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小説 【君を救ったその日から】 第三章 前半

第三章 記録 前半


 夏休みが始まった。

 学校から生徒の姿は消えた。

 静かな校舎。

 蝉の声。

 強い日差し。

 それでも有紗は出勤していた。

 スクールカウンセラーの仕事は休みにならない。

 補習に来る生徒。

 進路相談。

 家庭の問題。

 夏休みだからこそ相談したい生徒もいる。

 だから。

 今日も相談室の扉は開いていた。

「暑い……」

 有紗は小さく呟く。

 エアコンは動いている。

 でも外が暑すぎた。

 頬がほんのり赤い。

 そんな有紗を見て。

「有紗先生」

 倉庫から蓮が顔を出す。

「はい?」

「熱ある?」

「ありません」

「嘘だな」

「ありません」

 蓮は近付く。

 そして。

 額へ手を伸ばした。

「へ?」

 ぴたり。

 額に手が触れる。

 冷たい。

 有紗は固まった。

「ちょ、ちょっと」

「熱い」

「熱くないです」

「熱い」

「佐藤さん」

「ん」

「近いです」

 蓮はようやく手を離した。

「夏弱いだろ」

「少しだけです」

「少しじゃない」

 有紗は顔を背ける。

 少しだけ恥ずかしかった。

 でも、蓮は全く気にしていない。

 本当に心配しただけ。




 昼休み。

 有紗はコンビニへ向かっていた。

 学校から歩いて五分ほど。

 よく利用する店だった。

 サンドイッチ。

 お茶。

 いつもの昼食。

 レジを終える。

 店を出る。

 その時。

 違和感があった。

「……?」

 誰かいる。

 そんな気がした。

 振り返る。

 誰もいない。

 道路。

 歩行者。

 車。

 普通の風景。

「気のせいでしょうか」

 そう思う。

 でも。

 なぜか胸がざわついた。




 その日の夜。

 有紗はアパートへ帰宅した。

 一人暮らし。

 駅から徒歩十分。

 普通のアパートだった。

 郵便受けを開ける。

 チラシ。

 広告。

 公共料金の案内。

 いつも通り。

 ――のはずだった。

「あれ?」

 一枚だけ。

 白い封筒。

 差出人なし。

 有紗は首を傾げる。

 部屋へ入る。

 封を開く。

 中には写真。

「……え?」

 有紗の顔から血の気が引いた。

 写っていたのは。

 今日の自分。

 コンビニから出てきた瞬間。

 間違いない。

 今日だ。

 今日撮られた写真。

 裏返す。

 そこには一言だけ。

『旭先生、今日も暑そうでしたね。頬がピンクに染まっていましたよ』

 有紗の指が震えた。

 頭が真っ白になる。

 どうして。

 誰が。

 何で。

 今日。

 コンビニにいた?

 見ていた?

 撮った?

「……」

 怖い。

 初めて。

 本気で怖いと思った。




 翌日。

 相談室。

「だから言っただろ」

 蓮が言った。

 机の上には写真。

 有紗が持ってきた。

 さすがに隠せなかった。

「……」

「有紗先生」

「はい」

「警察」

「まだ大丈夫です」

 即答だった。

 蓮は頭を抱える。

「大丈夫じゃねえ」

「でも」

「でもじゃない」

 珍しく強い。

 有紗が少し驚くくらい。

「普通じゃないぞ」

「……」

「これ」

 写真を指さす。

「完全にストーカーだ」

 相談室が静かになる。

 有紗は俯いた。

 分かっている。

 本当は。

 昨日からずっと。

 分かっていた。

「有紗先生」

 蓮が少しだけ声を落とす。

「怖かったか」

 有紗は黙る。

 数秒後。

 小さく頷いた。

 その姿を見た瞬間。

 蓮の胸の奥で何かがざわつく。

 怒りだった。

 誰に対してか分からない。

 でも。

 先生を怖がらせたやつ。

 そいつが気に入らなかった。

「……分かった」

 蓮が立ち上がる。

「佐藤さん?」

「しばらく送る」

「え?」

「帰り」

「大丈夫です」

「大丈夫じゃない」

 即答だった。

 有紗は困った顔をする。

 でも。

 蓮は譲らなかった。

「送る」

「でも」

「送る」

 有紗は小さくため息を吐く。

「……ありがとうございます」

 蓮は何も言わない。

 ただ。

 窓の外を見る。

 その視線は鋭かった。

 そして。

 校門の向こう。

 道路の反対側。

 帽子を被った男が。

 二人を見ていた。

 静かに。

 じっと。

 まるで。

 蓮という邪魔者を初めて認識したように。

 その日から。

 蓮は本当に有紗を送るようになった。

 毎日。

 必ず。

 仕事が終わると相談室の前で待っている。

「帰るぞ」

 ぶっきらぼうに。

 当たり前みたいに。

 有紗は最初こそ遠慮した。

 でも。

 写真が届いてからというもの。

 夜道が少し怖かった。

 だから。

「……お願いします」

 小さく頼るようになった。

 それだけで蓮は少し安心した。




 ある日の帰り道。

 夏の夜。

 街灯の光がアスファルトを照らしている。

 有紗と蓮は並んで歩いていた。

「すみません」

 有紗が言う。

「何が」

「送ってもらって」

「別に」

 蓮は前を見る。

「有紗先生一人だと危なそうだし」

「そんなことありません」

「ある」

 即答。

 有紗は少しむっとした。

「私だって大人です」

「知ってる」

「なら」

「有紗先生」

 蓮が言う。

「変な男に付け回されてる」

「……」

「十分危ないだろ」

 有紗は返せなかった。

 事実だから。

 しばらく沈黙。

 そして。

 蓮がぽつりと言う。

「怖いなら怖いって言えよ」

 有紗は顔を上げる。

「え?」

「無理して大丈夫とか言うな」

 街灯の光。

 横顔。

 蓮は前を向いたままだった。

「……」

 有紗は少しだけ目を伏せる。

「怖いです」

 小さな声。

 本音だった。

「だろ」

 蓮はそれだけ言った。

 でも。

 その一言だけで少し安心した。




 翌日。

 相談室。

 机の上に封筒があった。

 まただった。

 今度は誰も入っていないはずなのに。

 鍵も閉めていたのに。

 置かれている。

 中を開く。

 写真。

 有紗の後ろ姿。

 昨日の帰り道。

 蓮と歩いている。

 そして裏面。

『旭先生は笑った方が素敵です。その素敵な笑顔に触れたい』

 有紗の手が震える。

 昨日だ。

 昨日撮られている。

 しかも。

 蓮と一緒の時。

「……」

 呼吸が浅くなる。

 どこから見ていた。

 いつ撮った。

 どうやって。

「有紗先生」

 蓮が写真を取り上げる。

 そして。

 表情が消えた。

 怒っている。

 有紗にも分かった。

「これ」

 低い声。

「完全に近くにいる」

「……」

「かなり」

 有紗は頷けなかった。

 怖い。

 本当に。

 怖かった。




 その夜。

 無言電話が鳴った。

 午前一時。

 枕元のスマホ。

 知らない番号。

「……」

 有紗は出る。

「もしもし」

 返事はない。

 沈黙。

「もしもし?」

 数秒。

 十秒。

 二十秒。

 そして。

 切れる。

 有紗は眠れなくなった。

 また鳴るんじゃないか。

 窓の外に誰かいるんじゃないか。

 そんなことばかり考える。

 結局。

 朝までほとんど眠れなかった。




 翌朝。

 相談室。

 有紗の顔色は悪かった。

「寝てないな」

 蓮が即座に言う。

「寝ました」

「嘘」

「寝ました」

「目の下」

 指をさされる。

 有紗は観念した。

「少しだけです」

「電話?」

 有紗は頷く。

 蓮は舌打ちした。

 珍しい。

 本当に珍しい。

「佐藤さん?」

「ムカつく」

 それだけだった。

 でも。

 有紗は少し驚いた。

 自分のことで。

 こんなに怒る人がいる。

 そう思わなかったから。




 昼休み。

 保健室。

 佐久間恵も写真を見ていた。

「警察」

 即答だった。

「行こう」

「でも」

「でもじゃない」

 恵まで蓮と同じことを言う。

 有紗は困った顔をする。

「証拠があるんだし」

 恵は写真を持ち上げる。

「ありますけど……」

 有紗は黙る。

 本当は分かっている。

 もう。

 いたずらじゃない。




 その頃。

 学校の外。

 向かいの建物。

 屋上。

 帽子の男は双眼鏡を下ろした。

 相談室。

 有紗。

 そして。

 蓮。

 最近ずっと一緒にいる。

 邪魔だった。

 非常に。

「……」

 帽子の男は静かに見つめる。

 有紗が笑う。

 蓮も少し笑う。

 それだけ。

 それだけなのに。

 胸の奥がざわつく。

 不快だった。

「旭先生」

 小さく呟く。

「その人は駄目です」

 優しい声。

 穏やかな声。

 だが。

 目だけが冷たい。

 異様なほど。

 冷たかった。

 そして。

 その少し離れた場所。

 一人の少女が立っていた。

 彼女は帽子の男を見ていた。

 じっと。

 観察するように。

 そして。

 静かに微笑む。

「もうすぐですね」

 誰にも聞こえない声。

 少女もまた、有紗を見ていた。

 帽子の男とは違う意味で。

 深く。

 狂おしいほどに。

 その週の金曜日。

 有紗はついに警察へ相談することになった。

 半分は佐久間恵の説得。

 半分は蓮の圧力だった。

「行きましょう」

「行く」

「でも」

「行く」

「佐藤さん」

「行く」

 有紗は諦めた。




 午後。

 学校へ明智秀がやって来た。

 応接室。

 有紗。

 蓮。

 明智。

 三人が向かい合う。

 机の上には写真。

 無言電話の記録。

 手紙。

 全て並べられていた。

 明智は静かに目を通している。

「……なるほど」

 低い声。

「どうでしょうか」

 有紗が聞く。

 明智は少し考えた。

「現時点では軽犯罪にも届きません」

 有紗の肩が少し落ちる。

 だが。

 明智は続けた。

「ただ」

「?」

「危険です」

 その一言で空気が変わる。

「危険?」

「普通のいたずらではありません」

 明智は写真を指差した。

「撮影距離が近い」

「……」

「生活圏を把握している」

「……」

「継続性がある」

 そして。

「執着があります」

 有紗の指先が冷える。

 執着。

 その言葉だけが妙に重かった。

「警戒してください」

 明智は真面目な顔で言った。

「一人で行動しないこと」

「……はい」

「何かあればすぐ連絡を」

「分かりました」

 蓮は腕を組んだまま聞いていた。

 そして。

 心の中で思う。

 遅い。

 もっと早く相談すればよかった。




 帰り道。

 有紗は少し落ち込んでいた。

「有紗先生」

 隣で蓮が言う。

「はい」

「警察行って良かったろ」

 有紗は少し考える。

「そうですね」

 怖さは消えない。

 でも。

 一人じゃないと思えた。

「ありがとうございます」

「何が」

「色々です」

 蓮は照れ臭そうに顔を背けた。

「別に」

 そして小さく付け加える。

「放っとけないだけ」

 有紗は少し笑った。




 その日の夜。

 午前零時。

 有紗は眠れずにいた。

 最近ずっとそうだ。

 窓の外が気になる。

 音が気になる。

 スマホが鳴る気がする。

 そして。

 不意にカーテンの隙間を見る。

「……」

 何かいる。

 気がした。

 有紗は固まる。

 心臓が跳ねる。

 ゆっくり立ち上がる。

 窓へ近付く。

 外を見る。

 街灯。

 道路。

 駐車場。

 誰もいない。

「……気のせい」

 そう思おうとする。

 でも。

 その時。

 スマホが震えた。

 着信。

 蓮だった。

「え?」

 こんな時間に。

 慌てて出る。

「もしもし」

『起きてたか』

 蓮の声。

「はい」

『今窓見た?』

 有紗の全身が凍り付く。

「な、なんで」

『いたから』

 有紗の呼吸が止まる。

「え」

『男』

 静かな声だった。

『アパートの向かい』

 有紗は言葉を失う。

 蓮は続けた。

『今逃げた』

「……」

『有紗先生』

「……はい」

『鍵全部確認しろ』

 有紗の手が震える。

 冗談じゃない。

 蓮は冗談を言っていない。

 本当にいた。

 本当に。




 一時間前。

 蓮は帰宅していた。

 だが。

 何となく嫌な予感がした。

 理由はない。

 いつもの勘。

 高橋の時からずっと当たっている嫌な勘。

 だから。

 車を出した。

 有紗のアパートの近くへ。

 そして。

 見てしまった。

 街灯の下。

 向かいの建物の影。

 一人の男。

 帽子を被った男。

 有紗の部屋を見ていた。

 じっと。

 何十分も。

「……」

 蓮は車内から見ていた。

 異常だった。

 明らかに。

 そして男はこちらに気付いた。

 一瞬だけ。

 目が合った気がした。

 次の瞬間。

 男は走った。

 蓮も追った。

 だが。

 見失った。

「クソ」

 そのまま有紗へ電話した。

 今に至る。




 同じ頃。

 住宅街の裏路地。

 帽子の男は静かに歩いていた。

 息は乱れていない。

 焦ってもいない。

 ただ。

 少しだけ不機嫌だった。

「邪魔ですね」

 ぽつりと呟く。

 蓮。

 あの用務員。

 最近ずっと一緒にいる。

 旭先生の隣にいる。

 旭先生を笑わせる。

 旭先生を守ろうとしている。

 気に入らなかった。

 非常に。

 そして。

 初めて。

 男は蓮の写真を取り出した。

 今まではなかった。

 有紗だけだった。

 だが。

 違う。

 もう違う。

 邪魔な存在として認識した。

「……」

 男は写真を見る。

 静かに。

 無表情で。

 そして。

 折り畳んだ。

 ゆっくり。

 丁寧に。

 まるで。

 処分方法を考えるように。




 翌朝。

 相談室。

 有紗はほとんど眠れていなかった。

 顔色も悪い。

「だから言ったろ」

 蓮が缶コーヒーを置く。

「……」

「大丈夫じゃない」

 有紗は反論できなかった。

 本当に。

 大丈夫じゃなくなってきている。

 その時だった。

 コンコン。

 扉が鳴る。

「どうぞ」

 入ってきたのは女子生徒だった。

 二年生。

 長身で、長い黒髪を高い位置で一つにまとめている。

 整った顔立ち。

 有紗は微笑む。

「どうしましたか?」

 少女はゆっくり頭を下げる。

「相談があります」

 その声に。

 蓮だけが小さく眉をひそめた。

 なぜだろう。

 初めて見る生徒なのに。

 妙な違和感があった。

 少女は静かに名乗る。

「二年一組の」

 そして微笑んだ。

市川 奈々いちかわ ななです」

 有紗はまだ知らない。

 目の前にいる少女が。

 この事件の本当の終着点であることを。




 市川奈々。

 二年一組。

 有紗は名前を聞いても特に何も思わなかった。

 これまで接点はない。

 ただ。

 目の前の少女はどこか印象的だった。

 背が高い。

 整った顔立ち。

 そして。

 妙に落ち着いている。

 高校生らしくないほどに。

「どうぞ座ってください」

「ありがとうございます」

 奈々は綺麗な動作で椅子へ座る。

 姿勢も良い。

 礼儀正しい。

 有紗は自然に微笑んだ。

「今日はどんなご相談でしょうか」

 奈々は少しだけ目を伏せた。

 そして。

「前に、痴漢に遭いました。最近またその出来事がフラッシュバックするようになって……」

 相談室が静かになる。

 有紗の表情が変わった。

 柔らかいまま。

 でも真剣に。

「聞かせてください」

 奈々はゆっくり話し始める。

 通学途中。

 電車。

 去年の出来事。

 怖かったこと。

 誰にも言えなかったこと。

 有紗は黙って聞く。

 一言も遮らない。

 否定しない。

 急かさない。

 ただ聞く。

 奈々は話しながら思う。

 変わらない。

 去年と。

 全く。

 優しい。

 あの時と同じ。




 実際には。

 奈々は去年も有紗に相談をしていた。

 有紗がまだスクールカウンセラーを目指していた頃、別の学校で実習をしていた時のことだった。

 痴漢被害の相談。

 泣きながら話した。

 誰も信じてくれないと思っていた。

 でも。

 有紗だけは違った。

『怖かったですね』

 最初にそう言ってくれた。

『悪いのは奈々さんではありません』

 そう言ってくれた。

 その時からだった。

 奈々の世界が変わったのは。




「奈々さん」

 有紗の声で現実へ戻る。

「白波学園に転校していたのですね」

「はい」

 旭先生がこの学園に赴任すると知ったので…と言う言葉を奈々は飲み込んだ。

「今も怖いですか?」

 奈々は少しだけ微笑んだ。

「はい、とても…」

 本当は違う。

 もう怖くない。

 だって。

 有紗がいるから。

 でもそれは言わない。

「旭先生のおかげです」

 有紗は少し照れたように笑う。

「私だけの力ではありませんよ」

 奈々は思う。

 やっぱり。

 優しい。

 誰にでも。

 平等に。

 残酷なくらい。




 その頃。

 倉庫。

 蓮は寝転がっていた。

 だが。

 眠ってはいない。

 話を聞いている。

 そして。

 何となく引っかかる。

「……」

 奈々の声。

 落ち着きすぎている。

 それにたまたま転校してきた先に、有紗先生がいた。

 それにしては、出来すぎている。
 
 有紗を見る時の間。

 視線。

 何かがおかしい。

 でも分からない。

 理由はない。

 だから。

 蓮は黙る。




 面談が終わる。

 奈々が立ち上がる。

「ありがとうございました」

「また何かあれば来てくださいね」

 有紗が微笑む。

 奈々は頷く。

 そして。

 一瞬だけ。

 本当に一瞬だけ。

 有紗を見つめた。

 優しい目。

 憧れの目。

 でも。

 それだけではない。

 もっと深い。

 もっと重い。

 何か。

「失礼します」

 扉が閉まる。

 奈々がいなくなる。

 有紗は小さく息を吐いた。

 すると。

「有紗先生」

 蓮が倉庫から出てくる。

「はい?」

「知り合い?」

「奈々さんですか?」

「うん」

「実習生のころに……去年、少しだけ相談を受けたことがあります」

 蓮は黙る。

 去年。

 なるほど。

 だからか。

「何か気になります?」

 有紗が聞く。

 蓮は少し考える。

 そして。

「いや」

 結局そう答えた。

「勘」

「またですか」

「また」

 有紗は苦笑した。

 でも。

 蓮は笑わない。

 最近。

 嫌な勘ばかり当たる。

 それが余計に嫌だった。




 その日の夜。

 奈々は自室にいた。

 机の引き出しを開ける。

 中にはファイル。

 何冊も。

 何冊も。

 整然と並んでいる。

 一冊を取り出す。

 開く。

 そこには。

 有紗の写真。

 メモ。

 会話記録。

 好きな飲み物。

 好きなお菓子。

 出勤時間。

 帰宅時間。

 全て。

 細かく。

 丁寧に。

 記録されていた。

「旭先生」

 奈々は微笑む。

 愛おしそうに。

 静かに。

「今日も綺麗でした」

 そして。

 机の上にはもう一枚写真がある。

 有紗と蓮。

 二人が並んで歩く姿。

 奈々の笑顔が少しだけ消える。

「……」

 蓮。

 邪魔。

 その感情が。

 一瞬だけ胸をよぎる。

 そして。

 奈々はすぐに首を振った。

「違う」

 自分に言い聞かせる。

「旭先生は幸せじゃないと」

 そう。

 幸せならいい。

 本当に。

 幸せなら。

 でも。

 もし違うなら。

 もし。

 旭先生を傷付ける存在なら。

 その時は。

 奈々は静かに写真を撫でる。

 優しく。

 まるで宝物に触れるように。




 同じ頃。

 帽子の男もまた写真を見ていた。

 有紗の写真。

 蓮の写真。

 そして。

 最近撮られた奈々の写真。

 男は知っている。

 奈々の存在を。

 協力者になり得る存在であることを。

 だからこそ。

 少しだけ違和感を覚えていた。

「奈々さん」

 小さく呟く。

 最近。

 彼女の目が変わった。

 まるで。

 自分と同じ目になり始めている。

 そんな気がした。

 そして。

 それは決して良い変化ではなかった。

 有紗へ向ける感情が。

 少しずつ。

 少しずつ。

 信仰から執着へ変わり始めていた。




第三章 記録 前半 終

↓続き


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