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小説 【君を救ったその日から】 第二章 後半


第二章 距離 後半


 七月に入った。

 夏休みまであと少し。

 生徒たちは浮き足立ち始めている。

 そんな中。

 相談室だけはいつも通りだった。

「有紗先生」

 がたん。

 倉庫から蓮が出てくる。

「起きてください」

「起きてる」

「今寝息聞こえました」

「気のせい」

「気のせいじゃありません」

 蓮は欠伸をする。

 そして。

 ふと窓の外を見る。

 中庭。

 ベンチ。

 そこに幸也がいた。

 一人で座っている。

 そして。

 視線の先は相談室だった。

「……」

 蓮は目を細める。

 偶然じゃない。

 最近ずっとだ。

 昼休み。

 放課後。

 相談室の近く。

 理由をつけて来る。

 話しかける。

 そして帰る。

 蓮は大きくため息を吐いた。

「有紗先生」

「はい?」

「山本」

「山本さん?」

「来すぎ」

 有紗は首を傾げる。

「そうですか?」

「そう」

「相談室ですから」

「相談してない」

「雑談も大事ですよ」

 有紗は微笑む。

 蓮は頭を抱えた。

 この人は本当に気付かない。

 いや。

 恋愛に関してだけ異常に鈍い。

「有紗先生」

「はい」

「もし」

「?」

「男が毎日会いに来て」

「はい」

「毎日話しかけてきて」

「はい」

「ずっと見てきたら?」

 有紗は少し考える。

「友達になりたいんですかね?」

 蓮は机に突っ伏した。

「終わってる」

「何がですか」

「何でもない」

 有紗は本気で分かっていない。

 蓮は深くため息をついた。




 その日の放課後。

 幸也がまた相談室へ来た。

「失礼します」

「こんにちは」

 有紗が微笑む。

 それだけで幸也の胸が温かくなる。

「どうしましたか?」

「別に」

 幸也は少し照れた。

「話したくて」

「そうですか」

 有紗は自然に椅子を勧める。

 優しい。

 今日も。

 いつも通り。

「天海さんとはどうですか?」

 有紗が聞く。

 幸也は少し考えた。

「話してません」

「そうですか」

「でも」

 少し笑う。

「それでいいと思います」

 有紗は安心した。

 少しずつ前に進んでいる。

 そう思った。

 けれど。

 幸也の頭の中にいるのは玲奈ではない。

 有紗だった。

「旭先生」

「はい」

「旭先生って何でカウンセラーになったんですか?」

 有紗は少し驚いた。

「珍しい質問ですね」

「気になったから」

 有紗は少し考える。

「困っている人の力になりたかったんです」

 幸也は見つめる。

 真っ直ぐ。

「旭先生らしい」

 有紗は照れたように笑う。

「そんな立派なものじゃありませんよ」

 その笑顔を見た瞬間。

 幸也の胸が痛くなる。

 玲奈を好きだった時とは違う。

 もっと苦しい。

 もっと離れがたい。

 もっと。

 近付きたい。

 そんな感情。




 その夜。

 蓮は校内の見回りをしていた。

 本当はもう終わっている。

 でも何となく。

 相談室の近くを通る。

 すると。

 人影が見えた。

「……」

 幸也だった。

 校舎はもうほぼ無人。

 なのに。

 相談室の前に立っている。

 電気は消えている。

 有紗も帰った。

 それなのに。

 幸也は扉を見ていた。

 ただじっと。

「おい」

 蓮が声を掛ける。

 幸也が飛び上がる。

「さ、佐藤さん」

「何してんの」

「別に」

「別にじゃないだろ」

 幸也は視線を逸らす。

 分かりやすかった。

 蓮は確信する。

 やっぱりだ。

「帰れ」

「……」

「有紗先生いないぞ」

 幸也の肩がぴくりと動いた。

 その反応だけで十分だった。

 蓮はため息を吐く。

「帰れ」

 今度は少し強く言う。

 幸也は小さく頷いた。

 そして去っていく。

 蓮はその背中を見る。

「面倒だな」

 小さく呟く。

 嫌な予感がした。

 高橋の時に感じたものと同じ。

 説明できない。

 でも。

 胸の奥がざわつく。




 その頃。

 学校から少し離れた場所。

 暗い路地。

 帽子の男が立っていた。

 その手には写真。

 幸也の写真だった。

 相談室へ向かう姿。

 有紗を見る姿。

 校舎の前に立つ姿。

 何枚も。

 何枚も。

 帽子の男は静かに見つめる。

「困ります」

 穏やかな声。

 優しい声。

 まるで教師が生徒を諭すような。

「旭先生を困らせてはいけません」

 写真を撫でる。

 その目だけが冷たい。

「旭先生は優しいから」

 帽子の男は微笑む。

「拒絶できないんですよ」

 夜風が吹く。

 帽子のつばが揺れる。

 そして。

 写真を折り畳んだ。

 ゆっくり。

 丁寧に。

 まるで。

 何かを決意するように。

 静かに。




 夏休みまであと一週間。

 白波学園は期末試験の空気に包まれていた。

 生徒たちは参考書を広げ。

 先生たちは採点に追われる。

 相談室も比較的静かだった。

 その日の放課後。

 有紗は一人で書類整理をしていた。

 珍しく蓮の姿がない。

 どこかで本当に仕事をしているらしい。

「……珍しいですね」

 思わず呟いてしまう。

 すると。

 コンコン。

 扉が鳴った。

「どうぞ」

 扉が開く。

 幸也だった。

「あ」

 有紗は微笑む。

「山本さん」

「こんにちは」

 幸也も少し笑った。

 けれど。

 どこか様子が違う。

 緊張している。

 そんな感じだった。

「どうしましたか?」

「ちょっと」

 幸也は椅子へ座る。

 そして。

 なかなか話し始めない。

「山本さん?」

「あ…あ、有紗先生」

 ようやく口を開く。

「好きな人っていますか」

 有紗は目を瞬かせた。

「え?」

 あまりにも突然だった。

 幸也も自分で聞いてしまってから後悔したようだった。

「あ、いや」

「好きな人ですか」

 有紗は少し考える。

「いませんね」

 即答だった。

 幸也の胸がどくりと鳴る。

「そうなんですか」

「はい」

「彼氏とか」

「いません」

「へえ」

 幸也は俯いた。

 嬉しい。

 でも。

 嬉しくていいのか分からない。

 自分は生徒で。

 有紗は先生だ。

 そんなことは分かっている。

 それでも。

 知りたかった。

「山本さんは?」

 有紗が聞く。

「好きな人」

 幸也の心臓が跳ねる。

 目の前にいる。

 今見ている。

 その人だ。

 でも言えるわけがない。

「……います」

「そうなんですね」

 有紗は自然に微笑む。

「素敵じゃないですか」

 幸也は苦笑した。

「そうですかね」

「はい」

「叶わないと思います」

 有紗は少し考える。

「そうかもしれません」

 幸也は顔を上げる。

 否定されなかった。

「でも」

 有紗は続ける。

「好きになること自体は悪いことじゃないですよ」

 優しい声だった。

 いつも通り。

 幸也は思う。

 この人は。

 どうしてこんなに優しいんだろう。

 どうして。

 誰にでも優しくできるんだろう。

 自分なんかにも。




 その日の帰り。

 幸也は一人で歩いていた。

 夕焼け。

 風はぬるい。

 夏が近い。

 頭の中は有紗でいっぱいだった。

 玲奈のことを考えようとしても。

 もう思い浮かばない。

 気付いてしまった。

 完全に。

 自分が好きなのは。

 旭有紗だ。

「……はは」

 笑ってしまう。

 どうしようもない。

 先生だ。

 年上だ。

 絶対に叶わない。

 でも。

 好きだった。

 どうしようもなく。




 一方その頃。

 相談室。

 蓮が戻ってきていた。

「仕事終わった」

「お疲れ様です」

 有紗が答える。

「山本来てた?」

「はい」

 蓮は椅子へ座る。

「何の話」

「好きな人の話です」

 蓮が固まる。

「……は?」

「恋愛相談ですね」

「有紗先生」

「はい?」

「それ」

「?」

「誰の話だと思う」

 有紗は少し考える。

「好きな女の子がいるんじゃないですか?」

 蓮は天井を見上げた。

 本気だ。

 本気で分かっていない。

「終わってる」

「何がですか」

「何でもない」

 蓮は頭を抱える。

 もう確信していた。

 幸也は有紗を好きになっている。

 間違いない。

 ただ。

 有紗だけが気付いていない。




 夜。

 幸也は自室にいた。

 机の上にはノート。

 ペン。

 そして。

 一枚の紙。

 何度も書いて。

 何度も消した文字。

『有紗先生へ』

 幸也はペンを握る。

 告白するつもりではない。

 そんな勇気はない。

 でも。

 気持ちを書きたかった。

 伝えたいわけじゃない。

 ただ。

 自分の気持ちを整理したかった。

 その時だった。

 スマートフォンが震える。

 知らない番号。

「……?」

 幸也は出る。

「もしもし」

 返事はない。

 無言。

「もしもし?」

 数秒。

 沈黙。

 そして。

 ぷつり。

 切れた。

「何だよ」

 気味が悪い。

 だが。

 それだけだった。

 幸也は知らない。

 その電話の向こうにいた人物を。

 そして。

 自分の残り時間が。

 もうほとんど残されていないことを。




 暗い部屋。

 壁一面の写真。

 その中心に有紗。

 そして机の上には。

 幸也の写真。

 帽子の男は静かにスマートフォンを置く。

 目を閉じる。

 深く息を吐く。

「旭先生」

 穏やかな声。

「大丈夫です」

 まるで安心させるように。

「私が守りますから」

 誰もいない部屋。

 静寂。

 そして。

 帽子の男はゆっくり立ち上がった。

 その目には。

 もう迷いはなかった。




 翌朝。

 白波学園は騒然としていた。

 高橋愛梨の時と同じ。

 嫌なざわめき。

 ひそひそ声。

 落ち着かない空気。

 有紗は職員室へ入った瞬間に嫌な予感がした。

「……?」

 先生たちの顔色が悪い。

 増田明子は特に酷かった。

 机に座ったまま俯いている。

「増田先生?」

 有紗が声を掛ける。

 増田が顔を上げた。

 目が赤い。

 泣いたのだろう。

 有紗の胸がざわつく。

「旭先生」

 震える声。

「山本くんが……」

 その瞬間。

 有紗の心臓が嫌な音を立てた。

「え……?」

「亡くなりました」

 世界が静かになる。

 また。

 まただった。

「そんな……」

 有紗は言葉を失う。

 昨日。

 昨日まで話していた。

 相談室で。

 笑っていた。

 好きな人の話をしていた。

 それなのに。

「警察は自殺と……」

 増田の声が遠い。

 有紗は立っていられなくなった。

 椅子へ腰を下ろす。

 頭が真っ白だった。




 昼休み。

 相談室。

 有紗は一人だった。

 窓の外を見る。

 何も考えられない。

 幸也の顔が浮かぶ。

『好きな人いますか』

 昨日の会話。

 あの時。

 死ぬつもりの人間に見えただろうか。

 見えなかった。

 どうしても。

 見えなかった。

「……」

 扉が開く。

 蓮だった。

 珍しく笑っていない。

「有紗先生」

「……」

「大丈夫か」

 有紗は小さく首を振る。

「分かりません」

 本音だった。

「またです」

 声が震える。

「高橋さんの時も」

「……」

「今回も」

「……」

「私、何も気付けませんでした」

 蓮は黙って聞いていた。

 有紗は続ける。

「相談を受けて」

「……」

「話を聞いて」

「……」

「それなのに」

 そこで言葉が詰まる。

 蓮はため息を吐いた。

 そして。

「有紗先生」

「……」

「違う」

 有紗は顔を上げる。

「何がですか」

「有紗先生のせいじゃない」

 また同じ言葉だった。

 でも。

 今度は少し違う。

 蓮の顔は真剣だった。

「俺」

「……」

「自殺じゃない気がする」

 有紗が固まる。

「え?」

「高橋も」

「……」

「山本も」

 相談室が静かになる。

 有紗は理解できなかった。

「でも警察は」

「分かってる」

 蓮は窓の外を見る。

「証拠ないし」

「……」

「勘だし」

「……」

「でも」

 ゆっくり言った。

「変だ」

 その言葉に。

 有紗の胸がざわつく。

 なぜだろう。

 否定できなかった。

 自分も。

 どこかでそう思っていたから。




 放課後。

 明智秀が再び学校へ来ていた。

 今回は前回より空気が重い。

 有紗は相談室で話を聞く。

「山本幸也さんですが」

 明智は手帳を開く。

「遺書らしきものがありました」

「らしき?」

 有紗が聞く。

「筆跡は本人です」

「……」

「ですが少し不自然です」

 明智は言葉を選ぶ。

「不自然?」

「内容です」

 有紗は黙る。

「好きな人に迷惑を掛けたくない」

 明智は読む。

「だから消えます」

 有紗の指先が冷たくなる。

 好きな人。

 昨日の話が脳裏をよぎる。

「……」

「ただ」

 明智は続ける。

「それ以外が妙なんです」

「妙?」

「誰に迷惑を掛けたのか書いていない」

「……」

「何に悩んでいたのかも」

 有紗は静かに聞いていた。

「一般的な遺書にしては内容が薄い」

 明智はそう言った。

 だが。

 それだけ。

 事件にするには弱い。

「現時点では自殺です」

 結局そこへ戻る。

 有紗は小さく頷いた。




 その夜。

 学校から離れた河川敷。

 風が吹いている。

 帽子の男は一人立っていた。

 静かな夜。

 月明かり。

 誰もいない。

 帽子の男は目を閉じる。

「旭先生」

 穏やかな声。

 まるで祈るように。

「大丈夫です」

 誰も答えない。

 それでも続ける。

「もういませんから」

 有紗へ向けられた言葉。

 歪んだ愛情。

 狂った献身。

 帽子の男は本気で信じていた。

 自分は守っているのだと。

 有紗を。

 大切な人を。

 だから。

 排除しただけ。

 邪魔なものを。

 それだけ。

 帽子の男は静かに微笑んだ。

 そして。

 ポケットから一枚の写真を取り出す。

 相談室の窓際。

 夕日に照らされる有紗。

 愛おしそうに見つめる。

「旭先生」

 優しく。

 優しく。

 囁く。

「私だけが分かっていますから」

 その言葉だけが。

 夜の闇へ溶けていった。




 翌朝。

 有紗が相談室へ入る。

 机の上に。

 また紙が置かれていた。

 白い紙。

 見覚えのある文字。

 有紗はゆっくり開く。

『旭先生は悪くありません』

 その瞬間。

 有紗の背筋に。

 初めて小さな寒気が走った。

 有紗はしばらく紙を見つめていた。

『旭先生は悪くありません』

 たったそれだけ。

 短い文章。

 それなのに。

 胸の奥がざわつく。

 今までの手紙と同じだった。

『旭先生は正しいです』

『旭先生は優しいですね』

 そして今回。

『旭先生は悪くありません』

 まるで。

 ずっと見ているみたいだった。

 高橋愛梨が死んだ時。

 山本幸也が死んだ時。

 その度に現れる。

 偶然だろうか。

 そう思いたかった。

 でも。

「……気持ち悪い」

 初めて口にした。

 その言葉を。




 昼休み。

 保健室。

 佐久間恵は手紙を見て眉をひそめた。

「これ全部?」

「はい」

 有紗は三枚を並べる。

 恵はしばらく見つめる。

「字は違うようにも見える」

「ですよね」

「でも」

 恵は少し考えた。

「何か似てる」

「似てますか?」

「上手く言えないけど」

 有紗は小さく頷く。

 自分もそう感じていた。

 字は違う。

 でも雰囲気が同じ。

 不思議だった。

「いたずらかな」

 恵が言う。

「そうだといいんですけど」

 有紗は笑う。

 でも。

 笑えなかった。




 その日の放課後。

 相談室。

 蓮が手紙を見ていた。

 珍しくふざけていない。

「有紗先生」

「はい」

「これ」

「?」

「誰か入ってきてるよな」

 有紗は黙る。

 その通りだった。

 相談室は施錠している。

 でも。

 いつ置かれたのか分からない。

「生徒さんかもしれません」

「有紗先生」

 蓮が言う。

「普通の生徒はこんなことしない」

 有紗は返せなかった。

 正直。

 自分もそう思い始めていた。

 最初は応援の手紙だと思った。

 でも。

 三通目で違和感が勝った。

 なぜ。

 自分の気持ちが分かるのか。

 なぜ。

 いつもタイミングが合うのか。

 なぜ。

 差出人がいないのか。

「……」

 蓮は椅子にもたれる。

 そして。

 ぼそりと言った。

「誰か見てるんじゃね」

 有紗の背筋が少し冷える。

 冗談に聞こえなかった。




 数日後。

 夏休み前最後の登校日。

 終業式だった。

 校長の小林が話をする。

 生徒たちは退屈そうに聞いている。

 そんな中。

 有紗は体育館の後ろに立っていた。

 ふと。

 視線を感じる。

「……?」

 振り返る。

 誰もいない。

 気のせい。

 そう思う。

 でも。

 最近増えた。

 こういうことが。




 終業式後。

 校門の前。

 有紗は生徒たちを見送っていた。

「旭先生、良い夏休みをー!」

「はい、気を付けてくださいね」

 笑顔で手を振る。

 その時だった。

 遠く。

 道路の向こう。

 一人の男が立っていた。

 帽子を被っている。

 黒い服。

 こちらを見ている。

「……?」

 有紗は目を細める。

 顔は見えない。

 距離がある。

 でも。

 何となく気になった。

 男は動かない。

 ただ。

 こちらを見ている。

「有紗先生」

 隣から声。

 蓮だった。

「あれ」

 有紗が指をさす。

「ん?」

 蓮が見る。

 しかし。

 その瞬間。

 男は姿を消した。

 建物の陰へ。

「誰かいたんです」

「どこ」

「今あそこに」

 蓮はしばらく見つめる。

 誰もいない。

「知り合い?」

「分かりません」

 有紗は首を振った。

 でも。

 妙に気になった。

 見覚えはない。

 なのに。

 嫌な感じだけが残る。




 その夜。

 薄暗いアパートの一室。

 壁一面の写真。

 机の上の手紙。

 帽子の男は静かに微笑んでいた。

 今日の終業式。

 今日の有紗。

 全部見ていた。

「旭先生」

 優しい声。

「気付いてくれましたか」

 嬉しそうだった。

 まるで。

 好きな人と目が合った恋人みたいに。

 その感情が。

 異常だとも知らずに。

 帽子の男は机の引き出しを開ける。

 中には大量の写真。

 大量のメモ。

 そして。

 一冊のノート。

 表紙には丁寧な文字。

『旭有紗観察記録』

 男はページをめくる。

 そこには。

 有紗の行動。

 服装。

 会話。

 全部が書かれていた。

 数年前から。

 ずっと。

 ずっと。

「もう少しです」

 帽子の男は微笑む。

「旭先生」

 愛おしそうに。

 狂おしいほど優しく。

 そして。

 その様子を。

 別の誰かが見ていたことを。

 帽子の男はまだ知らない。




 そのアパートの向かい側。

 街灯の下に、一人の女子生徒が立っていた。

 背が高く、長い黒髪を高い位置でポニーテールにまとめている。

 鋭い目。

 彼女は帽子の男の背中を見つめていた。

 静かに。

 何も言わず。

 ただ。

 微笑みながら。

 まるで。

 同じ神を信仰する信徒のように。



第二章 距離 後半 終

↓続き

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