでに、その端末に着信はありましたか」
「は?」
「今日の日中、俺は三回、ツクルに電話をかけています」
比留間とニット帽が顔を見合わせる。
「やはり無いですか」俺は言う。「きっとその端末は、今のツクルのものではありません。おそらく昔使っていた旧端末です」
その場にいる全員、誰も何も言わない間が空いた。
「試しに今この場で、俺の端末から電話をかけてみましょう」俺は隣にいるニット帽を見る。「結束バンドを外してもらえますか」
少しの逡巡を見せた後、ニット帽の男は頷き、ポケットからカッターナイフを取り出した。「急に人が変わったようだな」。俺の後ろに回り、重なった手首の隙間にそれを差し入れて、強く引く。よろけるほどの力に揺さぶられながら、両の手首が解放され。そしてその手で、自分のスマートフォンを受け取った。
「これからツクルにキャリアの回線で電話をかけます。これではっきりするでしょう。もしそこにあるのが旧い端末なら、着信音は鳴らないはずだ」
話しながら、移動。ツクルと比留間がいるソファ、瀬野と【ママ】がいるベッドの中間地点で止まる。
ソファの上、投げ捨てられた端末を正面に見据え、スマートフォンのロックを解除。
「いきます」
比留間も、ニット帽も、ツクルでさえも、着信音の有無に意識を向けている中。
俺は百八十度回転し、ソファに背を向けた。
「え」
【ママ】とベッドに寝そべっていた瀬野が、血のついた顔を上げる。カメラアプリを立ち上げ、その顔に向けスマートフォンをかざし、シャッターを押す。
「…………な」
撮影した写真を表示させ、出来映えを確認。驚く瀬野の顔を中央に、瀬野が下敷きにしている【ママ】の身体、その表情もきちんと画角に入っている。もちろん、二人とも裸のままだ。
「おい、何してんだよ……」
写真の下にあるボタンをタップし、送信のコマンドを選択。メッセージアプリが候補として、今日追加されたばかりである『haruko』のアイコンを表示している。
タップ。
瀬野が何か叫ぶ声。その瀬野に向け、また瀬野の下で目を剥く【ママ】に向け。
背後から、横から、俺を見つめる比留間とニット帽の男に向け。
それからここに実在はしない、しかし、たしかにここにある『現実』に向け。
俺は告げる。
「喰らえ」
送信。
「…………止めろぉおぁ!」
叫んだ瀬野が身を乗り出すよりも早く、左からニット帽が詰め寄ってくる。
「何やった何やった何やった」
「写真を撮って、知人に送りました」
「取り消せ!」
「もう遅いです」画面を見る。「早いな。すでに既読がつきました」
「ちょっと待て、本当にハジメの写真を送ったのか」比留間もこちらへ。
「はい。本当です」
振り返り、迫る比留間に端末を向ける。突きつけた画像に、固まりゆく表情を観察する。
そう、本当。
人を殺したと告げながら、実は殺していないだとか。
友人の知人を装って、正体は赤の他人だったとか。
脅しの材料にしていたネタが、最初から存在しないとか。
そんな仕掛けは一切ない。
「あなた方の秘密は、すでに外部に流出している。これが『現実』です」
ニット帽がおもむろに拳を振り上げ、俺に向け振り下ろす。頭部に衝撃。瞼の裏に星が散る。
「誰に送った」ニット帽の声。
「同じ大学の学生です」
「何者だ。名前は」
「知りません」
「は?」
「フミ・ハルコと名乗っていました」
「大概にしろよ」歯噛みする音。「じゃあ、そのフミ・ハルコをここに呼べ。今すぐだ」
「ずいぶんと悠長ですね」
「なんだと」
「看板タレントのスキャンダルが手に渡っているんですよ。ここに呼びつけているその間に、どこに広まるかわからない」
スマートフォンから通知音。トーク画面に、フミ・ハルコからのメッセージが届いている。
『何これ』
『村井クンが送ってきたの?』
「早く血止めした方がいい」俺は画面をニット帽に向ける。「おそらく次のアクションは、友人に写真を共有する。大学の同期からふしだらな写真が送られてきた、気持ちが悪い、と同調する」
「……何がしたいんだ、お前は」
「止めさせる方法はひとつ。俺が連絡を取り、やめさせること」
「なら早くしろ!」
「条件がある」
「条件?」
俺はニット帽から目線を切り、比留間へと向き合った。
「黒川稔に別の仕事を用意してください。それだけで結構です」
比留間はしばらく黙る。ニット帽も何も言わない。
「それでいいのか」比留間が訊ねる。
「はい」頷く。「確約をもらえれば、フミ・ハルコに連絡を取ります。俺の端末からも写真を消しましょう」またニット帽を見る。「ただし、フミ・ハルコが大人しく従ってもらえるかは、保証できません」
あなた方にできることはひとつ、俺に賭けること。
「不安なら、今すぐ動き出しその気を見せた方がいい。俺が動くかどうかは、俺があなた方を信じられるかどうかにかかっている」
「……調子に乗りやがって」
比留間が唸る。ニット帽が間に入り、手でそれを制した。
「わかった。明日の朗読の仕事を、当初の予定通り、黒川に当てがう」
「いいえ、それでは駄目です」
「駄目?」
「言ったでしょう。別の仕事を用意してください」
「何故だ。それがお前たちの要求だったはず。素直に受け入れれば、お前たちの勝ちだ」
「勝つつもりなんてありません」
「……はぁ?」
そう、勝たなくていい。
「俺たちは、あなた方の事務所の運営にも、黒川の今後のキャリアにも介入するつもりはない。それはあなた方と黒川の問題だ」ツクルを一瞥し、またニット帽を見る。「それが、たまたまイレギュラーが起こり、介入することになった。ならばイレギュラーが起こる前の状態に戻せばいい」
ニット帽の眉が、怪訝そうに歪む。心底わからない、とでも言うように。
「だから、黒川に与えるはずだった仕事の代替を用意するだけで結構です。朗読の仕事は瀬野のまま、あなた方の運営にも支障はなく、黒川にも初仕事が割り当てられ。これで原状回復は完了だ。我々が顔を合わせることは、この先二度とないでしょう」
「……何なんだ、お前は」震える声で、ニット帽。「なぜ、そんな複雑なことをする」
「説明しても、おそらく理解できないでしょう」
勝つだけならシンプルだ。だが、勝たなくていい。むしろ勝ってはいけない。
これは"守る"ための戦い。
策略を上回ることで、ツクルの本懐を。
仕事を手に入れることで、黒川の望みを。
禍根を残さないことで、その後の安全を。
そしてそれらを"守る"ことで、俺の生き方を。
それらすべてを守るためには、方程式は複雑になり、必然、解にたどり着くには遠回りになる。
だが、たどり着いた。
俺はツクルを見る。
「『思惑』通り」
台詞を真似たのが気に食わなかったか、ツクルは無表情で顔を逸らした。
めずらしく不貞腐れた様子に、場違いにも可笑しくなってくる。
「おいおい何をだらだら喋ってんだよ」ベッドから、裸のままの瀬野が叫ぶ。「俺の写真が出回ってんだぞ、早くそいつの言う通りにしろよ!」
「彼の言う通りです」
俺は頷き、比留間とニット帽を、そして最後にベッドに横たわる【ママ】を見た。
「勘違いしてはいけない。これは交渉でも脅迫でもありません。あなた方はすでに、喰われ始めている最中だ」
『「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。』
黒川の情感のこもった声を思い出す。
俺は言う。
「客はこちらだ。早く注文の品を持ってこい」
