【大人の恋愛小説】『夫のいる部屋で、あなたを思う』第1話 仕事にはいらない一文
あらすじ
朝倉真琴、四十六歳。出版社で進行管理をしながら、夫・修一と十八年、穏やかで壊れていない結婚生活を続けてきた。けれど取引先の高柳に、無意識に繰り返す「大丈夫です」を聞き留められた日から、真琴の日常はわずかに傾き始める。
自分が出る必要のない打ち合わせを選び、夫には言えない会話を重ね、業務連絡の末尾に「おやすみなさい」と書き足す。やがて雨の日に同じ傘へ入り、触れないつもりだった二人の距離は変わっていく。
暮らしを壊したいわけではない。それでも、名前を呼ばれるたび、忘れていた自分が息を取り戻していく。壊さずに守ることと、自分を失わずに生きること。その両方を望んだ真琴が、誰かを選ぶ前に、自分の心と向き合うまでを描く。
第一章 左側の歯ブラシ
修一の歯ブラシを右側へ戻してから、真琴は自分のものを左に置いた。
色は何度も変わった。それでも、置き場所だけは十八年間変わっていない。
鏡の前で髪を結んでいると、寝室から足音が近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう」
真琴が洗面台から離れ、修一が同じ場所に立つ。すれ違うとき、触れそうになった肩を、どちらからともなく避けた。
台所でコーヒーを淹れ、トーストを二枚焼く。二つのカップをテーブルへ並べると、修一はいつもの席に座った。
考えなくても、朝は決められた順番で進んでいく。
「今日、少し遅くなる」
修一はスマホの画面を見ながら言った。
「夕飯は?」
「帰ってから食べる」
「何時くらい?」
「十時までには」
「わかった」
修一がカップへ手を伸ばしかけ、真琴の右手を見た。
「指、切った?」
人差し指に、細い傷が残っていた。昨日、校正紙を揃えているときにつくったものだった。
「紙で少し」
「薬は?」
「塗ったよ」
「ならいいけど」
修一はコーヒーを一口飲んだ。
傷に気づいてくれた。それでも真琴は、トーストの耳を指でちぎりながら、その先の言葉を待っていた。
どうして切ったのか。最近、仕事は忙しいのか。疲れていないか。
けれど実際に聞かれたら、きっと「大丈夫」と答える。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関の扉が閉まり、真琴は二つのカップを流しへ運んだ。修一のカップには、まだコーヒーが少し残っていた。
それを捨て、二つ並べて洗った。
夜、修一は予定より十五分早く帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり。ごはん、温めるね」
「先に着替えてくる」
食事を終えると、修一は「ごちそうさま」と言い、自分の皿を流しまで運んだ。真琴は皿を洗い、水気を拭いて食器棚へ戻す。
白い皿は、大きさの順に重なっていた。欠けたものはない。汚れもない。決められた場所に、きれいに収まっている。
扉を閉める直前、棚の内側で皿同士が小さな音を立てた。
真琴は手を止めた。
けれど、もう一度開けるほどのことではなかった。
第二章 大丈夫です
高柳と出会ったのは、四月の終わりだった。
真琴は小さな出版社で、書籍の進行管理をしている。著者から届いた原稿を整理し、校正紙を各担当者へ回し、装丁や印刷の日程を調整する仕事だ。
読点の抜けや、漢字一文字の誤りにはすぐ気づく。
それなのに、自分の暮らしから何が抜け落ちたのかは、長いあいだわからなかった。
その日は同僚が急に休み、朝から予定が崩れていた。電話に出ながらメールを返し、会議室へ資料を運ぶ。
昼食用に買ったサンドイッチは、午後三時を過ぎても机の引き出しに入ったままだった。
夕方、真琴は本文レイアウトの見本が入った箱を、棚から下ろそうとしていた。
「持ちましょうか」
背後から声をかけられた。
振り向くと、見慣れない男が立っていた。五十歳前後だろうか。紺色のジャケットに白いシャツを合わせているが、ネクタイの結び目が少し右へ寄っていた。
首から下げた入館証で、外部の制作会社の担当者だとわかった。
「大丈夫です。取れますから」
箱の端へ指をかける。
持ち上げた途端、中から見本が一冊滑り落ちた。
男が腰をかがめ、床に落ちる直前で受け止めた。
「危なかった」
「すみません」
「僕が勝手に手を出したので、謝らなくていいですよ」
男は見本を箱へ戻し、真琴と一緒に会議室まで運んだ。
「ありがとうございます」
「いえ。僕も、これを確認しに来たので」
箱を机へ置いたところで、真琴のデスクから内線が鳴った。
「はい、朝倉です。大丈夫です。こちらで対応します」
電話を切ると、男が少し笑った。
「何か?」
「いえ」
まだ口元に笑みが残っている。
「何ですか」
「今日、何度目なのかなと思って」
「何がですか?」
「大丈夫です、って」
真琴は返事に詰まった。
「聞こえていました?」
「僕が来てから、三回は」
「仕事なので」
「そうですよね」
男はすぐに引き下がった。
真琴は箱から見本を取り出し、机に並べた。
「こちらが今回のレイアウト見本です。準備が遅くなってしまって、申し訳ありません」
「遅くなっていません。予定どおりです」
「でも、お待たせしたので」
男は資料へ伸ばしかけた手を止めた。
「無理をしている人ほど、大丈夫って言いますよね」
真琴は顔を上げた。
男も、自分の言葉を遅れて聞いたような顔をしていた。
「……すみません。仕事相手に言うことではなかったですね」
「少し、そう思います」
真琴が答えると、男は目を伏せた。
「ですよね。失礼しました」
言い訳をしないことが、少し意外だった。
「私も、言い方がきつかったです」
「きつくはないです。僕が余計なことを言いました」
男はネクタイの結び目を直した。直したはずなのに、まだ少しだけ傾いている。
真琴は見本の一ページ目を開いた。
「本文の書体は、こちらで進めてください。見出しだけ、もう少し行間を狭くできますか」
「わかりました。明日の午前中に修正版を送ります」
仕事の話に戻ると、男の声から迷いが消えた。
打ち合わせを終えると、男は名刺を差し出した。
「高柳です。今後も何度か伺うことになると思います」
真琴も名刺を渡した。
「朝倉です。よろしくお願いします」
高柳は、名刺に印刷された文字を確かめた。
「朝倉さん」
ただ名前を読んだだけだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
帰りの電車で、真琴は鞄から文庫本を取り出した。三ページ進んだところで、同じ行を二度読んでいることに気づく。
本を閉じると、暗くなり始めた窓に自分の顔が浮かんでいた。
乗換駅で扉が開いたとき、立ち上がるのが一拍遅れた。
第三章 尋ねられなかったこと
その夜、真琴は味噌汁に二度、味噌を溶き入れた。
修一が一口飲み、わずかに眉を動かした。
「今日、濃いな」
「あ……ごめん」
真琴も口をつけ、初めて気づいた。
「作り直そうか」
「これくらいなら平気」
修一はそのまま箸を動かした。
「疲れてるなら、惣菜でもよかったのに」
責めるような声ではなかった。
「疲れてないよ。少し考え事してただけ」
「仕事?」
「うん」
嘘ではない。高柳は仕事相手だった。今日、初めて会った人だ。
修一は焼き魚の骨を外しながら、来週の会食について話した。真琴は相槌を打ち、空になった小鉢を受け取る。
「ねえ、修一」
自分でも意識しないまま、名前を呼んでいた。
「何?」
修一が顔を上げる。
最近の私、無理をしているように見える?
喉元まで出かかった言葉を、真琴は飲み込んだ。
見えると言われたら、何を話せばいいのだろう。見えないと言われたら、どんな顔をすればいいのだろう。
「来週の土曜日、車を使う?」
口から出たのは、まるで違う言葉だった。
「午後から使うかもしれない。何かある?」
「買い物に行こうかと思って」
「午前なら空いてるよ」
「じゃあ、午前にする」
修一は再び食事へ目を戻した。
真琴は冷めかけた味噌汁を飲んだ。濃すぎる味が、舌の奥に残った。
寝室へ入ると、修一は先に横になっていた。真琴も灯りを消し、隣に身体を沈める。
しばらくして、修一が寝返りを打った。足先が真琴の踵に触れ、すぐに離れた。
かつては、この人の手が自分へ伸びてくるだけで嬉しかった。帰りたくないと思った夜もあった。名前を呼ばれるたび、自分が誰かに選ばれたように感じていた。
いつから、それを思い出すものになったのだろう。
暗闇の中で、昼間の声がよみがえった。
――今日、何度目なのかなと思って。
慰められたわけではない。欲しかった言葉を与えられたわけでもない。
ただ、自分でも気に留めていなかった口癖を、誰かが聞いていた。
真琴は布団の中で右手を握った。
人差し指の傷に、爪が触れた。
第四章 正しい距離
翌週、高柳の会社との打ち合わせが予定されていた。
前日の午後、同僚の佐伯が真琴のデスクへ来た。
「明日の打ち合わせ、私が出ようか? 朝倉さん、午前中に著者校の戻しもあるでしょう」
佐伯が出ても、何の問題もなかった。資料は共有されているし、内容も難しくない。
「前回の経緯を知っているから、私が出るよ」
考えるより先に答えていた。
「そう? じゃあお願い」
「うん」
佐伯が離れたあと、真琴は予定表を開いた。午後二時、制作会社との再校確認。高柳の会社名が表示されている。
真琴は画面を閉じたが、数秒後、もう一度開いて開始時刻を確かめた。
翌日、高柳は約束の五分前に現れた。
「本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
高柳の態度は、前回よりもよそよそしかった。必要なことだけを話し、資料からほとんど目を上げない。
それが、仕事相手として正しい距離なのだと、真琴にもわかっていた。
打ち合わせは予定より十分早く終わった。
「見出しの行間も問題ありません。こちらで進めてください」
「承知しました。明日の朝、印刷所へ最終データを入れます」
高柳が資料を閉じる。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
会議室を出ると、高柳は受付へ入館証を返しに向かった。
見送る必要はなかった。
「あ、下までご案内します」
真琴は声をかけていた。
「大丈夫ですよ。場所はわかります」
「返却を確認することになっているので」
受付へ返してもらえば、それで済む。
高柳は疑わずに頷いた。
「そうなんですね」
二人でエレベーターを待った。
扉が開き、中へ入る。高柳が一階のボタンを押した。
「この前は、すみませんでした」
階数表示を見上げたまま、高柳が言った。
「もう気にしていません」
「それならよかったです」
高柳はそれ以上、何も言わなかった。
真琴は腕時計へ目を落とした。時間を確かめる必要はなかった。
「高柳さんは、無理をしていないんですか」
高柳がこちらを見た。
「僕ですか」
「人に言えるくらいだから」
少し意地の悪い言い方になった。
高柳はすぐには答えなかった。階数表示が、五階から四階へ変わる。
「していますよ」
やがて言った。
「仕事の終わらせ方が、あまり上手じゃないんです」
「意外です」
「そう見えますか?」
「余裕がある人に見えます」
高柳が小さく笑った。
「それは、かなり無理をしているときの顔です」
三階。
二階。
数字が一つずつ減っていく。
「僕もよく言うんです。大丈夫ですって。終わっていないのに」
高柳は資料を持ち直した。
「だから、朝倉さんの言葉が気になったんだと思います」
「それなら、あの言葉はご自分に言ったんですね」
「半分は、そうかもしれません」
エレベーターが一階に着いた。
扉が開き、外の空気が流れ込む。高柳が先に一歩進み、振り返った。
「朝倉さん?」
真琴は、自分が動いていないことに気づいた。
「はい」
高柳と並んで受付まで歩く。
入館証を返すと、高柳は頭を下げた。
「では、失礼します」
「お疲れさまでした」
自動扉の向こうへ、紺色の背中が遠ざかっていく。
受付のガラスに、真琴の顔が映っていた。口元が、わずかに緩んでいる。
真琴は受付の女性へ目を向けた。彼女はパソコンの画面を見ていた。
唇を結び直し、エレベーターのボタンを押した。
第五章 午後十一時十二分
その夜、真琴は修一と並んでテレビを見ていた。
修一は録画したニュース番組を早送りし、気になる場面だけを止めている。真琴は画面を見ていたが、内容はほとんど頭に入らなかった。
「明日、雨らしいよ」
修一が言った。
「そうなんだ」
「傘、玄関に出しておいたほうがいいな」
「あとで出しておく」
十一時を過ぎると、修一はリモコンを置いた。
「先に寝る」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
修一が寝室へ入ったあと、真琴は一人でマグカップを洗った。
今日の行動を順番に思い出す。打ち合わせを引き受けた。必要のない見送りをした。高柳へ、仕事とは関係のないことを尋ねた。
どれも、知られて困るようなことではない。それでも、修一に話す場面を想像すると、言葉が見つからなかった。
真琴はカップを伏せ、玄関へ傘を出した。修一のものと自分のものを並べてから、寝室へ入る。
修一はすでに横になっていた。真琴もスキンケアを済ませ、ベッドへ入った。
枕元の灯りを消そうとしたとき、スマホが短く震えた。
制作チームの業務用チャットだった。
高柳からメッセージが届いている。
午後十一時十二分。
――遅い時間にすみません。
――本日お渡しした再校データの奥付が、変更前の発行日のままになっていました。
――訂正版を共有フォルダへ入れ、明朝の入稿はいったん止めています。
――ご確認は出社後で大丈夫です。
仕事の連絡だった。高柳は、まだ仕事をしていた。エレベーターの中で言った「仕事の終わらせ方が、あまり上手じゃないんです」という言葉を、真琴は思い出した。
メッセージは、もう一文続いていた。
――それと、帰り際は余計な話をして、すみませんでした。
「まだ仕事?」
修一が背を向けたまま尋ねた。
「うん」
「急ぎ?」
明朝の入稿は止めてあり、確認は出社後でよいと書かれている。
「少しだけ」
修一は「そう」と答えた。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始める。
真琴は返信欄を開いた。
――訂正版、ありがとうございます。明日の朝、確認します。
――私から聞いたことなので、謝らないでください。
そこまで打ち、指を止めた。
業務上の返信なら、二行で終わっていた。
送信ボタンへ触れようとして、最後に一行を加えた。
――おやすみなさい。
画面に浮かぶ文字を見つめる。
「お疲れさまです」に直せば、仕事の言葉でいられる。「明日もよろしくお願いします」でもいい。
カーソルを一行目まで戻し、また最後へ下ろした。
隣を見る。
暗闇の中に、修一の背中がある。
手を伸ばせば触れられる距離だった。
真琴は画面へ視線を戻した。
そして、送信した。
メッセージの横に、小さな印がつく。ほどなく既読へ変わったが、返事は来なかった。
真琴はスマホを伏せた。
翌朝、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。
修一を起こさないように寝室を出る。台所でコーヒーを淹れ、二つのカップをテーブルへ置いた。
昨夜と変わらない朝だった。
スマホを開くと、高柳からの返信はまだなかった。真琴は、自分が送った最後の一行を見つめた。
後悔は、朝になっても来なかった。
次回
第2話 『同じ傘の内側』へ続く。
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いつも読んでくださりありがとうございます。いただいたチップは、次の物語を書く力にさせていただきます。静かな余韻が、あなたの心に残りますように。