小説 【君を救ったその日から】 第一章 前半
第一章 視線 前半
春の校舎は、どこか落ち着かない匂いがする。
新しく貼り替えられた掲示物。磨かれたばかりの廊下。少しだけ浮き足立った生徒たちの声。窓の外では、散り残った桜の花びらが風に乗って校庭の隅へ流されていた。
旭 有紗は、両手で抱えた書類の束を落とさないように気をつけながら、職員室前の廊下を歩いていた。
黒髪のロングヘアが、歩くたびに肩の上で小さく揺れる。白い肌は、緊張のせいかほんのりと頬だけ赤い。小柄な体に少し大きめのジャケットを羽織った姿は、教師というより、まだ大学生だと言われても通じそうだった。

今日から、この白波学園でスクールカウンセラーとして働く。
正式には非常勤ではなく常勤扱い。相談室に毎日いて、生徒の悩みを聞く。それが有紗に与えられた役割だった。
「旭先生」
背後から穏やかな声がして、有紗は慌てて振り返った。
「は、はいっ」
勢いよく返事をしたせいで、抱えていた書類が少しずれた。
目の前に立っていたのは、白髪交じりの男性だった。メガネの奥の目元に、柔らかい笑みを浮かべている。
白波学園校長、小林 龍次。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。ここは職員室であって、面接会場ではありませんから」
「す、すみません……」
「謝るところでもありません」
小林はくすりと笑った。
「今日からよろしくお願いします。旭先生が来てくださって、私は心強いですよ」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。まだ未熟ですが、精一杯頑張ります」
「未熟でいいんです。完璧な先生より、少し不器用でも話を聞いてくれる先生の方が、生徒には必要な時がありますから」
その言葉に、有紗は少しだけ胸が温かくなった。
「ありがとうございます」
「では、まず相談室へご案内しましょう。……と言いたいところですが」
小林は職員室の奥をちらりと見た。
そこには、眼鏡をかけた細身の男性が立っていた。背筋がぴんと伸び、隙のないスーツ姿。表情は硬く、声を聞く前から厳格な人だと分かる。
「灰田教頭」
小林が声をかけると、男性は静かにこちらへ歩いてきた。
「灰田 信忠です。教頭をしております。今日から改めてよろしくお願いします」
「旭有紗です。今日からお世話になります。よろしくお願いいたします」
有紗が深く頭を下げると、灰田は短く頷いた。
「スクールカウンセラーという立場上、生徒からさまざまな相談を受けることになると思います。ただし、学校には学校の規則があります。個人の感情だけで動かず、必ず管理職への報告と連携をお願いします」
「はい。承知しております」
「相談内容を守ることと、学校として対応すべきことを切り分ける必要があります。その判断を誤らないように」
灰田の言葉は冷たくはなかった。
ただ、硬かった。
有紗は背筋を伸ばす。
「はい。気をつけます」
小林が横でにこにこと笑った。
「灰田教頭は言い方が固いですが、悪い人ではありません」
「校長」
「本当のことでしょう」
灰田はため息をついた。
有紗は思わず小さく笑ってしまい、すぐに口元を押さえた。
「す、すみません」
「笑ってくださって構いませんよ。学校には笑いも必要です」
小林はそう言ってから、廊下の先を指さした。
「では、今度こそ相談室へ行きましょう」
有紗は書類を抱え直し、二人の後について歩き出した。
相談室は、もともと校舎二階の空き教室を利用していた。
しかし今年度から、一階の端に新しく部屋が設けられた。
保健室の近くで、職員室からは少し離れている。窓の外には中庭が見え、花壇には色とりどりのパンジーが植えられていた。
扉には小さなプレートが掛かっている。
『カウンセリングルーム』
その下に、生徒が書いたのだろうか、丸い文字でこう貼られていた。
『相談室』
「正式名称はカウンセリングルームですが、生徒たちは相談室と呼んでいるようです」
小林が扉を開ける。
中は思っていたより明るかった。
小さな机。柔らかそうな椅子が二脚。壁際には本棚があり、心理学の本や絵本、進路資料が並んでいる。窓辺には観葉植物が置かれ、春の日差しを受けて葉が薄く光っていた。
「素敵なお部屋ですね」
「養護教諭の佐久間先生が整えてくれました。旭先生が使いやすいように、少しずつ変えてください」
「はい」
有紗はそっと室内を見回した。
ここで、これから生徒たちの話を聞く。
泣く子もいるかもしれない。怒る子もいるかもしれない。何も話せずに帰ってしまう子もいるかもしれない。
それでも。
ここが、誰かにとって少しでも息をしやすい場所になればいい。
そう思った時だった。
ガタン。
奥から物音がした。
有紗はびくりと肩を跳ねさせた。
「……え?」
相談室の奥には、カーテンで仕切られた小さなスペースがある。資料室か倉庫だろうか。
小林は「ああ」と何かを察したように笑った。
灰田は眉間に深い皺を寄せた。
「またですか」
「また、とは……?」
有紗が不安げに聞くと、灰田は低い声で言った。
「佐藤くん」
カーテンの向こうが、少しだけ揺れた。
数秒の沈黙。
それから、眠たげな声がした。
「……ばれた?」
カーテンが開いた。
出てきたのは、黒髪の男だった。
年齢は二十代後半くらい。少し長めの前髪が目にかかっていて、左耳には小さなピアスが光っている。整った顔立ちをしているのに、制服でもスーツでもなく、作業着をだらしなく着崩していた。
寝起きなのか、目元がわずかに緩い。
その男性は有紗を見て、少しだけ瞬きをした。
「あれ、初めて見る先生だな」
有紗も瞬きを返した。
「え、えっと……本日から赴任することになりました、スクールカウンセラーの旭有紗です」
「へえ」
男は片手を上げた。
「佐藤 蓮。用務員」
「用務員さん……」
有紗は奥の倉庫を見た。
古い椅子や段ボール箱、清掃用具、使われていない掲示板などが置かれている。その隙間に、なぜか折りたたみ式の簡易ベッドのようなものが見えた。
「あの、今……寝ていらっしゃいましたか?」
「休憩」
「勤務時間中では……?」
「心の休憩」
「心の……」
有紗は困惑した。
灰田が冷たく言う。
「佐藤くん。あなたの休憩時間は午前十時からではありません」
「教頭先生、細かいなあ」
「細かくありません。規則です」
「はいはい。以後気をつけます」
「その言葉を何度聞いたと思っているんですか」
「百回くらい?」
「反省の色がありません」
蓮は悪びれもせず、肩をすくめた。
小林は困ったように笑っている。
「佐藤くん、ここは今日から旭先生のお部屋です。あまり迷惑をかけないように」
「分かってるって」
蓮は有紗の方を見た。
「邪魔だったら追い出して」
「えっ」
「ここ、静かで寝やすいんだよ」
「寝ないでください」
思わず有紗が言うと、蓮は少しだけ口元を上げた。
「真面目だな」
「仕事ですので」
「疲れそう」
「……それは、よく言われます」
有紗が小さく答えると、蓮は一瞬だけ目を細めた。
からかうような表情だったのに、その奥にほんの少しだけ違う色が混じった気がした。
でもすぐに、蓮はまた軽い調子に戻った。
「まあ、よろしく。有紗先生」
「はい。よろしくお願いいたします、佐藤さん」
「蓮でいいよ」
「いえ、佐藤さんで」
「固いなあ」
「初対面ですので」
「じゃあ二回目からは、蓮?」
「佐藤さんです」
蓮は声を出して笑った。
灰田がこめかみを押さえる。
「旭先生。この男に甘い顔をすると、すぐにつけ上がります」
「は、はい」
「灰田先生、俺そんな信用ない?」
「ありません」
「即答かい」
小林が軽く手を叩いた。
「さて、旭先生。荷物の整理もあるでしょうし、私たちはそろそろ戻りましょう。佐藤くんも仕事に戻るように」
「へいへい」
「返事はしっかりしてください」
「はい。戻ります」
蓮はふざけた様子でそう言うと、相談室の扉へ向かった。
すれ違いざま、有紗の腕から少しずり落ちかけていた書類の束を、片手でひょいと支える。
「あ」
「落ちる」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
そのまま蓮は扉を開け、廊下へ出ていった。
有紗は少しだけ呆然とした。
不真面目で、失礼で、掴みどころがない。
でも。
書類を支えた手つきは、思ったより優しかった。

「旭先生」
灰田の声で我に返る。
「はい」
「くれぐれも、佐藤くんには注意してください」
「……はい」
小林は笑いながら言った。
「でも、悪い子ではありませんよ」
「子、という年齢ではないと思いますが…」
灰田が即座に突っ込む。
有紗はまた少し笑ってしまった。
二人が出ていった後、相談室には静けさが戻った。
窓の外では、風が花壇の花を揺らしている。
有紗は机に書類を置き、ゆっくりと息を吸った。
「今日からここが、私の相談室……」
そう呟くと、胸の奥に小さな緊張と、それ以上の期待が広がった。
誰かが苦しくなった時。
誰にも言えないことを抱えた時。
ここに来てくれたらいい。
有紗はそう願った。
その時、廊下の向こうから女生徒たちの声が聞こえてきた。
「ねえ、今の佐藤さん見た?」
「見た見た。今日もかっこよかった」
「ていうか相談室にいたよね? 何してたんだろ」
「サボりでしょ」
「でも顔がいいから許されるよね」
有紗は扉の方を見た。
「……人気なんですね」
呟いてから、ふと奥の倉庫を見る。
古い備品の匂いがかすかに漂っていた。
あの人は、きっとまたここに来る。
なぜか、そんな気がした。
そしてその予感は、すぐに当たることになる。
けれどこの時の有紗はまだ知らなかった。
この相談室の奥の倉庫が、自分にとってどんな場所になっていくのか。
その倉庫で眠る不真面目な用務員が、これから何度も自分を助けてくれることも。
そして、相談室に訪れる最初の生徒が、やがて一人の死へと繋がっていくことも。
有紗はまだ、何も知らなかった。
相談室に常勤として赴任してから三日が過ぎた。
有紗は少しずつ学校の空気に慣れ始めていた。
昼休みには保健室の佐久間 恵が顔を出し、職員室では校長の小林が何かと気にかけてくれる。
教頭の灰田は相変わらず厳しいが、理不尽な人ではない。
そして。
「おはよ」
朝一番、相談室の扉を開けると。
奥の倉庫から声がした。
有紗は深くため息をつく。
「おはようございます」
「朝から元気ないな」
「佐藤さんがいるからです」
「ひどい」
全然傷ついていない顔で蓮が笑う。
古い椅子の上に足を投げ出し、缶コーヒーを飲んでいた。
「仕事してください」
「してる」
「何をですか」
「有紗先生の護衛」
「必要ありません」
「じゃあ昼寝」
「もっと必要ありません」
蓮は肩を揺らして笑った。
有紗は呆れながらも、自分の机へ向かう。
不思議なことに、このやり取りも少し慣れてきていた。
最初は本気で追い出そうと思っていた。
でも、蓮は本当に邪魔をしない。
生徒が来れば倉庫の奥へ引っ込んで静かにしている。
ただそこにいる。
それだけだった。
――コンコン。
不意に扉が鳴った。
有紗は顔を上げる。
「はい、どうぞ」
扉が少しだけ開く。
覗いたのは女子生徒だった。
一年生だろうか。
片方で束ねられた栗色の髪。
大人しそうな顔立ち。
けれど、その表情はひどく不安そうだった。
「……あの」
「どうぞ、入ってください」
有紗は柔らかく微笑む。
少女は恐る恐る部屋へ入ってきた。
扉が閉まる。
その瞬間。
倉庫から小さな物音がした。
有紗がちらりと見ると、蓮が気配を消すように奥へ移動していた。
生徒が来た時だけは空気を読む。
その点だけは助かっていた。
「どうぞ、座ってください」
少女は小さく頷く。
椅子へ腰掛ける動きもどこかぎこちない。
膝の上で手を握りしめている。
有紗は急かさなかった。
相談室で一番大切なのは沈黙を怖がらないことだ。
話したくない人に話をさせても意味がない。
まずは、この場所が安全だと思ってもらうこと。
それが大切だった。
「お名前を聞いてもいいですか?」
少女は少しだけ顔を上げる。
「……橘です」
「橘さん」
「橘 結衣です」
「ありがとうございます。私は旭有紗です」
有紗は優しく微笑んだ。
「ここでは無理に話さなくても大丈夫ですよ」
結衣は驚いたように目を瞬かせる。
「話さなくても……ですか?」
「はい」
「でも相談室だから……」
「話したくなったら話してください」
結衣は戸惑っていた。
きっと今まで大人に相談しても、
『どうしたの?』
『何があったの?』
『早く言って』
と言われてきたのだろう。
有紗は待った。
時計の秒針だけが静かに進む。

やがて。
「……私」
結衣が小さく口を開いた。
「学校に来るのが、少し怖いんです」
有紗は何も言わない。
続きを待つ。
「最初は気のせいだと思ってたんです」
「はい」
「でも最近……」
結衣の声が震えた。
「無視されるんです」
有紗はゆっくり頷く。
「それは、クラスの人ですか?」
「はい」
「特定の人ですか?」
「……高橋さん」
初めて名前が出た。
高橋。
有紗はメモを取りながら続きを促す。
「高橋さんと何かあったんですか?」
「分からないんです」
結衣は俯く。
「本当に分からなくて……」
声がかすれていた。
「急に話しかけても無視されるようになって」
「はい」
「私が席に座ると移動したり」
「……」
「みんなの前で悪口言われたり」
有紗は静かに聞く。
結衣は少しずつ言葉を吐き出していった。
机の中にゴミを入れられたこと。
ノートを隠されたこと。
グループLINEで陰口を書かれたこと。
昼休み、一人になることが増えたこと。
「私が悪いんだと思います」
結衣が言った。
有紗は顔を上げる。
「どうしてそう思うんですか?」
「だって……」
結衣の目に涙が滲む。
「私だけなんです」
「……」
「みんな高橋さんとは仲良いから」
「はい」
「だから私に問題があるんだと思います」
有紗は少しだけ息を吸った。
こういう言葉は珍しくない。
傷つけられ続けた人は、自分が悪いと思い始める。
その方が楽だから。
理由が分からない悪意より、自分に原因があると思った方が納得できるから。
でも。
「橘さん」
有紗は優しく呼んだ。
結衣が顔を上げる。
「傷つけられていい人なんて、いません」
結衣の瞳が揺れた。
「でも……」
「理由があったとしてもです」
有紗は静かに続ける。
「人を傷つけていい理由にはなりません」
結衣の唇が震えた。
何かを堪えるように。
そして。
ぽろり、と。
一粒の涙が頬を伝った。
「……っ」
有紗は薄ピンク色のハンカチを差し出した。
結衣は受け取る。
その手も少し震えていた。
「ありがとうございます……」
「こちらこそ、来てくれてありがとうございます」
結衣は驚いた顔をした。
「え?」
「話してくれて嬉しかったです」
有紗は微笑む。
「一緒に考えましょう」
結衣はしばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく、小さく。
頷いた。
その頃。
相談室の奥の倉庫では。
蓮が静かに天井を見上げて、相談室へ入ってきた時の結衣の顔を思い出していた。
最近、昼休みによく一人でいる子だ。
グラウンドの端。
図書室。
校舎裏。
いつも一人だった。
蓮は小さく息を吐く。
「……面倒なことになりそうだな」
誰にも聞こえない声だった。
結衣との面談が終わったのは、放課後が近づいた頃だった。
相談室の扉が閉まり、有紗は小さく息を吐く。
結衣は帰る時、来た時より少しだけ表情が柔らかくなっていた。
もちろん解決したわけではない。
話しただけでいじめがなくなるほど現実は優しくない。
それでも。
誰にも言えなかったことを言葉にできた。
それは大きな一歩だった。
「お疲れ」
倉庫から蓮が出てくる。
いつの間にか缶コーヒーが紙パックのカフェオレに変わっていた。
「ありがとうございます」
「泣いてたな」
「橘さんですか?」
「ん」
蓮は有紗の向かいの椅子に勝手に座る。
「最近ずっと一人だった」
「やっぱりそうなんですね」
「昼飯も」
「……」
「図書室も」
「……」
「校舎裏も」
有紗は少し驚いた。
「そんなに見てたんですか」
「見るだろ」
「どうしてですか?」
蓮は一瞬きょとんとした顔をした。
「学校だから」
「?」
「変なやつとか、困ってるやつとか、見つけたら気になる」
それはとても自然な言い方だった。
有紗は少しだけ微笑む。
「優しいんですね」
「やめろ」
「え?」
「そういうの」
蓮は露骨に嫌そうな顔をした。
「褒められるの苦手」
「そうなんですか」
「有紗先生みたいなやつに言われると特に」
「私みたいな?」
「真面目なやつ」
有紗は少し笑った。
蓮は不満そうに顔を背ける。
けれど耳だけ少し赤くなっていた。
本人は気付いていない。
もちろん有紗も気付かない。
「それで」
蓮が話題を戻す。
「どうするの?」
「高橋さんとお話しします」
「加害者?」
「はい」
「面倒そう」
「面倒だからやらない、とは言えません」
「有紗先生らしいな」
蓮は椅子から立ち上がる。
「でも気を付けろよ」
「何をですか?」
「高橋 愛梨」
名前を聞いて、有紗は少し驚いた。
「知ってるんですか?」
「有名かな」
「そうなんですか?」
「一年の女子の中心だな」
蓮は肩をすくめる。
「友達も多いみたいだし」
「人気者なんですね」
「まあな」
そして少しだけ表情を変えた。
「でも」
「?」
「人によって態度変えるタイプかな」
有紗はその言葉を覚えておくことにした。
その日の夕方。
職員室。
有紗は一年一組の担任、松田 智久の机の前に立っていた。
「高橋愛梨さんについてお話がありまして」
松田はパソコン画面から顔を上げる。
三十二歳。
少し伸びた前髪。
疲れたような目。
やる気がないというより、何事にも深入りしたくない人という印象だった。
「あー、橘の件ですか?」
有紗は一瞬だけ引っかかった。
まだ内容は言っていない。
それなのに松田は分かった。
「ご存じだったんですね」
「まあ」
松田は曖昧に笑う。
「女子同士ですから」
「女子同士?」
「そういうのあるじゃないですか」
有紗は黙る。
松田は続けた。
「仲良かったり悪かったり」
「いじめの可能性があります」
「可能性ですよね?」
その言葉に。
有紗は少しだけ表情を引き締めた。
「橘さんはかなり傷ついていました」
「でも高橋はそんな子じゃないですよ」
「そんな子、とは?」
「クラスの中心ですし」
松田は笑う。
「友達も多いですから」
有紗は思った。
友達が多いことと、誰かを傷つけないことは別だ。
けれど感情的になってはいけない。
「高橋さんとも面談したいと思っています」
「まあ、それはいいですけど」
松田は面倒そうに頬をかく。
「旭先生」
「はい」
「大事にしないでくださいね」

有紗は少しだけ目を伏せた。
そして静かに答える。
「大事にしたいわけではありません」
「……」
「傷ついている生徒さんがいるので、確認したいだけです」
松田は何も言わなかった。
職員室を出た後。
有紗は小さく息を吐いた。
「難しいですね……」
誰にも聞こえない独り言だった。
翌日。
放課後。
相談室の扉が開く。
「失礼しまーす」
明るい声。
有紗は顔を上げた。
「高橋さんですね」
入ってきた少女は笑顔だった。
ツインテールの髪は肩までかかっていた。
整った顔立ち。
可愛らしい雰囲気。
誰とでも仲良くなれそうな印象。
それが第一印象だった。
「先生、可愛いですね」
いきなりそう言われて、有紗は目を瞬かせた。
「え?」
「思ったより若い」
「ありがとうございます……?」
「彼氏います?」
「いません」
「へー」
高橋愛梨はくすくす笑った。
まるで友達と話しているみたいだった。
けれど。
有紗は違和感を覚える。
目が笑っていない。
笑顔なのに。
どこか人を試しているような目。
そして。
倉庫の奥。
見えない場所で。
蓮が小さく眉をひそめた。
高橋愛梨。
噂通りだな。
そう思いながら。
蓮は静かに目を閉じた。
そして有紗と愛梨の面談が始まった。
それが。
高橋愛梨にとって、人生最後の面談になることを。
まだ誰も知らなかった。
愛梨は椅子に深く腰掛ける。
まるで友達の家に遊びに来たような態度だった。
「それで?」
足を組みながら言う。
「何の話ですか」
有紗は机の上のメモへ目を落とした。
「橘さんについてです」
愛梨は露骨に面倒そうな顔をした。
「あー」
「橘さんとの関係についてお聞きしたくて」
「別に普通ですよ」
「普通ですか?」
「はい」
即答だった。
有紗は慌てずに続ける。
「橘さんは、無視されたり悪口を言われたりしていると話していました」
「へえ」
愛梨は肩をすくめた。
「被害妄想じゃないですか?」
有紗は少しだけ胸が痛んだ。
「そう思う理由はありますか?」
「だって暗いし」
「……」
「なんか被害者ぶるタイプですよね」
有紗は表情を変えなかった。
感情的になってはいけない。
まずは聞く。
「高橋さんは橘さんが苦手なんですね」
「苦手というか」
愛梨は笑う。
「うざいです」
あっさりと言った。
まるで今日の天気を話すように。
「どうしてですか?」
「空気読めないし」
「……」
「話つまんないし」
「……」
「一緒にいて疲れるから」
有紗はメモを置いた。
そして静かに愛梨を見る。
「それで傷つけてもいい理由になりますか?」
愛梨の笑顔が少しだけ消える。
「は?」
「嫌いな人がいることはあります」
有紗は穏やかに言う。
「でも」
「……」
「傷つけていい理由にはなりません」
愛梨は鼻で笑った。
「綺麗事ですね」
「そうかもしれません」
「先生ってみんなそう言う」
愛梨は机へ肘をつく。
「現実知らないんですよ」
「現実ですか?」
「クラスってそういうもんだから」
有紗は少し考えた。
そして答える。
「私はそうは思いません」
「へえ」
「人を傷つけることが普通になってはいけないと思っています」
愛梨は面白くなさそうに視線を逸らした。
しばらく沈黙。
窓の外から運動部の声が聞こえる。
やがて。
愛梨がぽつりと呟いた。
「別に」
「?」
「死ぬわけじゃないじゃん」
有紗はその言葉に引っ掛かった。
「高橋さん」
「なんですか」
「もし橘さんが本当に傷ついていたら?」
愛梨は答えない。
「学校へ来られなくなったら?」
答えない。
「自分を嫌いになってしまったら?」
愛梨は少しだけ眉をひそめた。
初めて。
本当に少しだけ。
表情が揺れた。
だが。
それも一瞬だった。
「知らないです」
そう言って立ち上がる。
「もういいですか?」
「高橋さん」
有紗が呼ぶ。
愛梨は振り返らない。
「私は」
有紗は静かに言った。
「高橋さんとも話したいと思っています」
愛梨の肩がぴくりと動く。
「橘さんだけではなく」
「……」
「高橋さんもです」
愛梨は数秒黙っていた。
そして。
「意味分かんない」
小さく笑う。
「私、相談しに来たわけじゃないんだけど」
「それでもです」
有紗は答えた。
「困ったことがあったら来てください」
愛梨はようやく振り返った。
その顔には呆れたような笑み。
でも。
ほんの少しだけ。
理解できないものを見るような表情も混ざっていた。
「変な先生」
それだけ言う。
そして扉へ向かった。
「高橋さん」
最後にもう一度だけ。
有紗が呼ぶ。
愛梨は振り返らない。
「あなたも大切な生徒です」
愛梨の足が一瞬だけ止まった。
けれど。
何も言わない。
そのまま相談室を出ていった。
扉が閉まる。
静寂。
奥の倉庫から小さく息を吐く音が聞こえた。
「難しいな」
蓮だった。
有紗は苦笑する。
「そうですね」
「反省してねえぞ」
「分かっています」
「それでも話すの?」
有紗は窓の外を見る。
夕日が差し込んでいた。
「はい」
「どうして」
有紗は少しだけ微笑んだ。
「生徒だからです」
蓮は数秒黙り。
それから小さく笑った。
「有紗先生らしい」
高橋愛梨は相談室を出ると、大きくため息を吐いた。
「うっざ……」
誰に聞かせるでもなく呟く。
廊下を歩きながらスマホを取り出した。
友達からメッセージが届いている。
『今どこ?』
『もう帰る?』
『マック寄ろー』
愛梨は少し機嫌を取り戻した。
そうだ。
別にどうでもいい。
スクールカウンセラーなんて。
綺麗事ばかり言う大人なんて。
今までだってたくさんいた。
「傷つけちゃダメ、ねぇ」
鼻で笑う。
だいたい橘結衣だって悪い。
空気は読めないし。
暗いし。
一緒にいてつまらない。
だからみんな離れただけだ。
自分は悪くない。
そう思った。
思ったはずだった。
なのに。
なぜか有紗の言葉だけが頭に残る。
『傷つけていい理由にはなりません』
愛梨は舌打ちした。
「だから何だっての」
校門を出る。
夕暮れが近い。
オレンジ色の光が住宅街を照らしていた。
友達と合流する予定だったが、少し気分を変えたくなった。
一人で帰ろう。
そう思った。
住宅街の角を曲がった時。
ふと。
見覚えのある姿が目に入った。
「……あれ?」
愛梨は立ち止まる。
少し先。
煉瓦造りのマンションの前。
女性がいた。
黒髪のロングヘア。
白い肌に小柄な体。
相談室で見たばかりの姿。
「旭先生?」
有紗だった。
いや。
正確には。
有紗に似た後ろ姿だった。
愛梨は首を傾げる。
なんでこんなところにいるんだろう。
しかも。
もう一人いる。
男だ。
帽子を深く被っている。
顔はよく見えない。
距離がある。
声も聞こえない。
ただ。
様子がおかしかった。
男は有紗を見ていた。
ずっと。
まるで。
何か大切なものを見るみたいに。
愛梨は少しだけ気味悪くなった。
「なにあれ……」
有紗は気付いていないようだった。
そのまま歩いていく。
男は距離を保ったまま後を追う。
一定の距離。
一定の速度。
慣れている。
そんな印象だった。
そして。
愛梨は気付いた。
「あ」
鳥肌が立つ。
あれ。
ストーカーじゃん。
頭の中で言葉になった瞬間。
ぞくり、と背筋が冷えた。
男は帽子を深く被っている。
でも。
一瞬だけ横顔が見えた。
目が。
笑っていなかった。
愛情とも執着ともつかない。
妙な熱だけがあった。
「うわ……」
愛梨はスマホを握り直す。
最初は気持ち悪いと思った。
でも。
すぐに別の感情が浮かぶ。
面白い。
利用できる。
そう思ってしまった。
愛梨は人の弱みを見つけるのが得意だった。
そして。
利用することにも慣れていた。
「へぇ……」
口元が歪む。

旭先生。
あんな綺麗事言ってたくせに。
ストーカーいるんだ。
しかもかなりやばそうなやつ。
もし学校に言ったらどうなるだろう。
もし本人に言ったら?
もしあの男に言ったら?
愛梨は小さく笑った。
「面白いかも」
その時だった。
帽子の男が立ち止まる。
愛梨の心臓が跳ねた。
男が。
こちらを向いた気がした。
距離はある。
顔もよく見えない。
それなのに。
見られた。
そんな感覚があった。
「……」
愛梨は急に怖くなった。
足早にその場を離れる。
後ろは振り返らない。
振り返りたくなかった。
第一章 視線 前半 終
↓続き
