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【長編】山猫軒のオーダーシート(12)

「いろいろ注文が多くて
うるさかったでしょう。
お気の毒でした。
 もうこれだけです。
どうかからだ中に、
壺の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。」

宮沢賢治『注文の多い料理店』

 電話が鳴って、いい思いをしたことがまるでない。あのときもそうだった。

 高校生の頃。祖母の入院中、入院先の病院から電話がかかってきた。母親が仕事で繋がらず、家にいる自分に連絡がきたものだ。祖母の様子に異変があり、すぐに来てほしい、という内容だった。

 行こうにも、家には妹がいる。食事もトイレも一人では難しい。置いて出ていくわけにはいかない。一方で、祖母の異変は続いている。どうしてよいか途方に暮れ、とにかく妹の夕飯だけでも調達せねば、と慌てて外へ駆け出した。

 そこで、ツクルと出くわした。

 投げやりになるな。できることをやれ。
 俺に頼るのは、そのできることのひとつだ。

 にっちもさっちも行かない状況の俺に、ツクルはそう告げた。

 結局、病院には母親が行くことになり、その晩はツクルが俺の家で夕飯を作ることとなった。以来、ツクルと接するたび、その姿が重なって浮かんでくる。

 あの日、「頼れ」と俺に告げ、強引に俺を救ったツクル。
 そのツクルが今再び、「頼む」と救いを求めている。

 ソファの上、縛られたまま、俺は再び前を見る。血に塗れながら声を上げ、情事を続ける瀬野と【ママ】。二人がまぐわうベッドの横には、端末を手にツクルが折れるのを待つ、比留間とニット帽の男。
 絶望的な状況に変わりはない。ツクルを「救う」ためには、この絶望を受け入れる必要がある。

 負けたままでは、生きた心地がしない。
 頭の中、先ほどの言葉を反芻する。

 正直、ツクルの言うことに、同調することは難しい。
 数多あまたの人間の『思惑』により生まれた大きな流れ。その正体すら見極められず、戦わずして撤退した過去を払拭したい。今後生きていく上で、それは必要な通過儀礼であるという、その言い分は、話の上では理解できる。

 だが、ピンと来ない。

 おそらく、経験の違い。
 さらには、生き方の違い。

 ツクルが『思惑』と呼ぶ、俺たちを襲い、喰らう『何か』。たしかに黒川のいじめに関して言えば、そう結論づけることも可能かもしれない。しかし、ツクルのように人生を通し対峙するものとした場合、どうだろうか。
 仮に自分の人生にまで視野を広げてみると、俺にとってそれは、単に人が生み出した『思惑』に留まらない。

 例えば、妹の病気。例えば、父親の不在。例えば、祖母の衰え。

 俺を喰らおうとしてきたものは、俺を喰らってきたものは、感情や思考に拠らぬところで発生した事象、あらがえない『現実』だ。ツクルの言う『思惑』とは異なり、そこに俺自身の気持ちや思いは介入しえない。

 ここにいない黒川にしても、事情は違うだろう。今、あいつを喰らおうとしているものは、仕事を奪われるという理不尽、さらには、利益を追求する『社会』そのものと言えるかもしれない。

 つまるところ、その者の経験により『何か』の正体は変化する。そこに一義的な姿を求めるのは困難であるし、意味がない。
 そして、対峙する相手が異なるならば、向き合い方もそれぞれで変わる。

 干渉可能な『思惑』が相手のツクルは、それを上回る策を練ることで、勝利を試みている。
 実利に揺れる『社会』が相手の黒川は、さらなる利害を提示することで、戦いを挑んでいる。
 対して、俺は。

 苦しみや不条理にただ耐え忍ぶことが、生きることだとか思ってねぇか。
 家を出る前、まだモクバだった頃の瀬野に言われた。

 その通りだ。俺は耐えてきた、忍んできた。病気や死別や老衰が相手だ。そうした『現実』を前に、できることなどそれしかない。
 処世術とすら呼べないであろう、ただひとつのシンプルな方針。幼少の頃から染みついた習性、"生き方"と表現してもよいそれが、あらゆる困難への対処法となっていた。
 その困難の中には、ツクルが対峙する『思惑』や、黒川が対峙する『社会』がもたらすものもあったかもしれない。しかし、俺はそれが何であるか、見極めようとはしなかった。相手の正体を問わず、"耐え忍ぶ"という方針を盲目的に貫いてきた。

 今もまた、そうだ。
 黒川の意図、瀬野の意図、ツクルの意図。それらを深く知ろうとはせず、唯々諾々と流されて。襲いかかってくるものの本質から目を背け続けた結果、騙され、運ばれ、囚われている。

 戦わず、耐え忍ぶ。
 この生き方のせいで、こうなった。
 その報いを、これから受ける。

「理屈っぽくなったな、俺も」

 ひとりごちる。お前の影響だぞ、との恨みを込めて、ツクルをひとつ睨んでやった。

「なんだ」
「別に」顔を逸らし、息を吐く。「わかった。協力する」

 ツクルがこちらを向く気配。得体の知れぬものを見るような顔が、視界の端に映る。

「……断ってもらう前提だったんだがな」
「特に断る理由がない」
「正気か」
「さぁな」俺は前を向き、振動する【ママ】の身体を見やる。「生々しいものを見続けたせいか、ようやく感覚が麻痺してきた。おそらく、耐えられる。さっきお前が言ったように、大型犬とじゃれ合っているとでも思うことにするさ」
「シグ、待て」
「今までこうして生きてきた。ここで変えることもない」

 嗚咽と悲鳴の中間のような声と共に、瀬野の動きがぴたりと止まった。しばらくそのまま固まった後、力尽きたように【ママ】の身体になだれ込む。荒い呼吸音が、デクレッシェンドで引いていく。

 俺は立ち上がった。

「……シグ」
「行ってくる」

 両手を後ろに縛られたまま、ベッドへと歩を進める。比留間が靴音を立て、こちらに近づいてくる。

「何をしている」
「三科を説得することができませんでした。今からその女性の相手をします」
「本気で言っているのか」
「はい」

 不意に、蒸気が噴き出すような音。ベッドへと顔を向けると、瀬野に抱きしめられたまま寝そべる【ママ】の目が、赤く血走りこちらを見ている。

「ハジメ、押さえてろ」
 言って、比留間は俺の胸ぐらを掴み、顔を近づけてくる。
「いいか。あの女は本気でやるぞ。あぁなったら、事務所のことなど関係ない。この先動画が流出しようが、世間に叩かれようが、欲望に任せてお前を喰らう」
「そうですか」
「投げやりになるな。俺たちとお前の利害は一致している。パスコードさえ入手できれば、お前も『リンクス』も助かるんだ」
「理解しています」
「狂っているのか、お前」いや、お前たち、だ。吐き捨て、比留間は俺の背後、ソファへと顔を向ける。「三科ァ、お前、友人を売ってまで何がしたいんだ。そこまでしてミノルを助けて、お前に何のメリットがある」

 ツクルは答えない。

「……どうかしている」

 顎の下にある比留間の拳から、微かな震動が伝わる。やがて諦めたようにその拳が開き、比留間の身体が俺から離れた。

「結束バンドはこのままでいいですか」
 俺は訊ねる。
「まだそのままだ」
 新しい声が聞こえた。目の前、比留間の大柄な体躯の後ろから、ニット帽の男が現れる。
「解放した途端、余計なことをされては困る。準備ができるまで、そのままだ」
「準備?」
「行為中のお前を撮影する。この先、ここでのことを口外したら、すぐにその動画を流出させる。流出先は世間じゃない。お前のスマートフォンに入っている、連絡先のすべてだ」

 ふと、今日追加したばかりの二つのアイコンが浮かんだ。
 なるほど。下手に不特定多数に知れるより、実害は大きい。

 ニット帽は俺の横まで来て、冷徹な口調で続ける。

「お前、まさかここを耐えればすべてが終わる、とでも思っているんじゃないだろうな。お前が襲われた後も、俺たちは手を尽くして、三科創を止めるぞ」
「どうやってですか」
「手は色々とある」吐き捨てるように。「スマートフォンを出せ。連絡先をすべてコピーする」

 ポケットの中です、と答えると、すぐさま指先が入り込み、乱暴にそれが引き抜かれた。

 ちょうどそのタイミングで、端末が鳴った。

 ニット帽の手に渡った画面を見る。上下逆さになった『母』の文字が、視界に飛び込んできた。

 習性的に、背筋を危機感が走る。

「貸してください」
「母親からか」
「急ぎの内容かもしれない。電話をとってください」
「この状況でか」
「早く」
「出ないと怪しまれる。こいつの家はそういう家だ」
 後ろから、ツクルの声。ニット帽は鼻息をふかし、スライドで応答、端末を俺の左耳に押し当てた。
「すぐに済ませろ」

 耳を澄ませる。異常はないか。異音はないか。

「もしもし」
『おにいちゃん』妹の声がする。『こんばんはー』
胡桃くるみ、どうした」
『こんばんはー』

 デンワしていーい、って訊くのよ。背後で母親の声がする。そのお手本をなぞり、『デンワしていーい?』と舌足らずに、妹。
 どうやら何かあったわけではなさそうだ。渦巻いた危機感を追い出すように、俺は息を吐いて、また吸う。

「少しなら大丈夫だ。どうした」
『おにいちゃん、ピクニック、いつくるー?』
「あぁ」昨夜の電話を思い出す。「すまない、まだわからない」
『いつわかる?』
「いつだろうな」
『あのね。今日もネコいた』
「そうか。今日も行ったんだったな」横目でニット帽の男を見る。「胡桃、悪いな。またこっちから……」
『ネコ、こわかった』
「こわかった?」
『ごはんあげようとしたら、ひっかいてきたのよね』母親が割って入る。『胡桃、お兄ちゃん忙しいみたい。また今度にしようか』
『えー』
『時雨、ごめんなさいね。昨日連絡もらったのがよっぽど嬉しかったみたい。あなたに電話する、って聞かなくて』
「ひっかいた、って大丈夫なのか」
『あぁ、ネコ? そう、なんか住み着いている野良猫がいるのよ』
「怪我は」
『たいしたことないわ』
「……そうか」
『でもびっくりしちゃって。だから、お兄ちゃんがいたら守ってもらえたね、って話してたの。ね、胡桃』

 息が止まる。
 脳の薄皮が剥がれるような痛みがあった。

『おにいちゃん、またいっしょにきてー』
 胡桃の声。
「……あぁ」
『ぷひゅーぅ』

 邪気のない笑い声と共に、『じゃあ、また』と母が電話を切る。一瞬の静寂に続けて、無機質な電子音が鼓膜に響く。

「終わったか」

 ニット帽の男が話しかけてくる。だが、答えられない。

 守ってもらえたね。

 鼓膜の電子音にかぶさるようにして、母の言葉が鳴っている。
 頭蓋の内側が、その残響で満ちていく。

 守ってもらえたね。

 いっぱい、いっぱい、がんばってね。

 残響の奥から浮き出るように、母のものとは違う声が。あれはいつ。父の葬式だ。見知らぬ参列者からそれを言われた。

 いっぱい、いっぱい、がんばってね。

 おかあさんたちを、まもってあげてね。

 残響が止む。
 頭の中が静かになり、代わりに自分の鼓動の音が聴こえてくる。

「終わったか、と訊いている」ニット帽の声。
「……いや、終わっていない」俺は答える。

 守る。
 ただ、耐えるだけでなく、忍ぶだけでなく。
 守るために。

 生きる。
 生きてきた。

 意識を視界に。比留間のスーツ姿。奥にある天蓋付きのベッド。そこで重なる全裸の身体。急に周囲の明度が増し、色合いが濃くなったように感じる。

「……比留間サン、あなたの言う通りだ」
「……あ?」
「俺は、どうかしていた」

 頭が痛くて、熱い。ツクルのシナリオ。大学の講義。不在着信。つながらない電話。瀬野の登場。事務所のエントランス。結束バンド。【ママ】の舌先。剥き出しの端末。不明のパスコード。ツクルの『思惑』。これまで触れた情報が、高速で流れていく。

 状況は変わらない。『現実』は退いてはくれない。
 考えろ。"守る"ためにはどうすればいいか。
 考えろ。一体、何を"守る"べきか。

 考えろ。

 身体ごと後ろを振り向く。ソファに座ったままの、幼馴染の姿がそこに。メガネの奥の無機質な瞳と目が合う。
 それだけで何かを悟ったのか、小さくひとつ、まっすぐな頷きが返ってきた。

 俺は言う。

「裏切るぞ、ツクル」
「お前の自由だ」

 間髪入れずにそう返し、何故かおかしげに、ツクルは肩を揺らして笑い始めた。

「あんたたち、覚悟した方がいいぞ」『リンクス』の面々に向け。「とびきりの異常値だ。こういう雨が時に降る」

 濡れて凍えろ。
 吐き捨てるように、ツクル。

 俺はニット帽の男に向き直る。訝しげなその顔に向け、先ほどの台詞をなぞってみせた。

「終わりじゃありません」

 そして続ける。

「今から始めます」

「まず、その端末のパスコードを突き止めたところで、おそらく意味はありません」

 話し始めた俺に、比留間とニット帽の視線が集まる。

「……なんだと」

 眉根を寄せる比留間に向け、俺は答える。

「こいつはこの交渉を、勝負事だと捉えています。そしてこいつの性格をかんがみたとき、ただ勝つことだけを考えているとは思えない」
「どういうことだ」
「勝った後のことまでぬかりなく計算している。それが三科つくるという人間です」

 回りくどい言い方はよせ。鼻息荒く、比留間が俺を睨む。

「よしんばこの勝負にツクルが勝利し、明日の仕事に黒川がアサインされ直したとして、あなた方はどうするか」
「決まっている。交渉通りに、その端末から動画を消す」
「端末から消しただけで安心できますか。どこかにバックアップを残しているかもしれない。再びそれを材料にこの事務所に押し寄せ、直談判を挑んでくることがないとは言えない」
「そんな真似はさせない」
「どうやって?」
「働きかけ方はいくらでもある」
「そう。あなた方は働きかける」俺は言う。「ツクルは、それをさせない」
「どういうことだ」

 今度はニット帽の男が。俺はその顔に向け、訊ねる。

「見ましたか」
「何をだ」
「ツクルがその動画を予約投稿するところを」

 ニット帽の下の両目が、静かに見開かれる。見開かれたままゆっくりと、俺の端末を持つ手とは反対、ツクルから手渡された、剥き出しの端末へと瞳が動く。

「その中には、黒川の動画は入っていない」

 俺は言った。

「ツクルが単身、この事務所に乗り込んできたのは、あなた方の意識を自分へと向けさせるためだ。しかしこれまでの話ぶりから、あなた方は、ツクルが動画をSNSに予約投稿した、その画面までは確認していない。確認させた上で端末を手渡した方が、注意を引きつけるには効果的なはず」
「……もともと、動画がない?」
「どころかおそらく、SNSのアプリすら端末には入っていないでしょう」

 比留間がニット帽の男に近寄り、「寄越せ」と掌を差し出す。ニット帽の手から、ツクルの端末がそこに置かれる。

「最初から動画など入手していなかった。ただ一度、黒川に初仕事を与えるための方便だった。そうあなた方に理解させ、禍根を残さずにこのやりとりを終える。それがツクルの目指す勝利の形」

 端末を握った比留間が、ツクルの正面まで進む。
 その隙を見て、俺は天蓋付きのベッドを一瞥した。瀬野と【ママ】が一糸纏わぬ姿で重なり合い、映画でも眺めるように一部始終を見届けている。

 再び視線をソファの方へ。

 比留間がしゃがみ込み、ツクルと目線を合わせる。そしてそのメガネの前に、持ち運んだ端末をかざしてみせた。

「パスコードを言え」

 低い声。ツクルは応じない。

「言え」

 今度は、地の底から響くような声圧で。しばらく黙った後、ツクルは観念したように息を吐いた。

「347296」

 比留間の指がすぐに動く。画面を確認し、いくつか操作を繰り返した後、立ち上がり、苛立たしげに端末をソファへと投げつけた。

「…………ふざけやがって…………」

 真っ赤になった顔が、こちらを振り向く。

「そいつの言う通りだ。アプリも動画も存在しない。全部ブラフ、交渉は終わりだ」
「減点」俺は言う。
「は?」
「まだ、続きがあります」

 ツクルがこちらを眺めているのを視界の端で捉えながら、俺は比留間とニット帽の男を交互に見る。

「禍根を残さず、交渉を終える。しかし、あなた方が完全に手を引くとは限らない。再び黒川との約束を反故にするかもしれないし、自分の身内に危害を加えるかもしれない。ツクルは周到です。その可能性を考慮し、対抗手段として、やはり別の場所に動画を保管していることも考えられる」
「端末からはその形跡は見えなかった」
「パッと見の形跡を消すなんて簡単だ。だが、仮につぶさに調べ上げられたとしても、足がつかない方法をツクルなら選ぶ」
「どういうことだ」
「これまでに、その端末に着信はありましたか」
「は?」
「今日の日中、俺は三回、ツクルに電話をかけています」

 比留間とニット帽が顔を見合わせる。

「やはり無いですか」俺は言う。「きっとその端末は、今のツクルのものではありません。おそらく昔使っていた旧端末です」

 その場にいる全員、誰も何も言わない間が空いた。

「試しに今この場で、俺の端末から電話をかけてみましょう」俺は隣にいるニット帽を見る。「結束バンドを外してもらえますか」

 少しの逡巡を見せた後、ニット帽の男は頷き、ポケットからカッターナイフを取り出した。「急に人が変わったようだな」。俺の後ろに回り、重なった手首の隙間にそれを差し入れて、強く引く。よろけるほどの力に揺さぶられながら、両の手首が解放され。そしてその手で、自分のスマートフォンを受け取った。

「これからツクルにキャリアの回線で電話をかけます。これではっきりするでしょう。もしそこにあるのがふるい端末なら、着信音は鳴らないはずだ」

 話しながら、移動。ツクルと比留間がいるソファ、瀬野と【ママ】がいるベッドの中間地点で止まる。
 ソファの上、投げ捨てられた端末を正面に見据え、スマートフォンのロックを解除。

「いきます」

 比留間も、ニット帽も、ツクルでさえも、着信音の有無に意識を向けている中。
 俺は百八十度回転し、ソファに背を向けた。

「え」

【ママ】とベッドに寝そべっていた瀬野が、血のついた顔を上げる。カメラアプリを立ち上げ、その顔に向けスマートフォンをかざし、シャッターを押す。

「…………な」

 撮影した写真を表示させ、出来映えを確認。驚く瀬野の顔を中央に、瀬野が下敷きにしている【ママ】の身体、その表情もきちんと画角に入っている。もちろん、二人とも裸のままだ。

「おい、何してんだよ……」

 写真の下にあるボタンをタップし、送信のコマンドを選択。メッセージアプリが候補として、今日追加されたばかりである『haruko』のアイコンを表示している。

 タップ。

 瀬野が何か叫ぶ声。その瀬野に向け、また瀬野の下で目を剥く【ママ】に向け。
 背後から、横から、俺を見つめる比留間とニット帽の男に向け。
 それからここに実在はしない、しかし、たしかにここにある『現実』に向け。
 俺は告げる。

「喰らえ」

 送信。

「…………止めろぉおぁ!」

 叫んだ瀬野が身を乗り出すよりも早く、左からニット帽が詰め寄ってくる。

「何やった何やった何やった」
「写真を撮って、知人に送りました」
「取り消せ!」
「もう遅いです」画面を見る。「早いな。すでに既読がつきました」
「ちょっと待て、本当にハジメの写真を送ったのか」比留間もこちらへ。
「はい。本当です」

 振り返り、迫る比留間に端末を向ける。突きつけた画像に、固まりゆく表情を観察する。

 そう、本当。

 人を殺したと告げながら、実は殺していないだとか。
 友人の知人を装って、正体は赤の他人だったとか。
 脅しの材料にしていたネタが、最初から存在しないとか。

 そんな仕掛けは一切ない。

「あなた方の秘密は、すでに外部に流出している。これが『現実』です」

 ニット帽がおもむろに拳を振り上げ、俺に向け振り下ろす。頭部に衝撃。瞼の裏に星が散る。

「誰に送った」ニット帽の声。
「同じ大学の学生です」
「何者だ。名前は」
「知りません」
「は?」
「フミ・ハルコと名乗っていました」
「大概にしろよ」歯噛みする音。「じゃあ、そのフミ・ハルコをここに呼べ。今すぐだ」
「ずいぶんと悠長ですね」
「なんだと」
「看板タレントのスキャンダルが手に渡っているんですよ。ここに呼びつけているその間に、どこに広まるかわからない」

 スマートフォンから通知音。トーク画面に、フミ・ハルコからのメッセージが届いている。

『何これ』
『村井クンが送ってきたの?』

「早く血止めした方がいい」俺は画面をニット帽に向ける。「おそらく次のアクションは、友人に写真を共有する。大学の同期からふしだらな写真が送られてきた、気持ちが悪い、と同調する」
「……何がしたいんだ、お前は」
「止めさせる方法はひとつ。俺が連絡を取り、やめさせること」
「なら早くしろ!」
「条件がある」
「条件?」

 俺はニット帽から目線を切り、比留間へと向き合った。

「黒川稔に別の仕事を用意してください。それだけで結構です」

 比留間はしばらく黙る。ニット帽も何も言わない。

「それでいいのか」比留間が訊ねる。
「はい」頷く。「確約をもらえれば、フミ・ハルコに連絡を取ります。俺の端末からも写真を消しましょう」またニット帽を見る。「ただし、フミ・ハルコが大人しく従ってもらえるかは、保証できません」

 あなた方にできることはひとつ、俺に賭けること。

「不安なら、今すぐ動き出しその気を見せた方がいい。俺が動くかどうかは、俺があなた方を信じられるかどうかにかかっている」
「……調子に乗りやがって」
 比留間が唸る。ニット帽が間に入り、手でそれを制した。
「わかった。明日の朗読の仕事を、当初の予定通り、黒川に当てがう」
「いいえ、それでは駄目です」
「駄目?」
「言ったでしょう。別の仕事を用意してください」
「何故だ。それがお前たちの要求だったはず。素直に受け入れれば、お前たちの勝ちだ」
「勝つつもりなんてありません」
「……はぁ?」

 そう、勝たなくていい。

「俺たちは、あなた方の事務所の運営にも、黒川の今後のキャリアにも介入するつもりはない。それはあなた方と黒川の問題だ」ツクルを一瞥し、またニット帽を見る。「それが、たまたまイレギュラーが起こり、介入することになった。ならばイレギュラーが起こる前の状態に戻せばいい」

 ニット帽の眉が、怪訝そうに歪む。心底わからない、とでも言うように。

「だから、黒川に与えるはずだった仕事の代替を用意するだけで結構です。朗読の仕事は瀬野のまま、あなた方の運営にも支障はなく、黒川にも初仕事が割り当てられ。これで原状回復は完了だ。我々が顔を合わせることは、この先二度とないでしょう」
「……何なんだ、お前は」震える声で、ニット帽。「なぜ、そんな複雑なことをする」
「説明しても、おそらく理解できないでしょう」

 勝つだけならシンプルだ。だが、勝たなくていい。むしろ勝ってはいけない。
 これは"守る"ための戦い。

 策略を上回ることで、ツクルの本懐を。
 仕事を手に入れることで、黒川の望みを。
 禍根を残さないことで、その後の安全を。

 そしてそれらを"守る"ことで、俺の生き方を。

 それらすべてを守るためには、方程式は複雑になり、必然、解にたどり着くには遠回りになる。

 だが、たどり着いた。
 俺はツクルを見る。

「『思惑』通り」

 台詞を真似たのが気に食わなかったか、ツクルは無表情で顔を逸らした。
 めずらしく不貞腐れた様子に、場違いにも可笑しくなってくる。

「おいおい何をだらだら喋ってんだよ」ベッドから、裸のままの瀬野が叫ぶ。「俺の写真が出回ってんだぞ、早くそいつの言う通りにしろよ!」
「彼の言う通りです」
 俺は頷き、比留間とニット帽を、そして最後にベッドに横たわる【ママ】を見た。
「勘違いしてはいけない。これは交渉でも脅迫でもありません。あなた方はすでに、喰われ始めている最中だ」

 『「うわあ。」がたがたがたがた。
  「うわあ。」がたがたがたがた。』

 黒川の情感のこもった声を思い出す。
 俺は言う。

「客はこちらだ。早く注文の品を持ってこい」


(13)《最終話》はこちら

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