【エッセイ】未来の位置をめぐるエッセイ 第2回(全5回)
——前回
第2回 未だ来ない
引き出しの奥に、一枚の手紙がある。
返事を書こうと思ったまま、もう三年が経つ。書けない理由は、最初からわかっていた。返事を書いた瞬間に、その人との時間が「完了」してしまう気がして。
まだ、書いていない。
まだ、終わっていない。
「まだ」という言葉は、不思議な構造をしている。
それは現在を指す言葉でありながら、未来への余白を内包している。「まだ終わっていない」は、「いつか終わるかもしれない」という予感を含んでいる。「まだ来ない」は、「やがて来るかもしれない」という、根拠のない期待を含んでいる。
否定形なのに、どこかに希望が滲んでいる。
「未」は木の枝がまだ伸びきっていない様子を表す象形文字だ、と聞いたことがある。
先端が、まだ空を掴みきれずに、微かに震えている。到達していない。でも、止まってもいない。
未来。未完。未定。未知。
日本語の「未」がつく言葉は、どれも「欠けているが、閉じてはいない」という感触を持っている。
現在と未来のあいだには、境界がある。
でも日本語はその境界を、鋭利な線として引かない。「まだ」という言葉が、ぼんやりとした移行地帯を作り出す。今ここにはないが、完全に不在でもない。届いていないが、諦めてもいない。
その曖昧さの中に、日本語の「待つ」文化の核心があるのかもしれない。
喪失のあとに気づいたことがある。
何かを失ったとき、私は長いあいだ「まだ」という言葉にしがみついていた。まだ終わっていない。まだ間に合うかもしれない。まだ、何かが来るかもしれない。
その「まだ」は、現実から目を逸らすための言葉だったのか。それとも、未完のままでいることを許す、日本語特有の優しさだったのか。
今もわからない。でも「まだ」という言葉がなければ、あの時間を生き延びられなかったと思う。
あの手紙に、返事はまだ書いていない。
書くべき言葉が、まだ見つかっていない。
それはたぶん、本当のことだ。「まだ」という言葉は、嘘をつきにくい。完了していないことは、完了していないのだから。
未完のままでいること。それは、時間に対するひとつの誠実さの形だ。
📎 哲学メモ
エマニュエル・レヴィナス「到来するもの(l'avenir)」
レヴィナスはフランス語の「未来」を二つに分けた。
"futur"(予測可能な未来)と "avenir"(到来してくる未来)。
前者は計画でき、後者は待つことしかできない。
「まだ来ない」という感覚は、"avenir" の領域にある。
次回:「未来は前にある──他文化の時間観との出会い」
