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制作ノート「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」

2025年3月に出版した書籍「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」のおまけ記事です。制作の背景と、出版にあたって感じたことを書いています。

この本は「試し読み版」として無料で公開している部分があるので、本そのものの内容についてはそちらをどうぞ。


なぜこの本が生まれたか

本当に意味のある本を書きたかった

シロイブックスにとって3冊目(趣味的な写真集などを除く)となる本書は、私が執筆業をやるにあたって「必ず書きたい」と思っていた本でした。

直近に出した2冊目の書籍「投資に正解は存在するか:堅実な株式投資と資産形成の入門ガイド」で扱ったのは、そのタイトルのとおり、お金と投資です。この本で真っ先に行ったのは「儲かるはずがない話」の検討で、経済や金融の専門知識というよりは常識的な理屈に基づいて「なぜそれを信じてはいけないのか」を詳しく解説しました。

もちろん、序盤の章以降では「正解となる投資のやり方」という専門的・実践的な知識もひととおり説明しているのですが、この導入部分の姿勢は一般的な投資本にはあまり見られないもので、だからこそ私は「投資本なんて既に世の中にいくらでもある」という状況の中で、わざわざこの本を書いたのだとも言えます。

このとき批判的に検討したのが「現実の結果がついてこない怪しげな投資話」だとすると、今回の3冊目の本で同様の視線を向けたのは、この世に流通する「幸せになる方法」たちです。具体的には、書店でよく平積みされているような自己啓発本や通俗心理学書、さらにはもっと真面目そうにも見える哲学・宗教といった思想の各分野になります。

これは本書の中でも出した例ですが、「ポジティブに考えよう」と言われただけで簡単にそうできるなら、誰も最初から苦労したりはしないですよね? 「何事も考え方次第だ」というのは確かにそうなんですけど、そこで簡単に思考や感情の癖を変えたり、物事を潔く割り切ったり諦めたりできないからこそ苦しいわけです。

この理由は今回の本の中で詳しく説明しています。単に「こう考えよう」と主張したり、「この世はこうなっている」と定義することは、目の前の現実世界やあなたの周りに実在する人々の心の理解を何も進めないし、他でもないあなた自身の心、あなた自身の苦しみということへの理解も進めません。そして、現実の理解がないならば、現実の問題解決というのは決して起こり得ないのです。

口でもっともらしいことを言うだけなら、何だって言えますね。「結果よりも過程が大事だ」とか「ありのままでよい」「欲張らずに今あるもので満足しよう」というのも同様で、いずれも正しいことは正しいのだけど、いまいち我々の心には響いてきません。そこにはもっと説得力というか、単なる見せかけだけの言い回しではない、現実認識に基づいた言葉の強度、揺るぎない支柱みたいなものが必要になると思うんです。

そのためには「あなたの人生には意味がある」だけではダメで、各人の抱える「人生は無意味だ」という感覚についても真剣に突き詰めなければなりません。「おれなんかゴミみたいなものだ」という言葉を無視して「価値のない人間なんてどこにもいないんだよ」などと言ってみても、そんな上っ面だけのものが届くはずがないでしょう。

別の表現をすれば、これは本気で「死にたい」と思い詰めたことのない人に「死ぬな」とか言われても響かない、みたいな話です。こういう話というのは、自分が実際に潜った深さまでしか書けないですから、書く側も真剣です。実際、10代から20代にかけての私にとって、生きるということはまったく耐えがたいような苦痛でしかなかったですし、そこに「それでも頑張って生きていくだけの意味があるんだ」と思えるような納得のいく説明は、どこを探しても見つかりませんでした。

なので、私はこのときの自分に向けて、そして今この現代で同じような苦しみを抱えている同年代や若い世代の人たちに向けて、今の私が出した個人的解答を余すところなく共有したいと考えました。

厳密には、ある人の出した解答はその人自身のものでしかなく、そもそも「他人の出した解答を求めようとする」ということ自体の誤りを強く指摘しているのがこの本の特色なので、より正確に言い直すと「自力でそれに至るための知識と視点を提供し、読者自身の中に問いかけを引き起こし、それを行動へと移すための勇気を出してもらう」というのが本書の目的となっています。

そんなわけで、この本には私自身がここまで生きてきた経験と思索をベースに、長い年月の中で読み漁ってきた心理学や哲学などの書籍からの知識をプラスし、使えるものは全部使ってくださいという感じでトッピング全部乗せにして書き上げた形となっています。

意味付けを論じることの難しさ

あなたの人生を意味付けたり、あなたの存在を最終的に肯定できるのはあなただけです。先述の投資の本で「簡単に儲かる方法を求めるなら、いつまでも騙され続けるよ」ということを伝えたように、答えを自己の外に求めた時点で失敗は約束されています。

書籍というのは単なる参考資料でしかなく、読者自身の「人生の意味付け」という仕事の役に立つ道具となってくれないのなら、たまたまその人の出した「答え」としてどれほど立派な人生論を語られたとしても、それは「週末にハリウッド映画を見てちょっと感動した」というくらいのインパクトしか持たないことになります。娯楽と暇つぶしが目的ならばそれでもいいのですが、そういうものだけで満足だという人ばかりではないはずです。

それで、みなさんが心の奥底に抱えているものは、その程度のものだったのでしょうか?

前提として、人生の意味というのは常に本人の主観の中にあります。それはあなたや私という個人にとっての生きる意味であり、客観的に「人間が生きる意味」というものがどこかに存在しているわけではないということです。そもそも「意味がある」「価値がある」という言葉自体が主観に属する話ですね。

そして、その答えは基本的に言語化が不可能であり、おそらくはまだ未知のものであるため、それぞれの人間がそれぞれの仕事として、個別に探し求める・つくり上げるという作業を行っていく必要があります。

そこで、世間で見られるような人生の意味付けの失敗例、もしくはまずい教材というのは、いくつかのタイプに分類できるような気がしています。ざっと書き出すと、それは以下のようなものです。

  • 人間や世界に対して単純すぎる見方をし、安易な答えを決め、この方法で簡単にできますと主張する → 自己啓発本、通俗心理学書

  • 主観的な価値をあくまで客観性と論理に基づいて組み立てようとする → 主客の混乱した難解すぎる哲学

  • 「主観的・未知・言語化不能」という点から非現実的なイメージを膨らませる → 新興宗教、スピリチュアル

  • 「とにかくそういうものだ」ということで話を終わりにしてしまう → 形骸化した伝統的宗教、あるいは世俗的な成功を求めて邁進する人

ここに答えはないでしょう。いろいろ深く考えることが必要だとはいえ、自己肯定や人生の肯定というのは「客観的な根拠や説明を必要としない」という点が核心になるので、これは机上の議論と説得だけでどうこうできる問題ではありません。

さきほど述べた「揺るぎない支柱」みたいなものがあるとしたら、それは個人の経験、つまりあなた自身の経験の中にだけです。本人が本気で苦しんで、本気で考え抜いたことだけが、その本人にとっての本物になります。文字で書かれた情報の中にそれが見つかるということはあり得ないんです、絶対に。

とはいえ、「やろうと言われただけで簡単にできるなら誰も苦労をしない」という話を既にしたように、何か難しい課題が存在するなら、それを上手に行うための知識や方法というものが必要になってくるし、書籍が求められるのもそういう場合だと思います。ではどうすればいいのかというと、それは次の2点になります。

まず、書き手も読み手も「万能の解決策」とか「究極の答え」が存在しないということを正しく認識してから話を始めること。次に、現実の問題解決というのは現実の理解によってしか始まらないので、「これが正解です」とか「こうすれば幸せになれます」といったことを言いたがるのはやめて、私たち自身の虚しさ、私たち自身の行き詰まりと満たされなさをそのままに理解しようということです。

人の幸せというのは単なる抽象的議論の問題ではなく、毎日の実生活の話でもあるので、ここでは身近な他者との関わりや、現代社会の諸問題ということも「きちんと理解して解決していきたいもの」に含まれてきます。本書でも、日々の仕事と人間関係というトピックを独立した章として立てています。

部分的には、こうした話題の難しさというのは、さきほど述べたような「これさえやっておけばよい」という万能薬的な解決策がどこにもないという理由によるものです。「幸せに生きる方法」というものがあるとしたら、実生活と結びつかない抽象的な話ばかりしていても意味がないのですが、それでも哲学っぽい感じで純粋に「考えを深める」ということも必要な仕事になってきます。

自己と他者、主観と客観、理想と現実、思索と行動、あるいは仕事とプライベートでもいいですが、とにかく対立するように見えるものが私たちの生活には無数にあります。本書でも「人は常に有限で不完全な存在であり、すべてを行うことはできない」という原則は確認していますが、結局は「すべてが大切」というのも本当になるわけです。

さきほど箇条書きにした失敗例は、おそらくこうした大変すぎる仕事に耐えられない人たちのための逃避先として存在するのだと思います。しかし、その先に現実の幸せはありません。

本書の第一目的は、実際に幸せに生きていくための知識や視点を提供することですが、それと同じくらいに私が重視したしたかったのは「大変だけど、自分の幸せのために頑張ってやっていこうね」という言葉を読者に伝えることでした。

思想には元ネタがある

ここまでに「他人の答えを求めるな」ということを強調してきたわけですけども、人は自分ひとりで何もかも発見できるわけではないので、人から学ぶということは当然ありますし、それはやったほうがいいことです。他人の答えを鵜呑みにするのではなく、自分自身で答えを出すための方法や素材を得るということが「学ぶ」ということになります。

今回の本は、特に歴史上の誰かの思想を要約して解説したりするものではなかったですが、これを書いた私自身がどういう経緯でこういう考え方に至ったかということを振り返ってみると、「この人物からの影響が大きかったな」という感じの人名がすぐさま3つ思い浮かびます。

それはバートランド・ラッセル、鈴木大拙、ジッドゥ・クリシュナムルティです。いずれも20世紀に活躍した人物で、歴史的には各分野の有名人ではありますが、普通によく知られているかというとそうでもないので、その思想と本書への影響を簡単に紹介してみることにします。

まず最初に、イギリスの哲学者であるバートランド・ラッセルについて。この人は元々の専門が数学・論理学の人で、専門家ですら読破が難しいような数学の基礎付けの本(「プリンキピア・マテマティカ」、ホワイトヘッドとの共著)を書き上げた人物ですが、政治や社会問題について論じた著作も数多くあります。一般向けの書籍としては、書店に行けば今でも普通に岩波文庫のコーナーに並んでる「幸福論」が有名ですね。数学者出身なのにノーベル文学賞を受賞したというびっくり人間ぶりも面白いです。

ラッセルからの本書への影響としては、哲学者らしい疑いの姿勢で「願望と思い込みを捨てて、事実に基づいてロジカルに考えること」がまず挙げられます。次に「机上の空論や理想論すぎる理想論ではなく、あくまで実現可能な最善の落とし所を見つけること」です。このあたりは過去のnote記事「極論は常に間違っているという説 (2024.2.2)」でも触れた部分がありました。

ラッセルという人は「現実に向き合いながら理想を追求する」ということをめちゃくちゃ幅広い分野で現実に行なった人で、このバランス感覚と好奇心・探究心は相当なものです。また、本書ではステレオタイプな意味での理系・文系といった偏りを持たせず、生物学やコンピュータサイエンスや古典的宗教といった広いトピックを互いに結びつけて論じたりしているので、「知識そのものは人生の肯定の根拠にはならないけど、とにかく物事をいっぱい知っていたほうが何事も上手に理解が進むのだ」という点もラッセルからの学びだったような気がします。

次に、石川県は金沢生まれの仏教学者、鈴木大拙の名前が挙げられます。長年のアメリカ生活と多数の英文の著作によって、西洋に仏教(特に禅)を広く知らしめた人物です。今回の本の背景にある「自己の存在に徹底せよ」という指針は大拙の禅による影響が大きくて、エピグラフ(表紙をめくってすぐに出てくる引用文)にもこの人の言葉を採用しています。

仏教というのは宗派による思想の振れ幅が相当に強くて、禅宗と真宗なんかは一見すると完全に正反対の原理で動いているように感じられるのですが、大拙はこれを矛盾ととらえてはいません。宗教の核心とも呼べるような何かがあって、単にそれが別々の方向性を持って現れているだけだと考えます。これは説明し出すと長くなるので今はしませんが、少なくとも理系の技術者出身の私が「宗教にはどういう意味があるのか」ということを理解できたのは、大拙の著作によるものです。

私が大拙から受けた思想的な影響として真っ先に挙げられるのが、禅で言われるところの「不立文字(ふりゅうもんじ)」です。文字を立てない、つまり言葉による教義に信を置かないということですね。私自身の理屈っぽいところとか、哲学的な傾向をいい意味で一掃してくれたのはこの観点で、これ以上のインパクトを持つ表現はちょっとすぐに思い浮かばないです。なぜかって、それは「哲学」や「思想」と呼ばれるものの根本的な無力さを容赦なく指摘するものだから。哲学を真剣に学んだことのある人ならば、この無力さという点は薄々気づいているように思うのですが……。

禅の考え方によれば、言語による論証や理論体系だとかで悟りの内容を伝えることはできないのだから、そういう言葉の説明に答えを求めることをやめて、生身の自己の存在そのものに見つめよ、答えはそこにある、ということになります。「生身の人間の経験と存在だけが根拠だ」というのは、科学的な再現性の立場からすると全然ダメなわけですが、人生の意味付けや自己の存在の肯定というものは、むしろ個人的体験に信を置かないと成り立たないので、これは重要な指摘です。

この科学と宗教における「正しさ」の違い、現代人にとっての宗教の積極的意義とその限界という点については、本書の第三章でやや長めに論じていて、この部分は試し読み版としても公開済みになります。

最後に、インドの宗教思想家・教育者であるジッドゥ・クリシュナムルティです。この人のことは過去のnote「クリシュナムルティ、その反逆と宗教的思想 (2024.11.16)」に詳しく書いたので、そちらを参照いただくとわかりやすいと思います。クリシュナムルティはインドのバラモンの家系に生まれながら、宗教的権威とそれに対する盲信を徹底的に批判した人です。

最初、私の今回の本では「主観性」ということが最重要キーワードになると思っていたのですが、書き進めているうちに「未知」や「理解」というキーワードが同じくらい頻繁に出てきていることに気づきました。これはクリシュナムルティの「真理は未知のものである」「信じ込むのではなく、理解しなければならない」といった基本姿勢からの影響だったように思います。

というわけで、もし私の本を面白いと感じていただけたなら、これらの3名の著作にも当たっていただけるともっと面白いと思います。私自身は、彼らの歴史的遺産を思い浮かべながら「これくらいすごい本を書いてやろう」という気持ちで頑張ったつもりです。(達成できたかどうかは別だけど!)

データの話と舞台裏

制作日数と原稿文字数

ここからは「制作ノート」恒例のささやかな裏話。これ自体は特別面白い話というわけではないですが、もし「自分もいつか本を出してみたい」という人がいたら参考になるかもしれないので、今回も書くことにします。

日付に関する記録は以下のとおりです。カッコ内は執筆開始からの経過日数です。

  • テーマ着想:2023年12月1日

  • 構成開始:2024年4月22日

  • 執筆開始:2024年6月24日

  • 一応の執筆完了:2025年3月7日(256日)

  • 手直し完了、Kindle版のみの仮流通開始:2025年3月14日(263日)

  • 紙書籍として初版の流通開始:2025月3月23日(272日)

テーマ着想は私が「執筆を本業にするぞ」と決めつつあった頃(2023年12月)のことで、2冊目の本の制作の終わりが見えてきたくらいの頃に全体の構成を練り始め(2024年4月)、実際の執筆に着手したのは2冊目の本の出版が終わってすぐの頃(2024年6月)に当たります。

で、ようやく出版できたのが2025年3月なので、実質的な制作期間としては丸一年とまではいかないものの、実に9ヶ月ほどかかったことになります。長かったです。今まででいちばん大変でした。

最終的な原稿の分量としては、20.4万字となりました。紙書籍版では420ページとなっており、これも私の著作としては過去最長のものです。過去の制作ノートでも触れているとおり、一般的な文庫本や新書は10万字くらいあれば「ちゃんとした本」という感じの厚みになるので、今回は一般的な本の2冊分のボリュームになってしまったわけです。

正式出版前に校正刷り(テスト印刷)をかけたとき、「本が分厚くなると印刷コストも上がり、販売価格も上げなければならなくなる」という当たり前のことに気づき、高すぎて売れないのも安すぎて利益が出ないのも困るので、定価の設定にはけっこう悩みました。書き上げてから気がつくという、なかなかのポンコツぶりです。

ちなみに、これまでの本の制作期間と文字数を並べてみると、以下のようになります。ページ数は活字の組み方(フォントサイズや行間調整など)によっても変わってくるので、参考程度の数字です。

  • 1冊目の楽器の本:約2.5ヶ月、8.8万字(220ページ)

  • 2冊目の投資の本:約5ヶ月、16.7万字(326ページ)

  • 今回の本:約9ヶ月、20.4万字(420ページ)

おや? だいたい1冊ごとに100ページずつ増えていますね。つまり、次の本は520ページある……ってコト!?(←ハチワレちゃん)(それはない)

こんなに大変になるとは思わなかった

私は執筆業を始めてから、毎日の進捗を文字数として必ず記録しているのですが、ここで本書の制作期間の進捗グラフを見てみましょう。

下のほうにある細かいのは無視してもらって、青い線が本書の原稿の文字数の伸びです。期間は2024年6月〜2025年3月です。

ぱっと見でわかるとおり、序盤に苦戦した痕跡が見られますね。私のnoteをよく読んでくださる方はご存知かと思うのですが、過去記事「社会でちゃんとやっていけない我々はどのように働けばよいのか (2024.4.30)」でも書いているように、私の心身は驚くほどへなちょこです。この辺の事情をもう少し詳しく振り返ってみることにします。

執筆開始直後は第一章〜第三章を中心に書き進めていて、7月いっぱいでひとまず3.7万字くらいまで進んだものの、ここでなんとなく話の展開に行き詰まりを感じます。「これ、ほんとに意味のある本として書き上げられるのか? スカスカのしょうもない本にならないか?」という疑問が拭えなくて、相当不安になったのを覚えています。

さらに、タイミングの悪さなのか実は上記の心の揺れと関係していたのか、夏頃はものすごく体調が悪くて、原稿が全然進まない日々が続きました。10月が終わった時点の進捗は5.8万字で、3ヶ月で2.1万字ほどしか進んでいません。大学の卒業論文がだいたい2万字くらいあればいいそうなので、そういう大学生の進捗がこんな感じだったならまあ一応ちゃんと進んでいるレベルではあるものの、職業的な物書きとしてはちょっとよろしくないペースです。

体調と執筆ペースがようやく回復したのは、11月の半ばになってからです。6月の執筆開始時点では、2024年内の出版で余裕かなと思っていたのですが、この時点で「年内の出版は諦めて、2025年の春までに出そう」と予定を変更します。この辺が柔軟にいくのは個人で出版しているメリットなのですが、専業での執筆活動スタートからそのまま「1年間で3冊の本を出す」が達成できなかったのはちょっと悔しかったなあ、と感じます。

とはいえ、グラフを見ていただいてもわかるとおり、後半のペースはかなり良好で、2025年3月の執筆完了まで、平均ペースとして1日あたり3,500字くらいの進捗をキープできていました。

いつもこれくらい元気だったらどれだけよかったことか……と思いますが、まあこれは仕方ありません。こういう内容の本自体、私が心身の不調に何十年も悩まされていなければ決して生まれなかったでしょうから。

書き終えてみて

ご感想は?

やり切った感がすごいです。冒頭でも触れたとおり、テーマとしては私が「物書きをやる以上は必ず書きたい」と思っていたものなので、仮に書き手として「名刺がわりの一冊」みたいなものがあるとしたら、私にとってはこの本がそれに当たると思います。少なくとも当面の間は。

でも、書籍出版も3冊目になって、明らかに自分の書き手としての成長というものを実感できたので、4冊目以降ももっといいクオリティのものを書いていきたいし、書けるような気がしています。

ここまで分厚い本を再び書くということはおそらくない気がしますが、記録は更新するためにあるので、少なくとも気持ちの上では、今回の本は次回飛び越えるべきハードルになってもらおうと思っています。

今後の出版の計画

この辺はあとがきにも書いていますが、次に取り掛かりたいのは「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」(仮題)という本で、できれば2025年内に出版したいなあと思っています。

あと、今回の本を書いていて「未知」というキーワードが頻出したという話をしましたが、この点も次回作以降でもっと掘り下げて考えてみたいと考えています。生きている人間は常に変化していて、成長していて、その向かう方向は常に未知のものです。自分の可能性も未知だし、日常的に関わる他者の心というのも未知ですね。この世はわからないことだらけであり、その「わからない」という点こそが正しい認識となります。

これに関しては、noteで不定期連載してから改めて書籍化する流れにしようかな? というアイデアを持っています。ひとまず「何もわからない」(仮題)というタイトルで構想中です。まあ、どういう形になるかというのもやってみないとわからないので、どうにか時間をやりくりして、先述の人間関係の本と並行して着手していきたいです。

最後に

これだけ書き切ったらもう何も出てこなさそうだと思ったのに、この制作ノートも1万字くらいのボリュームになってしまいました。著述と出版という仕事、しかも個人でそれを行なっている人というのは珍しいと思うので、今回の記事でその舞台裏の様子をちょっとでも楽しんでいただけたなら幸いです。

今後の活動についても、今ご覧いただいているnote、それからSNSのX (Twitter)BlueskyThreadsにて引き続き情報発信していきますので、フォローしていただけたら嬉しいです。

さて、最後にふと思い出したことをひとつだけ。私が最初に出した楽器の本に、こんな一節があります。「楽しいことは常に大変」と題された部分です。

(……)あなたはいつか、人前で気心の知れた仲間と一緒に渾身の演奏をして、楽器に取り組んできて心底よかったと感じられるような瞬間を手にすることができるかもしれません。しかし、それを得られるのは、目の前の長い道のりに挫けることなく、コツコツと日々を積み重ねてきた人だけです。

このようなことは楽器に限った話ではなく、仕事の場面でも、友人関係や恋愛といった人間関係であっても同じです。これは人生の中で意味のある何かを手に入れようと思ったときに、必ず現れる法則のようなものです。

これは何も、苦しいことに耐えよといった古くさいメッセージを送りたいわけではありません。パズルを解くのが面白いのは、それが難しいからです。小さな子どもにも解ける簡単ななぞなぞで、大人が真剣に楽しむということはできませんよね。自分の取り組んでいることが困難なことで、価値のある何かを簡単に得ることはできないのだということをちゃんと理解しているのなら、大変な過程だって楽しみに変えることができます。

登山をする人に対して、「景色のいいところなんて普通の観光地を回ればいくらでもある」「もっとすごい絶景がネットですぐに見られる」などと言って勝った気になっている人がいたとしたら、それはちょっと滑稽なことです。自分で何もせずに「あんなことして楽しいのかね」と言う人は、そのような価値のあるものを手にすることが永遠にできません。

社会人のための楽器の継続と上達の手引き

いやはや、めちゃくちゃ大変で楽しい登山でした。デカい山ほど楽しいものはない。みんなも何かデカいことやろうぜ!!

では、今回の制作ノートはこの辺で。今後ともシロイブックスの刊行物をよろしくお願いします。

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