【大人の恋愛小説】『夫のいる部屋で、あなたを思う』第2話 同じ傘の内側
第一章 三度目の高柳
三度目に会った高柳は、前よりも遠かった。
一週間ぶりの会議室で、真琴に「お疲れさまです」と頭を下げると、すぐに手元の資料へ視線を戻した。
「本日は、再校の確認でよろしいですか」
「はい。奥付も修正されていました。先日は、遅い時間までありがとうございました」
「いえ。こちらの確認不足です」
それだけだった。
あの夜、真琴が送った「おやすみなさい」には触れない。届かなかったわけではない。既読になったことを、真琴は知っている。
触れないのが正しい。仕事相手なのだから、そのほうがいい。
そう思いながら、真琴は一枚目の資料を必要以上に早くめくった。
「朝倉さん」
呼ばれて、指が止まる。
「口絵ですが、制作側からは四ページを二ページに減らしたいと考えています」
「二ページに?」
「印刷所から上がった見積もりが、予定を超えました。このまま残すなら、本文用紙の等級を下げることになります」
口絵には、著者が時間をかけて選んだ写真が入る予定だった。真琴も、できるだけ四ページのまま残したいと思っている。
「別の箇所を調整することはできませんか」
「難しいです。影響がいちばん少ないのは、口絵だと思います」
「著者には、四ページで確認していただいています」
「最終判断は出版社側になります。変更する場合、著者への説明は朝倉さんからお願いします」
真琴は顔を上げた。
高柳は見積書へ視線を落としたままだった。
「……私から、ですか」
「はい。著者への窓口は出版社ですから」
言っていることは間違っていない。
それでも、変更に伴う負担だけをこちらへ渡されたように聞こえた。
「説明も修正も、全部こちらに任せるということですか」
高柳が顔を上げた。
「そう聞こえましたか」
「少なくとも、今の言い方では」
高柳はすぐには答えなかった。見積書の数字をもう一度確かめるように目を落とし、それから資料を閉じた。
「著者への説明は、出版社からしていただく必要があります。そこは変えられません」
「はい」
「ただ、変更の根拠になる見積もりと、二ページに収めた修正案はこちらで用意します。説明に必要な資料も、まとめてお渡しします」
真琴は高柳を見た。
仕事の境界を曖昧にするつもりはないらしい。それでも、真琴一人へ押しつけるつもりでもなかった。
「最初から、そう言ってください」
「そうですね。言葉が足りませんでした」
謝罪というより、事実を認めるような口調だった。
真琴の中には、まだ小さな苛立ちが残っている。
「では、二ページに収めた案をお願いします。著者への説明はこちらでします」
「明日の午前中までに共有します」
「お願いします」
高柳は資料へ視線を戻した。
疲れていることには気づくのに、仕事では簡単に譲らない。真琴の欲しい言葉を、いつでも与えてくれる人ではなかった。
そのことに少し安心しながら、まだ少し腹も立っていた。
打ち合わせが終わる頃、窓に細かな雨粒がつき始めた。
真琴が資料をまとめていると、高柳が椅子から立ち上がる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。口絵の件は、修正案を確認してから著者へ連絡します」
「急ぎません。説明する前に、気になる点があれば言ってください」
「わかりました。でも、明日には確認します。大丈夫です」
言ってから、真琴は口を閉じた。
高柳も気づいたはずだった。
けれど何も言わず、わずかに頷いただけだった。
その沈黙のほうが、指摘されるより気になった。
第二章 同じ傘の内側
会社を出る頃には、雨脚が少し強くなっていた。
ビルの明かりが濡れた舗道ににじみ、夕方と夜の境目を曖昧にしている。真琴はエントランスで立ち止まり、バッグの中を探った。
折りたたみ傘がない。
朝は晴れていた。天気予報も見ず、いつものバッグだけを持って家を出たことを思い出す。
「傘、ないんですか」
隣から高柳の声がした。
いつの間にか受付を済ませ、真琴の少し後ろに立っている。
「駅までなので、大丈夫です」
答えた瞬間、自分でも気づいた。
また、同じ言葉を使った。
高柳も気づいたはずだった。けれど、そのことには触れず、黒い傘を開いた。
「駅までなら、入りますか」
「でも、高柳さんが濡れます」
「無理にとは言いません」
思っていた返事と違った。
大丈夫ですから、と笑われると思っていた。けれど高柳は真琴を促さず、傘を開いたまま待っている。
入るかどうかを、真琴に委ねていた。
雨は激しくない。少しくらい濡れても、家へ帰れば着替えられる。
真琴は濡れた舗道を見た。それから、高柳の傘の下へ一歩入る。
「……お願いします」
二人の肩の間には、手のひら一枚ほどの隙間があった。
近づけば触れる。けれど、どちらも近づかなかった。
傘に当たる雨音と、二人分の靴音が重なる。歩調を合わせるたび、真琴は高柳がすぐ隣にいることを意識した。
高柳は傘を真琴の側へ傾けている。そのせいで、右肩に細かな雨粒がついていた。
「高柳さん、濡れています」
「少しくらいなら平気です」
「それ、本当に平気な人の言い方ですか」
言ってから、真琴は高柳を見た。
高柳は一瞬、驚いたような顔をした。それから声を立てずに笑う。
「返されましたね」
「一度くらいは」
「覚えていたんですね」
真琴は前を向いた。
忘れられるはずがなかった。
駅前の信号が赤に変わり、二人は並んで立ち止まった。車のライトが、濡れた路面を流れていく。
「あの夜のことなんですけど」
高柳が言った。
真琴の指先に、わずかに力が入る。
「はい」
「返事をしなくて、すみませんでした」
「謝らなくても。仕事には関係のない一文でしたから」
「だから、返さないほうがいいと思いました」
「正しいと思います」
真琴は横断歩道を見たまま答えた。
本当に、そう思う。
高柳は、真琴がするべきだったことを代わりにしてくれた。仕事の外へ出ないように、そこで関係を止めたのだ。
それなのに、胸の奥には小さな空洞が残っていた。
高柳はしばらく黙っていた。
「ただ」
低い声が、雨音の間に落ちる。
「既読にしたあと、何度か開きました」
真琴は高柳を見た。
「返さないと決めたのに?」
「はい」
「それを、どうして私に言うんですか」
高柳はすぐに答えなかった。
「わかりません」
「わからないのに、言ったんですか」
「言ってから、言わないほうがよかったと思いました」
「遅いですね」
「そうですね」
高柳は困ったように視線を外した。
言わなければ、高柳一人の迷いで終わっていた。口にしたことで、その迷いは真琴の中にも置かれた。
それが優しさではないことくらい、真琴にもわかっていた。
信号が青に変わり、二人は再び歩き出した。
真琴は傘の外へ出ないようにしながら、ほんの少し高柳から距離を取った。そのぶん傘が傾き、高柳の肩がまた雨に濡れる。
近づけばいい。
そうすれば、二人とも濡れずに済む。
けれど、その半歩を真琴は選べなかった。
駅の入口に着くと、高柳が足を止めた。
真琴は傘の下から一歩外へ出る。肩へ冷たい雨が触れ、さっきまでの空間が急に遠くなった。
「ありがとうございました」
「いえ」
改札へ向かおうとしたとき、高柳に呼び止められた。
「朝倉さん」
真琴は振り返る。
高柳は何かを言いかけ、途中でやめたように口を閉じた。傘の柄を持つ手に、少しだけ力が入っている。
「風邪をひかないように」
「高柳さんも。右肩、かなり濡れていますから」
高柳は自分の肩を見た。
「本当ですね」
気づいていなかったような声だった。
真琴は小さく頭を下げ、改札へ向かった。
振り返らなかった。
傘の気配が背中から消えても、靴音だけがまだ隣にあるような気がした。
第三章 修一が覚えていたこと
家へ帰ると、修一はリビングでニュースを見ていた。
「遅かったな」
「打ち合わせが少し長引いて」
「雨、降ったのか」
真琴が答えるより先に、修一はソファの背に掛けてあったタオルを取り、こちらへ差し出した。
「髪、濡れてるぞ」
「ありがとう」
タオルを受け取る。
高柳の傘へ入ったことも、駅まで並んで歩いたことも、話そうと思えば話せる。
仕事相手の傘に入れてもらった。
ただ、それだけのことだ。
「傘、持ってなかったのか」
「うん。忘れた」
嘘ではなかった。
けれど、すべてでもなかった。
真琴が濡れた髪を拭いていると、修一はテーブルに置いていたスマホを手に取った。
「土曜日、駅の向こうの洋食屋、空いてるみたいだぞ」
「洋食屋?」
「前に行きたいって言ってただろ」
数か月前、テレビで紹介されていた店を見て、そんなことを言った気がする。
「夜?」
「六時半なら取れるって」
「私、昼に行きたいって言わなかった?」
修一は画面から顔を上げた。
「そうだっけ」
「たしか、ランチがおいしそうって」
「ああ。じゃあ昼を見てみる」
修一は予約画面を開き直した。
すべてを覚えていたわけではない。
それでも、店の名前は覚えていた。
「一時半なら空いてる」
「それでいいよ」
「予約するぞ」
「うん」
修一は画面を操作し、予約完了の表示を真琴へ見せた。
「取れた」
「ありがとう」
修一は何も覚えていないわけではない。真琴の言葉を聞き流してばかりいるわけでもなかった。
昼だったことは忘れていても、店の名前は覚えていた。
それでも真琴は、高柳の傘のことを話さなかった。
「ごはん、温めるか?」
「自分でやるよ」
「そうか」
修一は再びテレビへ顔を向けた。
真琴はキッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。冷気が頬に触れた。
駅で傘から出た瞬間よりも、少しだけ寒く感じた。
夕食を終えると、修一は洋食屋のメニューを真琴へ見せた。
「これが人気らしい」
「おいしそう」
「真琴は、こっちのほうが好きそうだな」
「たぶんね」
会話は続いている。
二人で出かける予定もできた。
乱れたものなど、どこにもないように見えた。
寝室へ入ると、修一は先に横になっていた。真琴も灯りを消し、その隣へ入る。
暗闇の中で、修一の呼吸が少しずつ深くなっていく。十八年近く聞いてきた、よく知っている音だった。
真琴は目を閉じた。
思い出したのは、高柳の体温ではない。
傘の下にあった、手のひら一枚分の隙間だった。
近づけば触れられたのに、触れなかった距離。濡れた右肩。既読にしたあと、何度か開いたと言った声。
真琴は布団の中で両手を重ねた。
誰にも触れていない指先が、落ち着かなかった。
第四章 打って、消した言葉
三日後、高柳から業務用チャットが届いた。
次回の打ち合わせ日と、口絵の修正案についての連絡だった。
――次回は火曜日の十五時でお願いいたします。
――口絵は二ページに収めた案を共有しました。ご確認ください。
真琴は共有されたデータを開いた。
写真は二枚に絞られている。けれど余白の取り方が変わり、当初の四ページ案よりも静かな印象になっていた。
ただ削ったのではない。
高柳なりに、残された二ページを整えている。
真琴は返信欄を開いた。
――確認しました。火曜日の十五時でお願いします。
――二ページでも、写真がきれいに見えました。ありがとうございます。
これで十分だった。
送信しようとして、駅まで歩いた日のことを思い出す。
濡れた高柳の右肩。
既読にしたあと、何度か開いたという言葉。
真琴は一文を加えた。
――先日はありがとうございました。肩、かなり濡れていましたけど、風邪はひきませんでしたか。
仕事には必要のない質問だった。
けれど、高柳の体調を尋ねただけとも言える。
真琴は送信した。
返事は数分後に届いた。
――大丈夫です。朝倉さんは?
真琴は返信欄へ指を置いた。
――大丈夫です。
そこまで打って、画面を見つめる。
高柳と初めて会った日。修一にその先まで尋ねてほしかった朝。雨の中を駅まで歩いた夜。
同じ言葉を、何度使っただろう。
真琴は入力した文字をすべて消した。
代わりに、短い一文を送る。
――今、「大丈夫です」と打って、消しました。
送ったあとで、胸が速く打ち始めた。
何を伝えたかったのか、自分でもはっきりしない。
ただ、もう同じ言葉で隠したくなかった。
寝室の向こうから、修一の咳が一度聞こえた。
真琴はスマホを伏せた。
数分後、テーブルの上で画面が光った。
高柳からだった。
――僕もです。あの夜、何度か書いて、消しました。
真琴は画面を見つめた。
返事は打たなかった。
スマホを握ったまま寝室の前まで歩く。
扉へ手をかけても、真琴はすぐには開けられなかった。
次回
第3話 『手を離したあと』へ続く。
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