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『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の批評を読んで、私は“甘さ”ではなく希望を見た

引っかかったことにすら気づかないまま、
私は映画に持っていかれていたらしい。

……ということを、私は今知った。
知ってしまったから、これを書いている。

引っかかったことにすら気づかないくらい、
物語の流れに持っていかれていたのだと思う。

気づくより先に次の場面が来て、
考えるより先に展開が動く。

それだけ、この映画の世界にしっかり包み込まれていた。
『国宝』を見ていたときには考えられなかったほどの没入感だった。

だからそのときは、
違和感があったのかどうかさえ、わからなかった。

見終わったあとに手元に残るのは、
面白かった、とか。
すごかった、とか。
よかった、とか。

そういう大きめの感想ばかりで、
途中に一瞬だけ生まれていたはずの小さな揺れは、
もう自分でもうまく拾えなくなっているのだと、あとから知った。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を見たあと、
私の中に残っていたのも、たぶんそんな感じのものだった。

面白かった。
でも、他に何かあった気すらしていなかった。

見えない種は、
それでも私の中にちゃんと落ちていたらしい。

そんなときに、
ある批評的な記事を読んだ。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』について読んだ記事

その文章は、この作品をかなり鋭く解体していた。

異星人と理解し合えてしまうこと。
未知の存在に名前を与えてしまうこと。
小説の余白が隠していたものが、
映画になることで露わになること。

へえ、そう読むんだ。
……と言われれば、たしかにそう見えてくる。

でも不思議だった。

私はその文章に
「そうそう、まさにそれ」と頷いて終わったのではなく、
むしろその文章を読んだからこそ、
映画を見ているあいだには自分でも気づかないまま通り過ぎていたものに、
あとから光が当たるのを感じたのだ。

なんなら、芽吹いている。
だって今、これを書いているのだから。

ああ、私は何も感じていなかったわけではなかったんだな、と。

ただ、映画の勢いにどんどん連れていかれて、
それを違和感として受け取る前に、
次へ次へと運ばれていただけだった。

あの記事は、
その通り過ぎていったものに
スポットライトを当ててくれたのだと思う。

なんてありがたい出会いなんだろう。

私が見ていたのは「理解できすぎる甘さ」ではなく、「通じ合おうとする速度」だった

ただし、その光に照らされて見えてきたものは、
記事の書き手が見ていた結論とは、
どうやら少し違っていた。

その文章はたぶん、
「理解できてしまうこと」の甘さを見ていた。

異星人なのに、
通じ合えてしまう。
名前を呼び、
関係を築き、
信頼にまで至ってしまう。

それを、SFとしては脆いと見る視点はわかる。

でも私は、
そこに別のものを見ていたのだと思う。

私が惹かれていたのは、
理解できすぎることそのものではなくて、
違う存在と通じ合おうとする、その速度だった。

言葉の通じない相手と、
どうにかして共有の回路を作っていくこと。

前提の違う相手と、
諦めずにやり取りを重ねていくこと。

根本から違う存在であっても、
それでもなお、
一緒に生きる道を探そうとすること。

そこに、
私は強く惹かれていたのだと思う。

異星人との交流は、今の社会に必要な回路の話かもしれない

たぶんそれは、
宇宙の話というより、
今の社会の話に近かった。

違う言語の人と、
どう通じ合うのか。

違う文化の人と、
どう一緒に生きるのか。

見えない人と。
聞こえない人と。
自分とはまったく違う条件を持つ人と。
何をどう共有していけるのか。

私たちは、
完全に理解し合えるわけではない。

たぶんこれからも、
ずっとそうなのだと思う。

でも、
完全に理解できないからといって、
そこで終わるのではなくて。

わからないままでも、
手探りでも、
共有できるものを少しでも探そうとする。

その回路を作ろうとする。

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を見ながら私が受け取っていたのは、
そういう願いに近いものだったのかもしれない。

あれ……ほしいよね、社会に。
ああいうもの。

自分とはまったく違う相手と、
それでも何か同じ目的のために、
同じ時間を刻んでいくこと。

それってたぶん、
今ここに、ものすごく必要なやつじゃんと思った。

現実は、
あんなに早くはいかない。

言葉を理解し合うのも、
信頼を築くのも、
共に生きる形を探すのも、
もっと遅くて、
もっと不器用で、
途中で何度もすれ違う。

それでも私は、
あの速さに少し心を動かされた。

そんなふうに通じ合えたらいいのに、と
どこかで思っていたのだと思う。

批評が「甘さ」と呼ぶ場所に、
私はむしろ、
今の社会が欲しがっている希望を見ていたのかもしれない。

そしてもうひとつ、主人公の生きる力

そしてもうひとつ、
映画を見ていて残ったものがある。

主人公の、
生きる力みたいなものだ。

騙されて、
放り出されて、
それでもそこで生きていく。

ひどい状況の中で、
ただ潰れるのではなく、
拾えるものを拾って、
使えるものを使って、
運のようなものまで自分の側へ引き寄せていく。

ああ、
この人、主人公だなと思った。

あの「持ってる感じ」。
生き延びる方へ流れを持っていける感じ。

もちろん、
私にはできない。

私ならそうはならないだろうとも思う。

でも、
そういうふうに生きる人がいる。
そういう強さを持つ存在がある。

それを物語の中で見ることには、
たぶん意味がある。

自分がなれないからこそ、
そういう力の存在を知ることで、
少しだけこちらの呼吸も変わることがある。

だから今度は、原作の余白に会いに行きたい

私はあの記事を読んだからこそ、
映画の中にあった自分の小さな揺れに気づけた。

そして気づいてみたら、
私が受け取っていたのは
SFとしての硬さや正しさだけではなかった。

もっと社会に近いもの。
もっと生きることに近いもの。
違う存在と、
それでも回路をつなごうとする願いのようなもの。

だから今、
原作を読んでみようと思っている。

映画の答え合わせとしてではなく、
あの物語の余白に、
今度は自分の想像力を置いてみたくなった。

あの記事を読まなければ、
私はたぶん、
ここまで原作を手に取りたくならなかった。

批評が見つけたものと、
その光に照らされて自分が見つけたもの。

そのあいだにあるものを、
今度は小説の中で確かめてみたい。

映画を見たあとで終わるのではなく、
こうして別の人の読みを通って、
もう一度原作に戻りたくなる作品って、
やっぱり少し特別なのだと思う。

私もこの流れのまま、原作を読んでみようと思う。
→【原作小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はこちら】

批評が「甘い」と呼んだ場所に、
私は希望を見たのかもしれない。

その希望がどこまで本物なのかは、
まだわからない。

でも、
わからないままでも、
少し確かめに行ってみたいと思っている。

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