【大人の恋愛小説】『夫のいる部屋で、あなたを思う』第3話 手を離したあと
第一章 土曜日の洋食屋
土曜日、真琴は修一と駅の向こう側にある洋食屋へ向かった。
古い商店街を抜けた先にある、小さな店だった。赤いひさしの下にはランチメニューを書いた黒板が出ている。十三時半を少し過ぎていたが、窓際の席はほとんど埋まっていた。
「予約しておいてよかったな」
修一が扉を開け、真琴を先に通した。
「うん。思ったより混んでる」
「人気あるんだな」
案内されたのは、壁際の二人席だった。白いクロスの中央には、小さな花瓶が置かれている。
修一は胸ポケットから老眼鏡を取り出し、メニューを開いた。
「真琴は、これだろ」
指したのは、デミグラスソースのハンバーグだった。
「今日は魚にしようかな」
「珍しいな」
「そう?」
「こういう店に来たら、だいたいハンバーグじゃないか」
言われてみれば、そうだった。真琴は魚料理の写真をもう一度見てから、隣のページへ視線を移した。
「じゃあ、やっぱりハンバーグにする」
「俺が言ったから変えなくていいぞ」
「見たら食べたくなっただけ」
「そう?」
「そう」
修一は納得していない顔をしたまま、店員を呼んだ。
料理が運ばれてくるまで、修一は来月の人事異動について話した。部署の再編があるらしく、何人かが異動する可能性があるという。
「修一も動くかもしれないの?」
「どうだろうな」
「したいの?」
修一はメニューの端へ指を置き、少し考えた。
「したいかどうかで決められることでもないし」
「それはそうだけど」
「決まったら言うよ」
それ以上は話したくないのかもしれない、と真琴は思った。以前なら、もう少し尋ねていただろう。いつからか、相手が止めたところで、自分も立ち止まるようになっていた。
「真琴のほうは?」
「何が?」
「仕事。最近、帰りが遅いだろ」
「本が出る前だから。確認することが多くて」
「また急な修正?」
「それもある」
修一は「大変だな」と言い、水を飲んだ。
聞いてほしいと思う日がある。けれど、深く尋ねられたら、どこまで話せばいいのかわからない。
仕事の忙しさだけを答えた真琴にも、修一が話を続けなかったことだけを責めることはできなかった。
やがて、鉄板の上で音を立てるハンバーグが運ばれてきた。修一はナイフで端を切り、湯気の上がる断面を眺めている。
「熱そうだな」
「猫舌なのに、それを頼むから」
「好きなんだから仕方ないだろ」
真琴は少し笑った。
結婚したばかりの頃にも、同じような会話をしたことがある。修一は熱いものを頼んでは、冷めるまで皿の前で待っていた。真琴が先に食べ終わり、「まだ食べてるの」と笑うと、修一は決まって「味わってるんだ」と言い返した。
忘れていたわけではない。思い出さなくても続いていくほど、長く一緒にいた。
「次は、どこにする?」
修一がハンバーグを切りながら言った。
「もう次の話?」
「候補くらい決めておけば、また行けるだろ」
「じゃあ、店は私が探す」
「予約は俺がする」
「店を探すほうが、予約するより手間じゃない?」
修一はナイフを止めた。
「候補を三つまでにしてくれたら、そこから俺が選ぶ」
「選ぶのも修一なの?」
「予約もする」
「それで半分ずつのつもり?」
修一は少し考えた。
「半分より、少し少ないかもな」
「少し?」
「かなり、とは言いたくない」
真琴は笑った。修一も、ばつが悪そうに笑った。
店を出ると、空は薄く曇っていた。修一は駅へ向かいながら、来週の帰宅時間について話した。真琴は隣を歩き、何度か頷いた。
高柳から届いた言葉については、何も言わなかった。
第二章 火曜日の十五時
火曜日、高柳は約束の五分前に会議室へ入ってきた。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
高柳は前回の業務用チャットには触れなかった。真琴も、自分から口にするつもりはなかった。
打ち合わせには、編集担当者とデザイナーも同席した。口絵の修正案は写真を二枚に絞り、余白を広く取った構成になっている。ページ数は減ったが、以前より写真そのものが目に入った。
著者も、最終的にはこの案を受け入れていた。
「先方から了承をいただきました」
真琴が伝えると、高柳は一度、息をついた。
「そうですか。よかったです」
「写真の見え方も、きれいになっていました」
「ありがとうございます」
高柳は短く頭を下げ、次の確認事項へ移った。
初校の戻し、カバーの色校、帯の入稿期限。議題は口絵だけではなく、発売までの進行全体へ広がった。
仕事の話をしている間は、難しいことは何もなかった。高柳は制作側の担当者で、真琴は出版社の進行管理だった。修正の理由を確認し、誰がいつまでに何をするのかを決めていく。
高柳の提案に真琴が反対する場面もあったが、意見の違いは仕事の中に収まっていた。
最後の確認事項を終えたとき、壁の時計は十七時を少し回っていた。
同席していた二人が先に会議室を出た。真琴が資料の角を揃えていると、高柳も手帳を鞄へしまった。けれど、席を立たず、テーブルの端へ手を置いている。
「まだ何かありますか」
「仕事の話ではないんですが」
真琴は資料を持ったまま、高柳を見た。高柳は一度、視線を落とした。
「このまま帰ったほうがいいとは思っています」
「そう思うなら、帰ったほうがいいんじゃないですか」
「そうですよね」
高柳は椅子を引いた。
真琴は資料を鞄へ入れた。ファスナーを閉めてから、立ちかけた高柳へ声をかける。
「でも、話があるんですよね」
高柳の手が、椅子の背で止まった。
「少しだけ」
「十分なら」
「十分でいいです」
真琴は自分で時間を与えた。仕事の延長ではない。それでも、高柳を帰らせなかった。
二人は会社を出た。
駅へ向かう道を、高柳が半歩前に歩いた。空には低い雲が広がり、風に湿った匂いが混じっている。
「この前、返事を何度か書いて消したって、送ったでしょう」
高柳が前を向いたまま言った。
「はい」
「そこまで知らせる必要はなかったと思っています」
「じゃあ、どうして知らせたんですか」
高柳はすぐには答えなかった。
信号が変わり、人の流れに押されるように横断歩道を渡った。向こう側へ着いてから、高柳が口を開く。
「一人で持っているのが、嫌だったんだと思います」
「自分だけで抱えきれないから、私にも持たせたんですか」
高柳の歩みが少し遅くなった。
「そうなります」
真琴は足を止めた。高柳も数歩先で止まり、振り返る。
「そこで認められると、余計に腹が立ちます」
「すみません」
「謝ればいいという話でもないです」
「はい」
また否定しない。
真琴は、高柳のその態度が嫌だった。責められることを受け入れているようで、結局は判断を真琴へ預けている。
「言って、少し楽になりましたか」
「……たぶん」
「私は、少しも楽になっていません」
「わかっています」
「本当に?」
高柳は返事をしなかった。
真琴は歩き出した。高柳も少し遅れて隣へ戻る。
「私は困りました」
「はい」
「でも、消してほしいとは思っていません」
高柳が真琴を見た。真琴は前を向いたまま歩き続けた。
言った直後、間違えたと思った。けれど、言い直す言葉は出てこなかった。
高柳もしばらく何も言わなかった。
曲がり角へ差しかかったところで、雨粒が真琴の頬に落ちた。
第三章 雨宿り
雨は、数分も経たないうちに強くなった。
二人は道路沿いの雑居ビルへ駆け込んだ。正面玄関ではなく、荷物の搬入口についた浅いひさしだった。シャッターの脇には濡れた段ボールが積まれ、壁際の室外機が低い音を立てている。
雨水の混じった埃の匂いがした。
ひさしは、二人が並ぶには狭かった。真琴が一歩下がると、背中がシャッターへ触れた。高柳は少し身体を外へ向けたが、斜めに吹き込む雨が右肩を濡らしていく。
「また、そっちだけ濡れています」
「今日は傘がないので、仕方ないですね」
「大丈夫ですか」
真琴は言ってから、口元を歪めた。
「今のは、普通に聞いただけです」
「わかっています」
「なら、何も言わないでください」
「何も言っていません」
「顔に出ています」
高柳は視線をそらした。
歩道を自転車が勢いよく通り過ぎた。タイヤが水たまりを踏み、濁った水が跳ね上がる。
高柳が真琴の手首をつかみ、自分のほうへ引いた。肩が触れ、真琴の鞄がシャッターへ当たった。
鈍い音がした。
高柳はすぐに手を離した。
「すみません。強く引きました」
「痛くありません。水を避けただけでしょう」
「はい」
高柳が一歩下がろうとした。
真琴は、その袖口をつかんだ。雨に濡れた布が、指の間で冷たかった。
高柳が真琴の手を見る。
「朝倉さん」
真琴は離さなかった。
何をしているのかは、わかっていた。
「このままは、まずいです」
高柳の声は低く、頼りなかった。
「わかっています」
「なら」
「高柳さんも、下がってください」
高柳は動かなかった。
真琴も、袖をつかんだまま立っていた。室外機の低い音に、雨音が重なっている。歩道を行く人たちは傘を傾け、二人のほうを見ようともしなかった。
真琴は指の力を緩めた。それでも袖は離れなかった。
高柳が、わずかに顔を寄せた。
真琴は背中をシャッターにつけたまま、顔を背けなかった。直前に、袖口をつかむ指へもう一度だけ力を入れた。
唇が触れたのは、一度だけだった。短く、迷いの残る口づけだった。
高柳が先に顔を離した。
「すみません」
真琴は濡れた路面へ視線を落とした。
「謝らないでください」
「でも」
「私も、離れませんでした」
高柳は何も言わなかった。真琴も、それ以上は続けられなかった。
高柳は、濡れた右肩がひさしの外へ出るところまで下がった。二人の間へ雨が吹き込む。
「駅まで送ります」
高柳が言った。
真琴は首を横に振った。
「今日は、一人で帰ります」
「わかりました」
高柳は引き止めなかった。
雨が少し弱くなったところで、真琴はひさしの外へ出た。傘を差す人の流れへ入り、駅へ向かう。
数歩進んでから、右手首を左手で覆った。
駅までの道で、一度も後ろを見なかった。
第四章 握り返せなかった手
家へ着く頃には、雨はほとんど止んでいた。
玄関を開けると、廊下の明かりがついている。リビングからは、ニュース番組の声が聞こえてきた。
「おかえり」
修一がソファから振り返った。
「ただいま」
「降られた?」
「少し」
「傘、持っていかなかったのか」
「うん」
真琴は靴を脱ぎ、鞄を床へ置いた。修一はソファの背に腕をかけたまま、真琴の顔を見ている。
「疲れてる?」
「少し」
「何かあった?」
真琴は靴の向きを揃えた。
「打ち合わせが長かっただけ」
「そう」
修一はもう一度、真琴の顔を見た。それからニュース画面へ視線を戻す。
「夕飯は?」
「あとで食べる」
「温める?」
「自分でやる」
「わかった」
修一は何か言いかけたが、やめた。
真琴は鞄を持ち、洗面所へ入った。
手を洗いながら、高柳につかまれた右手首へ水を流した。赤くもなっていない。指の跡も残っていなかった。
何も残っていない場所へ、真琴はいつもより長く水を当てた。
鏡の中の顔は、朝とほとんど変わらない。口紅は落ちかけていたが、それは雨に濡れたせいにも見えた。
真琴はタオルで手を拭き、濡れた髪を耳へかけた。
リビングへ戻ると、修一は明日の天気予報を見ていた。
「土曜日の店、また行ってもいいな」
「うん」
「今度は夜に行ってみる?」
「そうだね」
「魚も気になってたんだろ」
「結局、ハンバーグにしたけど」
「次は魚にすればいい」
真琴は返事をしなかった。
「聞いてる?」
「聞いてる」
「ならいいけど」
修一の声に、わずかな苛立ちが混じった。
真琴は修一の隣には座らなかった。キッチンで夕食を温め、ダイニングの椅子に一人で座る。
修一がニュースについて何か言うたび、真琴はいつもと同じように返事を選んだ。言葉を間違えなければ、今日も同じ一日として終わる気がした。
寝室へ入ると、修一は先に眠っていた。
真琴は灯りを消し、その隣へ横になった。暗闇の中で、修一の寝息だけが聞こえる。
高柳の顔を思い出さないようにすると、袖口の冷たさだけが戻ってきた。
しばらくして、修一が寝返りを打った。布団の中で伸びてきた指が、真琴の手の甲へ触れる。眠ったままの、何気ない動きだった。
いつもなら、そのまま手を重ねていた。
真琴は動かなかった。
修一の指はしばらくそこにあった。握り返されないまま、やがて力を失い、真琴の手の甲から離れた。
真琴は右手を引き寄せた。
それから、修一とは反対側へ向き、手を布団の奥へ隠した。
次回
第4話 『十分だけの嘘』へ続く。
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いつも読んでくださりありがとうございます。いただいたチップは、次の物語を書く力にさせていただきます。静かな余韻が、あなたの心に残りますように。