小説 【君を救ったその日から】 第二章 前半
第二章 距離 前半
高橋愛梨の死から、一か月が過ぎた。
六月の終わり。
校舎には蒸し暑い空気が漂っていた。
窓の外では蝉が鳴いている。
夏が近かった。
白波学園は日常を取り戻していた。
少なくとも表面上は。
授業があり。
部活動があり。
テストがあり。
生徒たちは笑う。
教師たちは忙しそうに歩く。
何事もなかったかのように。
時間は進んでいた。
けれど。
有紗だけは時々思い出す。
高橋愛梨のことを。
相談室の椅子。
生意気な笑顔。
最後の面談。
そして突然の死。
「有紗先生」
ガタン。
倉庫から声がした。
有紗は顔を上げる。
「起きてください」
「起きてる」
「寝癖がついてます」
「起きてる証拠」
蓮が欠伸をしながら出てくる。
今日も今日とてサボっていた。
最近では相談室の備品みたいな扱いになっている。
「佐藤さん」
「ん」
「一応仕事はしているんですよね?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
「してるしてる」
蓮は適当に答える。
有紗は呆れてため息を吐いた。
その時だった。
コンコン。
相談室の扉が鳴る。
「どうぞ」
有紗が答える。
ゆっくりと扉が開いた。
入ってきたのは女子生徒だった。
肩まで伸びた髪。
整った顔立ち。
制服の着こなしも綺麗。
どちらかと言えば目立つタイプだろう。
しかし。
表情は硬かった。
「あの……」
「どうぞ、座ってください」
少女は小さく頷く。
椅子へ腰掛ける。
有紗は微笑んだ。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「二年三組の」
少女は少し躊躇う。
「天海 玲奈です」
「天海さんですね」
玲奈は頷いた。
けれど。
その手は強く握られていた。
緊張している。
いや。
怯えている。
そんな風にも見えた。
「今日はどうされましたか?」
有紗はゆっくり聞く。
玲奈はしばらく黙った。
そして。
「誰かに見られてる気がするんです」
相談室の空気が少し変わった。
倉庫の奥。
蓮が目を開く。
玲奈は続ける。
「最初は気のせいだと思ってました」
「はい」
「でも」
声が震える。
「帰り道にいるんです」
「……」
「駅にも」
「……」
「コンビニにも」
有紗は静かに聞く。
「同じ人ですか?」
「たぶん」
「顔は分かりますか?」
玲奈は小さく頷いた。
「同じクラスの男子です」
有紗はペンを握る。
「お名前を聞いてもいいですか?」
玲奈は答えた。
「山本 幸也です」
その名前を。
倉庫の奥で聞いた蓮が。
小さく眉をひそめた。
知っている名前だった。
決して目立つ生徒ではない。
むしろ逆。
いつも一人でいる。
大人しい。
存在感が薄い。
でも。
だからこそ覚えていた。
時々。
妙に人を見ていることがあったから。
蓮は天井を見上げる。
「……嫌な予感」
小さく呟く。
もちろん。
誰にも聞こえなかった。
天海玲奈はしばらく黙っていた。
言うべきか迷っているようだった。
有紗は急かさない。
玲奈が自分のペースで話せるように待つ。
「山本くんは」
玲奈がぽつりと言う。
「最初は普通だったんです」
「はい」
「同じクラスで」
「……」
「話したこともありました」
有紗はメモを取る。
「仲が良かったんですか?」
「そこまでじゃないです」
玲奈は首を振る。
「でも普通に話せるくらい」
それが変わったのは春頃だった。
玲奈はそう話した。
最初は偶然だった。
帰り道で会う。
駅で会う。
コンビニで会う。
何度も。
でも。
回数が増えていく。
偶然では説明できないほどに。
「ある日」
玲奈の声が小さくなる。
「私しか知らないことを言われたんです」
有紗の手が止まる。
「私しか知らないこと?」
「好きなお店とか」
「……」
「最近買ったものとか」
「……」
「友達にも話してないことです」
相談室が静かになる。
有紗は優しく聞いた。
「怖かったですね」
玲奈は小さく頷いた。
そして。
その一言だけで。
少し涙ぐんだ。
有紗は薄い黄色のハンカチを差し出す。
「ありがとうございます」
「無理に強くならなくて大丈夫ですよ」
玲奈は唇を噛んだ。
「私」
「はい」
「誰にも言えなくて」
有紗は静かに聞く。
「気持ち悪いって思われそうで」
「そんなことありません」
即答だった。
「怖いと思うのは当然です」
玲奈の肩から少し力が抜ける。
有紗は続ける。
「担任の先生ともお話しましょう」
「……はい」
「一人で抱えなくて大丈夫です」
玲奈は何度も頷いた。
その頃。
倉庫の奥では。
蓮がぼんやり天井を見ていた。
「山本か」
小さく呟く。
知っている。
何度か見たことがある。
大人しい。
目立たない。
でも。
人を見る目だけは妙に強かった。
その日の放課後。
有紗は二年三組の担任を訪ねた。
「増田先生」
「あ、旭先生」
増田 明子はすぐに立ち上がった。
二十九歳。
真面目そうな女性教師。
机の上も綺麗に整理されている。
一年の担任の松田先生とは正反対だった。
「天海さんの件ですね」
話が早かった。
有紗は少し安心する。
「ご存じでしたか」
「薄々は」
増田はため息を吐いた。
「天海さんが最近怯えている様子だったので」
「山本さんについては?」
増田は少し考える。
「悪い子ではありません」
そう言った。
「ただ」
「……」
「孤立している部分はあります」
有紗は頷く。
「友達は?」
「ほとんどいません」
「……」
「一人でいることが多いです」
有紗はメモを取る。
増田は続けた。
「以前から天海さんを見ていることはありました」
「見ている?」
「授業中も」
「……」
「休み時間も」
増田の表情は曇っていた。
「私も気になっていました」
有紗は小さく息を吐く。
やはり。
玲奈の勘違いではない。
「山本さんとお話ししたいと思います」
「お願いします」
増田は真剣だった。
「天海さんを守りたいんです」
有紗は微笑む。
「私もです」
放課後。
校舎は少しずつ静かになっていく。
有紗は相談室へ戻る途中。
中庭の横を通った。
そして。
足を止める。
ベンチに男子生徒が座っていた。
一人。
本を読んでいる。
細身で、どこか影が薄い。
有紗は知らない。
けれど。
直感的に分かった。
あの子だ。
山本幸也。
すると。
幸也が顔を上げる。
その視線が。
一瞬だけ校舎へ向く。
その先には。
グラウンドを歩く玲奈がいた。
幸也の目が動く。
玲奈を追う。
ただそれだけ。
でも。
有紗は違和感を覚えた。
好きな人を見る目とも違う。
もっと。
執着に近い何か。
そんな気がした。
「……」
幸也は玲奈が見えなくなるまで見続けていた。
そして。
ふと。
有紗の存在に気付く。
目が合う。
一瞬だけ。
幸也は慌てたように目を逸らした。
まるで。
見てはいけないものを見られたみたいに。
有紗は小さく息を吐く。
「山本さん」
明日。
話を聞こう。
そう思った。
この時はまだ。
有紗も。
蓮も。
山本幸也本人ですら。
知らなかった。
その面談が。
彼の人生を大きく変えてしまうことを。
翌日。
放課後。
相談室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
低い声だった。
有紗は顔を上げる。
「山本さんですね」
男子生徒は小さく頷いた。
山本幸也。
二年三組。
玲奈の相談内容に出てきた名前。
実際に会うと、思った以上に大人しそうだった。
細身で背は平均くらい。
前髪が少し長い。
どこにでもいる男子生徒。
そんな印象だった。
「どうぞ、座ってください」
幸也は椅子へ腰掛ける。
視線は下。
緊張しているようだった。
有紗は微笑む。
「今日はお時間ありがとうございます」
「……」
「担任の増田先生から事情を聞いています」
幸也の肩が少しだけ強張る。
「天海さんの件です」
「……はい」
初めて返事が返ってきた。
小さい声だった。
「山本さんからお話を聞きたいんです」
有紗は言う。
「責めたいわけではありません」
「……」
「なので安心してください」
幸也はしばらく黙っていた。
やがて。
「俺」
ぽつりと言った。
「気持ち悪いですよね」
有紗は瞬きをする。
予想外の言葉だった。
「どうしてそう思うんですか?」
幸也は苦笑した。
「だって」
「……」
「天海のこと見てたし」
「……」
「帰り道も」
「……」
「知りたかったから」
有紗は静かに聞く。
「好きだったんですね」
幸也は驚いたように顔を上げた。
怒られると思っていたのかもしれない。
責められると思っていたのかもしれない。
でも。
有紗の声は優しかった。
「……はい」
幸也は頷く。
「好きでした」
初めて本音を言った。
有紗は続ける。
「今も?」
幸也は少し考える。
「分かりません」
「分からない?」
「好きだったと思います」
その言い方に。
有紗は少し引っかかった。
過去形。
「どうして好きだったんですか?」
幸也は困ったように笑う。
「可愛かったから」
「……」
「優しかったし」
「……」
「笑ってるの見るの好きだった」
それは普通の恋だった。
少なくとも最初は。
「でも」
幸也の声が小さくなる。
「話しかけられなくて」
「……」
「どうしていいか分からなくて」
「……」
「見てるだけになった」
有紗はゆっくり頷いた。
理解できる。
もちろん行動は間違っている。
でも。
気持ち自体は理解できた。
「寂しかったんですね」
幸也が固まる。
まるで。
そんなことを言われたことがないみたいに。
「……」
「違いますか?」
幸也は首を振る。
「違わないです」
声が少し震えていた。
有紗は責めない。
否定しない。
ただ聞いてくれる。
幸也の胸が苦しくなる。
「山本さん」
有紗が言う。
「好きな人がいることは悪いことじゃありません」
幸也は顔を上げる。
「でも」
「……」
「相手が怖いと思ったら止まらなきゃいけません」
優しい声だった。
責める声ではない。
「好きな人を傷つけたくないですよね」
幸也は何も言えなかった。
有紗は続ける。
「天海さんは怖かったと思います」
「……はい」
「だから距離を置きましょう」
「……」
「時間がかかってもいいです」
幸也は拳を握る。
泣きそうだった。
何でだろう。
怒られているわけじゃない。
でも。
胸が苦しい。
「俺」
幸也が言う。
「どうしたらいいですか」
有紗は微笑んだ。
「まずは自分の生活を大事にしてください」
「……」
「勉強でも」
「……」
「部活でも」
「……」
「趣味でも」
そして。
「山本さん自身を大切にしてください」
相談室が静かになる。
幸也は俯いた。
目頭が熱い。
どうしてだろう。
こんな風に言われたのは初めてだった。
誰かに。
自分を大切にしろと言われたのは。
初めてだった。
その頃。
倉庫の奥。
蓮は天井を見上げていた。
「……」
話は聞こえている。
聞くつもりはなかった。
でも聞こえてしまう。
そして。
何となく嫌な予感がした。
理由は分からない。
ただ。
幸也が相談室へ入ってきた時と。
今とで。
目が違う。
そんな気がした。
面談が終わる。
幸也は立ち上がった。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
有紗は微笑む。
「また困ったら来てください」
幸也は頷く。
そして。
扉へ向かう。
その途中。
ふと振り返った。
夕日が差し込んでいる。
相談室の中。
有紗は窓際に立っていた。
柔らかな光に照らされている。
長い綺麗な黒髪が揺れる。
優しく微笑んでいる。

その姿を見た瞬間。
幸也の胸がどくりと鳴った。
玲奈を見ていた時とは違う。
もっと静かで。
もっと深い何か。
言葉にならない感情。
幸也は慌てて目を逸らした。
「失礼します」
扉が閉まる。
相談室に静寂が戻る。
数秒後。
倉庫から蓮が出てきた。
「有紗先生」
「はい?」
蓮は扉を見る。
幸也が出ていった方向。
「気を付けろよ」
有紗は首を傾げた。
「何をですか?」
「……」
蓮は少し考える。
説明できない。
でも。
何かがおかしい。
「いや」
結局そう言った。
「勘」
「またですか」
「また」
有紗は苦笑した。
でも。
蓮は笑わなかった。
その視線だけが。
閉じた扉を見つめていた。
それから数日後。
有紗は少しだけ安心していた。
天海玲奈の表情が明るくなっていたからだ。
増田明子とも連携し、クラス内の様子も見てもらっている。
幸也とも面談した。
本人も反省しているようだった。
時間はかかるだろう。
でも。
少しずつ良くなっていく。
有紗はそう思っていた。
――だから気付かなかった。
変わり始めているのは玲奈だけではなかったことに。
昼休み。
相談室の窓から中庭が見える。
有紗は書類を整理していた。
すると。
コンコン。
扉が鳴る。
「どうぞ」
扉が開く。
「あ」
幸也だった。
「山本さん」
幸也は少し気まずそうに笑った。
「すみません」
「どうしましたか?」
「この前のお礼を」
そう言って小さな紙袋を差し出した。
有紗は目を丸くする。
「え?」
「お菓子です」
「いえ、受け取れません」
即答だった。
幸也が固まる。
「あ……」
「お気持ちは嬉しいです」
有紗は優しく微笑む。
「でも先生は生徒さんから物をもらえないんです」
「そうなんですか」
「はい」
幸也は少し落ち込んだようだった。
有紗は慌てて付け加える。
「気持ちはちゃんと伝わりました」
「……」
「ありがとうございます」
その言葉だけで。
幸也は少し救われた気がした。
「じゃあ」
「はい」
「失礼します」
扉が閉まる。
静寂。
そして。
倉庫の奥から。
「気を付けろよ」
蓮が出てきた。
「何がですか?」
「山本」
有紗は首を傾げる。
「お礼を言いに来ただけですよ」
「そうか?」
「そうです」
蓮は納得していない顔だった。
でも説明できない。
だから黙った。
翌日。
また幸也が来た。
「失礼します」
「山本さん」
今度は相談ではない。
ただ話をしに来た。
授業の話。
進路の話。
趣味の話。
普通の会話。
有紗は自然に応じた。
相談室はそういう場所でもある。
話したい時に来ていい。
それが有紗の考えだった。
けれど。
蓮は倉庫の奥で眉をひそめる。
二日連続。
しかも相談ではない。
ただ会いに来ている。
そんな気がした。
数日後。
放課後。
有紗は校舎の廊下を歩いていた。
その時。
「旭先生」
声がした。
振り返る。
幸也だった。
「あら」
「こんにちは」
「こんにちは」
幸也は嬉しそうだった。
少し話す。
たったそれだけ。
でも。
幸也は満足そうに去っていく。
有紗は特に気にしなかった。
相談室へ戻る。
扉を開く。
すると。
蓮が腕を組んでいた。
「有紗先生」
「はい?」
「気付いてない?」
「何をですか?」
蓮はため息を吐く。
「いや」
言いかけてやめる。
有紗は本当に分かっていない。
その顔を見れば分かる。
「何でしょう?」
「……何でもない」
蓮は椅子へ座る。
有紗は首を傾げた。
意味が分からない。
蓮は窓の外を見る。
そして思う。
面倒だな。
あいつ。
完全に有紗先生見てるじゃん。
その夜。
幸也は自室にいた。
机の上には参考書。
開いている。
でも読んでいない。
頭の中は別のことでいっぱいだった。
旭有紗。
相談室の先生。
優しい人。
怒らなかった人。
話を聞いてくれた人。
自分を否定しなかった人。
「……」
玲奈のことを考えようとする。
でも。
思い浮かぶのは有紗だった。
玲奈の笑顔ではない。
有紗の笑顔。
玲奈の声ではない。
有紗の声。
幸也は目を閉じる。
胸が苦しい。
でも嫌じゃない。
むしろ。
心地良かった。
そして。
部屋の窓の外。
向かいの建物の屋上。
一人の男が立っていた。
帽子を被った男。
幸也の部屋を見ている。
幸也本人は気付いていない。
男は静かに微笑んだ。
「なるほど」
小さく呟く。
「君もですか」
穏やかな声。
優しい声。
だが。
目だけは冷たかった。
「旭先生に近付きたいんですね」
帽子の男は知ってしまった。
幸也の視線の先を。
相談室へ通う理由を。
その変化を。
そして。
帽子の男にとって。
それは見過ごせないことだった。
男は帽子のつばに触れる。
夜風が吹く。
口元だけが笑う。
まるで。
邪魔なものを見つけたように。
静かに。
第二章 距離 前半 終
↓続き
