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お気持ちモンスターはなぜ暴れ続けるのか - 境界線とアサーション

誰かが「みんなの心を傷つけるな」と叫んでいるとき、ナイフを手にした人物はどこにいるのでしょうか?

「自分」を認識できない人々

「行間を読む」という言葉がありますが、書かれていないことを虚空から読み取ってブチ切れてしまう人ってたまにいますよね。

しかも大抵の場合、見えない行間は勝手に生成しているのに(脳内AIちゃんかな?)、肝心の行そのものは読んでくれていなかったりします。今回はそうした突然のキレ、特に「正義のお気持ち暴力」を行う人々についての考察です。

最初に、ちょっとした質問から始めましょう。誰かの発言に対して、個人的な怒り、悲しみ、傷つきなどを感じたとき、その表現方法には以下の2種類があります。

  1. 「あなたの○○という発言によって私は傷つきました」

  2. 「あなたの○○という発言は人の心を傷つけています」

違いがわかるでしょうか?

1番は普通に理解できますね。日常会話の中でも、相手を傷つけるつもりはなかったのにまずい言い方をしてしまったということはときどきあるものです。気を抜けば誰だってやってしまうし、されてしまう側としても誰もが経験しています。偶然にも、私もちょうど数日前にLINEしていた友人との間にそういうことがあって、相手にごめんなさいを伝えました。悪気がなかったから許されるということにはならないので、それは当たり前です。

ところが、2番はちょっと違うのですよね。元々は「自分が不快になった」ということなのに、主語を「人が不快になる」という形にすり替えています。表面上は「私は冷静に客観的な話をしているんです」みたいなポーズを取ってはいるものの、最終的にはこちらがまるで人間の心全般が理解できないサイコ野郎であるかのように仕立て上げてくる場合も多いので、やられるとけっこう怖いです。

1番の話は友人やパートナーなどの近しい関係の中で起こるものですが、ネット時代・SNS時代の現代では、2番は全然知らない人からいきなり噛みつかれるような形で発生する場合が多いという特徴があります。

わりとよくある話でもあるので、インターネットミーム的な俗語として、こうした主語のすり替えには「太宰メソッド」という名前がついています。以下はその太宰治の小説からの引用です。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

太宰治「人間失格」

引用元の「人間失格」が書かれたのは1948年とのこと。ネットこそなかった時代とはいえ、昔からこういう人はそこかしこにいたのかもしれません。

わかってほしいのは誰だってそう

主語を自分にせずに「みんながあなたのことをこう思っていますよ」と言っておけば、自分の発言に自分の発言としての責任を負わなくて済むようです。すごく便利ですね。

また、とにかく相手が悪いのだということにしておくと、おまけの効果として「なぜ自分はいつもこのように感情を乱されてしまうのか」というつらくて苦しい自己の心の課題に向き合わなくて済みます。なぜなら、問題は常に自分の外側にあって、自分の中にではないことにできるので。いつでも他人を加害者にして、自分は罪のない善良な被害者の席に座ることができます。びっくりするくらいに便利でお得です。

心理学的な話にしてみると、これは意見や感情や価値観など、個人の主観的な領域をどう扱うかという問題との関わりがあります。具体的には、自己の領域と他者の領域を誤って混同しないという点には「境界線(バウンダリー)」という用語が当てられています。「○○という発言をした」は相手が行った客観的事実を指しますが、「○○だと感じた」というのは自分の境界線の内側にある感情と主観的解釈を指しています。この切り分けを認識するということです。

さらに、自分の領域の話はきちんと自分を主語にして話すという点については、「アサーション」や「アイ・メッセージ」(Iは英語の「私」)という用語で考え方が整理されています。「私はこう思うからやめてほしいな」はアイ・メッセージであり、アサーティブな伝え方ですが、「みんな迷惑してると思うよ」はそのどちらでもありません。ちなみに、何年か前に流行ったアドラー心理学の言葉を使うと、境界線を引いてアサーティブに話すということは「課題の分離」に相当します。

こうした整理が必要なのは、もちろん「そうしておかないと自他の責任の所在、本当の問題の所在がめちゃくちゃに混乱させられるから」です。同じ日本語を話しているのに会話にならなくなるし、それぞれが不愉快になるし、職場でもプライベートでも人間関係がどんどんまずい感じになっていきます。

重要なポイントとして、「自分の気持ちを考えてほしい」「尊重してほしい」という感情そのものは何も悪いことではありません。むしろ人として極めて真っ当な感情であり、自分の意見や要望を言葉で伝えるというのは必要かつ健全なことです。言っていないのに察しろというのは道理に合わないので、それは言葉で伝えなければなりません。責任という言葉で考えれば、相手に「わかってほしい」と求めている以上、「何をわかってほしいのかを伝える」というところは自分の責任になるからです。

それぞれの気持ちが大事であるからこそ、それを適切に交換し合うためにも、境界線やアサーションという考え方が大切になってくるわけです。

太宰メソッドの便利さとツケ

とはいえ、そうした主張や要望というのは一定の信頼関係が築かれた中で、伝え方に気を配った上の話です。それはそうですよね。

お互いに「応じられること」「求めてもよいこと」が何になるのかというのは、そのときの両者の関係性によります。夜中に泣きながら電話をかけてもいいのかとか、お約束のしょうもないボケを繰り返しても許されるのかというのはすべて関係性次第です。特に親しくもない相手に「そこはノリツッコミだろ〜」などと言われても困るでしょう。

ネットや各種SNSで目に入ってくる発言というのは、個人的な面識も関係性も何も存在していない赤の他人のものがほとんどです。そこで「なんかムカついた」と感じたとしても、そのムカつきは相手にそのままぶつけてよいお気持ちではないんですよね。その上で「みんな」などという所在不明の主語まで出されると、言われた側としては「いや、そもそもお前さんは誰でみんなって誰やねん」と困惑するしかなくなるわけです。いろいろと間違えすぎです、間違えられる部分を全部間違えています。

こうした「自分が怒っているのは相手のせいである」という思考の枠組み、さらには見ず知らずの相手にそれを適用するというのは、少なくとも一時的な感情の処分方法としてはお手軽で便利です。この点が今回の問いかけとした「お気持ちモンスターは何のために暴れているのか」に対する端的な答えになります。

ポイ捨てや不法投棄で市民や自治体が困ったとしても、本人にとっては自分がやりたくないこと(=面倒でもそれを自分の手できちんと処分する)をせずに済むということが何よりも大事なので、それだけで済むなら実際にそうしてしまうのでしょう。場当たり的な対処であれば、話はそれで終わりです。

一方で、虚空から無限に問題を生成し続けている本人の心(認知の歪み)、感情的な対処スキルの不足といった本当の課題は手つかずのままなので、本人を暴れさせるトリガーとなる出来事はその後も定期的に発生し続けることになります。五年後でも十年後でも同じです。何かちょっとでも人と関わればそうなるし、社会生活で人間と関わらないというのはそもそも不可能です。

この点は「お気持ちモンスターはなぜあちこちで同じようなトラブルを執拗に繰り返しているのか」に対する説明になります。単に一回暴れるだけでなく、時間と場所が変わって相手が変わっても、いつまでも同じように何度も何度も暴れ続けるというわけです。

誰も傷つけられないなら、目と耳と口を塞ぐしかないね

おっと、話が長くなってきたぞ。ここまでの「主語は自分にある」というポイントは、今回の記事でお伝えしたかったことの一つ目でした。

ここで、「どうして私たちは喧嘩をせずに平和に暮らしていけないのか」ということについて、二つ目の重要なポイントを確認しておく必要があります。状況としては、一つ目の話に出てきた「ネットやSNS上で」「全然知らない人からいきなり」に関係するものです。

日常の人間関係の中では、相手側の気質や好き嫌い、内外に抱えている事情、こちら側との関係性などがそれぞれに違うので、何が「相手の気持ちをよく考えた発言/行動」に当たるかというのも当然違ってきます。だからこそ人間関係というのはマニュアルどおりにいかないわけで、この難しさについては誰でも知っているでしょう。そういう中で、私たちはなんとか不正解ルートを選んでしまわないように、毎日毎日頭と心をすり減らしています。

しかし、ネット上などで不特定多数に向けて公開する文章について言えば、誰も傷つけない・誰も不快にさせない発言というのは絶対に不可能なんです。これができると思っている人って、自分自身も「何かひとことでも意見を述べるたびに誰かを傷つけている可能性がある」ということにすごくすごく鈍感で無自覚なんじゃないかなと思います。

例として、メンタルの病気の話題を取り上げてみます。うつ病を患う人に「頑張れ」は禁句だという話はよく知られるようになりましたね。これはある面では当たっていますが、ある面では間違いです。

うつ病の代表的な症状は「気分の落ち込み」というものですが、純粋に脳の処理能力がガタ落ちする、つまり「実務能力の低下」「生活能力の低下」ということも症状として起こります。職場のパソコンの前でWindowsならぬ自分がフリーズしてしまったり、家で毎日出るゴミをその場その場で片付けるといった簡単なことすらできなくなったりします。

このとき、本人の中には「本当は頑張りたい、ちゃんとしたい、ちゃんとしたいのに頑張れない、たったこれだけのことができなくなってしまった」という苦しみが存在していると考えられます。こうした状況はうつ病の実態として非常にポピュラーなものです。もちろん、本人の生き方を見つめ直す上で、この「ちゃんと」という感情が本当に自分にとってよいことなのか、何か偏った無理のある考え方になっていないか…という問い直しを行うことも大切になってくるのですが、話が脱線になるので今はその点は置いておきましょう。

ここで「頑張らなくていい」というのは常に適切な声かけでしょうか。仮にあなたがある朝突然会社に行けなくなって、お休みの電話を一本入れることすら怖くてできなくなり、週一回の可燃ゴミすらまともに出せないような心身の状態になってしまい、先の見えない療養生活が半年、一年、二年と長引いていたとしましょう。

そんなとき、誰かに「あなたはそのままでいい」「頑張らなくていいよ」などと言われたいでしょうか? それってものすごく無責任で、本人の現実の苦しみというものを何も考えていないような発言に聞こえませんか?

以上の説明は、状況次第で「頑張らなくていい」が寄り添いの言葉にも無理解の言葉にもなりうるということの一例です。どのようなメッセージが適切かというのは相手によって変わるし、伝えるタイミングによっても変わるし、言い方によっても変わります。しかし、ネット上の記事や書籍という媒体では、読み手の様子を見ながら話の運び方を変えるということはできません。

仮に私がそのような病について何かを書くなら、その病気の実態を多少なりとも知っている身として、「頑張らなくていい」にも同意した上で、「本当は頑張りたいよね」という追加の言葉を伝えるでしょう。たぶん、頑張ろうだなんて言われたくない人も世の中にはいます。「傷口に塩を塗られた」と言ってくる人も現れるかもしれません。たぶんというか、読み手が増えればほぼ確実に現れるはずです。

それでも、「しんどいけど前を向いて頑張っていこうね」という後押しを求めている人もこの世のどこかにはいるはずなので、私は「頑張りましょうだなんて言葉は聞きたくない」という人がいることを知った上で、そうではない人に向けてそういう言葉を書いているわけです。

そこで「頑張れという言葉は病気の人の心を深く傷つけています」「あなたは人の気持ちをわかっていません、もっと人の気持ちを考えてください」などと言われて、お気持ちの暴力で言論統制を求められても、それは応じられない相談だということになります。

他人はあなたの敵ではないよ

……というようなことが実はつい先日実際にあったので(ネタばらし)、心理学の知識とこの世のいざこざに対する考察記事の形を借りて、自分の思うところを整理してみました。

いろいろと反論めいたことを書いてしまったけど、初対面全力お前が悪いんだ攻撃なんかせずに「自分はこう感じて悲しくなりました」とさえ言ってくれれば、私もこんなことは書かずに相手の話を真剣に受け止めたと思うんだけどなあ…。

それはそれとして、「自他の領域を混同しないようにしよう」という今回のポイントについては、興味の湧いた方は「境界線」「アサーション」といった個別の用語から改めて調べてみると面白いと思います。用語そのものの解説はそこまで詳しく行いませんでしたが、考え方の根っこの部分はここまでの内容でお伝えできています。

誰も完璧ではないので、なるべく目に入る人々のことを無理解人間だとか無能人間のように簡単に決めつけずに、まずは相手のことをちゃんと見る(読む/聴く)ようにしていきたいものですね。

では、今回の記事はこの辺で。

関連書籍

今回書いたような視点は、もうすぐ出る予定の書籍「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」でも詳しく取り上げるつもりです。(リンクは先行公開している「試し読み版」のページです)

「みんなが別々の考え方を大切にしているよね」という点については、今年の3月に出した書籍「人生の意味のつくり方」の中で「主観性」というキーワードを手がかりに考察を行っています。こちらも「試し読み版」をご用意しているので、お時間のある方は覗いてみてくださいね。

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