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【大人の恋愛小説】『夫のいる部屋で、あなたを思う』第4話 十分だけの嘘




第一章 翌朝の右手


翌朝、真琴は目覚ましが鳴る前に目を開けた。

カーテンの隙間から、薄い朝の光が差している。隣では修一が眠っていた。昨夜、握り返せなかった右手は、布団の中で胸の近くまで引き寄せたままだった。真琴は指を開き、手首を見た。

跡はない。赤みも腫れも、何も残っていなかった。それなのに、高柳につかまれた場所だけが、ほかの皮膚とは違うもののように思えた。

音を立てないようにベッドを出た。洗面所で顔を洗い、いつもの化粧をする。口紅を引く手が一度止まったが、色を変えることはしなかった。

台所で味噌汁を温めていると、修一が起きてきた。

「早いな」

「目が覚めたから」

「眠れなかった?」

「少しだけ」

嘘ではなかった。けれど、何のために眠れなかったのかは言わなかった。

修一は冷蔵庫から麦茶を出し、コップへ注いだ。真琴が食卓へ味噌汁を置こうとしたとき、修一の手が右手に触れそうになった。

真琴は、とっさに手を引いた。椀の中で味噌汁が揺れ、縁から一滴こぼれた。

「危ないな」

「ごめん」

「手、どうかした?」

「違う。ぼんやりしてただけ」

修一は真琴の手を見た。それ以上は聞かず、台ふきを取り、こぼれた味噌汁を拭いた。

食事を始めてから、修一が箸を止めた。

「異動の話、正式になりそうなんだ」

真琴も箸を止めた。

「この前の?」

「うん。週明けに詳しい条件が出る。火曜日までには返事がほしいらしい」

「そんなに早いの?」

「向こうも急いでるみたいだ」

修一は味噌汁へ口をつけた。

「条件が出たら、少し相談したい」

「わかった」

「真琴の考えも聞いてから返事をしたいから」

真琴は頷いた。修一がどんな返事を望んでいるのかは、わからなかった。異動したいのか、できれば断りたいのか、それさえ真琴は聞かなかった。

その日の帰宅時間を考えたとき、一瞬だけ高柳の顔が浮かんだ。

仕事で会う予定はない。連絡を交わす理由もない。それでも、もう一度会う可能性を探した自分に気づき、真琴は味噌汁へ視線を落とした。


第二章 窓口の変更


二日後の金曜日、取引先の制作会社からメールが届いた。件名は、「制作進行窓口変更のお知らせ」だった。

今後、出版社との日常的な連絡は、西田という社員が担当すること。高柳は入稿まで制作内容の確認に残るが、直接の窓口からは外れること。短い挨拶のあとに、新しい連絡先が記されていた。

事前の相談はなかった。

同じメールを受け取った担当編集者が、隣の席から真琴を見た。

「この時期に窓口が変わるんですか」

「私も、今知りました」

「高柳さんは案件から外れるんですか」

「確認には残るようです」

口絵の二ページ案は決まったばかりだった。これから初校の戻し、カバーの色校、帯の入稿が続く。担当変更そのものが不可能な時期ではないが、引き継ぎに余裕があるとも言えなかった。

十分ほどして、西田から挨拶のメールが届いた。次回の確認事項をまとめた一覧表と、口絵の修正版が添付されている。

真琴はPDFを開いた。一枚目の写真が、左右をわずかに切られていた。

著者が二ページ案を受け入れた条件は、写真をトリミングしないことだった。四ページから二ページへ減らす代わりに、写真そのものの広がりは残す。前回の打ち合わせで確認した部分だ。

真琴は西田へ電話をかけた。

「お世話になっております。朝倉です」

「お世話になっております。このたび窓口を引き継ぐことになりました西田です。急な変更で申し訳ありません」

落ち着いた声だった。

「早速ですが、送っていただいた口絵について確認させてください。一枚目の写真は、トリミングしない条件で著者の了承を得ています」

「申し訳ありません。共有フォルダに、レイアウトに合わせて調整可とありまして」

「調整可というのは、余白とキャプション位置のことです。写真自体は切らないと確認しています」

電話の向こうで、キーボードを打つ音がした。

「少々お待ちください。高柳の引き継ぎ表には……あ、こちらにはノートリミングとあります」

記録そのものは残されていた。

「レイアウト担当が、共有フォルダに残っていた一つ前の版を開いてしまったようです。申し訳ありません」

「最新の資料を基準に、修正をお願いします」

「承知しました。今日中に仮案をお送りします。月曜日の午前中にご確認いただき、火曜日に著者確認、水曜日の正午入稿でよろしいでしょうか」

「それなら間に合います」

西田は必要な確認事項を一つずつ読み上げた。引き継ぎ表には、著者の要望も、これまでの修正経緯も整理されている。高柳は仕事を放り出してはいなかった。

そこまで整えて窓口だけを外れたことが、かえって理由をはっきりさせていた。

電話を切ったあと、真琴は業務用チャットを開いた。高柳の名前は、これまでと同じ場所に表示されている。

――担当変更の件について、事前にお話しいただけなかった理由を確認したいです

送信すると、数分で既読がついた。

返事は、すぐには来なかった。


第三章 決めたのは誰か


高柳から返事が届いたのは、昼休みが終わる少し前だった。

――急な変更になり、申し訳ありません。引き継ぎについては、入稿まで責任を持って対応します

真琴はその文章を二度読んだ。尋ねた理由には、答えていない。

――高柳さんご自身が、窓口の変更を希望されたのではありませんか

既読がついた。今度は一分も経たずに返事が来た。

――はい

真琴は電話をかけた。高柳は二度目の呼び出しで出た。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです。今、話せますか」

「はい」

周囲に人の声はなかった。席を外しているのかもしれない。

「どうして窓口を外れたんですか」

電話の向こうで、高柳が短く息を吸った。

「このまま僕が直接やり取りを続けると、仕事の判断まで鈍ると思いました」

「高柳さんの判断が、ですか」

「はい」

「それなら、そう言ってください」

高柳は黙った。

「私には何も話さず、会社へ先に相談したんですよね」

「朝倉さんへ話すことのほうが、仕事と私情を混ぜることになると思いました」

「もう混ざっています」

自分でも、どちらの意味で言ったのかわからなかった。高柳も、すぐには返事をしなかった。

「引き継ぎは、きちんとされていました。そこを責めるつもりはありません」

「はい」

「でも、私が高柳さんと仕事を続けられるかどうかまで、一人で決めないでください」

「決めたつもりはありません」

「聞かれませんでした」

高柳が黙った。

真琴は机の端へ指を置いた。爪の先が、冷たい天板へ当たる。

「あの日、私が一人で帰ると言ったからですか」

「それもあります」

「一人で帰りたかったことと、仕事で会いたくないことは同じではありません」

「僕には、今は区別できる自信がありませんでした」

「それは、高柳さんの問題です」

言ったあと、胸の奥が痛んだ。正しいことを言っているはずなのに、高柳を遠ざける言葉を自分で選んでいる。

「月曜日の九時半から、口絵の確認をします。西田さんとデザイナーにも参加してもらいます」

「わかりました」

「高柳さんにも出ていただきます」

「はい」

「ほかに話があるなら、仕事が終わってからにしてください」

高柳は問い返さなかった。

「月曜日、伺います」

電話が切れた。真琴はスマホを机へ置いた。

担当変更のメールを見た瞬間、仕事への不安より先に、もう会えないと思った。そのことを、高柳には言えなかった。


第四章 月曜日の会議室


月曜日の九時半、高柳は西田と並んで会議室へ入ってきた。

「おはようございます」

「おはようございます」

二人とも、金曜日の電話には触れなかった。

西田が二種類の口絵案を机へ広げた。一つは写真の大きさを保ったまま、左右の高さを変えた案。もう一つは、キャプションの一部を次のページへ送った案だった。

「著者の条件を優先すると、この二案になります」

西田が説明した。

担当デザイナーが一つ目の案を指す。

「左右の高さが違うので、安定感は落ちます。ただ、写真は一番きれいに見えます」

高柳が二案を見比べた。

「写真集ではないので、左右の高さを変えるなら、キャプションの位置をもう少し揃えたほうがいいと思います」

仕事の声だった。

真琴はデザイナーへ尋ねた。

「右ページのキャプションを、一行分だけ下げることはできますか」

「できます。ただ、下の余白が狭くなります」

「余白を左右で揃える必要はありません。写真の位置に合わせてください」

高柳がページの端へ指を置いた。

「左右を揃えないなら、見開きではなく、それぞれ独立したページとして見せたほうがいいです」

「具体的には?」

「ノンブルを中央へ寄せず、外側へ出します。左右の違いが、崩れではなく意図したものに見えると思います」

デザイナーが鉛筆で簡単な線を引いた。

「この形なら、今日の夕方までに修正できます」

「著者には明日の午前中に確認してもらいます」

真琴が言うと、高柳は頷いた。

「水曜日の正午入稿なら、戻しが一度あっても間に合います」

真琴は仕事の場で、口づけのことを思い出さないようにした。完全にはできなかった。それでも、必要な言葉だけを選んだ。

打ち合わせが終わる頃には、修正版の方向が決まっていた。

担当編集者とデザイナーが先に会議室を出た。西田は資料を鞄へ入れながら、真琴へ頭を下げる。

「金曜日は確認不足で申し訳ありませんでした」

「旧版が共有フォルダに残っていたことも原因だと思います。今後は、確定資料の保存先を一つにしましょう」

「はい。高柳とも確認しました」

西田は高柳を見た。高柳も短く頷く。

「それでは、夕方までにお送りします」

西田が会議室を出ていった。高柳と二人になる。

「先ほどは、ありがとうございました」

真琴は資料を揃えた。

「仕事なので」

「窓口を外れたことについて、一度だけ説明させてください」

「金曜日に聞きました」

「話していないことがあります」

真琴の手が止まった。

「今は聞きません」

「朝倉さん」

「修正版を先にお願いします」

真琴は鞄を持ち、会議室を出た。

夕方、修正版が届いた。翌朝には著者からも了承を得て、午後三時前に入稿を終えた。水曜日の正午までとしていた仕事は、予定より早く片づいた。

それでも、高柳から届いたメッセージを、真琴は削除できなかった。

――話していないことがあります。仕事とは別に、十分だけ時間をもらえませんか

終業時刻を過ぎても、返事をしなかった。

パソコンを閉じ、鞄へ資料を入れた。エレベーターの前まで行ってから、真琴はもう一度スマホを開いた。

――十分だけなら話せます

真琴は送信を押した。


第五章 聞きたかった言葉


高柳と会う場所を決める前に、修一からメッセージが届いた。

――今日は何時になる?

真琴は画面を見たまま、指を動かせなかった。

仕事は終わっている。著者の了承も取れた。入稿も済んだ。これから高柳へ渡す十分は、会社にも著者にも必要のない時間だった。

――著者対応が長引いているから、少し遅くなる

入力したあと、読み返した。

今日、実際に著者とはやり取りをした。だからこそ、嘘が文章の中へきれいに収まっていた。

真琴は送信した。すぐに返事が届いた。

――了解。異動の話、帰ったら少し聞いてほしい

真琴は画面を閉じた。

高柳が指定したのは、駅前の喫茶店だった。白い照明の下で、仕事帰りの客が一人、パソコンを開いている。店員がカップを重ねる音も、隣の席の会話も聞こえた。

高柳は奥の二人席に座っていた。

「すみません。来てもらって」

「十分だけです」

真琴は向かいへ座った。コートは脱がなかった。

店員へブレンドコーヒーを頼む。注文を終えるまで、高柳は何も言わなかった。

「話って、何ですか」

高柳はテーブルの上で両手を組んだ。

「担当変更を会社へ相談したあと、朝倉さんから何か言われるか、ずっと気にしていました」

真琴は高柳を見た。

「何も言わなかったら?」

「そのまま終わりにするつもりでした」

「何をですか」

高柳は答えるまでに少し時間を置いた。

「仕事以外で関わることを」

「私に確認もしないで?」

「確認したら、止めてほしいと言っているのと同じになる気がして」

「でも、待っていたんですよね」

高柳は目を伏せた。

「はい」

「私が止めるのを」

「……はい」

「それ、私を試したんですか」

「違うとは、言い切れません」

真琴は椅子の背へ身体を預けた。

腹が立っていた。担当変更よりも、その裏で自分の反応を待たれていたことに。

「自分から離れて、私が追いかけるか見ていたんですね」

「そこまで考えていたわけでは」

「同じです」

高柳は何も言わなかった。

店員がコーヒーを置いた。真琴はカップへ手を伸ばしたが、飲まなかった。時計を見る。まだ四分しか経っていない。

「メールを見たとき、もう会えないと思いました」

高柳が顔を上げた。

真琴は、言ってしまったあとで唇を閉じた。けれど、もう遅かった。

「仕事のことより先に、そう思いました。自分でも嫌になるくらい」

高柳は何も言わなかった。

「何か言ってください」

「たぶん、そう言ってもらいたかったんだと思います」

真琴は息を止めた。

「だから私は、言いたくなかったんです」

声が思ったより大きくなった。隣の席の客が一度だけこちらを見る。真琴は声を落とした。

「私に言わせて、自分だけ楽にならないでください」

「すみません」

「また謝るんですか」

「ほかに、何を言えばいいかわかりません」

「わからないなら、黙っていてください」

高柳は黙った。

真琴は自分から黙らせたのに、その沈黙にも耐えられなかった。カップの取っ手へ指をかける。コーヒーはまだ熱かった。

「会いたいと思ったのは本当です」

口にした直後、胸の奥が冷えた。

高柳の指が、テーブルの上でわずかに動いた。けれど、真琴へ伸びることはなかった。

「僕もです」

「それで、どうするんですか」

「答えは出ていません」

真琴は笑いそうになった。おかしくもないのに、口元だけが歪んだ。

「何も決めていないのに、私の気持ちだけは聞きたかったんですね」

「そうです」

「否定しないんですね」

「できません」

真琴は初めてコーヒーへ口をつけた。舌の先がわずかに熱を持った。

「朝倉さんは、決めているんですか」

真琴は答えなかった。

修一へ嘘をつき、高柳の前に座っている。帰れば、異動の相談を聞く約束がある。それでも、ここへ来た。

高柳が時計を見た。

「十分、過ぎました」

真琴もスマホを確認した。十二分が経っている。

「帰ります」

「はい」

高柳は引き止めなかった。真琴が席を立つと、高柳も立ち上がった。

「遅くなって、大丈夫ですか」

真琴は高柳を見た。

「それは、あなたに関係ありません」

「そうですね」

真琴は鞄の持ち手を握った。

「ただ、私が来ると決めました。それだけです」

高柳は何も返さなかった。


第六章 修一の返事


家へ着いたのは、いつもより四十分ほど遅い時間だった。

玄関を開けると、リビングの明かりがついている。修一はダイニングテーブルに座り、ノートパソコンの画面を見ていた。

「ただいま」

「おかえり」

「待ってた?」

「少し」

修一はパソコンを閉じた。

「著者対応、終わった?」

「うん」

答えたあと、喉の奥が乾いた。

修一は椅子の背へもたれた。怒っているようには見えなかった。ただ、疲れていた。

「異動の話、してもいい?」

「うん」

真琴は修一の向かいへ座った。

「半年だけ、別の拠点へ行かないかって言われてる」

「半年?」

「立て直しが必要な部署があるらしい。平日は向こうで、週末は帰れると思う」

「単身で?」

「そのつもりで話が来てる」

修一は真琴の顔を見た。

「断ることもできる」

「修一は、行きたいの?」

聞くと、修一は一度、閉じたノートパソコンへ目を落とした。

「迷ってる。でも、断ったらたぶん後悔する」

「どうして?」

「最近、このままでいいのか考えてた。似たような仕事を回して、何年も同じ場所にいるだろ」

真琴は何も言わなかった。修一がそんなことを考えていたとは知らなかった。話さなかった修一と、聞こうとしなかった自分のどちらが先だったのかはわからない。

「大変なのはわかってる。でも、今の俺に声をかけてもらったことは、無駄にしたくない」

修一はそこで言葉を切った。

「だから、真琴がどう思うかを聞いてから返事をしたかった」

半年間、修一が平日にいない生活。

真琴の中へ最初に浮かんだのは、静かな部屋でも、一人で食べる夕飯でもなかった。

高柳へ会う時間が増える。

そう思った自分に、息が詰まった。

「急だね」

ようやく出たのは、それだけだった。

「それだけ?」

修一の声が低くなった。

「まだ、よくわからなくて」

「俺が行ってもいいと思うか、嫌だと思うか、それも?」

真琴は答えられなかった。

寂しくないわけではない。けれど、その寂しさより先に浮かんだ顔があった。

修一は真琴の返事を待っていた。数秒が過ぎ、やがて視線を外した。

「今日じゃないほうがよかったな」

修一は椅子から立ち上がった。

「ごめん。疲れてるだけだから」

「そういうことにしておく」

修一は閉じたノートパソコンを抱え、寝室へ向かった。

「修一」

その背中が止まった。

真琴は口を開いた。

修一は振り向かずに待っていた。


次回
最終話 『返事をしなかった夜』へ続く。

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雨宮しずく いつも読んでくださりありがとうございます。いただいたチップは、次の物語を書く力にさせていただきます。静かな余韻が、あなたの心に残りますように。