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【長編】山猫軒のオーダーシート(11)

「料理はもうすぐできます。
 十五分とお待たせはいたしません。
 すぐたべられます。
 早くあなたの頭に瓶の中の香水を
よく振ふりかけてください。」

宮沢賢治『注文の多い料理店』

 五年一組はひとことで言えば、『いいクラス』であった。

 目立つ者もいれば目立たない者もいたが、そこに格差めいたものは無く、個性を尊重し合い、調和がとれていた。取り立てて問題児もおらず、たまにやんちゃを働く面々も、最低限の分別をわきまえていた。結果、大きなトラブルはなく、教員たちからも安心の目を向けられていた。

 ということに、クラスのメンバーも自覚的であったと思う。
 自分たちは『いいクラス』。たとえば学校にテレビ局から取材が来たとして、カメラを回したいと言われれば、選ばれるクラス。子どもらしい純真さと、年相応の成熟と、期待される未来。およそ世間一般が求める要素を過不足なく備えた模範生であることを、これもまた年相応の成熟でもって、認識していた。

 その一組にとって、黒川は突如現れた異分子だった。

 喋らない。笑わない。感情が読めない。その異様な特性と、異様な特性から垣間見える背景事情、それらが禍々しいオーラを放ち、教室中を威嚇していた。

 お前はここに来ては駄目だろう。口にはせずとも、誰もがそう感じている気がした。黒川のような異分子がいるクラスは、それだけで模範とは言えない。それまで積み上げ、守り抜いてきた均衡が、崩れてしまう予感があった。

 もし再び模範となるなら。五年一組の調和に、黒川を取り込む必要があった。異分子すら受け入れ、馴染ませる『いいクラス』。崩れた均衡を取り戻すためには、その境地に行き着くしかない。不安に揺れる教室で、暗黙のうち、そのような方向性が可決された。

 だが、できなかった。

 話しかけても、歩み寄っても、おもんぱかっても。黒川みのるがこちらになびくことはなかった。
 調和への素養というものがあるとすれば、一組の人間にはそれがあり、黒川、少なくとも当時の黒川にはそれがなかった。素養がない人間とは調和がとれない、という事実が、自分たちの調和への素養を逆説的に否定してきた。自覚していた『いいクラス』像は、実体を伴わぬ虚構へと変わり、そこに諦めを覚えた五年一組は、崩壊の一途をたどった。

 今思えば、そういうことだったのでは、と思う。
 いじめが起こり、担任が倒れ、保護者が出張り、黒川が去り。一連の騒動は、そのようにして起こった。

 だが、わからない。

 原因は黒川だったのか。
 悪因は一組にあったのか。
 敗因は調和を求めたことか。
 真因はどこにあるのか。

 自然発生的に生じたあの現象、そのプロセスを説明できたところで、一体『何』がそうさせたのか、根源にあるものはわからぬままだ。

 あのとき、俺たちを襲っていたもの。その正体は、何だったのか。

 その未解決の問いに、俺は無自覚なまま生きてきた。
 同様に襲いくるものから目を背け。
 ただ耐え忍び、ここまで来た。

「あぁあ、あ、あ……ぁあ、あああぁ……あ、ああああ、ぁああ……ッ」

 瀬野はじめの嬌声きょうせいが、部屋にこだましていた。耳を塞ぎたくなるが、手を縛られており、それはできない。せめて目をつむり、繰り広げられる行為との隔絶を試みるものの、嫌でも耳に入る喘ぎ、息遣い、湿り気を孕んだ音の数々が、そこにある光景を想起させ、逃れることは困難だった。

 そこで待ってろ。そう言った瀬野はその場で、【ママ】の身体と絡み始めた。服を脱がせ、指と唇で身体中をまさぐり。立ったまま一通り絡み合った後、天蓋のベッドへと場所を移し、そして行為は今も続いている。

 吐き気がした。

 情動のまま、欲望を剥き出し、求め合う男女の姿。そこに美しさや艶っぽさはなく、その手の映像が刺激するようなエロティシズムは見出せなかった。むしろ暴力的、猟奇的なものにそれは映り、それこそ殺害現場でも目撃しているかのようなグロテスクさがあった。

 じきに喰われる。
 つまり、瀬野が終われば、今度は俺があそこに行く、ということだろう。
 先ほど【ママ】の舌先に蹂躙された口内。注ぎ込まれた唾液に残るワインの酸っぱさが、再び味覚を刺激してきた。

「大丈夫か」

 ツクルの声がして、目を開ける。足元の床、瀬野に脱がされた【ママ】のドレスが視界に。すぐに顔を背け、右隣を見た。

「……口の周りがベタついて気持ち悪い」
 俺は答える。
「そうか」前を向いたまま、無表情で。「ファーストキスを奪われた、などと落ち込まないことだ。大型犬にでも舐められたものと思え」
「その手の感傷は特にない」
「ならよかった」
「お前は、無事なのか」
「何が」
「ファーストキス」
「一応、品定めはされたがな。どうやらお好みではなかったらしい」

 オーディション不合格だ、とうそぶいてみせる。

 丁々発止ちょうちょうはっしを決め込んでは見たものの、その間にも聞こえる行為の音が、耳ざわりで仕方がない。俺が顔をしかめたのを捉えたか、ツクルはこちらへと顔を向けた。

「見るに耐えないか」
「まぁな」
「黒川もあれと同じことをやっていた」
「…………え?」
「あの女社長と寝ていた、ということだよ」

 唐突な話に、頭がついていかない。

「あの女社長には、所属タレントを手篭てごめにして愉しむ趣味があるようだ。【ママ】だなんて呼ばれている時点で、タレント側にもその気がないわけではなさそうだが」
「この状況だ。さすがにそれはわかる」

 受け入れ難いが、理解はできる。そうでなければ、目の前の光景に説明がつかない。

「だが、黒川も?」
「黒川が何の実績もないのに、二年も事務所に居続けられていたのは、どうしてだと思う」
 意地悪く、ツクルは問う。答えずにいると、「そういうことだ」と頷かれる。
「……枕営業というやつか」
「仕事をもらっていないんだ、営業ですらない。ただの延命措置だよ」

 延命。
 夢を追うための。
 夢追い人であるための。

「……どうしてそれを知っている」
「本人から聞いた」
「それも、今日俺が家を出た後のことか」
「そうだ。そして黒川は、その証拠を自ら動画に収めていた」
「……動画?」
「今、瀬野がしていることと同じだ。裸であの女社長に奉仕している、そういう動画だよ」

 再び前を向き、苦しげな表情でツクルは言う。対して俺は、息ひとつ吸い込めない。普段、表情に乏しいこいつが顔を歪めていることが、救いにすら感じられる。

「観たのか」
「観た」ツクルは目を閉じる。「大事な交渉材料だ。中身を確認しておく必要がある」
 交渉。点と点が線で繋がる。しかし、にわかには信じ難い。
「自分が陵辱されている動画を、仕事を取り戻すための取引に使ったのか」
「そうだ」
「もし公開することになったら、あいつ自身もただじゃ済まない」
「捨て身の覚悟というやつだ」
「馬鹿げている」

「その通り、馬鹿げている」

 答えたのは、ツクルではなかった。前方、比留間の黒いスーツ姿がこちらへと近づいてくる。

「完全に暴走だ。たかだか朗読の仕事ひとつのため差し出すには、対価として釣り合わない」
「それでも、あいつは差し出した」
 意外なことに、ツクルが反論した。それを受け、比留間は目を血走らせる。
「調子に乗るなよ。友情ごっこを気取っているんだろうけどな、本当にあいつのことを思うんであれば、ここは退くのが正解だ」
「知ったことじゃない」
「なんだと」
 ツクルは比留間を見る。
「ここを貫かなくては、折れてしまう。そうなれば、もう戦えないかもしれない。そういうポイントがある」
「ガキが」

 苛立ち任せに、比留間は太い息を吐く。そして「村井時雨しぐれ」と、俺を睨んだ。

「お前の仕事だ。そいつのスマホのパスコードを吐かせろ」
「……パスコード」
「聞いただろう。そのガキ、ミノルの動画を予約投稿した、とぬかしやがった。それを取り下げるには、あのスマホに入る必要がある」

 比留間は親指を立て、後ろを示す。変わらずニット帽の男が端末を手に座っている。カバーもストラップもついていない、剥き出しのスマートフォンだった。

「顔認証は」
 俺は問う。
「オフにした」
 ツクルが答えた。比留間が舌打ちをする。
「パスコードがわかり、ロック解除して入りさえできれば、設定を戻せる。そうすれば、こいつの顔面を映してアカウントに入れるだろう。後は予約投稿を取り消し、それで終わりだ。理解したか」

 引っかかるものを感じながらも、俺は頷いた。

「本当に理解しているか」

 比留間が目と鼻の先まで来て、大きな手で俺の頭を掴む。そして強引に捻り、目前のベッド、全裸で絡まる瀬野と【ママ】を直視させた。瀬野の下腹部で、【ママ】の頭部が蠢いているところだった。

「これからお前は、お前が目を背けている、あの光景の一部になる。快感や悦楽は期待するな。あそこで気持ちよさげに喘いでいるハジメも、最初は泣いて叫んで逃げ出そうとした。あいつが持っていた睡眠薬や結束バンドは、もともとこの部屋に常備されているものだ」頭を掴む指先に、力がこもる。「救われたければ、三科つくるからパスコードを吐かせろ。助けてくれ、見捨てるな、とすがりついて頼み込め。ハジメが果てるまでにそれができなければ、お前をあそこに連れていく」

 比留間は俺の頭を放す。そしてニット帽の男のもとへ戻っていった。

 解放された後も、俺は前方で動く瀬野の裸体を見ていた。【ママ】、と呼びかけ、お願い、と懇願し。文脈の破滅した言葉が、火の粉のように舞っては消える。その姿に黒川を重ね、さらには自分がそうしている様を想像し、五秒と持たずに目線を逸らした。

 黒川に仕事を諦めさせる。
 諦めさせるため、動画の投稿を取り下げる。
 取り下げるため、端末のロックを解除する。
 解除するため、コードを入手する。
 入手するため、ツクルを説得する。
 説得するため、俺を襲わせる。

「面倒なことに巻き込まれた」
 俺は呟く。
「すまない」ツクルの声。「正直、迷っている」
「何をだ」
「決まっている。お前を救うかどうかだ」
 俺は瞬きをして、右を見る。
「意外だな」
「どういう意味だ」
「救う気はないと思っていた」
「何度も言うが、お前、俺をなんだと思っている」
「信念めいたものがあるんだろう」
「……信念じゃない」呟くように。「何度も言わせるな」

 昨夜、家のダイニングで交わした会話を思い出す。たしかにそのようなことを言っていた。これは黒川のためでなく、自分の我儘わがままであると。

「俺は、ただ勝ちたいだけだ」

 一際大きな呻き声が、瀬野から上がった。思わず反応し、そちらを見る。あられもない体勢のまま、ふたつの身体が痺れたように固まって。やがて引いた波が戻ってくるように、再び激しく動き始める。

「あのとき、俺たちを襲っていたものは、何だったと思う」
 ツクルは構わず話を続ける。目線は前に、しかし視界はどこか遠くを捉えているように見える。
「担任からあのいじめについて相談を受けたとき、俺はどうすればいいかわからなかった。正体不明の『何か』を前に対処がわからず、担任に責任を押し付けることで、問題と対峙することから逃げた。それしかできなかった」

『黒川君を追いやったものが何か、わかりません』。
 ツクルが黒川に書いたという、手紙の言葉。

「だが、今ならわかる」前を向き、その先を睨み。「あのとき相手にしようとしていたもの、その正体が」

 『悪意』。『敵意』。『邪気』。
 『同調』。『協調』。『連帯』。
 『見栄』。『虚栄』。『体裁』。
 『集団』。『社会』。『世間』。

 俺もまた、ツクルの問いを受け、正解を探る。それらしい単語が浮かびはするが、どれも一面を捉えてはいるものの、本質とは異なる気がする。

 俺たちを襲っているもの。
 あの頃、ツクルが敗北したもの。
 それは、何だ。

「『思惑』」
 ツクルは言う。

『思惑』。

「各人の自由意思。生きていれば自ずと生まれる快不快。そこに端を発する思考の数々。それらが複雑に絡み合ってできた集合体のようなもの。明確な意思だけでなく、各々の感想や反応の積み重ねが作用し、生み出される大きな流れ」
「……難しいな」
「難しい、と思いながら話している」

 教壇で講義をするように、淀みなく説明を続ける。

「誰も彼も、自分の好きなように思う、感じる。多かれ少なかれ、それは表出し、外界に働きかける。表情。態度。言動。さらにそれらが生み出す思考と感情。秒単位で、幾何級数的に増殖し、次第に個人の意思を離れ、大きな勢いを形成する」
「集団としての意思、というわけか」
「意思と呼べるほど主体的なものじゃない。むしろ意思を持たない『現象』と捉えるべきだ」

『現象』。
 たとえ何もしていなくとも、起こりうるもの。

「それは人間に思考と感情がある限り、自然発生的に生じる。そいつが生まれてくることを、止めることはできない」メガネの奥の目が、一度閉じる。「だが、俺自身が感じたこと、思考したこともまた、その『思惑』を形成するもののひとつだ」

 ならば、コントロールすることも可能なはず。
 目を開けて、ツクル。

「……コントロール?」
「俺がわざわざこの事務所を訪れ、ここで縛られているのはどうしてだと思う」

 急に声のボリュームが小さくなった。ベッドから聞こえる荒い息遣いに、かき消されそうなほど。
 俺は右耳に神経を集中させる。

「動画の中身を知っている、予約投稿をした。そう脅すだけならば、遠隔でいい。だが、危険を冒してこうして出向き、直談判をした。端末を手渡し、自由を奪われ、軟禁されることを良しとした」
「何が言いたい」
「あいつら、『リンクス』の連中が、単純な暴力や身内を巻き込んだ脅迫をしてこないのは、なぜか。その傷跡や他者の証言でもって、後々訴えられることを避けるためだ。俺たちに血が流し、痣を残すようなことにはならないし、俺たちの身内が巻き込まれることもない」
「何が言いたいんだ」
「だが、黒川は別だ。あの額の傷と同様、暴力で痛めつけ諦めさせることを、黒川に対しては辞さない。そうなったら、交渉どころじゃない」
「おい」
「だから、ここに来た」
 ツクルは言う。
「俺の口を割らせ、パスコードを入力しさえすれば、事が済む。そのシチュエーションに持ち込むことで、意識をこちらに集中させた。黒川を探し危害を加える、という選択肢を消し、たった数桁の番号を突き止めることに、問題をすり替えた。現に黒川が見つかった後も、あいつは今、無傷なままだ。あいつを諦めさせれば俺も折れる、という可能性に、連中は気づいていない。気づいていたとて、目の前の俺を無視できる気配がない」

 絶えず無表情だったツクルの顔が、そこで歪み始めた。
 目が見開かれ、歯が剥き出しになり。

「『思惑』通りだ」

 獣のように、笑った。

「あいつらが何を感じ、考えようとも、その上をいってやる。捻じ曲げてやる。捩じ伏せてやる」

 強い語気。その荒々しさが自分の耳にも届いたか、ふと、ツクルは我に返ったように黙る。
 表情が、いつもの平淡なものへと戻っていく。

「あの頃、手も足も出なかった相手に、一度勝っておきたい。勝つことができた、という経験が欲しい。俺が動く理由は、それだけだ」

 ここを貫かなくては、折れてしまう。そうなれば、もう戦えないかもしれない。
 つい先ほど、比留間に対し放たれた言葉が思い出された。

「そこまでのことなのか、お前にとって」
「悔しいが、そこまでのことだ」上を向き、答える。「負けたままでは、この先、生きた心地がしない」

 絶叫が聞こえた。それまでの艶かしい声色でなく、濁音が入り混じる、悲痛な叫び。目を向けると、瀬野が顔面に手を当て、身悶えているところだった。

 その指の隙間から、赤い血が見える。

「あぁ、【ママ】……ありがとう、ありがとう」半狂乱に首を振り。「ミノルのより、すごいよ。たくさん、たくさん食べてくれた」

 瀬野の手が離れる。流血に染まる顔が、赤で縁取られた笑みを浮かべる。

「【ママ】ァ……ッ」

 額から滴る血をすすりながら、瀬野は目前の肢体を舐め回し始める。

「狂っている」
 自ずと、口からこぼれる。
「狂っているな」
 隣で、ツクルも同調した。そして続ける。
「あの狂乱の中に幼馴染を放り込むべきか否か、迷っている俺も、狂っているんだろう」
 ツクルを見る。前を向いたまま、表情に変化はない。
「『思惑』通り、と言ったが、お前がここに連れてこられることは想定外だった。まさか瀬野はじめが黒川に連絡し、かつ黒川がそれに応じるとはな。状況を掌握し、無理矢理に方程式化しようとしたが、やはり未知数が多すぎる。異常値が代入されれば、瞬く間に解が変わる」

 この状況に陥っている時点で、俺の負けだ。

「お前を救いさえしなければ」

 ツクルはそこで意を決した様に息を吐き、こちらを向いた。前方から聞こえる息遣い、それが止んだ瞬間を見計らったかのように、俺に告げる。

「シグ、一生の貸しだ。言ってはいけないことを言わせてもらう」

 生きるため。
 生きていくため。

「俺に協力しろ。今から、あいつに喰われてくれ」


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