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小説 【君を救ったその日から】 第一章 後半


第一章 視線 後半


 翌朝。

 白波学園は騒然となる。

 職員室。

 相談室。

 廊下。

 教室。

 どこへ行っても同じ話題だった。

 有紗が職員室へ入った瞬間。

 異様な空気を感じた。

 先生たちの表情が暗い。

 誰もがざわついている。

「……どうしたんですか?」

 有紗が近くにいた教師へ尋ねる。

 返事の前に。

 聞き慣れた声がした。

「旭先生」

 振り返る。

 小林校長だった。

 けれど。

 いつもの穏やかな表情ではない。

「校長先生……?」

 小林は言葉を選ぶように口を開く。

「落ち着いて聞いてください」

 有紗の胸がざわつく。

 嫌な予感がした。

「高橋愛梨さんが……」

 有紗の呼吸が止まる。

「昨夜、亡くなりました」

 世界が静かになった。

 何を言われたのか理解できない。

「え……?」

「警察の発表では、自殺とみられています」

 有紗は瞬きを忘れた。

 昨日。

 昨日話したばかりだ。

 笑っていた。

 反省なんてしていなかった。

 腹も立った。

 それでも。

 生きていた。

「そんな……」

 小林が何か言っている。

 でも耳に入らない。

 高橋愛梨。

 十六歳。

 昨日まで確かに生きていた少女。

 その命が。

 もうない。

 有紗は椅子へ座り込んだ。

 手が震えている。

 そんな有紗を。

 職員室の入り口から。

 蓮が見ていた。

 いつもなら軽口の一つでも言う。

 でも今は違う。

 蓮の顔から笑みが消えていた。

 何かがおかしい。

 そう思った。

 まだ理由は分からない。

 けれど。

 胸の奥が妙にざわついていた。

 まるで。

 これが始まりだと告げるように。




 高橋愛梨の死は、学校全体を重苦しい空気で包んだ。

 朝から職員室の電話は鳴り止まない。

 保護者からの問い合わせ。

 マスコミ対応。

 生徒たちの動揺。

 誰もが落ち着かない様子だった。

 有紗は何度も昨日の面談を思い出していた。

 愛梨は反省していなかった。

 腹立たしい部分もあった。

 でも。

 死ぬほど追い詰められているようには見えなかった。

「旭先生」

 声を掛けられて顔を上げる。

 佐久間恵だった。

 保健室の先生らしく白衣を羽織っている。

「大丈夫?」

 有紗は少しだけ笑おうとした。

 失敗した。

「大丈夫です」

「嘘」

 即答だった。

 恵は有紗の向かいへ座る。

「昨日面談したんでしょ」

「……はい」

「自分を責めてる顔してる」

 図星だった。

 有紗は目を伏せる。

「私がもう少し違う話し方をしていたら」

「違う」

「でも」

「違うわよ」

 恵はもう一度言った。

 強く。

「有紗ちゃん」

「……」

「亡くなった理由はまだ分からない」

 有紗は黙る。

「だから勝手に背負わない」

 優しい声だった。

 それでも有紗の胸は苦しかった。




 相談室へ戻る途中。

 廊下の空気がいつもと違う。

 生徒たちは小声で話している。

 泣いている子もいた。

 友達だったのだろう。

 当たり前だ。

 愛梨はクラスの中心人物だった。

 人気者だった。

 誰かにとって大切な存在だった。

 相談室の扉を開ける。

 静かだった。

 奥の倉庫も静か。

 珍しい。

「佐藤さん?」

 返事がない。

 本当にいないらしい。

 有紗は少しだけ安心して。

 少しだけ寂しくなった。

「何考えてるんでしょう、私」

 小さく呟く。

 椅子へ腰掛ける。

 すると。

 扉がノックされた。

「どうぞ」

 入ってきたのは橘結衣だった。

 顔色が悪い。

 昨日よりずっと。

「橘さん」

 有紗は立ち上がる。

 結衣は椅子へ座る前に言った。

「私のせいです」

 有紗の胸が痛んだ。

 やっぱり。

 そう思ってしまう。

「違います」

「私です」

 結衣は泣きそうな顔だった。

「私が相談なんてしたから」

「違います」

「私が先生に言ったから」

「違います」

 有紗は静かに否定する。

 何度でも。

「橘さんのせいではありません」

「でも」

「違いますよ」

 結衣は唇を噛む。

 涙が溢れた。

「だって」

「……」

「高橋さん、昨日まで普通だったんです」

 有紗もそう思っていた。

 だから苦しい。

「なのに」

「……」

「急に死ぬなんて」

 相談室が静かになる。

 結衣の嗚咽だけが響く。

 有紗はティッシュを差し出した。

「高橋さんが亡くなったことは悲しいです」

「……」

「でも」

「……」

「橘さんが助けを求めたことは間違いじゃありません」

 結衣は泣きながら首を振る。

 有紗は諦めない。

 今、この子を一人にしてはいけない。

「苦しかったんですよね」

 結衣が小さく頷く。

「怖かったんですよね」

 また頷く。

「なら」

 有紗は言った。

「助けを求めてよかったんです」

 結衣は声を上げて泣いた。

 有紗はただ隣にいた。

 答えはない。

 愛梨は戻らない。

 それでも。

 残された人を支えることはできる。

 それが今の有紗にできることだった。

 面談が終わった頃には、すっかり夕方になっていた。

 結衣を見送り。

 有紗は机へ戻る。

 疲労感が重い。

 心も身体も。

「……」

 ふと。

 机の上に何かが置かれていることに気付いた。

 白い紙だった。

 折り畳まれている。

「?」

 誰かが置いていったのだろうか。

 有紗は開く。

 そこには。

 たった一行だけ書かれていた。

『旭先生は正しいです』

 有紗は首を傾げる。

 生徒からだろうか。

 応援の手紙?

 慰め?

 よく分からない。

 でも。

 少しだけ救われた気がした。

 自分のやったことが正しかったのか。

 今の有紗には分からない。

 それでも。

 誰かがそう言ってくれた。

 それだけで。

 少しだけ。

「……ありがとうございます」

 有紗は紙をそっと引き出しへ入れた。

 その時。

 相談室の扉が開く。

「お疲れ」

 蓮だった。

 片手にコンビニの袋を持っている。

「佐藤さん」

「今日ずっと保健室いた」

「そうだったんですか」

「有紗先生、一人にすると倒れそうだったから」

 有紗は苦笑する。

「倒れません」

「倒れる」

 即答だった。

 蓮は机の上に缶のミルクティーを置く。

「差し入れ」

「ありがとうございます」

「飲め」

「はい」

 有紗が缶を持つ。

 ほんのり温かい。

「……」

 蓮はふと机を見る。

 そして。

 引き出しの端から少しだけ見えている白い紙に気付いた。

「手紙?」

「みたいです」

「誰から」

「分かりません」

 蓮は少しだけ眉をひそめた。

 ほんの一瞬。

 本当に一瞬だけ。

 何かが引っかかった。

 けれど。

 有紗は気付かない。

 蓮も何も言わない。

 夕暮れが相談室を染めていた。

 窓の外。

 校舎の向こう。

 誰もいないはずの場所で。

 帽子を被った男が静かに立っている。

 その手には。

 同じ紙が握られていた。

『旭先生は正しいです』

 男は微笑む。

 優しく。

 愛おしそうに。

 まるで。

 大切な人を見守るように。

 そして。

 誰にも気付かれないまま。

 闇の中へ消えていった。




 高橋愛梨の葬儀から数日が過ぎた。

 学校は表面上、少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。

 けれど。

 どこかがおかしい。

 有紗はそんな感覚を拭えなかった。

 愛梨の死について考えてしまう。

 自殺。

 警察もそう判断している。

 先生たちもそう受け止めている。

 でも。

 昨日まで普通に笑っていた少女が突然死ぬ。

 その事実だけが、有紗の胸に引っかかっていた。

「旭先生」

 相談室の扉が開く。

 橘結衣だった。

「あ、橘さん」

 結衣は以前より少し顔色が良かった。

 それでもまだ本調子ではない。

「失礼します」

 椅子へ座る。

 以前ほど緊張はしていない。

 有紗は少し安心した。

「最近はどうですか?」

「……普通です」

「普通ですか」

「はい」

 結衣は少し考える。

「高橋さんがいなくなってから」

 言葉が止まる。

 有紗も急かさない。

「誰も何も言わなくなりました」

「……」

「だから」

 結衣は俯く。

「それが怖いんです」

 有紗は静かに聞く。

「私」

「はい」

「安心してるんです」

 声が震えていた。

「高橋さんがいなくなったから」

「……」

「学校が楽になったって思っちゃったんです」

 涙が滲む。

「最低ですよね」

「そんなことありません」

 有紗は即答した。

 結衣が顔を上げる。

「苦しかったんです」

「……」

「怖かったんです」

「……」

「なら、楽になったと思うのは自然なことです」

 結衣は泣きそうな顔をする。

「でも」

「それと」

 有紗は続ける。

「高橋さんが亡くなったことが悲しい気持ちは、別の話です」

 結衣は静かに涙を拭った。

 有紗は思う。

 生きている人の感情は、そんなに単純じゃない。

 嫌いだった人が亡くなったからといって、すべてが楽になるわけでもない。

 苦しいものは苦しい。

 悲しいものは悲しい。

 それでいい。

「橘さん」

「はい」

「少しずつで大丈夫です」

 結衣は小さく頷いた。

 面談が終わる頃には、外はすっかり夕方になっていた。

 結衣が帰る。

 有紗は机の上を片付ける。

 その時。

 ガタン。

 奥の倉庫から音がした。

「起きた」

 蓮が出てくる。

「寝てたんですか」

「二時間くらい」

「長いです」

「短いだろ」

「長いです」

 蓮は伸びをする。

 そして何気なく聞いた。

「橘は?」

「少し元気になりました」

「そっか」

 有紗はふと気になった。

「佐藤さん」

「ん?」

「高橋さんのこと、どう思いますか?」

 蓮は少し黙った。

 珍しい。

 いつもなら適当に答える。

「どうって?」

「自殺です」

「……」

「警察もそう言っています」

 蓮は窓の外を見る。

 夕日が差し込んでいる。

「分からない」

 そう言った。

「でも」

「?」

「変な感じはする」

 有紗の胸が少しだけざわつく。

「変?」

「上手く言えない」

 蓮は頭を掻いた。

「なんか」

「……」

「死ぬ前のやつって、もっと違う顔してる」

 有紗は黙る。

「高橋は」

「……」

「昨日まで普通にムカつくやつだった」

 有紗は思わず苦笑した。

「言い方」

「だってそうだろ」

 蓮は肩をすくめる。

「でも死ぬ顔じゃなかった」

 相談室が静かになる。

 その時だった。

 コンコン。

 扉が鳴る。

「どうぞ」

 有紗が答える。

 しかし。

 返事がない。

「……?」

 有紗は立ち上がる。

 扉を開けた。

 誰もいない。

 廊下も静かだった。

「誰でしょう」

「いたずらじゃね?」

 蓮が言う。

 有紗は首を傾げる。

 そして。

 足元に気付いた。

 白い封筒。

「……?」

 拾い上げる。

 宛名はない。

 差出人もない。

 有紗は封を開ける。

 中には紙が一枚。

 たった一文。

『旭先生は優しいですね』

 有紗は瞬きをする。

「また?」

「また?」

 蓮が近付いてくる。

「この前も似たようなものが」

 有紗は引き出しから最初のメモを出した。

 蓮が見る。

『旭先生は正しいです』

 そして今回。

『旭先生は優しいですね』

 蓮の顔から笑みが消える。

「有紗先生」

「はい」

「これ気持ち悪くない?」

 有紗は少し考える。

「応援してくれてるだけかもしれません」

「そうか?」

「たぶん」

 蓮は納得していなかった。

 字も違う。

 差出人もない。

 相談室に直接置かれている。

 普通ではない。

 でも。

 それをどう説明したらいいのか分からなかった。

「気を付けろよ」

「大丈夫です」

「有紗先生の大丈夫は信用ならん」

「失礼ですね」

 蓮は小さくため息を吐く。




 その夜。

 学校から離れた場所。

 街灯の下。

 一人の男が立っていた。

 帽子を深く被った男。

 手にはスマートフォン。

 画面には一枚の写真。

 相談室の窓際に立つ有紗。

 今日撮られたものだった。

 男は写真を指でなぞる。

 優しく。

 慈しむように。

「旭先生」

 声は静かだった。

 誰もいない夜道。

 男だけが微笑んでいる。

 その目は。

 愛情と呼ぶにはあまりにも歪んでいた。

 そして。

 男はスマートフォンを胸元へ抱き寄せる。

 まるで。

 宝物を抱くように。

 どこまでも優しく。




 翌週。

 白波学園には再び警察官の姿があった。

 もっとも。

 学校側は特別な事件として扱っているわけではない。

 自殺。

 その処理に必要な確認。

 それだけ。

 少なくとも表向きは。

 昼休み。

 有紗が相談室で資料を整理していると、扉がノックされた。

「どうぞ」

 入ってきたのは見覚えのない男性だった。

 三十代後半くらい。

 髪をオールバックにした、微かに煙草の匂いがした。

 無駄のないスーツ姿。

 落ち着いた目。

「失礼します」

 有紗は立ち上がる。

「どちら様でしょうか」

 男性は警察手帳を見せた。

「県警の明智 秀あけち ひでです」

「あ……」

 有紗は少し緊張した。

 愛梨の件だ。

「お時間よろしいですか」

「はい」

 明智は椅子へ腰掛ける。

 その時。

 相談室の奥。

 倉庫で寝ていた蓮が目を開けた。

 警察。

 しかもこの前来た若手じゃない。

 少し空気が違う。

 蓮は黙って聞き耳を立てた。

「高橋愛梨さんについて、少しお聞きしたくて」

 明智は穏やかな口調だった。

 責める感じはない。

「最後に面談されたそうですね」

「はい」

「どんな様子でしたか」

 有紗は考える。

「明るかったです」

「明るい」

「反省しているようには見えませんでした」

 明智が少しだけ眉を上げる。

「そうですか」

「はい」

「死にたいようにも?」

 有紗は首を振った。

「見えませんでした」

 明智はメモを取る。

 静かに。

「ありがとうございます」

 そして少し間を置いた。

「実は」

「?」

「少し気になる点がありまして」

 有紗は顔を上げる。

「気になる点?」

「事件性があるという話ではありません」

 明智は先にそう言った。

「ただ」

 少しだけ言葉を選ぶ。

「高橋さんのスマートフォンに、削除された履歴がありました」

「履歴?」

「メッセージです」

 有紗は黙る。

「亡くなる少し前に送られてきたものです」

「誰からですか?」

「それが分かりません」

 有紗は息を呑む。

「匿名アカウントです」

「内容は」

 明智は少し迷った。

 だが答える。

「脅迫とも取れます」

 相談室が静かになる。

 有紗の指先が少し冷えた。

「内容は公開できません」

「……はい」

「ただ、高橋さんが誰かと揉めていた可能性はあります」

 有紗は昨日までの愛梨を思い出した。

 強気で。

 生意気で。

 誰かに怯えるようには見えなかった。

 でも。

 見えなかっただけかもしれない。

「旭先生」

 明智が言う。

「何か思い当たることはありませんか」

 有紗はゆっくり首を振った。

「ありません」

 本当に。

 何も。

 面談した時間だけでは分からない。

 明智は立ち上がる。

「ありがとうございました」

「いえ」

「もし何か思い出したら連絡をください」

「分かりました」

 明智は有紗に名刺を渡して会釈をして出ていく。

 扉が閉まる。

 数秒後。

 倉庫から蓮が出てきた。

「聞いてたんですか」

「ちょっと」

「盗み聞きです」

「仕事」

「絶対違います」

 蓮は椅子へ座る。

 珍しく真面目な顔だった。

「脅迫ね」

「気になりますか?」

「そりゃな」

 有紗も同じだった。

 愛梨の死。

 脅迫メッセージ。

 匿名アカウント。

 何かが繋がりそうで。

 でも繋がらない。

「佐藤さん」

「ん」

「自殺じゃないと思いますか」

 蓮は少し考えた。

「分かんない」

「……」

「でも」

 窓の外を見る。

「嫌な感じがする」

 有紗は苦笑した。

「そればっかりですね」

「だってそうなんだよ」

 蓮は肩をすくめる。

「説明できないけど」

「勘ですか」

「たぶん」

 有紗は机を見る。

 引き出し。

 中には二枚の紙。

『旭先生は正しいです』

『旭先生は優しいですね』

 誰が書いたのか分からない。

 悪意は感じない。

 でも。

 どこか落ち着かない。

「……」

 その時だった。

 スマートフォンが震える。

 有紗のものではない。

 蓮でもない。

 相談室の専用の携帯電話だった。

 有紗が電話を取る。

「はい、カウンセリングルームです」

 返事はない。

「もしもし?」

 無音。

 雑音もない。

 呼吸音もない。

 ただ。

 沈黙だけ。

「もしもし?」

 数秒。

 十秒。

 二十秒。

 そして。

 ぷつり。

 切れた。

 有紗は携帯を耳から離す。

「間違い電話でしょうか」

 蓮は何も言わなかった。

 嫌な顔をしている。

「佐藤さん?」

「有紗先生」

「はい」

「その電話」

「?」

「たぶん違う」

 有紗は首を傾げる。

「何がですか」

「間違い電話じゃない」

 蓮は短く言った。

「誰か確認したかったんだと思う」

「なにをですか?」

「たぶん、…有紗先生がいるかどうかを」

 有紗は笑う。

「なんですか?それ…」

 蓮は笑わなかった。

 窓の外を見る。

 校門。

 中庭。

 廊下。

 どこにも異常はない。

 それでも。

 胸の奥がざわつく。




 同じ頃。

 学校から離れた古いアパートの一室。

 薄暗い部屋。

 カーテンは閉じられている。

 壁には写真。

 何十枚も。

 何百枚も。

 同じ女性の写真。

 笑っている。

 歩いている。

 相談室にいる。

 窓際に立っている。

 全部。

 旭有紗だった。

 帽子の男は静かに電話を置く。

 先ほど相談室へ掛けた電話。

 声は出さなかった。

 必要なかった。

 ただ確認したかった。

 旭先生がそこにいるか。

 元気にしているか。

 それだけ。

 男は写真に触れる。

「旭先生」

 優しく微笑む。

「今日も頑張っていましたね」

 その声は穏やかだった。

 慈愛すら感じる。

 だからこそ。

 異常だった。




 六月に入った頃。

 白波学園は少しずつ日常を取り戻していた。

 高橋愛梨の死は今でも話題になる。

 けれど高校生というのは残酷なくらい前を向く。

 授業があり。

 部活があり。

 テストがあり。

 恋愛があり。

 時間は止まらない。

 有紗はそれでいいと思った。

 止まったままでは生きていけない。

 だから。

 前を向くしかない。

 放課後。

 相談室の窓から夕日が差し込んでいた。

「失礼します」

 橘結衣が入ってくる。

 以前より表情が明るい。

 それだけで有紗は少し安心した。

「こんにちは、橘さん」

「こんにちは」

 結衣は席に座る。

 最初の頃のような緊張はない。

 自然に話せるようになっていた。

「最近はどうですか?」

「少し楽です」

「そうですか」

 有紗は微笑む。

「友達とも話せるようになりました」

「よかったです」

「まだ怖い時もありますけど」

 結衣は少し考える。

「でも前より大丈夫です」

 有紗は胸を撫で下ろした。

 もちろん全部解決したわけではない。

 傷は残る。

 簡単には消えない。

 それでも。

 前へ進んでいる。

 それが何より大切だった。

「旭先生」

 結衣が言う。

「はい」

「ありがとうございました」

 有紗は目を瞬かせた。

「私、あの日」

「……」

「相談室に来てよかったです」

 有紗は少しだけ言葉に詰まった。

 こういう瞬間がある。

 だから辞められない。

 誰かの人生を劇的に変えることはできない。

 でも。

 少しだけ支えることはできる。

「こちらこそ」

 有紗は微笑む。

「来てくれてありがとうございました」

 結衣も少し笑った。

 その笑顔を見て。

 有紗はようやく思う。

 ここに来てよかった。

 スクールカウンセラーになってよかった。

 面談が終わり。

 結衣が帰る。

 扉が閉まる。

 静寂。

 そして。

 がたん。

「終わった?」

 倉庫から蓮が出てきた。

「聞いてました?」

「聞いてない」

「本当ですか」

「たぶん」

「怪しいですね」

 蓮は笑う。

 そして。

 珍しく真面目な顔をした。

「元気そうだったな」

「はい」

「よかったじゃん」

 有紗は頷く。

「そうですね」

 しばらく沈黙。

 窓の外では運動部の声が聞こえる。

 平和な放課後だった。

 だからこそ。

 有紗はぽつりと漏らした。

「私」

「ん?」

「少し考えていたんです」

 蓮は黙って聞く。

「カウンセラーを続けていていいのかなって」

 蓮の表情が変わる。

 有紗は続ける。

「高橋さんのことがあって」

「……」

「私が関わらなければ違ったんじゃないかとか」

「有紗先生」

 蓮が遮った。

 珍しく。

 少し強めに。

 有紗は顔を上げる。

「それ」

「……」

「有紗先生のせいじゃない」

 有紗は黙る。

 蓮は続ける。

「高橋が死んだのも」

「……」

「橘が苦しんでたのも」

「……」

「有紗先生のせいじゃない」

 相談室が静かになる。

 有紗は視線を落とした。

 涙がこぼれそうになりながらもぐっと堪える。

 少しだけ救われた。

「ありがとうございます」

 小さな声だった。

 蓮は肩をすくめる。

「礼を言われることじゃない」

「でも」

「事実だから」

 有紗は笑った。

 ほんの少しだけ。

 それを見た蓮も少しだけ安心した。

「さて」

 蓮が立ち上がる。

「帰るか」

「仕事してください」

「終わった」

「本当ですか?」

「たぶん」

「絶対終わってません」

 蓮は笑いながら相談室を出ていく。

 有紗は呆れながらその背中を見送った。

 そして。

 窓の外へ目を向ける。

 夕日が校庭を赤く染めていた。

 生徒たちの笑い声。

 部活動の掛け声。

 平和な風景。

 守りたいと思った。

 この場所を。

 ここへ来る生徒たちを。

 その時だった。

 ふと。

 校門の向こう。

 人影が見えた。

 黒い帽子。

 黒い服。

 遠くて顔は見えない。

「……?」

 有紗は目を細める。

 誰か保護者だろうか。

 しかし。

 次の瞬間。

 人影は動いた。

 校門の陰へ。

 そして消える。

「気のせい……?」

 有紗は首を傾げた。

 不思議だった。

 ほんの一瞬。

 見られていた気がした。

 けれど。

 すぐに忘れる。

 気のせいだと思った。

 この時の有紗はまだ知らない。

 その男が。

 ずっと前から自分を見ていたことを。

 愛梨の死にも。

 相談室へ届いた手紙にも。

 無言電話にも。

 関わっていたことを。

 そして。

 自分のすぐ近くまで来ていることを。

 知らなかった。

 ただ一人。

 校門の外に立つ男だけが微笑んでいた。

 夕日に照らされながら。

 静かに。

 穏やかに。

 愛おしそうに。

「旭先生」

 誰にも聞こえない声。

 男は帽子のつばに触れる。

 そして。

 ゆっくりと歩き出した。

 闇の中へ。

 まるで。

 次の物語を迎えに行くように。



第一章 視線 終

↓続き


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