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なぜ私は政治の話をしないのか

タイトルのとおり、私がどうして政治の話を書かないのかという点を説明してみることにします。このところ国内にも海外にも不穏なニュースばかりなので、改めて書き起こすなら今かなと思いました。

理由は以下の4つです。

  1. あらゆる過剰さは毒になるから

  2. 個人には個人の仕事があるから

  3. イデオロギーは常に無意味だから

  4. 政治が原因なのではないから

まあ、これ自体も一種の政治的スタンスだという考え方もありますが、みなさんも日々を平和に暮らしていくために、いくらかでも参考にしていただければと思っています。

戦争は自然災害とは違います。最後のまとめでも述べるように、私たち個人がそれぞれに内的な平和を得ない限り、外の世界が平和であるということもあり得ません。世界が個人を害するというのは話が逆なんですね。

では、1番から順番にどうぞ。

1. あらゆる過剰さは毒になるから

この世にどれほど重要な課題が存在していたとしても、特定のトピックばかりが四六時中頭の中にあり、その情報ばかりを摂取し、絶えずあれこれ主張しようとしている人間というのはバランスを失っています。

真面目さというのは狂信に繋がりやすいものです。悪に反対し、「どうしてみんな無関心でいられるのか」「真面目に考えない人間が許せない」と言うとき、私にはその「許せない」という姿が、本人が絶対悪として反対している敵方の姿と重なって見えることがあります。

「これだけが重要である」と考える人は、「これ」を自分と同じ程度に重要視してくれない人間のことを、いとも簡単に「私たち」から「あいつら」という認識に切り替えてしまいます。とても怖いです。

どのような正義の人も、ここで「まあ別の考えの人もいるよね」と言えないのなら、たぶんそれは正義ではないです。視野狭窄を避けましょう。

2. 個人には個人の仕事があるから

「日常が忙しくて政治に構っている暇がないだなんて、それでは権力者(侵略者)の思うつぼだ」という人がいます。

そういう面もあるといえばあるとは思いますが、これも均衡を失った心理状態の一例のように見えます。何よりもまず、私たちは自分の仕事を行い、自分の生活をするべきです。

政治の重要性を強調する人は、この世に関心を持つべき事柄、なされるべき重要な仕事が他にどれほど大量に存在しているのかをいまいち認識していないことが多いようにも感じられます。さっき出てきた「これだけが重要である」の範囲が極めて狭く、悪い意味で理念的で、地に足がついていないような印象を受けるんですね。

20世紀には労働者を賛美するようなイデオロギーが世界中で流行しました。私は別にそういうものには賛同していないし、頭より身体を動かすことが尊いだなんてことも思っていないですが、少なくとも私は「自分が手を動かしていない分野」について大声で何かを主張しようとする人間の言葉を信用しないです。

たまたま会社で管理職になった人が組織の回し方についてよく考えるようになったというのならわかるのですが、現場の誰も彼もがコンサル顔で経営戦略の話をしたがるというのはかなり奇妙な状況でしょう。自分の仕事はどこに行ったのでしょうか。問題のない共同体というのは基本的にないので、そこに多少の苦情と要望が出るのはわかるとしても、あなたが日々の業務として世の中に貢献したりしなかったりしている当の仕事内容については特に関心がないのでしょうか。

いわゆる「理系」の人の特徴として、人間関係の機微に疎いという点はよくイメージされると思います。彼ら彼女らは「政治的な」物事への関心が薄い代わりに、何か別の物事への強い関心、偏った関心を持っています。

世界の富豪ランキングなどを見ると、現代では理系出身の起業家が相当な割合を占めていることに気がつきます。彼らが莫大な利益を手にしたのは、自らの関心の偏りを原動力として、世の中を変えるようなテクノロジーを現実に生み出したからです。富が偏るのはよくないという話もありますけど、少なくとも、関心の偏らない世界でこのような技術革新が起こることはないでしょう。彼らは自分の仕事を行いました。

「多様性は善だ」ということが正しいのなら、関心の偏りも善であり、そこには「目先の政治闘争に無関心な人がいること」も含まれます。「みんなが自分なりに政治について考えることが大切だ」ということには当たり前に同意した上で、私はここに述べたような状態を健全だと考えます。人間としても健全だし、社会としても健全です。反対に、多様性のない生態系に未来はありません。

全体主義は悪で、みんなが政治の話を好きになることが善だというのは理屈がよくわからないです。「政治に無知な人」をナチュラルに軽く見ている正義の人は怖いです。

3. イデオロギーは常に無意味だから

現実の社会問題を解決していくためには、現実についての理解が必要です。これに対して、政治的イデオロギーは現実に対する新しい理解を生みません。「これこそが正しい」「だからこうすべきだ」という結論が先にあるからです。

イデオロギーは物事を既存のパターンによって毎回同じように解釈させるだけで、ここには「まだ理解できていない物事を理解していく」という動きが何も含まれていません。というか、彼らはたぶん「この世には自分が理解できていない物事が無限にある」ということ自体をうまく認識できていません。事実の理解に基づかない意見の主張は無意味です。

思想や価値観に好き嫌いがあるのは当たり前なので、特定のスタンスを取るのはいいです。大切なものが人によって違うのは当然でしょう。自分なりの考えを深めていくことには意味があるし、それを世間に伝えることにも意味があります。右でも左でも意味があります。でも、それを「正しい答え」にしてしまってはダメです。

現実は常に複雑であり、現実は常に変化し続けています。よって、現実の世界は人間にとって常に未知なるものです。わかっていないことをわかったと思ってはなりません。結論は結論として固定された時点で誤りになります。右でも左でも、固定された結論に意味はないです。

4. 政治が原因なのではないから

ここまでに述べたような内容について、ありがちな反論として「政治に声を上げなければ、そういう平和な日常も全部破壊されるんだぞ」というものがあります。

彼らはいつでも自分と悪を別種のものだと考えており、「社会が病んでいるとしたら、それは私たち自身が病んでいるからである」という点を認めようとしません。バランスを失っているのは誰でしょうか。他人に勝ちたがっているのは誰で、人を罵るのが好きなのは誰なのでしょうか。誰かが「相手が武器を取るなら、こちらも武器を取らなければならない」と煽動するとき、そこに流されてしまいそうな人間はどのような人間だと思いますか。不安で、自信がなく、いつも何かが不満で、いつも自分以外の誰かを恐れている人間ではないでしょうか。

それは私たちのことではないですか。

そんな「政治的議論」はやめにして、あなた自身の人生に集中してください。仮にあなたや私が不満で、不幸で、空虚ならば、あなたや私は現実の世界に対して害をなす人間になります。あなたの人生に集中してください

私たちが不幸なのは、問題の原因をいつでも他人や社会の中に見つけ出そうとするからです。社会に問題がないとは言っていません。しかし、私たち自身が正気でないなら、社会が正気であるということもあり得ません。全員が自分以外の誰かを指さして自己主張を続けている限り、この悲惨で無意味な混乱が解消される日は永久に来ないことでしょう。

この世界を構成しているのは私たちです。世界が正気であってほしいのならば、まず私たちが正気になるべきです。

関連書籍

「なぜ我々の内面はこんなにも不確かで頼りないのか」という点は、去年出版した「人生の意味のつくり方」でも詳しく考えたテーマでした。お時間のある方はこちらもどうぞ。

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追伸

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